「ふんわりきらり」
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第30話 「 なーんて言うかねえ」 「 ……何ですか」 カウンターで頬杖をつきながらニヤニヤとした視線を向ける修司をツキトは実に嫌そうな表情と態度でかわそうとした。 「 いやいや。可愛い娘が嫁に行くのが悲しいだけだよ、俺は」 けれど修司はそう簡単にツキトを解放してやる気はないらしい。昼の混雑時を切り抜けて店内がまったりし始めたのを良い事に、彼はツキトへのからかいの手を一向に緩めようとしなかった。 「 だってさ。ツキト、もうすぐ寿退社だもん。これくらいのいじりは許されるでしょ〜。ね? 志井ツキト君」 「 そっ! そんな言い方止めて下さいっ!」 遊ばれているのが分かっているのに、ツキトもいちいちムキになって言い返すからいけない。修司の口から「志井」という単語が出るだけで赤面してしまうのも、カフェ店主の悪戯心の火に油を注ぐだけだった。 ただ、そんな修司とのやりとりもこれから暫くやれなくなると思うと寂しい気がするのも事実なわけで。 「 ならさー、志井さんに言ってよー。うちのバイトだけは続けさせてってさ」 「 え? 俺、今口に出して言いましたか?」 修司の台詞にツキトが驚いて目をぱちくりさせると、いつでも飄々とした不敵マスターは涼しい顔で「さあね」と知らばっくれ、ふいと横を向いてしまった。 「 も、もう…訳分からないなあ」 先だっての「事件」の夜、志井と二人きりになった後に自分がやらかしてしまった失態を思い出してツキトは仄かに顔を赤らめた。暴漢に襲われそうになった事と志井との気持ちで心が乱れていたせいもあるが、まさか心の奥底に眠る願望をああもぽんぽん口に出すとは自分で自分が信じられなかった。今でもあの時の事を思いだすと顔から火が出そうになる。志井は何でもない事のように「どんなツキトも可愛くて好きだよ」などと言って笑うが、ツキトとしては心穏やかではいられない。 勿論、あの事があったからこそ、志井とも深く結ばれる事が出来たわけだが。 「 そうだよ」 すると修司がまた突然口を開いた。 「 え?」 ツキトがぎくりとして慌てて顔を上げると、修司は未だツキトとは視線をあわせないどこか他所を向いた格好のまま続けた。 「 いつでもそうする必要があるわけじゃないけど。でも、ツキトみたいなのはたまにちゃんと自己主張もしなくちゃね。人同士なんて、言わなくちゃ分からない事ばっかりなんだから」 「 しゅ、修司さん…?」 今は絶対口に出して言っていない。 けれど修司は明らかにツキトが心の中で考えていた事を読んだようだ。すうっと青褪めた気持ちがしてカウンターの前で立ち竦んでしまうと、修司はようやく身体ごとそのツキトの方へ向き直って悪戯っぽく笑った。 「 そんな顔しないの。別に読まれて困る事考えてるわけじゃあるまいし」 「 な、何で…修司さん…?」 「 んー、何でって言われてもなあ。昔からそうだから答えようもないけど。でも時々いるよ、こういう人」 「 いや、そんな…そんなにはいないと思うんですけど…」 「 それより最近、雪也君とは会ってる? 面白い事になってるんだねえ」 「 え? あ…はあ、雪也さんとは毎朝お店を通る時に会ってますけど…って、それより修司さん…っ!」 「 見てよ、これ」 けれど修司はツキトの訊きたい事には答える気がないのか、ちょいとカウンター横に置かれていた小さな水差しを指差して目を細めた。細長いガラスのそれに飾られているのは一輪の赤いバラだ。流されるようにツキトもそれに目をやると、修司は「昨日ね」とのんびりとした口調で言った。 「 店閉めた後、久しぶりに雪也君のお店行ったらさ、これがあったんだよね。