「ふんわりきらり」


第29話



  普段ならばどこぞの裏道で丸くなって眠っている時間だ。
「 ………」
  けれども友之は未だばっちりと目が冴えた状態で、藤堂の運転で屋敷に帰った後も光一郎にくっついたまま離れなかった。何が何やら分からぬうちに事態がくるくると動いている感じだけはしていたが、自分の身体をしっかりと抱きとめてくれている光一郎の声がもう大丈夫だと言ってくれたから安心できた。ツキトも無事だったし、友之を誘拐した「悪い奴ら」も捕まった。それに光一郎の話では数馬の無事もちゃんと確認できているらしい。あの公園に至る道で出会った青年は数馬の兄という事で、ずっと家出をしていた弟を探していたのだという。数馬の家の事情は分からないけれど、家族が迎えに来てくれたのなら心配はいらないのかなと思えた。
「 友之…電話だ」
  それに、友之がそれでも尚心のどこかで未だ数馬の事を気に掛けていると、まるでそれを知っていたかのように数馬本人から電話が掛かってきた。光一郎が差し出してきた受話器をまじまじと目にした友之は、やがて自分の座っているソファからそれを取った。
「 ……数馬?」
『 あー、うん』
「 数馬」
  ほっとして再度その名前を呼ぶと、数馬の方は再び「あー、うん」という訳の分からない返事をした後、「眠い」と呟いた。
『 今日はとんでもない一日だったなあ。トモ君もそうでしょ』
「 ……僕は大丈夫」
『 あー、そうだよね。そんなおっきいうちの子になるんだもんね。うん、安心だ安心だ』
「 数馬?」
  数馬の言う事は今イチ相手に伝える気がないようなものが多い。ましてや友之にとって彼の素早く出る言葉をいちいち理解しようとするのは大変である。途惑ったように目の前に立つ光一郎に目をやると、2人の会話が分からない彼は当然の事ながら不思議そうに首をかしげた。
『 あのねえ、トモ君。キミ、今ボクの事心配してたでしょ? だから電話したんだけど』
  数馬が言った。
「 うん」
  友之がそれに肯定の意思を示すと、数馬は「そうでしょ」と予想が当たったのにちっとも嬉しそうでない声を出し、後を続けた。
『 ボクはさ、魔法使いだから。色々な人の考えが読めたりするんだけど、そんな力は要らなかったわけ。鬱陶しいじゃない、人の考えが読めるなんて』
「 凄い事だと…思うけど」
『 みんなそう言うけどね。実際あったらうざいもんだよ』
  でもねえ、と数馬は何事か考える風に間延びした言い方をした後、ふっとため息をついた。
『 今夜ね、この街でボクの力のキャパを超えちゃうくらいの感情を他人にぶつける人に会ってさー。あ、そもそもその人に会う為にボクはここへ来たんだけどね。…そういう妙なものを持っているのは、たとえばキミを誘拐したような悪者かと思ってたんだけど…本当に壮大な力を持ってるのは邪念とか憎悪とか、そういうものじゃないんだなって分かったわけ』
「 ………」
『 あー、分かろうとしなくていいよ。ボクはただキミに報告してるだけ。何か心配してくれたみたいだからさ』
  責任としてね、などと偉そうに言い放ってから数馬はここで初めてからからと笑った。
  数馬らしい不敵な笑みで、友之もそれでようやくほっと肩の力を抜いた。
『 それでさー、そういう人間の凄いとこが分かったら、ほんのちょっとだけどボクの望み通り力が弱まったみたいなんだよ。……興味ない他人に関してだけは』
「 他人…?」
『 うん、そう。でも、気になるキミの事になったら、前よりもっと敏感になっちゃったみたい。だから離れてても、キミがボクの事考えてるの分かったし』
「 数馬…?」
『 これってさあ、良くなったのか余計まずい事になったのか分かりにくいよねえ』
  ちっともまずい事になったという感じではないが、それでも数馬は明らかに困惑はしているらしい。そうして、どうやら隣には兄の和樹がいるらしく、彼に傍からいちいち茶々を入れられているようなのだが、数馬はそれには「煩いなあ」と心底邪魔だというオーラを発していた。
  それくらいの事なら友之にも分かった。
