宴のあとで…


  ヒートアップしていた涼一が藤堂を蹴り終わり、ようやく人心地ついたのが午前0時。パーティ会場からも人が引け、閑散としたホテルには涼一と雪也だけが残された。
「涼一、部屋取ってたんだ…?」
「うん。そのまま泊まった方が楽じゃん」
「それはそうだけど……」
  手を引かれるままに連れて来られたのは、ホテル最上階に位置する超高級スイートルーム。チカチカする照明に豪奢な家具、ミニダイニングバーにジャグジー、キングサイズのダブルベッドなどなど、それらはどれも映画でしか目にした事のない代物ばかりだ。
「こ、ここ…お金って…」
「大丈夫。俺んち金持ちだから」
  着ていたジャケットを鬱陶しそうに脱ぎ捨ててから、涼一はおもむろに雪也に近づくと素早く口づけをしてきた。
「ん…涼…っ」
「…っと。何だよ!?」
  しかし、唇が触れあったのは僅か約0,5秒。
  雪也が逃げるように顔を逸らし抵抗の意を示したので、涼一はすっかりむくれてしまった。
「何!? 今夜は邪魔者もいないし、雪だってこうなる事は分かってて来ただろ? なのに何で嫌がるんだよ! ……ただでさえ今夜はあのクソ藤堂のせいでムカつきが治まんねーってのに…!」
「ご、ごめん…。でも、だって! き、気になるんだよ…っ」
「何が」
「お金のこと」
「はあぁ? だからそれは―」
  けれど涼一がその「お決まりの台詞」を吐こうとした瞬間、雪也はさっと片手でその口を塞ぎ、困ったような顔を向けた。
「涼一の家がお金持ちだって事は前から聞いてる。……でも、家族の事はあまり聞いた事ない」
「……何? 気になるってそのこと?」
  自分を押さえていた手を遠慮がちに解きながら涼一が訊ねると、そうされた雪也も素直にこくんと頷いた。
  それから2人は何ともなしに中央のソファに腰を下ろし、互いに見つめあった。
  涼一よりも先に口を開いたのは雪也だ。
「あまり…折り合い良くないって言ってただろ…。なのにこんな風にお金借りて、本当に平気なの?」
「いいんだよ。だって俺の金だし」
「え?」
「俺、大学出たら家がやってる会社手伝うの決定してるんだよ。今、好きにさせてもらってる金は、つまり言ってみれば給料の前借みたいなもの。働き始めたら当分こんな呑気に遊べないだろうしさ。ま、仮初めの自由ってところかな」
「………」
「この話、俺らが就活の時期になったらもっとちゃんと言うつもりだった。今言うのは、さ…。だって雪は雪でまだ色々いっぱいいっぱいみたいだし。俺だってあんま家の仕事の事考えたくなかったし」
「………」
「でもこの際だから言っておくけど、俺、雪にも俺んとこ来てもらうから」
「………え?」
  暫しの間の後、雪也は涼一の言葉にぽかんとして目を見開いた。
  涼一はそんな雪也のリアクションなどとうに予測していたのだろう、別段驚いた顔も怒った様子も見せず軽く肩を竦めた。
「言った通りの意味だけど? 雪にも俺んとこの会社来てもらうって言ってんの。俺ねー、たぶん、将来はそこのトップになるからさ。雪はそれ手伝って」
「あの…涼一?」
  雪也にしてみれば「涼一は何を突拍子もない事を言っているのだろう」というところなのだが、当の涼一にしてみればこれは本気も本気、大真面目な話のようだ。ただし雪也の途惑いもやはり承知の上なのか、涼一はすぐに不安そうにしている雪也の頭を「良い子良い子」などと撫で付けて、安心させるように穏やかな表情をして見せた。
「大〜丈夫だって。何も難しい事ないし、俺がついてるんだから。それにさ、大体雪しかいないだろ。俺のストッパーやれるのなんて」
「あの、でも、いきなり……」
「だって雪って大学卒業したら何か決めてる事あんの? 別にないだろ。前、特に将来の夢ないって言ってたじゃん」
「それは…」
  確かに雪也はその先の将来の事などあまり詳しく考えてはいない。けれど、夢がないと涼一に言っていたのは割と前の話で、今はそれなりにやろうかなと思っている事くらいあった。
「俺……一応……。卒業したら、母さんの仕事手伝おうと思ってて」
  たぶん、涼一は怒るだろうと思っていたので雪也は相手が沈黙するのは了承済みとして、俯いたまま話を続けた。
「涼一も知ってると思うけど、母さんの会社、外国雑貨の卸売りやってるだろ? 創がああいうアンティークなもの好きらしくて、この間一緒にうちのカタログ見ながら話してて実感したんだ。俺もああいう外国の民芸品とか…ううん、生活に密着した雑貨全般でも何でもいいんだけどさ、とにかくあっちの小物とかを扱う仕事って凄く楽しそうだなって。それで……」