知ってる? これ、普通の花屋さんじゃなかなか手に入らない高価なバラなんだけど」 「 は、はあ…。雪也さんが毎日特注してたやつでしょ? 凄くお金持ちの人が毎朝買いに来てて」 「 ところが、今は逆らしい。その上客さんは花屋の雪ちゃんにこの花を毎日自分が特注してプレゼントしてるんだって」 「 ……はあ?」 「 しかも抱えるのも大変なほどの束でごっそりと! いやあ、傍迷惑な奴だよなあ、雪也君の家、今このバラで溢れ返っててさ、中見た? 一種別世界だよ。雪也君のイメージじゃないんだよなあ、あの華々しさはさあ」 「 そ、それは…知りませんでした。確かに雪也さん、会う度ちょっと疲れてるような感じはしたけど…」 ツキトはその原因を雪也の母親が起こした事件のせいだと思っていた。自分がその被害者だった事もあり、あまりその話を持ち出して雪也に辛い想いをさせたくもないと突っ込んだ質問が出来なかったが、そういえばあの出来事があったあたり、何やらやたらと目立った顔をした男が雪也の傍に張り付いていたような気がするが…。 「 あの調子じゃ、雪也君がツキトと同様寿退社する日も近いかもなあ」 「 え?」 さらりと発せられたその台詞にツキトがはっとすると、その修司はいつの間にか真っ直ぐの視線を向けてきていて、実に楽しそうな表情を浮かべていた。 「 あの薄幸少年も優しいお兄さんに保護されたみたいだし。まあめでたしめでたしかな?」 「 薄幸少年って…友之君の事ですか?」 「 この間ツキトがいない時、お兄さんとお礼に来たよー。ただ可愛いからパンケーキ一回奢っただけなのにね。律儀」 「 はあ」 あの事件直後、友之とその兄を名乗る北川光一郎という人物とは警察でも何度か顔を合わせたし、それ以外でも彼らはツキトと志井の所へ挨拶にも来た。ツキト自身は友之に別段何をしてあげたという記憶もないのに、確かに律儀と言えば律儀なのかもしれない。未だオドオドとした様子の友之が、それでも突然現れた兄とやらの存在に依存しているように見えたあの姿が脳裏に宿る。 「 ……あ。来た」 けれどその時、不意に修司が顔を上げてすっとぼけた声を出した。 「 え?」 ツキトがそれに合わせるように顔を上げると、同時店の扉がガラランという鈴の音と共に開いて、外から志井が入ってくるのが見えた。 「 志井さん!」 「 新妻の帰りが遅いから心配して迎えにきたのかな?」 修司が志井には聞こえないくらいの小声でそう呟いた。ツキトはそれに文句を言いたかったが、自分の顔を見つけるなりほっとしたような顔を見せる志井を認めるともうそちらに意識が集中してしまって抗議を上げる暇はなかった。 ツキトは修司の事や雪也、それに友之達へと次々巡らせていた思考をそこで完全にストップさせた。こうなってしまうとツキトはもう志井しか見えない。「薬」の効果が切れたとしても、ツキトが志井に対して夢中な気持ちは全く色褪せる事なく、むしろ強くなっていく一方だったから。 一方、修司が言う「華々しい部屋」に囲まれた雪也は、確かにツキトが感じていた通り少々お疲れ気味であった。 「 たまには店も休んだらいいのに」 相変わらず不精をして隣家の二階からそう声を掛ける創に雪也は店先に立ったまま緩く首を振った。 「 忙しくしてる方がいいから」 「 貧乏性だな」 窓枠に両肘をついていた創はやや呆れた様子を示した後、遠くを見やるようにしてから何気なく続けた。 「 お母さんの事も北川さん達のお陰でそれほど悪い方に行きそうもないんだし。君が自分を責める必要はないんだからな」 「 創はそればっかりだね」 「 君の頭がほぼそればっかりだからさ」 創はすかさず言い返して、自分の位置からは見えないというのに店内を窺いみるように首をかしげた。 「 それとも、実は例の事にどう対処して良いか分からないから、敢えて他の事を考えるようにしているのかな?」 