(10) 「 ここは心を鬼にして怒らなければ」 玄関先で仁王像のようにどっかと立ちはだかっていた母の仕事仲間「牧村さん」は、息せききってドアを開けた友之に開口一番そう言った。後からやってきた光一郎の事は軽く一瞥しただけだ。 「 友之君、友之君はまだ高校生でしょ。それなのに何の連絡もなくこんな遅くまで外をほっつき歩いてたら駄目じゃない。お母さんが遅くまで仕事あるのだって分かってるんだから、普通は家でお米研いだりお風呂掃除したり…できる事はたくさんあるはずだよ。というより、今まではちゃんとやってた事でしょ? それなのに…この間から友之君変だよ。一体どうしちゃったの?」 「 ………」 先日店で会った時はにこにことして優しかった牧村さんだが、今はひどく怖い顔で友之の事を見下ろしている。母はどうしたのだろう、それが気になりながらも友之は俯いたまま顔を上げる事ができなかった。 「 友之君、ちゃんと聞いてる?」 そんな友之に対し牧村さんは更に声を一段階大きくして続けた。 「 お母さんね、熱はそれほど高くないみたいだけどさっきまで大変だったんだよ。ご飯の支度しなくちゃだの伝票整理しなくちゃだの…。おとなしく寝てろって言うのに、でもだの何だの、ごちゃごちゃとやかましい事ばっかり言ってさ。タクシーでここまで送るのだって、さんざ説き伏せてやっとこ乗ってもらったんだから」 「 母さんは…」 友之がようやく顔を上げてそれだけ訊くと、牧村さんは大袈裟に体を揺らして壁に寄りかかるフリをしながら言った。 「 仕事が終わった後にね、こんな感じで突然ふらーっとよろけたの。涼子ちゃん、ああいう性格だから多少きついと思っても顔に出さないで無理しちゃうとこあるから。ふう、まあ気づかなかったアタシ達も悪かったけど、お母さんにはね、もうちょっと、無理する事で他人に掛ける迷惑ってのを考えなさいってお説教したとこだよ」 「 ……母さんは」 呟くように同じ事を繰り返すだけの友之に、見かねた様子で光一郎が背後から口を挟んだ。 「 それで、今は休まれてるんですか」 「 ん……あ、それで、キミが光一郎君?」 「 はい。それで涼子おばさんは…」 「 ああやっぱり、君があの! 光一郎君!」 光一郎の言葉を掻き消すようにして、牧村さんは片手をひらひらさせながらどことなく感心したような顔つきで何故か何度も頷いて見せた。 「 まあ貴方がそうなの。まあまあ…これはまあ、噂に違わず二枚目青年だこと。涼子ちゃんが友之君ならきっと貴方の所だろうなんて言うから電話したんだけど…。ああそう、貴方が北川さんとこの息子さん!」 「 あの…」 「 もう、牧村さん」 その時、母の涼子が呆れたような声と共に居間から顔を出した。 「 お母さん…っ」 それで友之が思わず口を開くと、母の涼子はうっすらとあの優しい笑みを浮かべ、「お帰りトモちゃん」と穏やかに言った。恐らくはこの牧村さんによって無理に着替えさせられたのだろう、母は薄桃色の寝巻きにベージュのカーディガンという格好をしていた。 「 お母さ…」 口を開きかけて、しかし友之ははっとしてそのまま声を失った。 母のその姿が、病院で亡くなる少し前の時とまるで同じだったから。 「 おばさん、大丈夫なんですか」 すると様子のおかしい友之の事を察したかのように、光一郎が背後から口を出した。同時に友之の両の肩をぐっと励ますようにして支えて。 光一郎は言った。 「 すみません、また友之君のこと引き止めてしまって」 「 ……っ」 友之が驚いたように振り返るのを光一郎はちらと見ただけだった。 対し母の涼子は笑ってかぶりを振った。 「 いいの、いいのよ。この子がそうしたくてそうしたんだろうから。