『 ……ま、そういう事だから』
  何が「そういう事」なのか分からないまま数馬が言った。
『 そこのお兄さんにも言っておいて。これからもさ、いや、これからかな? トモ君とどんどん仲良くなっていくと思うから、よろしくお願いしますって』
「 何で…? よろしくって言うの…?」
『 えー、だってこれからキミの保護者になる人でしょ、その人』
「 ………」
  そんな事は知らないし、あるわけはない。友之がそれを言おうと口を開きかけた時、しかし数馬の方は用が済んだからなのか、もう疲れたからと言うと一方的にさよならを言って早々に電話を切ってしまった。
「 数……?」
  切られた事も分からずボー然としている友之に、ようやく光一郎が「話、終わったのか?」と話し掛けてきた。
「 ……あの」
  友之が分からないという風に困惑して受話器を握り締めていると、光一郎は少しだけ苦笑した後、さっと電話を受け取った。
「 まあ積もる話はまた明日以降にすればいい。今日は疲れただろう? もう眠るといい」
「 ………」
「 部屋は暖かくするよう言っておいたからな」
  部屋の入口を顧みるようにして光一郎はそう言った。どうやら友之に先ほど宛がった部屋へ行くよう促しているらしい。確かにもう遅い時間だ。友之も本当は数馬同様くたくたで、身体は明らかに睡眠を欲していた。
「 ……っ」
  それでも友之はソファの上に両足を抱えて座ったまま微動だにする事ができなかった。というよりも、動きたくなかった。もともとここは見知らぬ家で友之の自由になるものは何もない。そのような空間の中で唯一頼れる者といえばあの暗闇の恐怖から自分を助けてくれた光一郎だけで、出来れば光一郎から離れたくはなかった。
  おかしな話だ。光一郎も所詮は自分にとって他人で、今夜はともかくとしても明日にはまたさよならしなくてはならない相手なのに。
  数馬は「ここの子になるんでしょ」などと言っていたが。
「 友之」
  まるで動こうとしない友之に電話を置いてきた光一郎が再びやってきておもむろに隣に座った。急に近くなった距離に友之が反射的に驚いて身体を揺らすと、相手はそれを怯えと受け取ったのか、「心配するな」と言った後、宥めるように小さく笑った。
  その光一郎の微笑を友之は不思議な想いで見つめた。
「 眠りたくないのか?」
「 ………」
  何と答えて良いか分からずに友之が微かに首を斜めに動かすと、光一郎はふっと視線を外して天井を眺め、ソファに背をもたげかけてふっと息を吐いた。
「 ここは一応俺の家なんだけどな…。実は俺も…すぐに眠れた試しがないんだ」
「 ……?」
  友之は黙ったまま光一郎の横顔を眺め続けた。確かに凄く疲れた風なのに、光一郎からは「眠たそう」という雰囲気は感じられなかった。
「 お前はお前で苦労してきたのかもしれないが、俺は俺であの親父や妹に振り回されて色々大変だったんだぞ? ……だから、突然お前みたいな奴がいたと分かっても、正直俺にはどうして良いか分からない」
「 ……僕?」
「 そうだ」
「 僕……何……?」
「 お前は俺の……」
  光一郎がようやく顔を向けて友之を見やった。けれど友之がずっと自分を見ていたと知ると不意に口篭ったようになり、光一郎はらしくもなく後の言葉を消して視線を逸らしてしまった。
「………」
  友之はそんな光一郎を更に不審に思ってよりまじまじとした視線を向けてしまったのだけれど、そんな自分がいつもと違う事には全く気づいていなかった。普段ならばこんな風に今日会ったばかりの人間をじろじろと見たり、こんなに近くにいて窮屈に思わないなどという事もない。
  離れていたくないなどと考える事も絶対にない。
「 母親…どんな人だった」
  その時、突然光一郎がそんな事を訊いてきた。友之が驚いてびくりと肩を揺らすと、光一郎は途端眉をひそめて「訊いて悪かったか?」と申し訳なさそうな声を出した。
「 あ…ちが…」