「 そ…そんな事はないけどっ。でも、前から思ってたけど、創ってどうして俺が心配したり悩んだりしてる事が分かるのかな。人の心読むのが上手いよね。修司さんもだけど」 「 俺達は香坂のご子息ほど強烈じゃないけどね」 「 え?」 「 別に。それより例の彼は今朝も来たの? いい加減はっきり言った方がいいよ、迷惑だって。幾ら何でもあの部屋は酷い。匂いとかきつくないか?」 「 あの品種はそれほどきつい香りは出さないよ。た、ただ…確かに、部屋にはもう飾りきれないというか…」 「 君が言いにくいなら俺が言ってあげるけど」 「 い、いいよっ。それより創、滅多な事は言わない方が…」 「 何で?」 辺りを憚るようにきょろきょろと視線を彷徨わせる雪也を創は楽しそう目を細めて見下ろした。どうやら気づいていて話を振っているらしい。雪也は未だその嵐の存在に気づいていないようだが。 創はさり気なく店に接近してきているその「嵐」に目をやりながら、いよいよわざとらしい張りのある声で言った。 「 大体、花屋の君に毎朝花をプレゼントしに来るってどうなんだい? というか、何故彼は今朝来られなかったのかな?」 「 え? どうして今日はまだ来てないって知って…」 「 雪!」 雪也が不思議そうな顔をして創を見上げるのと、その「嵐」が到着して怒りの含んだ金切り声を上げたのとはほぼ同時だった。 「 あっ…。りょ、涼一、さん…」 「 何で知ってるかって? 彼が今来たからさ」 創はにっこりと笑ってそう答えた後、いらぬ火の粉を浴びたくないとばかりに「それじゃあね」と身体を浮かし、窓を閉めてしまった。逃げるようにその場からいなくなった創に雪也が唖然として視線を上げたままにしていると、それを妨害するように涼一による怒りの第二陣が降ってきた。 「 雪っ。あいつ、また雪にちょっかい出して…! 何を話してたんだよ!?」 「 えっ…? いえ…そんな、大した話は…」 「 嘘つけ! 今俺の話してただろ!? 迷惑とか何とか…! 雪は花屋だからこそ、花のプレゼントなんてそんな貰えないだろうし、俺は雪が喜ぶと思ってやってるのに! 雪、迷惑なのか!? 違うよな、あいつが勝手にそう言ってるだけだよな!?」 「 め、迷惑なんかじゃありません。ただ声をもうちょっと小さく…」 「 良かった、迷惑じゃないんだな!? 良かった!」 雪也のオロオロとした言葉は半分しか…というか、自分の都合の良い部分しか聞かず、涼一は全く落ちない声量のままぱっと笑顔を閃かせてほっと胸を撫で下ろした。 そうして「あの本屋め、覚えてろ」とドスの利いた声でぼそりと呟いた後は、もうまたキラキラとしたゴキゲンな顔で雪也に手にしていた花束をさっと差し出した。 それはあの事件の夜以降、涼一が雪也に毎朝欠かさず贈っているバラの花だ。これまでは自分が雪也に毎日注文していた特別な品種のもの。今日だけは仕事の都合で朝方来られないと馬鹿丁寧に連絡が来たが、それでも時間が空いたら必ず来るからと言っていて、本当に来た。忙しいのならこんな昼間にわざわざやって来なくても良いのにと雪也は心密かに思ってしまう。しかも大仰な車で店の前に乗り付けたら雪也が迷惑するからと下手なところでは気を遣い、途中から徒歩でやって来ている。ただでさえ派手な容貌の涼一がこんな大きなバラの花束を抱えてやって来る様は、それだけで却って人目を引いてしまうのに。 「 はい、雪! 今日も綺麗だろ?」 「 あ、ありがとうございます…」 それでもこんなに嬉々とした顔で花束を渡してくる涼一を雪也はどうしても無碍に出来ない。それにやっぱり嬉しい。強烈過ぎる好意に面食らっている事は確かだけれど、毎日されるそれに雪也が拒絶しないのは間違いなくそれを嬉しいと感じているからだ。 「 まあ、勿論この花より雪の方が何百倍も綺麗だけどな!」 