「ふんわりきらり」

第1話 



「 おはよう雪也さん」
「 あ。おはよう、ツキト君」
  店のシャッターを開けてぐんと伸びをしていた雪也に開口一番そう元気な挨拶をしてきたのは、絵描き少年のツキトだった。彼は雪也が店を開ける時間にアルバイト先であるカフェへ向かう為、こうして顔を合わせる事が多いのだ。
「 今日はちょっと寒いね。良い日になるといいな」
「 なるよ」
  ツキトのいつもの口癖にやんわりと笑んで、雪也は両手に鉢植えを抱え、それを店先のいつもの場所に置いた。
  雪也がこの街で小さな花屋を始めたのは約1年前だ。この仕事も大分板についてきた。
「 そうだ、この間のツキト君の新しい絵ね。お客さんにとても評判が良かったよ」
「 本当?」
「 うん。また新作出してくれるの楽しみにしてるって」
「 やった! はは、花の妖精なんて今時あんまりウケないかなあって思ってたから心配だったんだ。うん、 今度はまた違う花で違ったイメージの妖精描いてみるから」
「 うん、頼むよ」
  既に次の構想に想いを馳せて目を輝かせている少し年下の少年に雪也は自分自身も嬉しくなり、ふっと表情を緩めた。向かいの十字路から少し行った先のアパートで一人暮らしをしているというこのツキトは、雪也が店を始めた少し後くらいに「家出してきた」と言ってこの街にやって来た。カフェや夜の清掃の仕事など、数々のアルバイトで毎日の生活を繋ぐツキトの夢は一人前の画家になる事で、雪也とは花の絵をあしらった手作りのポストカードをツキトが「店に置かせて欲しい」と頼んできた事によって知り合った。
「 もうすぐ冬だから、今度は冬の花描くね。ちょっと凝ったクリスマスカードを作るのもいいかな」
  朝の冷たい風に多少頬を上気させてツキトが言った。
「 それとも雪也さんは何か描いて欲しい花とかある? 俺、それ優先して描いてもいいし」
「 ありがとう。でも俺は何でもいいよ。ツキト君が描きたいもので」
「 そう? あ…でもな…」
「 ん?」
  ふと言い淀んだ風になったツキトに雪也は不思議そうに首をかしげた。
  ツキトはそんな雪也に少しだけ困ったように笑った後、さり気なく周囲に視線をやりつつ言った。
「 あのさ、あの子…。最近見ないなあと思って」
「 あ…」
  ツキトのその言葉に雪也もさっと表情を翳らせた。
  ツキトは続けた。
「 俺が最近調子良く描けていたの、実はあの子のお陰なんだ。あの子見てると妙にインスピレーション湧くっていうか。だからいつかちゃんとしたモデルになって欲しいって頼もうと思ってたんだけど」
「 そうなんだ」
「 でもあの子、すぐ逃げるでしょう? 人嫌い…いや、人が怖いのかな? 何か、そんな感じで」
「 うん……」
  雪也もそれは感じていた。
  つい数ヶ月前まで、よく店の辺りをうろうろとしていた小柄な少年。
  いつも粗末な服を着て、整えれば綺麗だろう黒い髪の毛もボサボサ。足取りもフラフラとして覚束なかった。貧民街の方の子だろうと思ってはいたけれど、わざわざここまでやって来るとは余程花が好きなのだろうと気になっていた。何度か声を掛けようとしたのだが、しかしその少年はツキトが言ったように、雪也が話しかけようとすると逃げるようにしてさっといなくなってしまうのだった。
  ただ、その黒い瞳はいつでも何かに怯えているようだったけれど、反面誰も近づけない、寄せつけないかのような空気もあった。
「 俺たちと同じ東出身の人ってあまり見ないでしょ、この街では」
  考えこむような顔をしている雪也にツキトが言った。
「 それもあって気になっていたんだけど。何処かで行き倒れたりしてないといいけど」
「 そんな…不吉な事を…」
「 わ、そうだね、ごめんごめん。あっ、やば。それじゃ俺、そろそろ行くよ。雪也さんも、例のお客さんもうすぐ来るんでしょ?」
「 え? あ…そうだね、いけない。すぐ用意しなくちゃ」
  店の中にある時計を気にしたように振り返った雪也にツキトは苦笑した。
「 しかしどんなお金持ちなんだろうね? いつも大量のバラだけ買って帰るんでしょ? 仕事とか訊いた事ある?」
「 お客さんに個人的な事なんか訊かないよ」
「 そうかあ…。あ! 本当にもう行かなくちゃ! それじゃ、また!」
「 うん。ツキト君、行ってらっしゃい」
「 行ってきます!」
  元気な声と共に片手を挙げて去っていくツキトを雪也は眩しい想いで見つめた。いつもいつもあんな風に元気なのに、「今日は良い日かな」などと、どことなく不安そうに言うツキト。そんな様子が時々心配ではあったけれど、それでもそれを押し隠すように常に明るく笑うツキトの事が雪也は好きだった。自分も見習いたいと思っていた。
「 それにしても…」
  1つ呟いてから雪也は遠くの街並へと目をやった。
  ツキトが言っていたように、あの少年は一体何処へ。今頃どうしているのだろう。





