「きみの名は」(前編)
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「はああぁぁ〜……」 だだっ広い講堂だというのに、その場にいる全員に聞こえるのではないかという程の大きなため息をついて、藤堂は机の上に突っ伏した。 そしてそのまま動かなくなる。スーパーのビニール袋(大)に入った大量のメロンパンにも一切手をつけた様子がない。普段ならばいつでもどこでも幸せそうにそれを食べる姿が見られるというのに。 「藤堂…どうかしたの?」 そんな悩める男へ真っ先に声を掛けたのは雪也だった。昼休みに入る直前のこの講義には他に涼一や康久といった、藤堂とは中学・高校からの同胞もいたが、二人は友人であるはずの男の嘆息にも全くの無反応だった。 「お前、無駄なため息なんかついて、雪の気ィ引こうとしてんじゃねーよ!」 しかし雪也が藤堂を気遣ったせいだろう、すかさず涼一がむっとした声を上げた。 「そうだぞ、うぜえ。お前みたいな巨体がため息とか、ホント可愛くねーんだよ! 桐野がため息つくなら絵になるけど!」 次いで康久もそんな事を言って藤堂を責める。二人にとっては「ため息をつく藤堂」自体はどうでも良いが、「雪也に心配してもらう藤堂」を見過ごす事は出来ないらしい。 「うぅ……」 冷酷な友人らにつんけんした口撃を喰らい、ついでに頭まではたかれたせいで、藤堂はのろりと顔を上げた。先ほどまであった講義の時もそうだったが、藤堂の顔色に生気はない。ぼさぼさの頭髪にヨロヨロとしたラガーマンTシャツも、その姿をより一層惨めにしている。 雪也はいよいよ戸惑って藤堂の顔を覗き込んだ。 「大丈夫? 具合が悪いとか……」 「どうせ二日酔いだろ! 雪ッ! こんな汚い顔にそんな近づくなッ!」 「そうだぞ桐野! 大体こいつが具合悪いとかありえねーだろ。いつでもお気楽天然男なんだから!」 「二人とも、そんな言い方ないだろ。……冷たいよ」 雪也が控え目ながらも気分を害したように眉をひそめると、涼一と康久は途端ぎくりとなったように威勢の良かった口を噤んだ。特に涼一はすっかりオロオロとして、あっという間に雪也の機嫌を窺うような萎んだ声で言い募る。 「雪、怒ったのか…? だってさ、お前が藤堂の心配ばっかりするから……」 「当たり前だろ、友だちなんだから。前からちょっと気になっていたけど、涼一は藤堂とは親友のはずなのに、何でいつもそういうきつい言い方するんだよ」 「だ、だってこいつには、俺は前からこういう態度だしっ。別に、悪気があるわけじゃない!」 「そうだぞ桐野」 康久自身、少々「しまった」という顔をしながら、この時ばかりは涼一を擁護して言葉を挟む。 「別に冷たくしているわけじゃなくて。こいつ、いっつもくだらない事で悩んだりするからさぁ、俺たちもいちいち相手してんのがバカらしくなってんだよ」 「そんな……」 「そうだよ! 現に……おい、お前! 起きろ!」 「ぎゃっ!」 三人のやり取りを遠くの方へ追いやってぼーっとしていた藤堂は、悪鬼のような形相の涼一に再び頭をはたかれ、小さな悲鳴を上げた。雪也がすかさずたしなめて涼一もすぐにシュンとおとなしくなったが、藤堂自身は弱々しく頭を擦りながら、まるで現状が呑み込めていないという風だ。 「もう、何なんだよう、お前ら……」 「お前のせいでこんな事になってんだろうが!」 「何だよう、そんな怖ェ目で睨むなよー。ただでさえ落ち込んでんのによー」 「知るかっ!」 「涼一っ。そういう言い方やめろよ!」 「ゆ、雪…っ」 珍しく強い口調で(しかもすかさず)責めてくる雪也に、涼一は再びビクッとなって、らしくもなく縮こまった。 雪也はそんな涼一に心の中だけで息を吐き、改めて藤堂に向き直る。 「何かあって愚痴とか言いたいなら…。俺で良かったら聞くけど」 「桐野〜」 「近寄るんじゃねえッ!」 「離れろこのウザ男!」 「うぎゃあっ!」 「藤堂っ!」 優しい言葉に感動した藤堂が、思い余って雪也に抱きつこうと両腕を広げた直後、その悲劇は起こった。 「な、何するんだよ、二人とも…!」 「煩い! 雪、お前も警戒心ってものがなさ過ぎんだよ! い、今こいつ、お前に抱きつこうとしたんだぞ!?」 「そうだぞ桐野! お前みたいな線の細い奴がこんなでぶでぶした巨漢に縋りつかれてみろ、下手したら圧迫死しちまう!」 「何言ってんだよ! もう、何で二人してこんな乱暴…!」 「うぐぐぐ……」 「藤堂、大丈夫!?」 涼一から飛び蹴りを、康久からラリアットを同時に喰らって床に倒れ伏した藤堂は、しかしそんな無慈悲な攻撃にも意外や慣れているのか、心配して屈みこむ雪也をよそに、腰を擦りながらもすぐにむくりと上体を起こした。 そうしてその場で胡坐をかいたまま、藤堂は身体のダメージとは全く別の意味でがっくりとし、口元に小さなひきつった笑みを浮かべた。 「いいんだ、桐野。どうせ俺なんて、みんなの嫌われ者なんだ」 「そ…そんなわけないよ!」 「そうなんだ」 必死に否定する雪也に藤堂はうるっとした目を向けた。……しかしその甘えモードのまま再び雪也に抱きつこうものなら、二人の悪鬼から今度こそとんでもない攻撃を喰らう事は明白である。 その為、そこは生存本能から自重。 「あのな……昨日の合コンで、すげぇ落ち込む事があって」 だから藤堂はそのままの体勢で、ぼそりと意気消沈の理由を告げた。 