  友之はそれには慌てて首を振ったが、正直どう答えて良いかは分からなかった。大好きな母親が亡くなってから、こんな風に母の事を訊ねてくれた人はいなかった。親戚でさえ母と友之を厄介者扱いで、母が死んだ時はむしろせいせいしたという風だったのだ。友之だけが残った事には勿論悪態もついたけれど。
  不意に忘れていた寂しさや胸の痛みが蘇ってきたような気がした。
「 別に、思い出したくないなら…」
「 違う」
  けれど再度気遣う風にそう言いかけた光一郎には、友之はきっぱりと答えてさっと顔を上げた。その強い眼差しに光一郎が驚いた事にも気づかず、友之は「僕の母さん…」とゆっくりと唇を開き、言った。
「 母さん…凄く優しかった…。全然怒らなくて、いつも笑ってて。それに、いつも僕に『大丈夫?』って訊くんだ」
「 大丈夫…?」
「 うん」
  光一郎を必死に見やりながら友之は続けた。
「 自分の心配全然しない。いつも僕の事とか周りの事ばかり気にしてる。苦しくても無理に笑ってたし、だから身体悪くしてても最後まで隠そうとしてたし…。僕、それに気づかなくて…」
「 ………」
「 母さんがこの街に戻りたいって言った時…気づけば良かった。だって、母さんが自分からこうしたいとか言ったの、それが初めてだった。おかしいなって思ったのに、お母さんが…具合悪いの…僕、ずっと気づかなくて…」
「 友之」
「 急に…し…死ん、じゃったから…」
「 友之。……悪かった」
「 僕……独りに…っ」
  あまりに急な事だったし、毎日を生きるので必死だったからまともに涙などを出している余裕もなかった。
  思えば友之にはまっとうな人間としての感情というものが明らかに欠落してしまっていた。そう、母を亡くしたあの時から。親戚に邪魔者扱いされた時も、そんな場所に帰りづらくて街の裏路地に身を潜めて丸くなって寝た時も、花屋の青年に優しげな微笑を向けられた時も。友之は悲しいとか寂しいとか…そして嬉しいとかいう思いを表に出す事が出来なくなっていたのだ。
  だからあの3人組に突然拘束された時とて、恐怖で泣く事もなかった。途中で放り出されて気絶し、数馬に蹴られて起こされた時も、「まだ生きてる」くらいに思った程度だ。
  数馬は人の感情が見えて鬱陶しいと言ったけれど、友之は人の感情どころか自分の感情すら見えていない状態だった。流れ流され、ただ息を吸っていただけ。
  母の事を思い出す事も意図的に避けていた。きっとそうしなければ呼吸する事自体を止めてしまうという危機感が己の中に潜在していたのだろう。
「 う…っ」
  それなのにおかしかった。
  光一郎に向かって、光一郎に見つめられながら母の事をちらと喋っただけなのに、友之は今までの乾いた気持ちが嘘のようにどっと悲しいとか寂しいとかいう感情を沸きたたせて、知らず涙を零してしまっていた。光一郎が「悪かった」と言いながら腕を差し出し優しく抱きとめてくれた事を嬉しいと感じた。その温かい懐に潜っていると、いつまでもここに留まっていたい、この人に甘えていたいという子どものような気持ちがむくむくと生じてきていた。
  そんな事許されるわけもないのに。
「 友之。大丈夫だ」
  けれどその時光一郎がそう言った。両腕でぎゅうっと強く包むようにして髪の毛に唇を当ててきた光一郎は、嗚咽を漏らす友之にもよく聞こえるように強い口調で繰り返した。
「 もう大丈夫だ。もう独りじゃない」
「 ……何で?」
「 俺がいるからだ。俺とお前は家族なんだ。今日からお前はここで俺と一緒に暮らすんだ」
「 ………家族?」
  顔を上げて泣き腫らした目を向けると、たった今「家族」という言葉を紡いだ光一郎は友之に見つめられ一瞬だけ何か躊躇したような顔を見せた。
「 ……心配するな」
  けれどもすぐに立ち直ったような顔になると、言い聞かせるように友之の頭をゆっくりと撫で、顔を近づけて繰り返した。
「 急な話で信じられないかもしれないが…本当の事だ。お前は俺の弟なんだ。だから…ここにいろ。俺は…本当はお前にそんないいもんを与えてやれるような男じゃないけどな…。けど、努力はする。お前みたいな奴と一緒にいれば、俺も変われるような気がするから」
「 ………」
「 友之は嫌か? 俺とここで暮らす事」
