初めての


  ―3―



  友之がおずおずと近づき、持っていたトレイを差し出すと、数馬の父・昂馬は手にしていた書類をいきなりバッと天井に向かって放り投げた。
「 !?」
  驚いた友之はそのまま身体を仰け反らせ、トレイごとジュースの入ったグラスを落としそうになってしまったが、そこは背後にいた数馬が支えて事なきを得た。
「 ……っ」
  床はばらばらと辺りに散った印刷用紙で白に染まった。それらの紙には何か小難しい異国の文字が印字されていたようだが、数馬はそれには構わず、いきなり平然とそんな事をした祖父を思い切り不平の目で見据え声を上げた。
「 だ〜からッ。急にそういう挙動不審な態度に出るのやめて下さいって!」
「 そうか」
「 そうかじゃないでしょ!」
「 ジュースをありがとう」
  昂馬は数馬を無視して友之をじっと見やると簡素にそう言い、盆からグラスと「本日のおやつ」であるスイートポテトを受け取った。そうして再び年代物らしき机に向かうと、後はその手にしたおやつをほうばりながらまた書き物を始めてしまい、数馬たちにはもう目もくれなかった。
「 ………」
  その様子をただ呆気に取られて眺める友之に数馬はハアとため息をついた。
「 トモ君、あんまり気にしないでいいよ。言ったでしょ、この人ヘンなの」
「 お前に言われたかない」
  振り向かれる事なく返ってくる声。数馬はその背中を見やりながら、小さな子どもに言い含めるような口調で言った。。
「 言われたくないならね、も少しマシな態度見せてね? 仮にもボクの友達なんだから」
「 嘘だな」
「 はあ? ……ったく」
  即答した祖父に数馬はぴくりと片眉を動かしたが、本気になると不利なのは自分だという事は嫌という程知っていたから、憮然としながらも反撃するのはやめておいた。
  それから未だぼーっとしている友之の背中を押すと数馬はわざと大声で言った。
「 じゃ、トモ君行こ行こ! 義務は果たしたからもう行こ!」
「 え…でも…」
「 もー何? 君も分かったでしょ、この人は…」
「 あの」
  けれど友之は数馬の手を払うと更に昂馬に近づき、ぺこりと挨拶をした。背中を向けていた昂馬にそれが見えていたかは謎だが、数馬はそうまで律儀に光一郎との約束を守ろうとする友之には心底呆れてしまった。はじめに一言話したんだからそれでいいじゃないか。帰る時までこんな人に挨拶なんかしなくてもいいのに。
「 ……ゆっくりしていきなさい」
「 げ」
  しかし後にすぐ発せられた祖父のその台詞に、数馬は瞬間そんな声を漏らしてしまった。ただでさえ今日はもう1週間分くらい口を開いたのじゃないかと思っていたのに、そんな親切な台詞まで口にするとは。
「 …参ったね、まったく」
  こんな爺さんをも虜にしてしまう友之。やっぱりコイツは結構恐ろしい奴かもしれないと、数馬は傍の2人を交互に見やりながら皮肉っぽい笑みを浮かべた。


  離れを出ると、開口一番友之が言った。
「 数馬の御祖父さんは凄いんだ…」
「 何で」
  つまらなそうに返す数馬に、それでも友之の目はどことなくキラキラしている。あんな悪趣味な家が気に入ったのだろうか。コイツが分からなくなってきたと数馬は思う。
  それでも友之の方は依然としてどことなく興奮気味だ。それこそ普段動かない舌が実によく回っていた。
「 発明家? 芸術家? あの家の中にあるもの、買った物だけじゃ、ないよね…? 御祖父さんが作ったりもしてる、ね…?」
「 何でそう思うの」
「 部屋に設計図みたいなの、たくさんあったし」
「 年寄りのくだらない道楽だよ」
「 そんな事ない」
「 ……気に入ったの?」
「 うん」
  即行で頷き、何故か嬉しそうな笑みすら向ける友之。
「 そう」
  そんな友之をじっと見つめながら、数馬は「あの人もこんな孫が1人でもいたら、きっと違っていただろうな」と他人事のように思った。





