「ふんわりきらり」


第2話 



  その日、沢海拡は大層不機嫌だった。
「 あいつ…。朝飯買うのに一体何処まで行ってるんだ!」
  本当は特に空腹というわけでもなかったのだが、あの身勝手なルームメイトに自分のペースが乱されるのは我慢ならなかった。そもそもこの部屋は自分が1人暮らし用に借りたものなのに、何が悲しくてあんな奴と一緒に暮らさなければならないのか。
「 ったく、俺の部屋は家出人用のホテルじゃないってんだよ」
「 ちゃんとお金払ってんだからいいじゃん。拡クン、キミもいい加減ぐちぐちと煩いね」
「 数馬!」
  毒づいていた相手が突然背後に現れた事で拡は思わず座っていたソファから立ち上がった。一体いつの間に上がりこんでいたのか。相変わらず神出鬼没である。
「 あ…!」
  しかしそれよりも何よりも拡の目を引いたのは、その待っていた相手―数馬―が手ぶらで自分の前にいる事だった。
「 お前! 朝飯は!?」
「 あ、忘れてた」
「 忘れてた!? こんなに時間掛けておいて一体何を―…!?」
  けれど沢海は飄々とした数馬に尚も怒声を浴びせ掛けようとして、ふいにぴたりと動きを止めた。
  数馬の背後からおずおずと姿を見せた少年が突然視界に飛び込んできた為だ。
「 ……誰だよ」
  驚きを隠せずに声のトーンを低くして問うと数馬はあっさりと言った。
「 紹介するよ。トモ君」
「 トモ君…?」
「 そ、トモ君。ね、トモ君」
「 ………」
  数馬の背後から沢海を見据える少年は何も発しない。ただどことなく泣き出しそうな、怯えた様子が妙に哀れを誘った。沢海はごほんと1つ咳払いをしてから、いつもの数馬以外の人間に見せる愛想の良い笑顔を閃かせて話し掛けた。
「 どうも、はじめまして。俺は沢海拡。拡でいいよ。で、見ない顔だけど、君、この数馬とどういう関係なの?」
「 どういう関係ってのはどういう意味さ」
「 学院では見ない顔だよ」
「 そうだねー。確かにこんなビンボ臭いの、うちのガッコにはいないよねえ」
「 数馬! お前、失礼だろ!」
  沢海はきっとして数馬を鋭く睨みすえると、一方で友之にはすぐに慰めるような笑顔を向けた。
「 ごめんね、気にしないでいいよ。こいつは口が悪いんだ。性格も悪いし」
「 ちょっと。言うようになったねえ、拡クン」
「 煩いんだよお前は」
  それより、と言って沢海は改めて友之の事をまじまじと見やった。
「 この子、一体どうしたんだ?」





  北川光一郎は淡々と流れていく車窓の景色をただぼんやりと眺めていた。
  明け方のまだ薄っすらと霞が掛かった白い景色は酷くぼやけて見える。つくずく埃臭い街だ。
「 大分お疲れのようですね」
「 ………」
  気にした風に声を掛けてきた大柄の運転手・藤堂に、光一郎はしかし何も答える事ができなかった。一応返事くらいはした方が良いかとも思ったのだが、とにかく気だるい。面倒臭い。昨夜は遅くまで隣国の取引先企業トップとの会談があり、ここへはその仕事明けすぐに乗った飛行機で戻ってきたばかりなのだ。自宅はもう目と鼻の先だったが、とにかく疲弊の色が濃い。仕事がやっとひと段落ついた今、最早誰にも気を遣いたくはなかった。
「 今日はお屋敷で1日ゆっくりとお休み下さい。また遅くまで書類と睨めっこなんてのはなしですよ?」
「 ………」
「 あっ…余計な事ばかり申し上げてすみません…っ。でも、みんな社長の事が心配なんですよ」
  みんな。
  みんなって誰だろう。
「 ああ…。分かっているよ」
  それでも光一郎は最後の一絞りとばかりに、忠実で人の良いドライバーに相槌を打ってみせた。この男に悪気がないのは分かっているし、どのみち適当な言葉を返すのはいつだって自分の常套句、得意技なのだ。これくらいどうという事もない。
  そう、どうという事も。
「 ………」
  それでも妙に引っかかった。自分を心配する人間とは誰なのだ。自分には誰もいない。誰にも好かれていないし、こちらとて誰も好いてはいない。それこそ血の繋がった家族でさえも。
「 ……あのバカ」
「 え? 何ですか?」
「 いや…何でもない」
  思わず口にしてしまった悪態を藤堂に聞かれてしまった事で、光一郎はさっと何かを振り払うようにかぶりを振った。やはり疲れているのかもしれない。考えないようにしていたのに、ふとした気の緩みでついいつもの悪い癖が出てしまう。
  勝手にいなくなった妹の事など、いつまで気にしていても仕方ないではないか。
  光一郎が父親の事業を受け継ぎ、一族の経営する製薬会社を一手にまとめるようになったのは2年程前の事だ。生まれた時から行く道が定められていた事に全く不満がないと言えば嘘になったが、幸か不幸か光一郎にはその境遇に逆らってまでしたい事も特にはなかった。だから光一郎はその与えられたものを従順に受け入れ、更に周囲の期待以上の結果も出してきた。
  けれど心の中はいつでもどこか冷えていた。
  前社長である父親は商才はあったが、それ以外の事に関しては本当に最低の人間だったし、同じ血を分けた妹もその父親とやたら折り合いが悪く、先日遂に家を飛び出てそれきり行方不明になった。
  どいつもこいつも人に余計な心労しか掛けない。

