初めての


  ―4―



  数馬が「トモダチ」を連れてきた事で浮き足立っていたのは、何も数馬の家族だけではなかった。
「 数馬坊ちゃん! 今日は特に腕によりを掛けて作りましたよ!」
  長身だがガリガリの体型をした白髪白髭の老齢シェフは香坂家専属の料理人だ。ここへ来る前までは神戸で割と人気のフランス料理店を経営していたらしいのだが、不景気の煽りを食って閉店、引退。天涯孤独の身だった為、生まれ故郷の東京に戻って隠居生活にでも入ろうかと思った矢先、常連だった数馬の父親から住み込みで働かないかと声を掛けられたのだと言う。
  そんなシェフは一家の中で特に異端な存在である数馬をとても贔屓にしていた。だから数馬の「友達」だという友之が家族の揃う食卓に現れると、待ってましたとばかりにニコニコとした笑みで近づいてきた。
「 これはこれは、数馬坊ちゃんのお友達だそうで。坊ちゃんがお友達をお連れするなんざ、こんな珍しい事はありませんからね。今夜は予定していたメニューも急遽全て変更して、わたくし一番の自慢料理をご用意致しましたですよ。好き嫌いはおありですか? デザートにはフレッシュオレンジのシャーベットをご用意しておりますが、もしやタルトやプリンの方がお好みでしたかな、それでしたら今すぐにでも…」
「 ちょっとちょっと」
  入口の所に立たされたままそんな話をされて、数馬はすっかり固まってしまった友之を自分の背後にやると呆れたように口を挟んだ。
「 そんなのは何だっていいからさ。席に着いてもいい? この人に好き嫌いなんかないよ」
「 おお、これは失礼を…! ささ、どうぞどうぞ」
  慌てて一旦壁際に寄ったシェフは周囲にいる使用人に目配せして料理を運ばせる算段を取りながら「いやはや、好き嫌いがないとは感心ですな」と嬉しそうに言った。普段から和衛にあれが嫌だこれが不味いと言われているので、その言葉は余計に喜ばしいものだったのだろう。
「 …嫌いなものがあったとしても食べるよ、きっと」
「 は?」
「 何でもない」
  数馬はすぐにそう言ってから心の中でくすりと笑った。そう、たとえ今晩の食卓に友之の苦手な物が並んでいたとして、友之はきっと顔に出さずしてそれを食べるに違いない。折角出してくれた物を残すなんて失礼にあたると、きっとそんな風に考えるだろうから。
「 もう遅いわよ! どれだけ待ったと思ってるの!」
  既に長テーブルの食卓、自分の指定席に座っている和衛がガーガーと文句を言った。その隣に座っている和樹が「それほど待ってないだろ」と気遣う風な言葉を出す。
「 それでも、いつもの時間より5分遅れよ。さあさ、2人共席について」
  最後に和衛たちの向かいに座っている母の峰子がそう言った。数馬は友之をそう言った峰子の左隣の席へと促し、自分はその友之の隣に腰を下ろした。
  ちなみに、そんな5人を見渡すようにして中央に座すはずの香坂家当主の姿は、そこにはなかった。
「 今日はお父さんは遅いんでしたっけ?」
  数馬が訊くと峰子が頷いた。
「 ええ。今日はどこぞの会長さんと赤坂の料亭でご一緒しているはずよ」
「 どこぞの会長さん、とね」
「 明日は日曜日だし、きっと朝食には顔を出してくれますよ」
「 別にいいけど」
「 あ、言っちゃおう! お父さんに言っちゃおう! 数馬お兄ちゃんがお父さんを邪険にしてたって!」
  数馬の言葉に素早く反応して和衛が意地の悪い声を上げた。数馬は「勝手にどうぞ」と思ったが、それをまた口にすると長くなりそうだったので黙っていた。
  友之はそんな家族の中央に座っている自分の位置がどうにも落ち着かないようだったが、前の席にいる和樹がにこりと微笑みかけてきていたので、少しだけ安心したように笑っていた。
  それでまた数馬は呆れたりむっとしたりしてしまったのであるが。
「 お待たせし致しました、オードブルです」
  その時、老執事とヨシノがそれぞれ両脇に分かれて料理を運んできた。和衛が呆れたように入口付近に立っていたシェフを見やる。
「 何、何なの、このいつもと違う気合の入りっぷりは!」
