「きみの名は」(後編)
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「はい、藤堂。お茶」 「おう、さんきゅう……」 「この野郎…! 雪に茶なんか淹れさせやがって…!」 「涼一」 じろりと雪也に睨まれたことで一応は黙りこくったものの、ただ今王子のご機嫌は真っ逆さまに降下中であった。 場所は大学構内から、現在は涼一のマンションへ移っている。面子は家主の涼一を筆頭に、雪也、藤堂、それに康久の4名。特に推し量ってここへ来たわけではなく、あまりに落ち込む藤堂を雪也が見かねて、「ご飯でも食べに行こうか」と誘ったのが始まりだった。 その提案に涼一が「俺も行く!」となるのは必然で、「なら、もちろん俺も」と便乗する康久がいるのも当然で……そうなると何となく、外で食べるよりは、酒や食べ物を持ち込んで好き勝手出来る涼一の部屋がいいだろうということで、今に至るわけである。 とは言え、早々に酔っぱらってしまった藤堂は酒盛りどころではない。気心の知れた仲間の前で余計解放された気持ちになったのか、冷淡な友人「2名」の痛い視線も何のその、藤堂は先ほどから冷茶だけで性質の悪い愚痴を繰り返していた。 「藤堂……よっぽどショックだったんだな」 雪也はそんな悲劇の主人公・藤堂にとことんまで同情的だった。 普段から面倒見が良く、いつもにこにこしている気の良い藤堂がここまでやさぐれて悲嘆しているのだ。本当に傷ついたんだと思うと、ぐだぐだと永遠に続くかのような、誰もが逃げ出しそうな零し文句も、どれだけでも聞いてやりたいという気持ちになっている。 「ったく、今さらなんだよな」 「そうそ。今さらそんなこと愚痴られても困るっての」 一方、雪也から「冷たい男」と思われたくないというただそれだけの理由で、大学にいた時よりは幾分口撃も温い涼一たちも、依然としてチクチクしたさり気ない嫌みを放つことは怠らなかった。雪也にしてみれば珍しい「こういう藤堂」も、涼一らにしてみれば「いつものこと」であるらしい。 そもそも、たかが「名前で呼んでもらえない」くらいで雪也にちやほやされて羨ましい。というより、苛立たしい。 「昔っからお前は《藤堂》だろ。むしろそれがあだ名と言ってもいい。俺らの中ではもうそれで固定されているんだから、下の名前がどうとか言われても訳分からん。お前だって今まで文句言ったことなかったじゃねえかよ」 康久がつまみのスルメをがじがじ齧りながらぞんざいにそう言った。ここへ来て一番飲んだり食べたりしているのは康久だ。雪也が作ってくれたつまみはことごとく涼一に阻止されて手をつけられないので、こちらはこちらで自棄気味である。 その為、「お前のあだ名は藤堂で決定!」と、しきりに強引な提案を繰り返す。 「そういう問題じゃねえんだよ! 俺は、みんなが俺の名前を忘れていたっていうのがショックなの!」 しかし藤堂は藤堂で、気持ちを分かってくれない友人にキッとした睨みを利かして譲らない。しかも次いですかさず、傍で心配そうにしている雪也へ縋るような目を向ける。 「なあ桐野。こいつらは俺が何言ってもちっとも分かってくれないんだよ。だから、こうなったら、お前だけでも俺のこと、下の名前で呼んでくれよ」 「ああ、うん。いいよ、それくらい」 「ホントか!?」 「駄目だッ!」 ――ちなみに、このやり取りはこの部屋へ来てから少なく見積もっても三回は繰り返されている。 すなわち、藤堂が愚痴を言う→雪也が慰める→涼一や康久がそれに文句を言って藤堂を責める→藤堂が唯一の味方である雪也に縋る。 そして、「せめて桐野だけでも俺を名前で呼んでくれ」と頼む藤堂に、雪也があっさりと「うん、いいよ」と答えた直後、光の速さで涼一が阻止しにかかると言うやり取りを。