ありがとう、光一郎君」 「 いえ」 「 そうそう、それで夕飯は? もし良かったら―」 「 あ、うちで…本当に勝手して済みません」 「 え、そんなそんな。こちらこそ友之が甘えちゃってごめんなさいね」 「 いえ、とんでもないです」 「 ………」 自分の肩に触れてくれる光一郎を依然首だけ捻ってすっと見上げながら、友之は2人のやりとりを黙って聞いていた。勝手に光一郎のアパートへ押しかけ帰りが遅くなってしまったのは友之当人の責任だ。それなのに何故光一郎は自分が悪いというような言い方をするのか、また母も何故そんな風に謝るのか、友之にはそんな事が不思議で仕方なかった。 何故僕のことを責めないのだ叱らないのだ、と。 「 起きていて大丈夫なんですか」 光一郎の言葉に母が笑って答えている。 「 うん、本当に大した事ないのよ。ちょっと物につまずいて転びかけただけなのに、牧村さんたちが大袈裟に病気だ病気だなんて大騒ぎして。余計な心配掛けちゃったわね」 「 何言ってんの、涼子ちゃん立派に熱あるじゃない!」 「 もう、大丈夫なんだからそんな怖い顔しない」 「 するわよ! 涼子ちゃんはホントそういう自己管理甘いとこダメダメ!」 「 はぁい、気をつけます」 唾を飛ばさん勢いで母の涼子を叱り飛ばす牧村さんに、相変わらずの笑みで返す母。それを見やって「とにかくゆっくり休んで下さい」と言う光一郎。 「 ………」 友之は3人の会話をただ何ともなしに耳に入れ、それから改めて笑っている母の顔をちらりと盗み見た。 「 まあでも、今日はそのお陰で牧村さんにご飯作ってもらっちゃって得したわ」 多少おどけたようにそんな事を言う母の顔。元気そうだ。顔色も悪くない。先刻はいやに弱々しく見えたけれど、気のせいだったのかもしれない。そう、元々この世界にいる母は自分がいた世界の母とは違うのだから。だから何か悪い事など起きるわけはないし、もし仮に多少具合が悪くなっていたとしても、きっとただの風邪だ。だって母はこんなに元気そうなのだから。笑っているのだから。 「 寝…ちゃんと、寝てて…」 それでも友之はついそう言っていた。 「 え?」 今までだんまりを決め込んでいた息子が不意にぼそりとそんな事を言ったので、母の涼子はぴたりと動きを止めて視線をすっと寄越してきた。その場にいた牧村さんも、背後にいた光一郎も一斉に友之の方に目をやってきた。 「 ………」 友之はその3人の誰をも見てはいなかった。ただ、言葉を繰り返した。 「 ちゃんと…休まないと…」 「 トモちゃん…」 一体どちらが苦しそうなのか分からない。 その場にいた3人は友之のその悲痛な表情から、もしかするとそんな風に思ったかもしれない。一瞬場がしんとなり、母の途惑ったように友之を呼んだ声が玄関口に寒く響き渡った。 「 そう。そうね。さっさと寝なさいねっ」 やがてその沈黙を牧村さんが破った。そうしてパンパンと手を叩きながら、「さっさと布団に戻る!」と母を子どものように扱い、急かした。 「 いーい、涼子ちゃん。もし明日仕事に来たら承知しないからね! うちは食べ物扱ってるんだから、病原菌持った病人なんかがいたら迷惑なんだよ!」 「 だから病気じゃないんですって。転びかけて…」 「 煩い病人!」 きっと家でもぐいぐいと家族を引っ張っていく人なのだろう。牧村さんは強引に母の涼子の背中を押しながら部屋へと戻り、友之の方には「お母さんの看病で今夜は徹夜だね!」などと嘯いた。 「 ……元気な人だな」 友之と同じ感想を抱いたのだろう、光一郎が多少苦笑めいたように話しかけてきた。 「 ………」 玄関先で2人きりになり、再び沈黙が訪れる。肩に置かれていた手が離れ、友之が慌てて振り返ると光一郎が言った。 「 おばさん、本当に大した事なさそうだ。