「 ひどい仰りようだ、和衛お嬢さん。わたくしはいつだって気合を入れておりますよ」
「 そんな事ないわ! だって何なのよ? フランス料理のフルコース!? 力入り過ぎ!」
「 蟹のフラン? 美味しそうだけどね…」
  和樹もやや苦い笑いを浮かべている。峰子はフランス料理が好きなのかウキウキした様子だ。
「 ………」
  しかしこれに完全に硬直していたのが当の友之だった。数馬は隣でその様子を眺めながら、「誤解しないようにね」と言った。
「 いつもこんな食事ばかりじゃないから。ぶっかけご飯の時もあるよ」
「 ぼ、坊ちゃん、それはわたくしがお休みを頂いた時の話でしょう!」
「 とにかく。ヘンな誤解はしないように」
「 あの…でも…」
「 はいはい。ナイフとフォークは両端のこれ。ギザギザの刃がない物を使うの」
「 う、うん…」
「 ちょっと貴方、もしかしてテーブルマナーも知らないの?」
「 和衛」
  バカにしたように口走った和衛を和樹がまた窘めるように止める。それから優しく笑んで友之に言った。
「 別にそんなの気にしなくていいよ。適当に食べられればいいんだから」
「 でも、折角だから勉強していきなさい」
「 数馬」
  ぴしゃりと言った数馬に和樹が驚いたように目を見開く。いつもなら真っ先に「こんなものは適当でもいいでしょ」と言い出しそうなものなのに。その思いは和衛や峰子も同じようだった。皆一様に教師のようにナプキンの膝の掛け方からナイフ・フォークの持ち方置き方まで指導し始める数馬にあんぐりと口を開いて眺めていた。
「 うん…うん」
  しかし反して友之はそんな数馬の態度にとても嬉しそうだった。熱心にテーブルの上のものと数馬の顔を交互に見つめ、しきりに頷いたり声を返したりしている。色とりどりの料理や器が珍しい事は勿論、こうして何種類ものナイフやフォークの使い方を教わる事もまた、友之には新鮮で楽しい出来事だったのかもしれない。
「 まったく、何なの一体…」
  和衛の呆れたような声が食卓に響いたが、それでも彼女の食事の手は止まりっ放しで、視線は前方にある友之にばかり注がれていた。他の者たちも同様だ。
「 そうやって熱心に食べてもらえると、わたくしも嬉しゅうございますよ」
  老シェフも満足そうに何度もそう言っては意味もなく頷いていた。
  そうしてその後次々と運ばれてきたスープ、魚料理、肉料理、サラダに関しては、いつの間にか家族全員、そこにいた使用人全員がこの料理はああだこうだと口を出し、珍しく会話の多い食事の時間となったのだった。



「 じゃ、次はお待ちかねのお風呂だよね!」
  食事が終わって締めのコーヒーが出された時に数馬がそう言うと、和衛がぎんとした声を発した。
「 ちょっと、私が先に入るからね! お兄ちゃんたちの後なんて嫌だから!」
「 あ、そう。別に何だっていいよ。じゃ、和衛さんが出てくるまで2階でゲームしてよっか」
「 お前たち、もしかして一緒に入るのか?」
  すると3人のやり取りを聞いていた和樹が何気なくそう訊いた。数馬がにやりと笑って「当たり前でしょう」と即答すると、これまた妹の和衛が真っ赤になって立ち上がった。
「 何それ! 何それ! そん、そんなの、よくそんな事言えるわねッ!?」
「 何で?」
  数馬が訊くと、和衛は心底憤慨したようになって更に声を荒げた。
「 何でじゃないわよ! だ、だって、そんなのやらしいじゃない!」
「 だってボクたち男同士だよ?」
「 でも何だか、私も抵抗を感じるわ」
「 俺も」
「 ……貴方たちね」
  和衛だけでなく、ぼそりとそんな事を呟く母の峰子と兄の和樹に、数馬は口の端だけをあげて笑った。ちらと友之の方をを見やると、自分たち4人の会話についてこれないのかきょとんとしている。
「 ……とにかく駄目ったら駄目よ。友之さんは1人で入るべきよ!」
  興奮したせいかぜえぜえと息を切らしている和衛が据わった眼をして数馬に言った。
「 そうね。お母さんもそれがいいと思うわ」
  続いて母の峰子。
