初めての


  ―1―



  数馬は帰宅して真っ先に玄関先で仁王立ちしている妹の和衛と対面した。
「 ……何してんの、和衛さん」
  帰ってきて早々、この不機嫌な顔を拝むハメになるとは。内心で辟易しながら、それでも数馬はいつもの人当たりのいい笑顔を目の前の妹に向けてやった。
「 どういうつもり」
「 何が?」
「 とぼけないでよ! どうして勝手にそういう事を決めちゃうの!? 私は嫌よ、他人が自分の家に泊まるなんて!」
「 ……何だ。友之もう来てるの?」
  意外だった。
  数馬は和衛の癇癪の理由を知ると少しだけ何事か考えた風な顔をしたが、すぐに靴を脱ぐと友之がいるだろうリビングへ向かった。その背後には自分の学校カバンを持つ使用人ヨシノと、未だごちゃごちゃと小煩い事を口走っている和衛が続く。
「 ちょっとお兄ちゃん、聞いてるの!? お兄ちゃんってば!」
「 聞いてますよ。君にもちゃんと紹介してあげるからね」
「 そんな事言ってないでしょ、私はね!」
「 ……あれ」
  和衛の言葉を軽く流しながら開かれた大広間に入った数馬は、しかしそこにいるだろうと予測していた人物の姿が見えないことで、その入口付近でぴたりとで立ち止まった。勢いこんできた和衛がそんな数馬の背中にぶつかる。
「 いったい! もう急に止まらないでよ!」
「 峰子さん、友之は?」
「 お帰りなさい、数馬さん」
  大広間にいたのは母親の峰子だけだった。
  数馬たちの母・峰子は最近買ったばかりの彼女お気に入りのソファでお茶の時間を楽しんでいたようだが、数馬の姿を認めると手にしていたカップを置き、ゆったりとした口調で帰宅した息子を出迎えた。
  いつものように壁に掛けていた時計を見つめる事は忘れなかったが。
「 出掛けに予告していた時間より10分も早かったんですね」
「 ご不満がおありですか」
「 いいえ。いつも遅い事を考えると嬉しい誤算です」
「 それは良かった」
  母親の峰子は一見世間知らずのお嬢様タイプで、実際世俗には疎い方なのだが、こと時間に関してはヒステリックなほどに神経が細かく煩いところがあった。今でこそ数馬の粘り勝ちというかで彼女もそれほど面倒な態度は取らなくなったが、3人の子どもたちが小学生の頃などは彼らの帰宅時間が10分でも遅いと、それこそちくちくとした嫌味を発したものだった。
  そんな母・峰子は、息子の数馬の帰宅が早かった事もあるだろうが、それを差し引いてもいつもよりどことなく上機嫌に見えた。
  数馬はそれにどうにも嫌な予感を覚えながら努めて静かな口調で訊いた。
「 ところで、僕の友達が来ていると思うんですけど」
「 ええ。友之さんね」
「 何処にいます?」
「 和樹兄さんと一緒よ!」
  峰子が答える前に背後の和衛が叫ぶように声を上げた。数馬はちらとそんな妹を振り返った後、やれやれという風にため息をついた。
「 和樹兄さん、何だってこんな早い時間に帰ってるわけ」
「 今日は早く帰るって言っていたでしょう。和樹さんは明日またお父さんと都内の研究所の視察に付き合うから、今日はその下調べがあるって」
「 それでどうして友之と一緒にいるんですかねえ」
「 お兄ちゃん、あの子は一体何なの!?」
「 あの子って」
  仮にも友之はお前より年上だぞという言葉が出かかったものの、いちいち口に出すのも億劫だと数馬はそれを口にするのはやめた。そうして和衛に適当な返答をしながら、広間と隣接している中庭に向かって歩を進めた。部屋にいないなら庭に出ているのは間違いないだろうし。
「 信じられない、家族の私にだって懐かないのに…!」
  和衛の意味不明な、ひどく悔しそうな声を耳にしながら数馬は窓際に近寄って外へ視線を向けた。
「 ……あらら」
  そうして直後、すぐに妹の和衛が言った台詞の意味を察して数馬は苦笑する。