良かったね。それじゃ、俺は帰るから」 「 ………」 友之は黙って頷き、それから深々と頭を下げた。本当はここまで送ってくれたお礼をきちんと口に出して言いたかったけれど、どうしても声を出す事ができなかった。 光一郎が「帰る」と言った時、友之が瞬間的に思ったのは「帰って欲しくない」という事だった。けれどそう思ってしまったのとほぼ同時、こんな時でさえ自分は自分の事しか考えられないのか、そんな思いに至ってこめかみの辺りがぴりりと痛んだ。何て嫌な奴、母は毎日忙しく働いて、きっと疲れて具合を悪くしてしまったのだろうに、息子である自分は家におらず、ここにいる光一郎のことばかり気にしている。自分の事ばかり気にしている。 「 ………」 だから友之はもう声は出せなかった。光一郎を引き止める為の声は。 「 友之君」 するとその代わりのように光一郎が口を開いた。何も発せずとも、見上げてくる友之のその瞳が何をか語っているのが分かったのかもしれない。今までになくひどく困惑したような、そして後ろ髪を引かれるような顔で1度立ち去りかけたものの、光一郎はすぐに再び体勢を戻すと友之に向き直り言った。 「 もし何かあったらすぐに知らせろよ。俺に」 「 え……」 友之が聞き返すと、光一郎はほんの少しだけ目を細めた。 「 電話でもいいし。携帯の番号は知ってるだろ?」 「 ………」 「 知らないか? おばさんなら分かるから。時間とか気にしなくてもいいから、とにかく何か心配な事が起きたら連絡してこいよ。…な?」 「 ……っ」 どうして、と言いかけて、けれど友之はやはり口をつぐんだ。頼ってはいけない、そんな資格はない…そう先刻のように思ったというのと、あとひとつ。 改めて訊くまでもないのだと、そう思った。 どうしても何もないのだ。光一郎は誰もが認める「良い人」で、仮にも自分は義弟となるかもしれない相手。また母の涼子に至っては光一郎の義母となる人だ。その母が具合を悪くしているというのだから、こういう風に言ってくれるのも光一郎なら当たり前なのだ。そう、当たり前だから。 「 ………」 友之は自分をじっと見下ろしている光一郎をなるべく見ないようにして、黙ってこくりと頷いた。そしてこれはお礼だとばかりに、先ほど同様深々と頭を下げた。 おかしな事は考えない方が良い。確かに先ほど光一郎がアパートで自分の事を知っているように口走った事には驚いたが、これとてあまり深くは考えないようにしようと。ただの夢かもしれない。光一郎が見た、ただの夢。 「 え……」 けれど友之はそこまで思って、途端不安な気持ちがした。 夢。 自分とて信じたい。これが長い長い、不思議なただの夢なのだと。この世界は自分が作り出したただの夢で幻想で、ホンモノじゃない。ホンモノは、本当の世界は、光一郎は最初から自分の兄で大好きな人で、そしてずっと一緒にいる人だ。修司も優しくて光一郎とも仲が良い。沢海とは同じ学校で、北川友之である自分は決して「しっかり者」なんかではなくて。 そして――。 「 友之君?」 「 はっ…!」 「 ……どうした? 正直、おばさんより友之君の方が顔色悪いよ」 「 ………」 「 元々最初に熱出したの友之君の方だしな。今日は早く休めよ?」 「 ………」 「 ……なあ。どうした」 「 ………」 「 …どうしたんだ…」 自分がだんまりを決め込むと、光一郎は決まって今のように「どうした」と聞き返してくれたっけ。 「 ………」 友之はそんな事を考えながら、ただ黙って首を振った。それから今度ははっきりと相手を見据えやや震えながらも声を出した。 