「 友之君、お風呂にさ、ヨシノが今凝っているっていう入浴剤入れてもらうといいよ。香りがよくて楽しいから」
  最後に兄の和樹がおっとりとした様子で言う。
「 そして勝手に話を進めていくんですね、皆さん」
  数馬はそんな3人をさっと見渡した後、すっかり諦めたようになってため息をついた。
「 分かった、分かりましたよ。まったく…。ねえトモ君、ひどいよね。この人たち、ボクとトモ君が一緒にお風呂に入っちゃ駄目だって。つまんないね」
「 ……お兄ちゃんのその話し方にも何か企みを感じるのよね、私」
  和衛が探りを入れるような上目遣いで睨んできたが、これは数馬も完全に無視した。さすがに彼女の一言一言に全部構っていると疲れると思ったから。
  それにしても、いよいよ家族の友之への執着は本格化してきたようだ。しかも過剰な豪華料理を出した老シェフは勿論のこと、執事やヨシノ、その他の使用人たちまでが何かと言っては友之を構いたがった。
  そうして結局、「お客様」である友之を待たせては悪かろうという母・峰子の提案で、友之には普段滅多に使用されない接待用のバスルームが提供される事になったのである。「友達の家に泊まる」事に憧れを感じている友之がそれに恐縮したのは言うまでもないが、最早彼らの暴走に数馬が口を挟む余地などはまるでなかった。



  受け入れ態勢万全な状態で友之を豪華バスルームへ案内して行ったヨシノたちを見送った後、数馬はやや疲弊した様子で1人自室に戻った。
「 あれ」
  すると、いつからそこにいたのか兄の和樹が椅子に座って数馬のことを待っていた。
「 困りますねえ、勝手に人の部屋に入ってきて」
  別段怒った風もなく数馬が言うと、和樹は椅子の背に肘を掛けたまま一言「悪いな」と言って笑った。
「 …それってちっとも反省しているように見えないんですけど」
  数馬が面倒くさいなと思いながら自分はベッドに腰を下ろすと、和樹は軽く肩を竦めて見せた。
「 和衛が友之君のカバンを漁ろうとしていたからな」
「 は?」
「 だからお前が戻ってくるまで見張りでいた」
「 それで兄さんもついでに覗いて見た、と」
「 俺が? 友之君のカバンを? やめろよ、そこまで人間堕ちてない」
「 和衛さんは堕ちてるんだあ」
「 あれはまだ子どもだからいいんじゃないかな」
「 ………」
  どうしたのだろう、和樹がいつもと違って見えた。数馬は探るような目を一瞬だけ向けたものの、まあいいかと思い直してベッドの上で膝を抱えた。友之という人間を前にすると多くの者たちがおかしくなるのは珍しくもない事だし、このいつも無難な兄が何か思うところがあってこういう態度を取っているのならそれはそれで構わない、自分には関係のない事だと思った。
「 なあ数馬」
「 ………」
  だからと言って数馬はこの和樹と長話がしたいとは思わなかった。自分にとってこの人はあまりに面白味のない人間だと思ってしまっているから。
「 お前にもああいう友達がいたんだな」
  それでも和樹は話をやめなかった。数馬の嫌そうな態度は察しているはずなのに、淡々とした様子で唇を動かす。
「 意外過ぎたな。こんなに驚いた事ってここ何年かずっとなかったような気がする。それは峰子さんも和衛も、それに昂馬さんにしてもそうなんじゃないか。昂馬さんがお前を買ってたのは前からだとしても、それにしても…」
「 だから何が言いたいの?」
  いよいよ鬱陶しそうに言うと、和樹は堪えていないという風にすぐ返した。
「 はっきり言ってお前って自分以外誰も信用していないだろ。それで連れて来た子が友之君って…何かスゴイなってこと」
「 そうかなあ」
「 そうなんだよ。その態度、とぼけてるのか素で分かっていないのか、俺には判断つかないけどな」
  試すようにそう言われて数馬は辟易したように苦い笑いを浮かべた。
「 和樹兄さんはボクのことを買いかぶり過ぎですよ。ボクは兄さんが思っているようなね、そんな大層な人間じゃないんだから」
「 大層な人間だよ」