  それから2人は再び部屋に戻って他愛もない話をしたり数馬が普段聴いているという音楽を流して一緒にそれを楽しんだりと、実に「普通の高校生らしい」時間を過ごした。何故かその合間合間にしょっちゅう妹の和衛が覗きに来て茶々を入れたり、また母親の峰子が違うお菓子を運んできて友之に食べさせたがったりと色々干渉もされたのだが、それは数馬の予想の範囲内だったのでまだ我慢する事ができた。
  それに何より、数馬は友之という人間がこんなにも他所のテリトリーでも生き生きできるのだと知れて、その事が本当に素直に嬉しかった。勿論、言葉に出しはしなかったが。
「 ……初めて、なんだ」
「 んー? 何が?」
  そして、もうそろそろ夕食の時間になろうかという頃。
  自室にいる事に飽きた数馬が「家内探検しよう」と言い出して友之を連れて行った先、地下の古書庫で友之がぽつりと口を開いた。
「 何が初めてなの?」
  数馬が再度訊いてやると、友之は戸惑いながらもはっきりと言った。
「 こうやって…あの、友達の家とか来るの…」
「 ………」
「 初めて…」
「 ……ふうん」
  使用人に言って運ばせたデスクに向かったまま、数馬は自分の真横に立ってただそう言う友之の声を聞いていた。
  この場所は数馬の第二のプライベートルームと言っても良い場所だ。
  父親の趣味で、香坂邸には実に様々なジャンルの書物が運び込まれ、そして置く場所も定められないままに部屋のあちこちに放置された。その惨状を見かねた老執事の提案で地下のこの場所にまとまった古書庫が造られたわけだが、今ではその場所を訪れる者は数馬くらいだ。数馬以外の家族は暗く圧迫感のある地下のこの部屋をあまり好まなかったし、これら蔵書の持ち主である肝心の父親は仕事で滅多にここへは下りてこなかったから。
  そんな自分のお気に入りの場所で発せられた友之のその言葉。
  数馬は開きかけた本をパタンと閉じると改めて友之を見やった。
「 初めて?」
「 うん…」
「 ふうん。友達の家に来るのが、ね…」
「 か、数馬は…俺となんか友達じゃないって言うと思うけど…」
  数馬の含んだような言い方を察知したのか、友之が焦ったように言った。数馬はわざとそんな友之に冷めた目を向け、素っ気無く返した。
「 そうだよ」
「 ………」
「 ボクは〜、トモ君の友達やるなんて嫌だからね!」
  更にきっぱり言ってやると、やはり友之はひどく悲しそうな顔をして俯いた。
「 か、数馬…っ」
  それでも今日は余程気合を入れてきたのだろう、友之は珍しくもすぐに立ち直ると本の山を見渡しながら尚も言った。
「 でも、数馬がそうでも、とにかく初めてなんだ…。こうやって、家族以外の人の家に泊まるの…。こうやって…他の人の家を見させてもらうの…」
「 ……珍しい?」
「 この地下の部屋も、御祖父さんの家も、すごく面白い…」
「 ……好き?」
「 うん」
  即答する友之に数馬はやっと笑って見せた。
「 でもさ、本当に他人の家に泊まった事ないの? じゃあ田舎のおばあちゃんの家とか、そういうのは? 親戚の家に泊まったりとかは?」
「 し、知らない…」
「 知らない? 親戚がいるかどうかを知らないって事?」
「 うん…」
「 そりゃまた信じられない話だね。フツーそういう事って知らなかったとしても訊いたりしない?」
「 ………」
  恥ずかしそうに黙り込む友之に、しかし数馬はコイツならあり得るかと心の中だけで思い直した。いつでも自分の事や家族の事だけで精一杯の友之に、親戚だの何だのに意識を向けられる余裕があるとは思えない。田舎に連れて行ってもらった記憶がないのなら、もしかすると親戚とは余程付き合いがないか、もしくは全くいないのだろうと数馬は思った。
「 でもさー、自分の家以外に泊まった事ないってスゴイね。家族で旅行とかは? あとさ、修学旅行とかキャンプとか。そういうのも全くないの?」
「 うん…。あ、でも小さい頃、修兄の所や裕子さんの家になら、泊まった事、ある…」
「 へえ…。まあ、でもあの人たちは別格だよね」
「 うん」
「 ………」
  自分で言った事とはいえ、友之のその返答に数馬は少しだけむっとしてしまった。あ、嫌だなこれってヤキモチだとはすぐに自覚したのだけれど、その自覚すら何だか腹立たしいものの気がして。
  だから数馬はそんな想いを振り払うようにして口調を変え、友之に向き直った。
「 ……まあ、それでも。ふうん、初めて、なんだ?」