それを、最低3回……。 「……涼一」 雪也がうんざりした目を向けるのももっともであった。王子様のくせに心が狭いにも程がある。 しかしその王子もこれだけは決して譲らないとばかりに頑固に厳として言い切るのだ。 「絶対にダメだ。雪が下の名前で呼んでいい人間は俺だけ!」 「ちょっ…涼……」 「大体、俺だって呼んでもらえるまでにどんだけ時間かかったと思ってるんだ。それを何でいきなり藤堂が? ありえねえ!」 「涼一、やめろって!」 あまりに暴走し過ぎて自分たちのことまで暴露してしまいそうな涼一に雪也が思い切り慌てる(今更なような気もするが…)。 これにすかさず口を挟んだのは康久だった。 「まあ藤堂はどうでもいいとしてな。けど、涼一のその言い分は明らかにおかしいよなぁ。俺も桐野から『康久』って呼んでもらいてぇ〜!」 「ふっざけんな! お前はもっと関係ないだろうが!」 「そうだぞ、今は俺の話だぞ! 俺が桐野に――」 「煩ェデブ! お前も出てくるな!」 「ぎゃあ!」 「涼一!」 不機嫌な王子様の蹴りが憐れな藤堂に炸裂する。そしてそれを雪也が怒涛の勢いで怒鳴り黙らせ、王子の動きを止める。不毛過ぎるこれらのやり取りには終わりが見えない。その事実に愕然としたのだろう、一瞬しん、とその場にいた全員が黙りこくって室内は重い沈黙に満たされた。 「……ならお前、もう『メロン』でよくねえ?」 するとすっかり疲れたようになった康久がそんな「妥協案」を出してきた。 「いかにもあだ名って感じでいいだろ? より親しみがわくっていうかでな。下の名前じゃなくて、敢えてそういう特殊なあだ名を使うってどうよ?」 「嫌だ! 俺は名前で! 下の名前で呼んでもらいたいんだよう! でなきゃみんなが余計に俺の名前を忘れんだろ、ただでさえ忘れられてんのに! 大体メロンて何だよ、それって最早人間じゃねーじゃねえかあ!」 「可愛いあだ名だろ!」 「嫌だあ!」 「はあ〜! うぜっ! デブがダダこねて超絶うぜえ!」 「逢坂……」 「はっ! わ、悪い悪い……はは……」 雪也のやんわりとした注意に悪態をついた康久はすぐさま反省の意を示したが、藤堂はメロンというあだ名に傷ついたまますっかり膝を抱えている。 ちなみにそのすぐ傍では、涼一がどこか病的にぶつぶつと「メロンってあだ名でもダメだ、雪に特別な呼ばれ方をされるなんて」とか何とか言っている。これにはその場にいた全員が意図的にか気づかずにかスル―状態だったが。 「……分かったよ。それじゃあ、桐野に呼んでもらうことは諦める」 どれくらい経ってからだろうか、ふと顔を上げた藤堂がやつれた顔のままそう言った。 「俺もいい加減涼一に蹴られたくないからな。桐野が呼ばなければいいんだろ?」 康久はともかく、藤堂は涼一が何故こうも頑なに「雪也が涼一以外の人間の名を呼ぶ」ことに反対しているのか、その理由を分かっていない。それでも、「とにかくダメなのだ」ということだけはよくよく分かったので、それなら「もう諦める」となったようだ。こういうところが藤堂のお人よしと言われる所以であろう。 「けど、ならお前たちだけは呼んでくれ。俺を名前で呼んでくれ」 「しつけえなあ」 康久は呆れたようにすぐさまそう返したが、それでも藤堂の執念にいい加減根負けしたのか、仕方がないなという風に頷きもした。 「分かったよ。呼べばいいんだろ、呼べば。時々はいつもの癖で苗字呼びになることもあると思うけどな?」 「ホントか!? ホントに呼んでくれるのか!?」 「ああ、いいぜ。けど、お前の下の名前って何だっけ?」 「……っ!!」 「冗談だよ」 ぎょっとして石化する藤堂に康久はふっと笑みを零した後、隣で何故か鬼のような顔をしている涼一を見て肩を竦めた。 「涼一、お前もいいだろ? 