  和樹は反発するようにすぐそう言い返してから、ハアと大きくため息をついて見せた。そんな和樹に数馬は「あんたこそ珍しい、そんな風に参っている様子なんて滅多に見せないくせに」と心の中だけで思った。
「 お前はこんな香坂の家になんか収まりきらない程…大きい奴だよ。父さん、本当はお前に自分の跡を継がせたいんだ。なのに半分諦めている理由…俺だって何となく分かるしな」
「 そんな話したくないんですけど」
「 まあ聞けよ。10年に1回くらいの、兄貴の愚痴だ」
「 ………」
  ぴしゃりと言い切った和樹にさすがの数馬も口を噤んだ。
  和樹はようやくやんわりとした視線になると今度は軽く嘆息した。
「 それでな、何が言いたいかって言うと…。俺は俺自身の事も我がまま勝手な才能溢れる弟の事も、この家全部の事も心底嫌いじゃない。けど、どこかで疎んでいるんだ。憎んじゃいないが、煩わしいと思っている。それはどうしようもない事だ。この気持ちは消しようもない。けどな…友之君を友達だと連れてきたお前を見たら…ちょっと治まった」
「 何が治まったんです?」
「 この疼き」
  和樹は自らの胸を拳でこつんと叩くとすっと立ち上がった。そうしてようやく部屋から出て行く気になったのか、そのまま足早に部屋の扉にまで近づくとそのノブを掴んだ。
  そしてそれを捻る瞬間に。
「 そう。それでお前がいない時に言ったんだ。シリューも友之君に懐いたようだし、今度一緒にシリューを連れて遠出しないかって。友之君、本当は犬好きなのにアパートで飼えないんだってな。だから誘ったら嬉しそうだった」
「 あのね…」
「 別にいいよな? 弟の友達と兄貴の俺が友達になったって」
「 ……勝手にすれば?」
「 勝手にする」
  和樹は横目だけでにっとした笑いを向けてから、そのまま部屋を出て行った。数馬は大袈裟に息を吐い後、何だあの人も割とまともな神経の持ち主だったのかと、少しだけ自然な笑みを零した。



「 おっそいなあ、トモ君。何してんだろ?」
  浴室からなかなか戻って来ない友之に数馬が部屋を出て様子を伺いに出たのは、和樹が去ってから1時間後の事だった。
「 そういや、持参してきたパジャマとヨシノが出してくれたパジャマとどっちを着るべきか悩んでいるっぽかったからそれでウロウロしているとか?」
  ぶつぶつと独り言ちながら長い渡り廊下を経て、別棟に設置された浴室のドアを開く。
「 あれ?」
  しかしそこに友之の姿はなかった。
  2階の客室用バスルームと数馬の自室はほぼ一直線上にあり、すれ違う事はまずあり得ない。とすると友之は浴室を出た後、何処か別の場所へ寄った事になる。和衛かはたまた和樹か、意外や使用人の誰かが友之を捕まえでもしたか。数馬がそんな事を思っていると、廊下の向こうからバタバタと勇ましく駆け寄ってくる音が聞こえ、振り返ると妹の和衛が物凄い形相で数馬に向かってきているのが見えた。
「 うわ、我が妹ながら醜い…」
「 ちょっとお兄ちゃん、大変よ!」
「 何が?」
「 呑気な返し方しないで! 本当に大変なんだから! さっき突然お父さんが帰ってきて!!」
「 え? …だってどこやらの会長と赤坂で…」
「 それが! 私もそうだけど、お母さんや和樹兄さんや、あの様子じゃ多分昂馬さんもねっ。お父さんにメールで《数馬が友達を連れてきた》って打ったらしいのよ! それで即行で帰ってきたみたい!!」
「 …勘弁して下さいよ」
「 もうどういう事!? 私がお友達連れてきてもお父さんは仕事の都合を変えてまで家に帰ってきたりしないわよ! どうしていつもお兄ちゃんだけが特別なのよ! こんなのって許せないわよ!」
「 …それで友之は?」
  まくしたてる妹の姿を冷めた目で見やりながら数馬が訊くと、和衛は何故か急に赤面したようになりながら抑えた口調で言った。
「 お父さんの書斎に連れて行かれたわよ…っ。み、みっともないパジャマ姿で…!」
「 ……はあ」
  数馬はむっとした想いを抱えながら、あの何を考えているのか分からない父親が友之と対面している姿を想像して重い気持ちになった。



【つづく】