(2)



  学校では更に驚く事の連続だった。

「 オーッス、トモ!」
「 友之〜、ギリギリじゃん。遅刻寸前、珍しくない?」
「 北川君、英訳の宿題やった? できた?」

  教室に入った瞬間だった。その事態を前に友之の身体は見事に固まった。
  クラスメイトたちが、話しかけてくる。
「 で、北川、昨日のだよ! あれマジで燃えたんだけど俺!」
「 あぁ、あれ最高だった! で、トモが散々イケるとか言ってた奴は速攻負けてんのな。笑ったー」
  本当に何がどうなっているのか分からなかった。
  普段から友之は教室で沢海や橋本以外の人間とめったな事では口をきかなかった。否、きけなかった。幼い頃から人見知りが激しく内に篭る性格だったものが、中学時代に不登校を経験したせいで無口により拍車がかかり、身動きが取れなくなってしまった。そしてそんな閉鎖的な友之を周囲の人間たちもまた「付き合いづらい奴」として避けた。
  悪循環だったのだ。
「 ………」
  それが今はどうだろう。
  いつもの風景の中、けれどそこに北川友之という人間を疎んじたり避けたりするクラスメイトは1人もいない。彼らは友之を以前からの親友と接するように迎え、話しかけてきた。笑いかけてきた。誰も彼も見た顔だった。誰も彼も普段から友之が知っている、日々友之のことを敬遠していたクラスメイトたちに間違いなかった。
  それなのに。
「 ……? おーい、どしたトモ? まだ寝惚けてんのか?」
「 え…?」
  友之があまりに無反応なのをさすがに不審に思ったのだろう、1人が小首をかしげてそう聞いてきた。友之が途惑ってますます何も言えずにいると、その男子生徒は急に表情を翳らすと心配そうに声を低めた。
「 もしかして具合でも悪いのか?」
「 あ……」
「 だから遅れたのか? 保健室とか行くか?」
「 え、どうした北川? 具合悪いのか?」
「 北川君、どうしたの?」
「 な、何でも…」
  周囲の人間が皆一様に不安そうな顔になるのを見て、友之は慌てて首を横に振った。こんな風に大勢の人間に注目される事には慣れていなかったし、第一それはとても耐え難いもののように思えたから。
「 何でも…」
  友之は何度もかぶりを振った後、誤魔化すように口元でもごもごと何かを言いながら普段の自分の席へ向かった。混乱していた。話しかけてくれるなと心の中で必死に願った。
「 ………」
  何が起きたのかは分からない、けれど。
  ここにいる彼らは「彼らであって彼らではない」らしい。少なくとも今ここにいるクラスメイトたちは友之が知っている者たちではない。姿は同じだけれど決定的な部分が違うのだ。
  教室内で友之のことを「余所者」扱いする者は、誰1人としていなかった。



「 あははっ。それおかしい…!」
「 でしょー?」
  そして昼も過ぎた後、5時限目。
  テストのあるはずだった数学は平常授業が執り行われていた。そんな中、教室から見える外の景色をぼんやりと眺めながら、友之はすぐ横で聞こえている橋本の声に耳を済ませた。
  クラスメイトたちが親切になっている中、その代わりと言うのも妙な話だが橋本の態度は逆に友之に対しあまり干渉的ではなくなっていた。朝は普通に挨拶をしてきたし、相変わらず明るく元気、親切ではある。また多少、他の人間よりも多く話しかけてくるようにも思うが、それでも橋本の態度は「普通」のクラスメイトの域を出ていなかった。あの、ともすれば母親か姉のような「異常」な構いっぷりがないのである。
「 でさ……なんだって!」
「 そうなんだー!」
  永遠に続くかのような橋本たち女子の楽しそうなヒソヒソ話。彼女たちが自分とはまるで違う世界にいるような錯覚を覚えながら、友之はただじっと今のこの状況について思いを馳せて見た。
  何の拍子かは分からない。
  けれど、ともかくも自分は元いた世界とは違う所にいる。それだけは確かなようだ。その世界では母がまだ生きていて、しかもその母は再婚していない。自分たちは2人で暮らしているようだ。そして学校の様子から察するに、友之をクラスのはみ出し者、根暗で何を考えているか分からないと避けている者はいない。北川友之という人物は、ごく普通の学生生活を送り、ごく普通に周囲の人間たちの中に溶け込んでいる。
  違和感を抱いているのは、自分だけ。





