「 トモちゃん。友之。早く起きなさい」 「 ん…」 耳に心地が良い。 柔らかくて優しい、まるで音楽のような声だと思った。急かされているはずなのに、その声を聞いていると逆に「もう少しこのまま目を瞑っていてもいいな」という気持ちになってくる。 「 もう、仕方がないわね。早く起きないと学校に遅刻するわよ」 学校……? 「 あ…そっか…」 その単語に反応して、友之はゆっくりと目を開いた。そういえば今日は数学の小テストがあったのだった。それで昨夜はつい遅くまで教科書とノートを見比べたりして、でも結局1人ではどうする事も出来なくて、傍でレポートをこなしていた光一郎に随分と迷惑をかけてしまった。光一郎からの手ほどきがなければ満足にテスト対策勉強もできない、その事自体はとても情けなかったが、それでも友之はああしてもらえる時だけは、普段嫌いな数学も大好きになれた。 素敵な時間。 「 ……コウ」 しかし、ふと頭の中にその単語が浮かんだ時、友之ははたと気がついた。 おかしい。 ここは光一郎と2人で住んでいる場所であるのに、先ほどの声は一体? 「 はっ…!?」 「 ……やっとお目覚めね。お寝坊さん」 「 え…」 寝床から飛び起きた友之はその状況に愕然とした。 「 さあ早く顔を洗ってらっしゃい。幾ら遅刻しそうでも朝ご飯を抜いていくなんて事は許しませんからね。トモちゃんはただでさえ風邪を引きやすい体質なんだから、しっかり栄養つけていかないと」 「 ………」 「 あ、それから今日はパジャマも洗濯していくから、着替えたらそのまま洗濯機に入れておいてね」 「 か……」 光を遮断していたカーテンをザッと勢いよく開き、てきぱきとした動作で自分の学校制服を取り出しているその背中に。 友之は恐る恐る口を開いた。 「 母、さん…?」 「 え? …なあに、そんなびっくりした顔して」 その朝、友之は全く見知らぬ部屋で、数年前に死んだ母と顔をあわせていた。 夕暮れの丘で―7DAYS―(1) はじめはただの夢かと思ったのだ。 「 いってらっしゃい」 玄関先でにこにことして見送るエプロン姿の優しい母。今まで努めて思い出さないようにしていたせいだろうか、友之はこの時初めて「母の左眉にある小さなほくろ」に気がついた。 「 車に気をつけるのよ」 そうしてその母はおぼろげな記憶に残っていた通り、やはりとても優しかった。 「 お、母さん…?」 茫然と呼んだ時、母はぱちぱちと何度か驚いたように瞬きをし、それから「一体どうしたの?」と心底不思議そうに首をかしげた。柔らかそうな長い黒髪を1つに結っている母は、その後ろ髪を片手でいじりながら不思議そうな顔をしている。 「 こ、ここ…何処?」 そして友之が訊くと、母はますます怪訝な目を向けた。 「 何処って…。家よ。貴方の家でしょう」 「 ここ…?」 きょろきょろと辺りを見回す。 確かに掛け布団の柄はいつもと同じだった。壁に掛けられている高校の制服も学校カバンも自分のものだと認識できた。 けれどこの部屋は。 「 ……っ」 「 ちょ、ちょっとトモちゃん!?」 驚く母を振りきるようにして、友之はだっと立ち上がるとそのままの勢いで隣にあるだろう居間への襖をすらりと開いた。 「 ………」 やっぱりだ。この部屋を自分は知らない。 「 一体どうしちゃったの。まだ寝ぼけているの?」 「 お、お母さん…」 「 なに?」 「 コ、コウ兄は…?」 そうだ。それこそが今自分の一番知りたいこと。友之は一気に身体中の体温が下がるのを感じた。昨日まで、ほんの数時間前まで一緒にあのアパートで机を囲んでいた。丁寧に丁寧に自分に勉強を教えてくれていた、自分の大切な光一郎は一体何処へ。母が生きているというこの状況も十分卒倒ものだが、ともかく今は光一郎だ。 光一郎は一体何処に。 「 コウ兄…って。北川さんの息子さん…光一郎君のこと?」 