  プルルルル……

「 ……ん」
  その時、不意に光一郎の手元にあった携帯電話が激しく震えた。
「 ………」
  ちろりとそれを見てから、光一郎は瞬時に眉をひそめた。ライトグリーンに光るその画面から1つの番号が見えた時はもう取りたくないとはっきり思った。しかしこちらを気にしたようにミラー越しに視線を寄越してきた藤堂の手前、光一郎は仕方なく傍のその物体に手を伸ばした。
「 ……ああ。ああ、そうか。分かった」
  嫌な予感を抱きながら取ったそれは、予想に違わずその「余計な心労」の1つに関しての結果が弾き出されたものだった。
「 ああ。それじゃ行方が分かり次第、また連絡をくれ」
「 どうされたんですか?」
  電源を切った後、ふうと思い切りため息をついた光一郎に藤堂が遠慮がちに訊いてきた。
  光一郎はそんな藤堂の方は見ずに再び窓の外へと視線をやると、やがてつまらなそうに答えた。
「 親父の愛人だった1人がこの街にいたらしいんだが、先月病気で死んだんだ。子どもがいて…ただ、そっちは身を寄せていた親戚の家から急に消えたらしい」
「 え?」
「 ……くそっ」
  大きく息を吐いた後、光一郎は忌々しげに舌打ちした。