「 どうしよう…。家が分からない…」
  友之がその事実に気がついたのは、いつもの地元駅に降り立ち、改札を出てすぐの事だった。
「 ………」
  確か朝出てきた時に見た感じでは、あの家は光一郎と一緒に住んでいるアパートではなかった。必死にカバンの中を漁って学生証に住所が記載されているのを見つけたが、番地が分かってもそれがどちらの方向を指し示すのかがよく分からなかった。少なくとも自分がよく歩く近隣内にない事だけは確かだ。
「 ………」
  友之は何だか急に心細くなった。
  ふと、駅前の写真屋に目がいった。そういえば本来ならあそこでは由真がアルバイトをしているはずだ。彼女がいれば、咄嗟に思って必死に目を凝らし中の様子を探ってみたが、期待に反し由真の姿はなかった。今日はバイトの日でないか、そうでなければここでアルバイト自体していないのかもしれないと思った。
  光一郎。
  不意にその名前が頭に浮かび、友之の心は揺れた。そう、光一郎はどうしているのだろう。あのアパートにいるのだろうか。いや、もし仮に自分と出会っていないのなら、家を出ていないかもしれない。あの家で父と夕実と3人で仲良く暮らしているかもしれない。
  胸が痛んだ。
「 ……っ」
  泣きそうになり、友之は思わず走り出した。こんな時に自分が行ける場所はもう1つしかない。そこへ行けば光一郎がどうしているかが分かるし、もう1人の「兄」に会う事だってできる。いや、もしかすると光一郎自身にも会えるかもしれない。
  友之は脇目も振らず、ただ走った。
  バッティングセンター「アラキ」に向かって。