「 ………」 もっとも、毎日紡がれる恥ずかしい台詞の数々にはやはり何と答えて良いのか分からないのだが。 「 あの…涼一さん、お仕事の方は大丈夫なんですか」 「 うん。雪見ないと逆に仕事にならないから。飯いらないから雪を拝ませろって言って出て来た」 「 そ、そんな…食事はきちんと取って下さい」 花束を胸に抱えたまま雪也はすっかり途惑って言い淀んだ。それでも母との事、そのせいで大事な友人であるツキトや創や、それに友之達に迷惑を掛けてしまったという自責の念をいつでも重く背負い過ぎないで済んでいるのは、間違いなくこの涼一のお陰だった。 毎日毎日「好き」と言ってくれる。昨夜突然「遊びに来た」と言った修司は、「よくもまあ、あんな尋常でない強いオーラに当てられて平気でいられるねえ」などと訳の分からない台詞で雪也に感心していたが。 「 涼一さん…。あの、すぐに準備しますから食事召し上がって行かれませんか?」 「 えっ!? いいのか!?」 「 簡単なものしか作れないですけど」 「 食べる! いる! 絶対あがるー!」 「 ふ…」 いよいよ嬉しさの上限を超えたような涼一の顔に、雪也は思わず笑みを零した。何だか日々自分もこの人の気持ちに合わせるようにこの人を想い始めている気がする。好きだと…感じ始めている。 それを口に出して言うのは、まだまだ照れくさいけれど。 「 元気が出るように栄養のある物作りますね」 「 雪の作るもんなら何でもエネルギー全開だよっ!!」 言いながら自分よりも先に部屋の中へとあがっていく涼一に雪也は再度薄っすら微笑んだ。どうせなら少し多めに作ってお土産にしてもらおう、そんな事まで考えつつ、雪也は大振りのバラを抱えながら涼一の後を追った。 友之が数馬や拡が通っている学校へ入れるよう特別にはからったのは勿論現在の保護者である光一郎だが、それに見合った学力が伴わなければ学校へ行けたとしてもその授業は苦痛以外の何物でもない。学校では拡が嬉々として手取り足取り面倒を見ると豪語しているが、時折数馬が気紛れにそれの邪魔をしてくるので、友之は学校が終わった後も屋敷で勉強を続けなければならなかった。 もっともそれが嫌だと思った事はない。特に今日のように光一郎が傍にいて教えてくれる時などは。 「 お前は優秀な生徒だな」 それが本心なのか友之をやる気にさせる為の方便なのかはともかくとして。 一生懸命机に向かい、問題の数式を書きなぐる友之の事を光一郎は1度たりとも叱ったり罵倒したりした事がなかった。間違っても答えを導き出すのがどんなに遅くとも、光一郎の教え方はその解き方のどこに問題があるのかといった事や、解法の糸口を見つける為にはまずどこから考えていくべきかなど、重要なポイントだけを簡潔に示唆してくれる。そして友之がその通りにして問題を解くと、必ず「偉い」という風に頭を撫でてくれた。 友之はその瞬間がとても好きだった。 「 次のこれもやる」 「 帰ってきてから1度も休んでないけど、疲れてないのか?」 「 うん」 学校も楽しいし勉強も好きだ。それに何より自分にそんな環境を与えてくれた光一郎の傍にいられる今が好きだ。だからそれを少しでも引き延ばしたい。買ったばかりの真新しいノートをもう大分皺くちゃにしてしまいながら、友之は熱心にペンを走らせ、次々と現れる問題と格闘した。 光一郎から「お前は俺の弟なんだ」と言われた時、俄かにはその事実を信じる事が出来なかった友之である。実際自分たちは全く似ていないし、この異世界空間のような豪奢な屋敷は、今まで友之が認識してきたどの「家」ともまるで似通っていなかった。もともと父はいない、兄姉の存在など考えた事もない…そんな友之にとって、光一郎の突然の申し出…「ここに住め」という言葉は、さすがにすぐ受け入れるのは難しいと感じていた。 それなのに、何故かあの夜以降。