桐野がダメだっつーんなら、せめて俺らだけでも下の名前で呼んでやろうぜ。そうすりゃこいつも静かになるし、気が済むんだからさ。桐野だって安心するだろうし。な、桐野?」 「う、うん…。本当は俺も呼んであげたいんだけど」 「いいのいいの、これ以上涼一が煩く喚くのも嫌だろ?」 康久がぶんぶんと片手を振って雪也を諌める。それで雪也も納得したように頷き、希望の光を見出したような顔の藤堂に自分もほっとしたように笑った。 「……嫌だ」 しかしその場の空気を再度凍りつかせたのは、我らが王子の一言だった。 「は?」 康久がそのぼそりと発せられた拒絶の言葉に眉をひそめる。次いで、藤堂と雪也が驚いたように涼一へ視線を向けた。 「嫌だって言ったんだ」 すると涼一は今度はきっぱりと言い切り、ふいと駄々っ子のように3人からそっぽを向いた。 「俺はお前を下の名前でなんて呼びたくねえ」 「な……何でだよう!!」 藤堂が今度こそ泣きそうな声を上げた。周囲に多大な影響力を及ぼす涼一が名前呼びするように努めてくれれば、その効果たるや絶大である。そのうち周りの仲間たちだって「藤堂」「藤堂君」から「下の名前」呼びになることは確実だ。 それなのに、雪也への妨害だけでは飽き足らず、自分自身が呼ぶことまで拒否するとは……。 「お前はそれでも親友かあっ!」 「うっせ! 親友だから呼びたくねーんだよっ!」 「はああ!? 意味分かんねーし!」 「分かんなくていい! 誰も分かんなくていい!」 「呼べよー! 呼べ呼べー!」 「煩ェっ!」 言い合いが高じて互いに興奮状態になったのか、涼一と藤堂はすっくと立ち上がって面と向かうと、それこそ意味のない口撃を交わし始めた。康久はそんな2人にただただぽかんとし、雪也はオロオロとしたようにどうやって2人の間に入ろうかと逡巡した。 しかし藤堂ではないが、雪也たちにもまったくもって訳が分からない。何故涼一はそこまで頑なに藤堂の「下の名前」呼びを嫌がるのか。 ピーンポーン。 その時だった。 「あん? 涼一、客だぞ」 不意に何者かの来訪を告げるインターホンが高らかに鳴って、それに逸早く反応した康久がこれ幸いにと、藤堂の胸倉を掴んでいる涼一を呼んだ。 「今取り込み中だ!」 けれど涼一はそうばっさりと斬り捨てる。藤堂も然りで、何やら2人は中学の頃の互いに理不尽だった行為の思い出話を中心に、「これだからお前は!」、「何おう、それならあの時お前は!」などという子どもの喧嘩を炎上させていた。 「俺が出るよ」 それで雪也が半ばその場から逃げ出すように声を上げて動いた。マンションの玄関ホールに立つ来訪者の姿は、リビングの入口横にあるモニターに映し出される。雪也はそこまで小走りになり、その画像に映る人物を目にして思わず「あっ」と声を上げた。 「創……」 そうして思わずと言った風にその名を呟いた雪也に、涼一と藤堂が一斉に振り返った。 「き、桐野―!!」 直後、感極まったような藤堂の声。 「え…!?」 ぎょっとして振り返った雪也にドスドスと荒い足取りで近づいたのは狂喜の声を上げた藤堂だ。彼はその巨体には似つかわしくない素早さで雪也の両手をぎゅうと掴むと、その場でぴょんぴょん跳ね出しかねない動作で実に嬉しそうにその手を振った。 「ありがとう、ありがとうな桐野!」 「わっ…と、藤堂!?」 「何だよう! 今呼んでくれたじゃねえか! 遠慮せずもっと呼んでくれよう!」 「え? ――あ」 雪也は藤堂のその反応でようやくはたと思い立ったようになったのだが、藤堂当人はそんな相手の様子にまるで無頓着だった。依然として雪也の両手をぶんぶんと振りながら実にはしゃいだ声をあげる。 「今『はじめ』って言っただろ! 俺の名前! やっぱり桐野だなあ、うん、うん! 何か言い感じ! もっと呼んでくれえ!」 