  平日だったが店内は割と混んでいた。ちょうど日も傾き始めた時間で、学校帰りの学生や店の常連もちらほらと顔を出し始める頃だったようだ。
  しかし、カランという鈴の音と共に息せききって店内にやってきた友之をカウンター内にいたマスターは逸早く見つけた。
「 あれ、友之君かい?」
「 ………」
  その聞き慣れない口調に友之は一気にまた心臓を鷲掴みされたような感覚に陥った。どうして良いか分からずに突っ立っていると、マスターは「こいこい」とにっこり笑いながらカウンターの席に友之を呼んだ。
  おずおずと近づいた友之に、マスターは椅子を勧めてからさっと氷水を出して言った。
「 いらっしゃい。いやあ、久しぶりだねえ。元気だったかい?」
「 はい…」
  久しぶりなんかじゃない。咄嗟にそう思ったがそれは言えなかった。
  しかし、友之はつい先週の日曜も練習後に中原らとこの店に寄ったばかりだった。確かに元々口数の少ない友之はあの時もマスター本人とはそれほど話をする事はなかったが、だからと言って数日前に訪れた人間に対してこの優しい人がこんな言い方をする事は絶対にない。
  だから本当に久しぶりなのだろう、「この」マスターにとっては。
  そう友之が思っていると、マスターはすぐにそんな相手の意を汲んだように言った。
「 友之君、うちには今年のお正月以降あんまり顔出さなくなったろう? 寂しいなあと思っていたんだよ。受験勉強大変なの知っていたし、ほら、お母さん助けて家の手伝いしているのも知ってたからさあ。仕方ないとは思ってたけど。どう、お母さん元気? 高校は楽しいかい?」
「 ………」
「 ん? どうした?」
「 あ、あの…っ」
「 ん?」
「 あっちぃ。ったく、客に買い出し行かせるなよなあ!」
  その時、背後から勢いよく扉を開いてやってきた人物の声に、友之はガバリと振り返り、目を見張った。
「 ……っ!」
「 ほらよ、これでいいんだろ?」
  その声の主は額の汗をシャツの袖で拭うような格好を取りながら、カウンターの上に野菜やら何やらが入っているらしいスーパーのビニール袋をドサリと置いた。友之はその人物の姿を驚きの含んだ瞳でじっと見やった。
「 おう正人、悪い悪い。この混みようじゃなかなか出られなくてなあ」
「 バカ息子に行かせろよ」
「 だから例によって行方不明なんだって」
「 ったく…。――ん?」
  Tシャツにジーパンというラフな格好をした中原は、仕事明けなのかやや疲れたような顔をしており、顎には薄っすらと無精髭が生えていた。そして先日見た時にはもうすっかり黒くなったなと思っていたはずの髪が、今は見るも見事な金色に染まっていた。
「 あー……」
  その中原はようやく横で固まっているような友之の姿を発見し、その金の髪をかきあげながら何事か考えるような顔をしていたが、やがて思い立ったようにぽんと手を叩いて言った。
「 お前、もしかして友之じゃねえ? 中坊の頃よく河原来てうちの練習見に来てたろ?」
「 え…?」
  友之が掠れた声で返答すると中原はますます的を得たような顔をして笑った。
「 何だよお前、全然変わらねえなあ。相変わらずちびっこくて細っこいの。何してんだよ、こんな所で?」
  中原はそう言いながら、屈託のない様子で友之の髪の毛をぐしゃりとかきまぜた。
「 コラ正人―、こんな所とは何だ。友之君は野球好きだからな、今日は久々に遊びに来てくれたんだよ。なあ?」
「 その割にずっと足遠のいてみたいだけどな」
「 ………」
「 もっと来いよ、たまにはメシでも食わしてやっから」
「 おっ、いい兄貴」
「 まあな。こいつ、前より痩せたような気がするし」
「 ………」
  マスターの助け舟がなければ友之は完全に卒倒する勢いだった。中原の如何にも「久しぶり」的発言がショックなら、この「兄」の何やら優し気な笑顔や言葉にも動転してしまっていたから。
  そんな友之には構わず、中原は隣の椅子に腰掛けると、実に物珍しいものを見ているといった眼差しを向け続け言った。
「 へえ…。しかし何、今高校だよな、確か。1年? ガッコでも野球やってんのか?」
「 え…あ、あの…」
「 あ?」
「 あの、部活、野球は、なくて…」
「 あー? あ、そうなんか。何かイマドキ珍しい学校だな。なら、俺らんとこ来るか? オッサンばっかだけどな、高校生でも構わねえよ?」
「 ………」
「 おい?」
「 ………」
「 ……おいって。聞いてるか?」
「 あ……はい……」
「 ……何なんだ、その縋るような目は」