「 え…」 きょとんとした母の言に友之はガンと後頭部を殴られた思いがした。 「 コウ兄って、トモちゃん光一郎君とそんなに仲が良かったの?」 「 ………」 そんな息子の驚きにも構わず、母は全く平然として考え込むように顎先に指を当てた。 「 光一郎君て今大学生なのよね。今年で何年生になったんだったかしら。あの名門国大に現役で入学しちゃったっていうから、あの時は町内でも凄く噂になったのよねえ。ハンサムで頭が良くて礼儀も正しくって。母さんの仕事場でも大ウケだもの、光一郎君は」 「 ………」 「 あっ! そんな事を話していたらもう出勤の時間だわ! さ、トモちゃんも早く着替えてご飯食べて!」 「 あの…」 「 ほらほら早く!」 「 ……っ」 あんなに強引で、そして威勢の良い人だっただろうか。 急かされるままに学校へ行く支度を整え朝食を摂り、こうして外へと追い出された格好となった友之は、トボトボと歩きながら母の姿や声を何度となく思い返した。そして思い出してはため息をついた。何だろう。この胸をざわめかせるズクズクとした疼きは何だろうと考える。母は後片付けと洗濯を済ませたら自分も出勤すると言っていた。昔からあまり身体の丈夫な方ではなかったから、いつも家で家事をしていた姿しか記憶がないのに、一体何処で何の仕事をしているのだろうとぼんやり思う。 ともかく。友之は頭の中で自らの考えを整理した。 そう、ともかくは何かが起きたのだ。自分が眠っている間に何処か見知らぬ異次元空間にでも迷いこんでしまったのか、それとも本当にただの夢なのか。 「 痛い…」 試しに頬をつねってみたが、しっかり痛かった。友之は重い足取りでただ困惑しながら学校へ向かう駅へと向かった。それはもう殆どいつもの習慣をそのまま実行したに過ぎない。出て来たアパート周辺は見覚えがないと感じたが、大通りに出てしまうと馴染みの商店街への道と繋がっていたから、最寄りの駅へはすぐに辿り着けた。 「 友之!」 「 え…」 その時、あのいつもの聞き慣れた声が響いて友之は顔を上げた。 駅のホームには沢海がいた。 沢海の自宅は友之の家とは駅を挟んで反対方向にあり、実際の距離は少し遠目だったが、活用する駅自体は同じだった。だからこうやって朝の通学時に駅で出会っても本来は何の不思議もない。 しかし友之は目を見開いてその友人の姿に驚いた。普段彼は部活動の朝練でいつも早くに学校へ行っているからめったな事ではかちあわないし、それに何より。 沢海は友之とは違う学校の制服を着ていた。 「 おはよ、友之」 「 ………」 「 今日もいい天気だな」 沢海は途惑う友之の様子になどまるで気づかないのか、ただいつものニコニコとした人好きのする笑顔を浮かべていた。そしてその沢海は、友之が不審に思っている事のひとつ、部活の練習着などが入っている、いつも肩に掛けているはずのボストンバッグをこの時は持っていなかった。 黙りこんでいる友之に沢海が言った。 「 今日は少し遅かったな。これ逃したら遅刻しちゃうし、どうしたのかと思ってた」 「 ………」 「 寝坊でもしたのか?」 「 あ……」 「 ん? どうした?」 「 あの…」 友之が言葉を出すのが遅い事には慣れたような目をしている。こういうところはやはりいつもの沢海だと思いながら友之は言った。 「 それ…その、制服…」 「 制服? ……ああ」 友之の発言に沢海は自分のブレザーを見やり、途端に顔をしかめた。そうして腹の立つ事を思い出したように口を尖らせる。 「 そう、ここ汚れてんだろ!? 昨日さ、数馬の奴が昼飯の時俺に油ぎったコロッケパン投げつけてさっ。まったくむかつくよ」 「 か、数馬…?」 そうだ、この制服は数馬が通っている高校、修學館のものだ。この辺りでは一番の名門私立高校で、女子高校生にも大層な人気がある学校。 しかしどうして沢海がその数馬と同じ学校へ行っているのだ。 「 あ、電車来た。