「 うん」
「 じゃあさ、うん、ボク親切だから。今日だけは君のトモダチになってあげてもいいよ」
「 え…?」
  数馬の突然の思いつきに友之は驚いて顔を上げた。
  数馬は淡々と続けた。
「 普通の友達の家に泊まった時にやることとかさ、色々やろうよ。…とは言っても、実はボクもそういうのがどういうものなのか分かってないけど」
「 そうなの…?」
「 そうだよ」
「 数馬は…色々遊んでいると思ったけど…」
  友之の心底意外だというような態度に数馬はがくと体勢を崩した。
「 あ、あのねえ…。キミが言うと何か…まぁいいけど。でもさ、何が普通の事かなんてボクにだって分からないよ。でも、そういうのにチャレンジしてみるのも悪くないかもって事」
「 ……?」
「 トモ君はどういう事してみたい? まずは君の抱く普通の事を訊いてみようかな。友達の家に泊まる時って何すると思うの?」
「 え? …え、と…ゲーム、とか」
「 あ〜ゲームね。なるほどね。プレステとかね。いいよ、それ。やろうね。あとは?」
「 あと? う…ん。……あ」
「 何?」
  一生懸命考える友之の事が数馬はおかしくて仕方なかった。そしてこの時、数馬ははっきりと理解していた。
  友之とてずっと1人でいたかったわけじゃないのだ。むしろ誰かを求める気持ちは人一倍強いのだろう。そして周囲に馴染めない自分を恥じ、苦しみ、必死に世の中が自分に求めていると思う「普通」のイメージを追って、何とかそれに近づきたいと願っていたに違いない。
  それは数馬が自身で一番やりたくないと思っている事だったが、だからといってそれを欲する友之のことを軽蔑しようとは思わなかった。
「 あの、中学の時は行きたくなかったけど…」
  考え込んでいた数馬に友之が言った。
「 うん?」
「 小学校の頃はちょっとだけ…キャンプ…楽しみだったんだ…」
「 キャンプ? あーボクも行ったかも。それが?」
「 でも熱が出て行けなくて…。行ってきたクラスの人たちが肝試しとかそういうの…やったって」
「 ……やりたいの、それ」
「 うん」
  遠慮がちに微笑む友之に数馬はひきつった笑いを見せた。
「 じゃあ、和衛さんあたりにお化けの役やってもらう?」
「 え、そ、そんな…っ」
「 だーって。2人じゃ肝試しできないじゃん!」
「 そうじゃなくて…あの…話、とか…」
「 話…?」
  どう言って良いか困っているような友之を最初数馬は怪訝な顔で見つめていたが、やがて「ああ」と気がついたようになってポンと手を叩いた。それから安心したというような笑みを向けた。ああは言ったものの、さすがに和衛にお化け役など頼んだら何を喚かれるか分かったものではなかったし。
「 何だ、怪談とかやりたいんだ?」
「 うん…っ」
  意図が通じた事に友之がほっとして笑う。
  数馬はそんな友之を目を細めながら眺め、また珍しいものを見てしまったと思った。
「 うん、いいよいいよ。ボク得意だよ、そういうの。じゃぁそれもやろうね。けど意外だなあ、まさかトモ君が怖い 話が好きとはね。そういう話、自分でも何か知ってるの?」
「 うん」
  友之はこっくりと頷いてから言った。
「 本屋で、立ち読みとかする…」
「 嘘…」
「 ……? 何でそんな顔するの…?」
「 ……いや、まあ。趣味は人それぞれだし、ね…」
  しかし光一郎は弟のそんな隠れた趣味を知っているのだろうか? 数馬はそんな事を頭の隅で考えながら自然口元を緩めた。
「 じゃあそれは後で聞かせてもらうとしますよ」
  どんどん知らない友之が見えてくる。どんどん友之が近くなる。数馬は、実は今のこの時を1番楽しんでいるのは、この自分なんじゃないだろうかと思った。
「 お兄ちゃん!」
  その時、上の入口から妹の和衛がキンとした大声を降らしてきた。
「 いつまでそんなじめっとした所にいるつもり!? 食事の時間よ、早く上がってきて! あ、でもその埃臭い部屋にいたんだから、来る前にちゃんと手を洗ってきてよね!」
「 ……はいはい」
  まったく騒がしい妹だ。数馬は辟易した思いながらもゆっくりと立ち上がり、和衛を気にした風に視線を上に向けている友之の肩をぽんと叩いた。
「 じゃ、あの人怒らせるとメンドクサイし。行こうか?」
「 あ、うん」
  しっかと頷く友之を見つめながら、数馬は「でも、もうちょっとこの暗い空間で2人きりってシチュエーションを楽しみたかったよな」と思うのだった。



【つづく】