「合コンで?」 「はっ…やっぱそんな話か」 「お前の悩みは合コン以外にないのか!」 「二人とも黙って!」 「そんな、雪〜…」 「桐野……怒る桐野も可愛い……イテッ」 鼻の下を伸ばしかけた康久に涼一がすかさず鉄槌を喰らわせたが、そんな二人のやり取りを雪也はもう見ていない。いつもは堂々としてニコニコしている藤堂のすっかりしょげきった様子に心底同情し、雪也は慰めるように藤堂の肩に手を置いた。 「合コンで何かあったの?」 「ああ……。あのな、前からちょっといいなって思っていた子が来てたんだ。高校でも3年でクラスが一緒でさ、割と仲良く話していた子」 「へえ」 「誰?」 「エリカちゃん」 その質問に藤堂はすぐ答えたが、自分から訊いた涼一の方は「ふーん」と言ったきりそれ以上の感想も漏らさず、康久が「ああ、その子なら俺もちょっと知ってる」と付け足した。 「エリカちゃんってさ、誰にでも優しくて明るくて。凄くとっつきやすい子なんだ。だからさ、勿論合コンでも人気だから俺は望み薄だって分かってたんだけど、席をくじ引きで決めるってなって、俺、エリカちゃんの隣になれたんだよ。しかもエリカちゃんは端っこの席で、隣は俺しかいないの」 「そう……なんだ」 「巨体なお前がぬり壁になって、その子、他の人間誰も見えないな」 康久はからかうようにそう言ったのだが、藤堂はまるで気分を害する事もなく、「そうなんだよな!」などと逆に身を乗り出すようにして頷いた。 「ホント、俺ァ、チャンスだって思ったよ。それに、元からの知り合いだし。これは、高校ン頃の話とかから始めて盛り上げてやろうって気合入ったね。エリカちゃんも凄い気さくに話してくれたし。あ、涼一のことも話のネタになって良かったな。エリカちゃんって、高校の頃お前のこと好きだったんだってよ。まあ、結構仲良かったもんな、お前ら」 「ばっ……へ、変な話してんじゃねーよっ!」 唐突に思ってもみなかった事を言われ、涼一は途端焦ったようになりながら藤堂を怒鳴り、さっと雪也を見やったが、当の雪也の方は「それで?」と平然と藤堂の話の続きを促した。 「うん、それでな。まぁそういう昔話を散々して、散々盛り上がって…。俺、凄い有頂天でさ。今度また集まろうって話もってって。あ、それは勿論二人きりとかじゃなくてな、何人か遊びたい人募ってって事なんだけど。……で……その時に……名前を……」 「え?」 段々と話の語尾が小さくなっていく藤堂に、雪也は怪訝に思って訊き直した。 すると藤堂は心底悲しそうな顔をして「名前……」ともう一度言った。 「名前がどうしたの?」 「その……それじゃあ参加希望者の名前と連絡先自分がメモっとくねってエリカちゃんが言って、手ェ挙げた皆の名前書いてて……俺の時に……その、藤堂………」 「え?」 もごもごとなかなか言わない藤堂に、雪也はもう一度耳を寄せて問い返した。 すると「距離が近い!」と無理やり雪也を自分の方へ引き寄せた涼一が今度こそ本当にイラついたように声を荒げた。 「うぜえな、はっきり喋れっつの! お前の名前がどうしたんだよ!?」 「だからっ! 言われたんだ! 『何だっけ?』……って」 「……は?」 藤堂の告白に涼一は暫しぽかんとして動きを止めた。その場にいた康久と、涼一にがんじがらめにされている雪也もまた然りである。 そんな三人に、今度は藤堂が焦れたようになってヤケクソで叫んだ。 「だからーっ! 『藤堂君って、下の名前何だっけ?』って、そう言われたんだよーっ。くそ〜! あの天使のスマイルで! 俺たち、同じクラスだったのに〜!」 「……はぁ」 涼一が自らの金縛りを解きながら、少々呆気に取られたようになってとぼけた声を返す。康久も最初こそ唖然としていたものの、同情するような、しかしどうでもいいというような、そんな微妙な表情をして無言である。 そうこうしている間にも、藤堂は「くーっ」と腕を両目に当てて泣くような仕草を見せた。 「おまけに! 他にもいたんだ、俺の名前忘れている奴! 何で! 散々つるんでたのに! 散々一緒にいた連中なのに、俺の名前覚えてないって何だよ! そもそもさっ、俺なんてどんなに付き合い長い奴らにも、常に《藤堂》って呼ばれるだけだよっ。一度も下の名前とかあだ名で呼んでもらった事ねーよ! 俺って、つまりは、そんだけ影が薄い奴って事だろおぉ〜!!」 「藤堂……」 「まったく……どうでもいいじゃねーかよ、そんなの……」 涼一がぼそりと独り言のようにそう漏らすと、急に藤堂はキッとなって顔を上げた。 「お前はみんなから《涼一》、《涼一君》って呼ばれてるから分かんねーんだよっ。康久だって、《康久》なんて超言いにくいのに名前呼びだし! 桐野は、まぁ俺は《桐野》って呼んでるけど、涼一は《雪》って呼んでるし!」 「当たり前だ、お前らは呼ぶなよ!」 「涼一っ」 すかさずそんな牽制をする涼一に雪也が慌てて声を挟んだが、そんな二人のやり取りにこの時の藤堂某は興味がなかったらしい。 「俺も名前で呼ばれたいーっ」 藤堂の心の叫びに、3人は一斉に黙りこんだ。 |
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後編に続く……
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