  そこには丁寧に手入れされた庭の芝生の上、兄の和樹が飼っている愛犬、真っ黒なシェパードと戯れている友之の姿があった。ついでに、その傍には微笑ましいものを見るような眼差しで友之たちを見守っている兄の姿もある。
「 あの子、私にはちゃんと挨拶しないし!」
「 あら、したわよ。和衛さんがすぐに顔を逸らしてお2階へ行ってしまったんでしょ」
「 お母さん!」
「 凄く可愛らしい子ね、数馬さん。貴方にあんなお友達がいるなんて知らなかったわ」
「 でしょうね」
  誰が好き好んで話すかよと心の中でだけ呟きながら、数馬はガラリとガラス戸を開いた。
  途端、驚いたように顔を上げた友之と思い切り目があった。丁度芝生の上に腰をおろして、上から押しかかられるような格好で犬とじゃれていた友之だが、数馬の姿を認めるとぱっと嬉しそうな笑みを向けた。
  あれ、どうした事か随分リラックスしているじゃないかと数馬は思う。
「 数馬」
  友之が数馬を呼ぶ前に、兄の和樹が口を開いた。こちらもいつもより大分くだけた調子になっている。ああ、予想していた事とはいえ、どうにもうちの家族は鬱陶しいと思ってしまう。
「 お前、友達を呼ぶならもうちょっと分かりやすい地図を描けよ」
「 もしかして和樹兄さんが友之を案内してくれたんですか?」
  数馬の話し方に友之は驚いたように目を見開いていたが、数馬はそ知らぬフリをした。この友之の反応は楽しみにしていた1つだったんだと、内心にやりとしていたのだが。
  数馬はしれっとして続けた。
「 友君、君スゴイね。そこのリュー君はね、和樹兄さん以外の誰にも懐かないんだよ。言ったでしょ、凶暴な番犬がいるって」
「 シリューは他所の犬好きの人にはちゃんとこんな態度なんだよ。お前たちが可愛がらないだけだ」
「 私は可愛がってるわよ! 時々すっごく高いジャーキーだって投げてやってるのに!」
「 和衛」
「 全く頭にくるわ!」
「 和衛さん」
「 フン!」
  そっぽを向いてソファにふんぞり返る和衛を振り返りながら、母親の峰子などは困ったようにため息をついている。
「 ………」
  しかしいつもはいじけるとすぐに部屋に引きこもる妹が今日はなかなか引き下がらない。やはり友之が気になるのだなと数馬は珍しく和衛の事を可愛いと思った。
「 トモ君、それじゃあもう自己紹介の方は終わってると思うけど。一応家族を紹介するよ」
「 あ…」
  友之は慌てて立ち上がり、こくんと頷いた。どうやら兄の和樹と母の峰子には親切にしてもらってほっとしているようだが、友之自身も怒っている様子の和衛が気になるらしい。数馬は2人を取り持つ気などさらさらないのだが、自分の元へ来させると改めて友之の背中を叩いた。
「 じゃ、まず最初に知り合ったっぽい和樹兄さん」
「 俺はいいよ。ここに来るまでに色々話したから。な、友之君?」
「 あ、はい…」
「 ふうん?」
「 あの…家、探していたら声掛けてくれて…」
「 あ、そう」
  さっくりと流してから、数馬は次に友之を中に入れて部屋の中央へ押しやると、母親の峰子を見ながら言った。
「 この人が母親の峰子さん。表向きの趣味はオペラ鑑賞とハーブの栽培」
「 表向き…?」
「 数馬さん、誤解を与えるような言い方はやめて」
「 お母さんの趣味は時代劇と食べられる植物の栽培よね」
「 和衛さん」
「 ねえ、私たちの紹介だけじゃなくてそっちにもさせてよ」
「 ……だって。でも友之、さっきしたんでしょ?」
「 あ…」
「 アタシはされてないけど」
  和衛がソファにふんぞり返りながら偉そうに言う。友之は一瞬オロッとしたような困惑の色を浮かべたが、光一郎と「数馬の家族にはきちんと挨拶をする」という約束をしてきたせいか、すぐに意を決するとそろそろと和衛の前にまで歩み寄った。
「 な…何よ」
「 ………」