「あ、えっと、今の“はじめ”は、藤堂のことじゃなくて――」 「えー? 何だよ、何言ってんだよう!」 「藤堂―! テメエ、雪の手離せ!!」 「うぎゃあっ!」 「と…ッ!」 「死刑!」 「ふぎゃああっ!」 げしげしと藤堂の身体を足蹴りにして、涼一は興奮したように「何その脂ぎった手で雪の手がっつり掴んでんだ!」と早口でまくしたてる。雪也が慌てて引き離そうとするが涼一はそれすら払って、今や地べたにうつ伏せ状態&防御体勢ゼロの藤堂をことさらに攻撃し続けた。 「おい、誰か来たんだろ? 放置はないだろ」 通常、こんな暴力行為が目の前で行われていたら、雪也のように止めようとするのが普通の感覚である。 しかし涼一と藤堂の間には、最早涼一と雪也という関係とは別の「愛情関係」が成り立っているのかもしれない。そんなわけで、「いつものことさ」とばかりに慣れた態度でその惨状を素通りの康久は、いやにのんびりとした口調で「お客さんを待たせるなよ」などと言って、先刻雪也がいた位置からモニターへ目をやり、次いで――「……ああ」と得心したように頷いた。 「そういえば、この人も≪はじめ≫だったんだなあ」 「ちょ、そ、そうなんだ、涼一! 今、創が下に来ているんだけど!」 「知るか! その名を呼ぶな、忌々しい!」 しかし涼一は雪也の「はじめ」呼びに更にカッときたようで、尚も藤堂を足蹴にしながら「だからお前は藤堂なんだよ!」と怒鳴りつけた。 「は、はああ? うげっ! せ、背中を蹴るな背中を! もうちょい下の方を踏んでもらうと腰痛に効いて良い感じなんだが…って、意味分かんないし! 何で俺は『だから藤堂』なんだよ!?」 「だから!」 理不尽極まりない言い分に抗議する藤堂に、涼一がより苛立ったような大声を上げる。 「お前の名前はなあ! 否応もなく、俺が一番思い出したくない奴の顔が浮かぶんだよ!」 「は!?」 「だから絶対呼ばねえの!」 「な……何なんだよ何なんだよう! な、なら『はじめ』じゃなくていい、『はーちゃん』とか『はっちゃん』でも…!」 「あいつがそういうあだ名で呼ばれているみたいで気色悪い! 却下!」 「意味分かんねええええ!」 藤堂の悲鳴が部屋中に響き渡る。雪也は半ばボー然として、涼一を止めることを忘れてしまっている。 だってまさか。そんな理由だなんて。 「しっかし涼一の言い分自体は分かったが、やっぱ理不尽だよな。藤堂の方があの人より先に知り合ってんのに」 やがて康久がぼそりとそう呟いた。雪也もそれではっとし、「本当だよ」と同意したのだが、そこはもうタイミングの問題というか、藤堂が「名前呼びして欲しい」と言い出したのが、涼一が創と知り合ってから後の事なのだから、如何ともし難い。 涼一が何とか怒りを鎮めて藤堂から離れたのは、それから数分後。 我に返った雪也が「いい加減止めないと藤堂を『はっちゃん』って呼ぶよ!」と言ったお陰なのだが、「その言い草も何気に酷くねえか…」とツッコミを入れた康久の声を聞き取った者はその場には誰もいなかった。 藤堂はじめ。20歳。 彼が「服部創(はじめ)」という雪也の友人と「名前呼び」の権利をかけて決闘を挑むのは、この後すぐのことである(嘘)。 創「俺はこの話の便宜上、召喚されただけってことだね……」(ため息) |
終わり
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これじゃあんまりひどくねえか…と思われた方は…
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別にもういいやという方は
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