友之の光一郎の傍にいたいという気持ちは日に日に増しており、それに乗じてますます自分に対して甘く優しくなる光一郎に、友之は信じられない程の近しさを感じていた。 大好きだと思っていた。 「 そういえば友之。数馬君達が言っていたルームシェアの話は断ったのか」 その時、突然光一郎が思い出したようにそう言った。友之が驚いて顔を上げると、光一郎は「数馬君から電話が来た」と言い、どこか困ったように笑った。 「 まあ確かに、あの学校はここから通うには少し通いしな。時間が勿体無いというならそうしても構わないんだぞ? 金の事は心配しなくていいし、お前も早く学校に慣れたいだろうし」 「 ……嫌だ」 「 ん…」 「 藤堂さん…毎朝送らされて、迷惑って言ってる…?」 「 まさか」 今や光一郎ではなく友之の専属ドライバーとなった藤堂は、以前にも増してきりきりと働き、友之を毎日送り迎えする事もとても喜んでやっているようだ。気のいいドライバーが誤解されてはまずいと思ったのか、光一郎は友之の頭を撫でながら嗜めるように言った。 「 あいつの性格はもう分かっているだろう? 誰も迷惑だなんて思っていない。勿論、俺だってお前が嫌じゃないならここから通わせたい」 「 なら…ここにいる」 「 ……そうか」 「 うん。ここにいる。それで……」 言いかけて友之は困ったように口を噤んだ。言って良いのかどうか悩んでいるような様子だ。光一郎はそんな「弟」の姿をまじまじと見やった後、俯く相手の額にそっとキスをした。今ではすっかり恒例と化しているそれは光一郎にとって親愛の情から発しているものなのか、それとも別の感情によるものか。 「 ……コウ兄?」 けれどそれを考える間もなく、友之としては光一郎にそうされるとカッカと顔も全身も熱くなってしまってそれどころではない。額にそっと手を当てながら光一郎を呼ぶと、友之はその熱を誤魔化すようにぎゅっと抱きついて自らの顔を擦り付けた。それが友之の方の光一郎に対する恒例リアクションなのだ。 「 お前にはここで俺の帰りを待っていて欲しい」 やがて光一郎がそんな友之の背を撫でながら言った。友之がそう言った光一郎を驚いたように見やると、光一郎はやや途惑ったような顔をしつつもしっかりと目を合わせて繰り返した。 「 お前がそうしてくれるならな…俺もここへ帰ってくるのが嬉しくなる。ここが俺の戻るべき場所なんだと思えるんだよ」 「 戻るべき場所…?」 「 ああ」 頷いて光一郎はもう一度友之の額にキスをした。前髪を掻き揚げられて晒されたその場所がすっと涼しくなったが、光一郎に触れられた場所だけはやっぱりじんじんと熱かった。 「 ……うん」 けれど友之はややあってからしっかと頷くと、ふわりと小さく笑って見せた。本当は自分からそう言いたかったのだ。ここにいて、この家で光一郎を待っていてもいいか、と。そう訊いてみたかったから。 「 どうして分かったの?」 「 ん…?」 「 ……何でもない」 けれど当の光一郎の方は分かっていないようだ。未だ自分に抱きついたままの友之を撫でなが目を細めている。嬉しそうに笑った友之をどこか眩しそうな面持ちで眺めている。 「 コウ兄…」 だから友之はもう一度笑った。自分もとても嬉しかった。それは言葉に出来ない、胸の奥底からどんどんと湧き出てくる例えようのない温かくて穏やかな感情だった。 友之はそれが己の全身から溢れ出してくるように感じながらすっと目を閉じた。あともう少しだけこうしていよう、こうしていたい。その願いを光一郎に伝えるように、友之は抱きつく腕に再度ぎゅっと力を込めた。 何て素敵で幸せな時間。それは何にも代え難い大切で愛しい時間だった。 |
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