「………」
「そ、それで……」
  まだ相手から何のリアクションもない事にいい加減不安を感じた雪也は、そろ〜りと俯けていた顔を上げてみた。
「えっ…?」
  けれど目の前には雪也が想像していたような般若だ鬼神だのといった恐ろしい顔をしている恋人の姿はどこにもなかった。
  涼一は至って「普通」の顔をして雪也の事を見つめていた。
「涼一…?」
  どうしたのだろう、雪也はそれによってますます不安な気持ちがして言い淀んだ。いつかは言わなければと思っていたが、この事を知ったら涼一は絶対に烈火の如く怒り狂って騒ぎまくって、「あのババアの会社だ!? 駄目だ駄目だ絶対駄目だーっ!!」と怒鳴ってむくれて、とにかく大変な事になるだろうと思っていたのだ。
  けれど涼一は特に驚いた風もなく、むしろ「あ、そうなんだ」というような顔で雪也の事を眺めているだけだ。
「えっと…。涼一、どうかした?」
「どうかしたって?」
「い、今の俺の話……聞いてた?」
「うん」
  あっさりと頷いてから、涼一は立ち上がると背後のミニバーへと歩いて行った。雪也が焦ったように振り返り視線だけで追うのも構わず、「何か飲むか」と依然平静としている。
「涼一…?」
「折角こういうところ来たんだし、雪もまだちょっとは飲めるだろ? 何する? シャンパンとかもいいのあるみたいだぞ?」
「お、俺…っ」
  そんな事はどうでも良いから、今の自分の発言に対する感想を言って欲しい。
  焦れた想いがして雪也はすっと眉をひそめた。
  おかしい。
  しかしそれは涼一の事ではなく、自分のこの「想い」が、だ。雪也は心の中で思い切り首をかしげた。
  涼一が怒らないのなら…別にこちらの進路に興味がないのなら、それはそれで構わないではないか。むしろほっと胸を撫で下ろしこそすれ、こんな風に「不満」な気持ちになる事はない。涼一が好きにさせてくれるというのだから、素直に喜べばいいのだ。
「………」
  けれど雪也はそう思えなかった。涼一が語ったプランをそのまま了承しない自分に何も思う事はないのだろうかと、ひたすら不審な想いがしたのだ。
「雪は甘いのの方がいいんだよな。俺もあわせるか。なあ、このピンクと白とどっちがいい?」
「……どっちも」
「え? どっちもかよ? はは、珍しい」
「どっちもいらない…っ」
「え?」
  ソファの布地だけを見つめて吐き捨てるように言った雪也に、涼一はきょとんとして動きを止めた。それからやや慌てたように何も持たずソファに戻ると、再び雪也の隣におさまって窺い見るような顔を向ける。
「どうしたんだよ。やっぱりもう飲むのきついか? まあ、確かに今日は色々あって疲れたしな。別に俺も無理にとは…」
「そうじゃなくて! どうして何も言わないんだよ!?」
「え?」
「え、じゃなくて!!」
  いよいよ何だか腹が立ってきて雪也はキッとした目を向けた。涼一はますます目を見開き、しかし「雪のそうやって怒る顔って何かいいな。可愛い」などと言って喜んでいる。
「りょ…」
  それで雪也も途端がくりと脱力して項垂れた。
  涼一は酔っているのだろうか? だからこんな風に態度がおかしいのかも。
「涼一こそ、疲れてるんじゃない…?」
  昂ぶった感情も何だかあっという間に萎んでしまい、雪也はふっと息を吐いた。
  するとそんな雪也の手を何となく取って唇を当てた涼一が不思議そうに言う。
「俺は大丈夫。だーってやっと2人きりになれたんだからな。今夜は雪を寝かさないっ!…ぐらいの勢いだぞ、俺は?」
「………」
「うっ…おい。ちょっとは照れたり困ったりとかっていつもの顔しろよー? テンション低いなあ、何で無気力なの?」
「こんなにもなるよ…。だって、涼一はてっきり反対すると思ったから…」
「え? ああ、さっきの話?」
「そうだよ」
  がばりと顔を上げて雪也はまじまじを涼一の顔を見やった。自分の手が未だに涼一に握られていて、好き勝手唇を寄せられている事にも、この時の雪也は構っていなかった。
「どうして何も言わないの?」
「言って欲しいの?」
「そりゃ…。これ聞いたら涼一どう思うかなって…本当はずっと心配してたから」
「へえ……。雪もちょっとは俺の反応気にしててくれたんだ?」
「え…そりゃ…そうだよ…」
「………」
「涼一?」