やだな、この時間ってアイツが乗ってる確率大なんだよな。あっ! やっぱいやがった。気づかないでくれてるといいんだけど…」 轟音と共にホームに入ってきた電車を前に沢海はそんな事を呟いている。しかし友之はそれどころではない。表情にこそ出ていないが、内心ではパニック寸前だった。一体何が起きているのだ。母に、沢海に、そして自分に。 「 友之、電車混んでるし、ほら」 「 あっ…」 そんな友之を沢海は相変わらず気づかない様子でただ手首を掴み、自分の元へと引っ張った。促されるままに引き寄せられて、友之は大人しく窮屈な車内に身を入れた。 「 あーっと、すみません!」 と、その時、電車のドアが閉まる一歩手前で、そんな軽快な声と共に大きな身体がにゅっと友之のいる車内に割り込んできた。高い身長のせいで友之の頭に影がかかる。 ふと目線の先にある服を見やると、それは今の沢海も着ている修學館のもので。 「 おっはよー、拡クン!」 「 数馬…。電車の中で煩い」 沢海が心底迷惑そうな声で言った。 数馬。 友之はその大きな身体を何となく不思議な面持ちで見上げた。 「 ごめんごめん。でも、挨拶くらい返してくれたっていいんじゃない?」 「 別にお前にはしたくない」 数馬に対する沢海の態度もいつもと同じ。そして沢海は数馬がこうして自分たちのいる車両に乗り込んできた事が面白くないのだろう、すかさず「大体、何でわざわざ車両変えるんだよ!」と非難めいた言葉を発していた。 「 だって拡クンの姿が見えたんだもん。ボクって動体視力いいからあ」 「 だからこの時間は嫌だったんだ…」 「 あ、そうそう。いつもはもうちょっと早く行ってるよね。この時間だと遅刻ぎりぎりなのにさ。……ああ、分かった。トモ君がいつもの時間に遅れたんだ」 「 友之は関係ない」 ぶすくれた沢海のその台詞を数馬は一蹴して、自分の傍に立つ友之の頭をぽんぽんと叩いた。 「 ホント君って嘘が下手だよね。でもたぶん、そういうさり気ないやつはこの人に通じてないと思うんだよね。ね、トモ君、気づいてないでしょ?」 「 な、何が…」 何とか声を返せた。数馬の勢いある声は却って救いになっていたのかもしれない。 そんな友之に数馬は冷めた目で更に頭を叩いてきた。 「 何が、じゃないでショ。拡クンがね、せめて朝だけでも君と一緒にいたくて毎朝駅で待ってるってコト。気づいてないでしょって言ったの」 「 え……」 「 か、数馬っ!」 「 声が大きいよ〜拡クン?」 からかうように数馬はそう言い、そうして再び楽しそうに笑った。友之はただ2人の会話についていくのが精一杯で、しかし実際にはついていけなくてただぐるぐるとした思考を必死に留めようと揺れる車内で何度も息を吐き出した。 「 友之、本当こんな奴の言う事気にしなくていいからっ。俺はさ、その…待っていたくて待っているだけだから…」 「 ………」 「 高校も別々だしさ…。その、ここくらいでしか会えないだろ?」 「 ボクの言ってる事と何の違いがあるの、今の台詞」 「 お前は煩い! 黙ってろ!」 「 はいはい」 「 ………」 2人のやりとりを見ていた友之は何故だか急激に泣きたくなった。それでもそれを何とか押し留め、思いきったように沢海に向かって口を開く。 「 あの、でも…。拡、部活は…?」 「 え?」 友之の質問に沢海は途端きょとんとした。 友之は構わずに続けた。 「 だって…あの、いつもバスケの朝練が…」 「 え? バスケ? 朝練?」 「 拡クン、君いつから部活なんか始めたの? ボク、初耳」 「 え、いや…」 数馬と沢海両方が怪訝な声を出すのを友之はぼうっとした思いでただ聞いていた。 だから今度は数馬の方に目をやり、ほぼ機械的な感じながらも言葉を切った。 「 か、数馬は…野球を、やってるよね…?」 「 はあ〜? 野球〜?」 「 友之、一体どうしたんだ?」 これには沢海も声をあげた。