  友之は言葉を出すのに「溜め」が必要で、それ故沈黙しているだけなのだが、その間もあの瞳で見つめられて和衛はすっかり動揺している。数馬はもう可笑しくて仕方なかったが、とにかく黙って成り行きを見つめていた。
「 あの、北川友之です。はじめまして…」
「 ……ねえ、その制服。修學館の生徒じゃないわよね」
「 あ、はい…」
「 偏差値幾つ?」
「 え?」
「 和衛、お前失礼にも程があるぞ」
  自分も庭先から上がってきた和樹が思い切り眉間に皺を寄せて言葉を挟んだ。しかしどうにも和衛は止まらない。数馬の友人というだけでも興味津々な上に、自分以外の家族があっという間にこの突然の来訪者に気を許している事にも面白くないものを感じたのだろう。
「 だって。数馬お兄ちゃんの友達っていつも怪しい感じの人多いじゃない。学校も行ってないような人とか」
「 ………」
「 どこで知り合ったの? お兄ちゃんとどういう関係?」
「 だからオトモダチ、でしょ」
  数馬がぐいと友之を引き寄せて代わりに言った。
  そうして驚く友之ににっこり笑いかけると、ぐいと手首を掴んで広間を後にする。入り口付近に立っていた気のつく使用人ヨシノに「お茶、僕の部屋に持ってきてね」と付け加える。
「 ちょっとお兄ちゃん、何処行くのよ!?」
「 お披露目はおしまい」
  数馬は笑って言った。
「 後は夕食の時にね」





  2階の自室に友之を押し入れると、数馬は開口一番よく通る声で言った。
「 僕の家族もなかなかでしょう」
「 え…」
「 君も色々と複雑な家庭環境みたいだけどさ、うちもこれで結構大変なんだよ?」
「 ……でも、皆親切だよ」
「 はあ? 和衛さんも?」
「 うん…」
「 ?」
  すぐに頷く友之に数馬は不可解な顔をして黙りこくったが、すぐに傍のベッドに腰を下ろすと改めて明るい口調を発した。
「 しかし君が先についていたのは誤算だったな。和樹兄さんと会っていた事もね」
「 え…どうして?」
「 どうしても」
  数馬は言ってから、未だに立ち尽くしまま辺りをきょろきょろ見ている友之に不審の声を上げた。
「 どうでもいいけど、どっかそこらへん座りなよ? ボクの部屋、そんなに珍しい?」
「 うん…。すごく広いし、色々な物がある」
「 ボクの家はお金持ちだからね」
「 あれは何?」
「 んー? ああ、アンティークランプだよ。ただの飾り」
  デスク横にある棚に景観などまるで配慮せず適当に置かれた品々は、友之が示唆したそのランプも含め全て知らない間にこの部屋に集まった物だった。恐らくは数馬の誕生日などに数馬を好きな子や、あとは父親の会社関係の人間が贈って寄越した物だろうと思う。あまり興味を持ってしげしげと眺めた事がないから、その1つ1つに対する記憶など殆どない。
  それを友之は丁寧に目を配っていく。数馬はそんな友之こそが珍しくてじっとその後ろ姿を眺めた。
「 あの地球儀、黒い」
「 あれも飾り。君、ヘンな物に興味持つね」
「 あれは?」
「 あれ? あれは…あー…何だろ。ただの木製パズルだよ。額縁に飾ればそれなりに綺麗かもね…。箱から出した事もないけど」
「 この絵、綺麗」
「 欲しいならあげるよ」
「 えっ…」
  そんな、とんでもない。
  顔いっぱいにそんな言葉を張り付かせて友之は固まっていたが、数馬はそんな顔を見られただけでどうにも得した気分になってしまった。自分の部屋などにあまり興味はなかった。模様替えだとか何だとか、妹の和衛はよくやっているようだったが、数馬自身は机とベッドと本棚があれば事足りていたし、この部屋も広すぎるくらいだと思っていた。
  それが友之にはこんなに飽きない空間だったとは。
「 ボクにしてみれば、君がそのカバンに詰めてきただろうお泊りグッズの方が気になるんだけど」
「 え?」
「 後で一緒にお風呂入ろうね?」
  数馬はしれっとそう言った後、未だその手にジグソーを持ったままの友之を優しい目で見つめた。



【つづく】