  友之の今にも崩れ落ちそうなその顔に中原が途惑ったように仰け反った。マスターも様子のおかしい友之にいよいよ心配そうな顔になる。「どうしたの?」と何度となく訊いてくれたが、言えるわけがなかった。こんな事を話しても、「頭のおかしい奴」扱いで終わりだ。
「 あの…修…」
「 え?」
「 ………」
  修司になら言えるだろうか。一瞬そうも思ったが、行方不明だと言っていたっけ。友之は諦めて席を立った。
「 打っていかないの?」
「 お前顔色悪ィぞ。平気か?」
 マスターと中原の言葉に友之は力なく頷いた。これ以上いると泣いてしまいそうな気がしたから。
「 帰ります…」
  家など分からないのに。
  しかしその瞬間、マスターがさっと中原に向き直って言った。
「 正人、送っていってあげたら?」
「 ……っ」
  友之がぎょっとしているのに構わず中原も頷いた。
「 そうだな。おい、来いよ」
「 い、いいです…っ」
  友之は慌てた。どんな異次元空間へ迷い込んでどんな中原正人と出会おうとも、正人は正人だ。友之がこの恐ろしい兄を苦手な事に変わりはない。いつも叱られてばかりだから反射的に逃げの態度を取ってしまうというのもあるが、友之はオドオドとしながら何度も首を横に振った。
  しかし中原はそれを善しとしなかった。
「 お前放っておいたら俺らが気持ち悪ィんだよ。いいから来い」
「 ………」
  中原に無理に手を引かれて店を出て友之は俯いた。行くと言っても、これからどうやって帰ればいいのか。中原に学生証を見せて「この住所へ行ってくれ」とでも言えばいいのか。
  自転車の鍵を取り出している中原の前で茫然と突っ立っていると、しかし不意に中原の尻ポケットにあった携帯が鳴った。
「 ――ああ、コウか」
「 !!」
  その中原の台詞に友之は飛び上がった。思わず凝視すると中原は何度か頷いた後、途端に眉をつりあげて怒鳴り声をあげた。
「 何っでアイツが来るんだよ!? マジか、おいコウ、俺があいつと普通の会話できると…。あ? ゆ、裕子も…。くそっ…」
「 ………」
  そして何度か頷いた後、中原は携帯を切った。はーっとため息をつき、友之をじろりと見やる。
「 ……何だよ」
「 あっ……」
  どうしても視線を外せずにいた事を中原は怪訝に思ったらしい。迫力ある顔で睨みつけられて友之は一気に身体を硬直させた。
  しかし、その事で反対に中原の方はがくりと脱力してしまった。そうして耐えられないというように髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜた後、呻き声とも取れない声で友之に言った。
「 ったく、別に食いつきゃしねーよっ! やめろその怯えた顔!」
「 ご、ごめんなさ…」
「 だから謝るなっての! ったく…お前は相変わらず…」
「 え?」
  中原の何か言いた気な台詞に友之は眉をひそめた。
「 な、何でもねーよ…!」
  しかし中原はその先をもう言おうとはしてくれなかった。不審に思っている友之を振り払うように自転車に向き直る。
「 ほら行くぞ」
「 あ………」
「 あーあ、ったく、何であいつらも来るかなあ…」
「 ………」
  中原の呟きに友之はますます足を止めて黙り込んだ。
  きっとこの後中原は光一郎と会うのだ。
  光一郎と。
「 ? どうした」
  ぴたりと止まったままの友之に気がつき、中原が振り返った。
「 あ、あの…」
「 ん?」
  今しかない。友之は思いきって聞いた。
「 これから何処行くんですか…?」
「 何処って。お前ん家だろ。送ってってやるって言っただろーが」
「 そうじゃ…なくて…」
「 あ…? ああ、今の電話か? 光一郎とな…あ、お前もコウの事は知ってんだよな。お袋さんの関係で」
「 え?」
  訳が分からず戸惑ったが、中原は構わず続けた。
「 奴と飲む約束してたんだけど、余計な奴が来るらしい。ったく、むかつくぜ。あいつ、何だかんだってしょっちゅう来やがる」
「 ………」
「 裕子も何であんなのがいいかね…」
「 ………」
「 ま、お前には関係ないだろ。ほら行くぞ。どうせお袋さん、遅いんだろ? メシでも買ってから行くか?」
「 あの!」
「 あ?」
「 ぼ、僕も…」
  友之はごくりと唾を飲み込んだ後、意を決して顔を上げた。とにかく今自分がしたい事。願う事はただ1つだったから。
  中原の目を真っ直ぐに見つめ、友之は言った。
「 僕も…そこ、連れて行って下さい…」



To be continued…



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