「 ……おい。おいってば」
  ごつんと、硬い何かが頭の先に当たった事で、友之はゆっくりと目を開いた。
  眠い。
  瞼が重くて、まだ目を瞑っていたいのに、この頭のてっぺんに来る軽い痛みは何なのだろう。しきりにせっついてくる。
  嫌だと思った。
「 嫌だって? はあ? キミね、ボクがこうして声掛けなかったら、このまま死ぬか、もっと怖い目に遭うかもしれないんだよ? それでもいいの?」
「 ………」
  上から降って来るその素っ頓狂な声に友之は最初何の反応も示せなかった。ただ尚もごつごつと頭を突付いてくるその不快な感触には眉をひそめた。声を掛けてきた人物が軽く足蹴りしているのだと気づいたのは、それから数十秒も後の事だ。
「 ……やめ…」
「 やめて欲しかったら起きなよ。キミ、もしかして昨夜は一晩ここで倒れていたの? 無事だったなんて奇跡だね」
「 ………」
「 見るからにビンボーそうだけど。キミはホームレス? 家出少年?」
「 ………」
「 一応言っておくけど、ボクに黙秘権は通用しないよ。ボクは人のココロが読めるんだからね」
「 ………」
「 ………こいつ。こうまで言ってまだ起きないか」
  友之が未だぼんやりと無反応なのを見て、頭の上から声を掛けてきている人物―どうやら友之と同じくらいの少年のようだ―は、やや間を置いてからまた一段とイラついたような声を上げた。
  そうしていよいよ業を煮やしたのか、その声の主は突然ぐいと無理やり友之の腕を引っ張りあげ、強引に上体を起こさせた。
「 ……っ」
「 痛がってもしょうがないよ。それは自業自得。分かる? この意味」
「 ………」
「 分からないって顔してるね」
「 ………」
  その呆れたような声に友之はここでようやく顔を上げた。
  金色に光る瞳がいやに眩しい。明るい茶形の髪の毛も、ぐんと背の高いがたいのある肩幅も、その姿全てが友之とは別世界の人間に思えた。もっともこの街では黒髪である友之の方が異端な存在であるのだが。
「 この髪は染めてるだけ。それに瞳の色も普段はキミと一緒だよ。ボク、東の出身者だから」
  友之が何も発していないのに相手はまた先を読み、そう言った。どうやら「ココロが読める」というのは本当らしい。そうして友之がふと改めて相手の顔を見やると、なるほど先刻まで金色に輝いていたその瞳の色は、段々と落ち着いた藍色へと変わり、最後には黒となった。
  友之はぱちぱちと何度か瞬きした後、ゆっくりと言葉を出した。
「 誰…?」
「 ボクは数馬クンだよ。香坂数馬」
「 数馬…」
「 そ!」
  数馬はそう言って偉そうに両手を腰に当てた後、軽く首を捻ってから続けた。
「 そういうキミは誰さ」
「 ………」
「 名前だよ名前。宿無しでもそれくらいはあるだろ」
「 ……と」
「 と?]
「 友、之……」
「 トモユキ? ふうん、じゃあトモ君か!」
  馴れ馴れしくそう言った後、数馬はきょろきょろと辺りを見回し、段々と人の通りが多くなってきた背後の道路へと目をやった。2人がいる場所は丁度建物と建物の隙間にある袋小路で、奥にはポリバケツが2個置いてあるだけの暗い場所だ。
  友之はそんな裏道の隙間に転がっていたというわけだが。
「 何してたの、ここで」
  数馬が訊いた。
  友之は暫し無言でいたが、数馬が心を読もうとせず、自分に言わせようとしているのを悟ると仕方なく口を開いた。
「 つ、連れて…来られた…」
「 誰に?」
「 知らない人…」
「 んん〜?」
「 ……あの街にはいるなって言われて…。僕は…あの花屋さんが、好きだったんだ…。いつも良い匂いがして…綺麗な絵もたくさん貼ってあって…。だから…」
「 それ、何処の街の花屋さん?」
「 ……夕暮れ通りの」
「 ああ、何だ。あんまり離れてないよ、ここから。車で1時間ってところかな」
「 ………」
  自分にとっては途方もない距離だと友之は思った。
  あの街に居ついたのはもういつの事だったか。記憶はない。元々は病弱な母とあの街外れにある親戚の家に身を寄せていたのだが、役立たずの自分たちはいつでも厄介者だった。
  そして遂に母が病気で亡くなってしまった後、友之はいよいよ居場所を失くして当てもなくウロウロと街の中を彷徨うようになっていた。何の目的もなく、誰と接する事もなく、ただ暗い毎日。
  ただ、あの花屋を遠くから眺める事だけは好きだった。いつでも優しい風が吹いていて、傍にいるだけで気持ちが落ち着き和む気がしたから。実際店の主である青年もとても優しそうな人だと思った。こちらを気に掛けたように何度か話しかけてくれようとしていた事も友之は知っていた。
「 なるほど。でもキミはその度逃げてたんだ。人と話すのが怖いの?」
「 ………」
「 今までよっぽど酷い目に遭ってきてて人間不信とか? まあそんな事はこのボクにはどうでもいい事だけどさ」
  さらりと思った事を口にして、数馬は「それでも」と空を扇ぐように顎先を掻いてから続けた。
「 それでも、キミを誘拐しといてこんな所に捨て置いた人ってのは誰なんだろうね。それはちょっとだけ興味あるかな?」
「 ………」
「 で、ともかく。何がどうなのかは知らないけど、キミは誰かさんにとって邪魔な存在ってわけだ。かわいそうに。加えて行く場所もないときてる?」
「 ………」
「 ふ……」
  黙り込んだまま俯いている友之に数馬は片方の眉だけを器用に上げると、やがて面白いものでも見るような顔をして笑った。
  そして。
「 ならボクのところ来る? ご飯くらいは食べさせてやってもいいよ。勿論、タダじゃあないけどね」




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