  途端すっと静かな気配になった涼一に雪也はぎくりとして動きを止めた。
  涼一の表情から笑顔が消えている。びくっとして手を引こうとしたが、しかしそれはとっくに涼一によって捕まれていて自由が利かない。
「りょ……」
「折角今夜はこんな部屋取ったし」
  涼一は言った。
「まあ? いつものパターンで怒鳴って押さえつけてじゃあ、芸がないかなと思っただけ。俺だって自分の感情抑える事くらい出来るよ。前から予測していた事を突きつけられたなら、尚更」
「前からって…?」
「雪があのババアの仕事手伝うって言い出すかもしれないなってのは前から思ってたよ。ババアとか創もそれとなく俺に言ってたし。まあ、雪にいきなり言われて俺が取り乱して雪が迷惑被るのを避ける為にさ、あいつらも気を遣ってたのかな」
「………」
  何だかいやに涼一が怖い。
  雪也はけれどそんな恋人から目を逸らせずにじっとした視線を向け続けた。
  涼一は酷く静かだった。
  そして言った。
「雪がさ、自分のしたい事とか希望を言うのは一向に構わないぜ。むしろそういう事考えられるようになって良かったって思うし」
「本当に?」
「そりゃそうだよ。俺、嬉しいよ」
  涼一はここで少しだけ表情を和らげ、ほっと力を抜いた雪也に優しげな目を向けた。
「駄目だけどね」
  けれども直後にその台詞。
「…………え?」
  ぽかんとする雪也に涼一は今度はにっこりと爽やかな笑みを向けて続けた。
「いや、え? じゃなくて。雪がババアの仕事手伝いたいって思うのは別にいいけど、実際にそれやるのは駄目ってこと」
「あの……」
「まあ、俺んとこの会社の説明をまだ雪には何もしてないし、いきなり来いって言われても困るの分かるから、それは追々な。教えていくから。でも、それ聞いたら雪は絶対俺と来るって言うと思うし、それで問題はなくなるわけだ」
「えっと…涼一?」
「だって大学卒業して雪と別々の仕事するなんて俺には考えられない。その間、ずっと会えないんだぜ? ありえないだろ」
「ありえ……」
「そう。だから雪が俺と来るのは絶対。あ、あとさ、卒業したら今度こそ一緒にどっか勤務地から近いとこに部屋借りて住もうな。俺としてはそんな広い所じゃなくてもいいかなって。立地条件良くて綺麗な所希望。部屋はむしろ少ない方がいいよなぁ、だって雪とずっと一緒にいたいもん、俺。むしろ部屋なんかイッコあればいいだろ?」
「ちょっと…涼一……」
「あーあ。どうせなら卒業と同時に結婚したいくらいなんだけど、俺は。日本じゃ駄目みたいだから、そのうち外国行くしかねえよな。あ、でも俺んとこの会社さ、欧州に支社結構あるし、修行と称して何年か向こう行くってのもありじゃねえ? そしたらババアだ創だ馬鹿うさぎだってのにかかずらわなくて済むし。康久のバカや藤堂の間抜けとも距離取れる! 雪と2人っきり!」
「………」
「でも向こう行ったら行ったで、露骨なエロ外人とかに雪が狙われたら大変だなあ。雪、白いし。可愛いし。美人だし。日本の大和撫子の代表みたいなもんだからなあ、ますますガードを厳しくしないと却って大変かもな」
  ぺらぺらと物凄い勢いでまくしたてる涼一に雪也がいよいよついていけなくなって目をくるくるとさせていた時。
「な、雪。だからさ」
  涼一はようやく一つ息を吐くとぴたりと言葉を止めて雪也を見やった。
  雪也がそれではっと我に返ると涼一は突然その両肩を押さえつけ、雪也の身体をソファに押し倒し言った。
「お前は俺から離れられない」
  流されるままにソファに押し倒されて手首を捕まれたままの雪也に涼一はニッと不敵な笑みを見せた。
「お前は俺から逃げられないよ」
「逃げ……」
「絶対」
「りょ……ん」
  いよいよ覆いかぶさってくるその影に雪也はゆっくりと目を閉じた。涼一の唇がそのままそっとおりてきて、自分のそれを捕らえてくる。
「ん…っ…」
「はい。口開いて」
  一度押し潰すだけのキスをした後、涼一はわざわざ一旦離れてからふざけたようにそう言った。雪也は薄っすらと瞼を開いた後、言われた事にそっと目元を赤く染めながらもそろりとその唇を開いた。
  涼一に優しく見つめられて、それはまるで催眠術に掛かったみたいだった。
「良い子」
  そうして涼一はそんな雪也に再度覆いかぶさると、先刻放った子どもに対するような台詞を呟き、後はそのまま喰らいつくような激しい口づけを雪也に施した。 




後編へつづく…