「 ここに…?」
「 そうだ」
「 ………」
  はっきりと頷く光一郎に友之はすぐには答えられなかった。何故光一郎がこんな話を自分にしてくるのかが分からないから答えようがない。
  それでも「家族」という言葉、光一郎の「大丈夫だ」と言いながら撫でてくれる温かい手のひらに抗う事は、今の友之にはとても出来なかった。

  ここにいてもいいのかと訊いてみたい。
  本当は、さっきからずっと一時も離れていたくないと思っていたのだと。これはどうしてなのかと、訊いてみたい。

「 ……っ」
  けれど、言えない。
  友之は困ったように視線をあちこちにやり、最後には光一郎の腕をただ力なくぎゅっと掴んだ。
「 …お前が困るのも当然だな」
  光一郎はそんな友之の態度に納得したようになると、もう一度くしゃりと友之の髪の毛をまさぐり、それから「もう寝ろ」と再び先刻の台詞を繰り返した。けれど、直後すっと離れてしまったその身体に友之は「あ」となり、それを惜しむようにくしゃりと顔を歪めた。離れたくない、あの大き過ぎる部屋に独りで行きたくない…。
  けれど、言えない。
「 ん…。何だこれ」
「 ……?」
  ただその時、不意に視線を逸らした光一郎がふと何かに気づいたようになって不審の声を上げた。友之もそれに気を逸らして同じように視線をやると、ソファの前にあるテーブルの上には、一体先ほどからここにあったのだろか? 小さな薬瓶がちょこんと一つ置いてあった。
「 ……ああ、香坂さんが置いていったビタミン剤か」
  ややあってから光一郎が思い出したように声を出した。友之がまだ理解できないという顔をしていると、光一郎は「お前の友達のお父さんたちが作ったっていう魔法の薬だとさ」とふざけたように説明した。
「 魔法の…」
「 まあ、怪しいものじゃないと思うけどな…。しかし何だってここに…?」
「 魔法の…」
「 欲しいか? 欲しいならやるぞ」
「 ……うん」
  何故か猛烈にそれに惹きつけられて、友之は光一郎の言葉を受け取るとすぐに頷いて同時にそれに手を伸ばした。どうしてか分からないが飲みたくて飲みたくて仕方がない。まるでその薬瓶そのものに誘われているようだった。
「 ……? おかしな奴だな、そんなにそういうのが珍しいのか」
  光一郎は面白いものでも見るように友之を見やったが、「なら水を持ってきてやる」と立ち上がると水瓶を取る為友之から離れた。
「 あ」
  離れて欲しくないのに。
  咄嗟にそう思ったその直後だ……友之は自分でも訳が分からないうちに手を動かし、持っていた薬瓶からじゃらりと取り出した大量の丸い錠剤をぽいと全て口の中へ放り込んだ。
「 お、おい…?」
  その突拍子もない行動に何気なく振り返った光一郎が意表をつかれた顔をして動きを止める。しかし友之自身も何が起きたのかは理解できなかった。何故急にこんな真似をしてしまったのか。
「 ………こ」
  けれど友之は暫くしてからひっくと一つしゃっくりをした。
「 友之?」
「 ……光一郎、さん」
  そして何が起きたのか分からずボー然とする光一郎を見上げると、友之はじわじわとこみ上げてきた気持ちそのままを洪水のように口にしていた。
  離れないでとか、一緒にいたいとか、独りで眠るのはもう嫌だ、とか……。
「 と、友……」
  「それらの発言」のいちいちに金縛りにあったかのような光一郎にも、友之はもう構う事が出来なかった。自分自身何を言っているのか分からなくなるくらいに、その「欲求」には限度がなかったのだ。友之がこれまで必死に抑えてきた我がままや甘えや今までの鬱屈が全て吐き出されている感じだった。



  その夜、友之が発しまくった「マシンガントーク」を聞いた者は光一郎唯一人であったのだが。
  結局、光一郎と友之の2人がこの時の話を誰にもしようとしなかったので、「お喋りな友之」の姿は永遠に二人だけの秘密になったのだった。




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