  ツキトがアルバイトをしているオープンカフェは、朝方が一番忙しい。
  これから会社へと出勤する者、学校へ行く学生などが、それぞれここの人気メニューであるフレンチトーストとコーヒーを楽しんでいくからだ。
「 あと美味しいケーキやパスタなんかもメニューに増やせば、お昼時も同じくらい混むと思うのに」
「 や〜だよ。そんなに働いたら死んじゃうもん」
  カウンター席に座って頬杖をつく店の主はツキトのその発言を即却下した。お客が一通り引いてしんと静まり返っている店内を1人忙しく掃除しているツキトに対し、主である彼はのんびりとした様子で軽口を叩いた。
「 こういうまったりとした時間が好きなんだよ俺は。唯一の至福の時だね。だからツキトももっとゆったりしようよ。一緒にお茶しよう」
「 もう…修司さんはそればっかりなんだからなぁ。駄目です、給料分はちゃんと働かないと!」
「 ははっ。まったくツキトは日に日に雪ちゃんに似てくるな。毎朝会って移っただろ」
「 修司さんも少しは雪也さんを見習って下さいよ」
「 あれは見習うものじゃなくて、鑑賞するものだよ」
「 何ですかそれ」
「 ああいう可愛いのは真似してできるものじゃないって事。ツキトなら出来るんだろうけど」
「 修司さんって時々よく分からない事言うよね」
「 だからそういうところが素質あるっての」
「 ええ?」
  ツキトが困ったように苦笑して首をかしげるのを修司は尚もどことなくからかいの目で見ていたが、もうそれ以上は話す気がないのか何も発しようとしない。未だ20代前半の若い店主は気紛れでいい加減で、どことなく掴み所のない人物だった。それでも身元のはっきりしないツキトを快く雇ってくれた懐の大きさがツキトは大好きだったし、またその優しさに甘えてもいた。こんな人が自分の兄だったらどうだっただろうと思う事もある。
  それを口にした事はないけれど。
「 あ。来た」
「 え?」
  その時、ふと物思いに耽っていたツキトの耳に修司のぽつと呟いた声が飛び込んできた。
  はっとして、ツキトは手にしていたモップを持ち替え顔を上げた。
  それとほぼ同時。
  ガラン、と。
「 あっ…。い、いらっしゃい!」
  扉が開くと鳴る鈴の音は少し錆びた音がする。
  けれどもその音と同時にやってきた「常連客」を認めると、ツキトは途端ぱっと表情を明るくして声を上げた。
「 ………」
  そんなツキトに対して相手は機嫌が悪いのか無表情だった。スラリと背の高いその男は見たところ20代後半で、眉間に皺の寄った険しい雰囲気を差し引いても十分に整った容姿をしていた。
  男はその仏頂面をぶら下げたままいつもの自分の指定席―一番奥の窓際の席へと腰掛けた。手には昨日と同じ文庫本が握られていた。
「 いつものでいいんですよね」
  席にやって来てそう訊いたツキトに男は顔も上げず「ああ」とだけ答えた。
  男は朝の忙しい時間を越した今くらいの頃になると決まってフラリとやってきては同じ席で本を読む。時折何か書き物をしている事もあったが、基本的にはただ黙々と文字を追う作業に没頭しているようだった。
  ちなみに店の主である修司がこの男の顔を覚えたのはつい最近の事なのだが、どうやらツキトはもう随分と前からこの客に興味を抱いていたらしい。この客が来るとツキトの表情は明らかに変わる。修司もそれが面白くて男がやって来る音には敏感になった。ツキトがいつでも不機嫌そうなこの男の何を気に入っているのかは修司にも謎だったが、「何だか面白そうだ」とは思っていた。
「 修司さん、いつもの」
  そんな事を考えている修司の元にツキトが戻ってきて嬉々として言った。
「 カップは右側のあれね」
「 OK」
  修司の店ではコーヒーカップも客の好みの物を選ぶ事が出来る。男が選ぶカップはいつも同じで、ツキトはその陶器の事も既によく熟知していた。無論、それは修司もなのだが。
  カウンター席から立ちあがった修司が中へ入って男が好む銘柄の豆を挽き始めると、ツキトは今度は自分が修司の座っていた席に腰をおろし、何やらそわそわとし始めた。ちらちらとさり気なく背後の男の様子を窺っているようだったが、修司にしてみればそれは露骨も良いところだった。
「 タイプなの?」
「 え?」
  鎌を掛けるとツキトが慌てたように顔を向けてきた。
「 2枚目だもんな。しかもあの翳のある感じ…ああいうのが余計にイイんだろ」
「 なっ…。何言ってんの?」
「 とぼけても駄目だって。ホント、可愛いねえツキトは」
「 修司さん!」
「 はい、できた。持ってきな」
「 ……ったく!」
  真っ赤になりながら口を尖らすその仕草は小さな子どもそのままだった。こちらを振り切るように背を向けて男の元へ向かうそんなツキトの背中を眺めながら、修司はもうすぐハタチだと言うこの少年の出自はきっと良い所のお坊ちゃんなのだろうと思った。温室育ちだからああいうタイプに弱いのだ。酷い目に遭わなければ良いのだがなどと、普段ならしない心配までしてしまう。
「 お待たせしました」
  カウンターから離れた事であっという間に立ち直ったかのようなツキトの明るい声に修司は思い切り苦笑した。全く初々しい。普段他人にはあまり興味がないが、こういうのは好きだと思った。
「 はい、どうぞ。志井さん」
「 ……ありがとう」
  その時、ツキトのはきはきとした声と男の声とに修司はおやと思った。
  何だツキトはこの男の名前をもう知っているのか。
「 脈ありかな」 
  修司はちらとだけそう零し、再度ふっと口の端を上げた。




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