そうして何かを確認するように友之の額に自らの手のひらを置いたりしている。 「 あ…っ」 「 おっと」 その時ガタリと電車が左右に大きく揺れて、友之は周囲の乗客に押されるようにして思い切り体勢を崩し、倒れかけた。それを後ろから支えるようにして食い止めてくれたのは傍にいた数馬で、肩口にその力強い手が加わると、友之はもう駄目だった。 どうなってしまったのだ、一体。 「 おいおい本当に大丈夫?」 「 ………」 「 友之?」 「 トモ君? ……おい友之!」 「 ………」 後ろから数馬、そして視線の先には沢海がいて、その2人から交互に不審な声が降りかかる。車内の揺れとは関係なしに、友之はぐらぐらとした眩暈を感じてぎゅっと両目を閉じた。 「 友之、本当にどうしたんだ?」 沢海が言った。 「 俺たちはバスケも野球もしていないよ? 知っているよな、そんな事?」 そのすぐ後に、数馬。 「 ボクたちは血も涙もない受験戦争の荒波に揉まれて日々勉学に勤しんでるってのに、そんなもんやる余裕がどこにあるのさ」 「 本当に…?」 消え入りそうな声で確認すると、2人はまた同時に頷いた。友之がそれに何とも答えられずにいると、沢海は場の空気を無理に変えるように「こいつはフラフラしてるだけだけど」と、数馬を指し示して笑った。 「 あ〜、拡クン何それ、ひっどい。……でも、とにかく」 すると今度は数馬が友之の頭を拳でぐりぐりといじりながら茶化すように言った。 「 何をボケボケしてんのかなあ、トモ君は。ホント大丈夫? 頭おかしくなってない?」 「 よせよ、そういう言い方」 「 だ〜ってどう見ても変じゃん。いつもぼけーっとした奴だけど、今日は更に輪をかけて変だもん。拡クン、家まで送ってってあげたら?」 「 ああ…。友之、もし具合悪いようなら本当に送っていこうか? 学校行けるか?」 「 ……本当に」 2人のやりとりが堪らなかった。2人のいつもの様子が余計に焦燥感を抱かせた。 だから思わず口走っていた。 「 本当に拡は、拡だよね?」 「 え?」 「 おいおい…」 「 数馬は、本当に数馬…っ?」 確認せずにはいられなかったのだ。自分だけが訳の分からない状況に立たされ、他の人たちは平然といつもの日常を生きている。それがどうしようもなく悲しい事のように思えたから。 「 数馬…」 「 あの〜」 すると、縋るような目を向けた友之に数馬が頭を掻きながら言った。 「 トモ君、ボクは正真正銘の天才・香坂数馬クンですよ。何なの一体? あ、でも、もしかして野球ってのはあれかな、中原先輩の草野球チームの事言ってる? あれに俺が入ってるって?」 「 そ、そう!」 友之がぱっと顔をあげて頷くと、数馬は多少引いたような顔で苦笑した後、肩を竦めた。 「 あのさあ、確かにあのチームは人数不足でそれこそ猫の手も借りたいみたいだけど。ボクはごめんなんだよね、あんなおっかない先輩がいるチームに好き好んで入るのはさ」 「 で、でも野球好きだって…」 「 好きだけど、わざわざ入りたいほどではない」 「 ………」 「 何? キミ入りたいの? 先輩に言っておいてあげようか?」 「 も、もう……」 自分はチームに入っている。 「 ……っ」 しかし、そう言おうとして友之ははっとなり口をつぐんだ。 入っていないかもしれない。 ここまで状況が変化しているのだ。自分は中原のあのチームには入っていない。そして、沢海や数馬とも、知り合いではあるようだけれど同じ学校、同じチームで一緒に過ごしているような間柄でもない。 「 本当にどうしちゃったんだよ〜、友之!」 「 だから数馬! お前は友之の頭をバンバン叩くな!」 「 ………」 友之は言い合いを続ける2人の姿をただ見つめる事しかできなかった。 |
To be continued… |
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