「 大、丈夫です」 「 ………」 「 ぼ、僕…母さんの所に、行かなくちゃ…」 「 ………」 「 母さんの方が、大変だから…」 「 あ……ああ」 たどたどしく言って心配そうに母のいる方向へ視線をやった友之に、光一郎は何故か一瞬言い淀んだようになった…が、その後は思い直したようにすぐ頷いた。友之はそんな光一郎の顔を見てはいなかったが、そこから発せられる雰囲気や空気は決して「知らない」類のものではないと感じた。 「 …おやすみなさい」 だから落ち着いてそう返す事ができた。振り返ってもう一度と光一郎の顔を見た時も、泣きそうな顔はしなくて済んだと思う。 それなのに。 「 ト…モ?」 「 !?」 咄嗟に光一郎がしてきたその所作に、友之は思い切り意表をつかれて喉の奥をひゅっと鳴らした。 「 …ぁ…?」 光一郎は玄関口からにゅっと長い腕を伸ばして友之の身体を捕らえ、引き寄せた。別れを済ませて母のいる居間へ向かおうとしていた友之はそれで完全に体勢を崩し、そのまま光一郎の胸元へ顔をぶつけてしまった。 自然、抱きすくめられた格好になる。 「 コ…?」 「 ……お前」 ひどく低い声に背中がぶるりと震えた。けれど強く手首を捕まれ、光一郎のもう片方の空いた手が自分の身体を包んでくれた、そう感じた時。 「 ………」 友之は目を見開いて間近にあるその広い胸元をじっと見つめた。 「 コウ、兄…?」 「 ……っ!」 けれど恐る恐る呼んだ瞬間、その温かいと思った手はあっさりと離れた。 「 あっ」 「 …悪い」 光一郎はただ一言そう言い、突き放されて茫然としている友之からさっと視線を逸らした。片手を口元に押さえて一瞬何事か堪えたような仕草も見せた。 「 コウ…コウ兄…」 「 悪い、俺は…」 そして光一郎は自分を「兄」と呼ぶ友之に背を向けると、そのまま何も言わずに立ち去ってしまった。 「 大丈夫だって言ってるのに牧村さんは本当に世話好きなんだよね」 沸かしたばかりのお湯はポットに、明日の朝ごはん用に買ったパンは台所のテーブルの上だからと忙しなく用件を告げた職場の同僚「牧村さん」は、嵐のように騒ぎ、そして嵐のように去って行った。友之はただ彼女の傍でうんうんと頷き、必死に分かったというジェスチャーをするので精一杯だった。 母の涼子はといえば、その牧村さんが帰るまでは隣の部屋に布団を敷いて大人しく横になっていたのだが、彼女がいなくなるとすぐに起き出し、テーブルの上に帳簿やら電卓、それに何十枚もの伝票を出してキリキリと仕事をし始めた。 「 お母さん…」 そんな母を友之は立ち尽くしたまま困ったように呼んだ。当然眠ってくれるだろうと思っていたのに、忙しそうにテーブルに向かう背中はとても布団になど向かいそうにない。 友之は眉をひそめた。 「 駄目、だよ…。ちゃんと寝てないと…」 「 うん。これが終わったらね」 「 熱が…」 「 そういうトモちゃんこそあるんじゃないの? 昨日の今日でこんなに夜遅くまで光一郎君の所にお邪魔して。あ、それが悪いって言うんじゃないけど、疲れているようなら早く寝なさい」 「 お母さんは、熱は……」 「 本当に全然ないのよ。それにお母さんもこの後すぐ寝るから」 だから心配しないで、と。 母は友之の方には振り返らず、せかせかと電卓をはじき、その度帳簿に数字を記入するという作業を続けた。カーディガンを羽織ったままの、その痩せた後ろ姿。それは最初に感じた印象とはやはり異なってとてもしっかりとしたものに見えたけれど、だからこそ友之にはきつかった。 母はいつでも「大丈夫」そうだった。 実際に初めてその台詞を聞いたのは病院に入ってからすぐだったが、それまではそんな「大丈夫」という単語すら出ない程に、母はいつでも笑っており、そして元気そうだったのだ。 「 ………」 いや、事実は友之が勝手にそう思っていただけだ。本当は、母は「大丈夫」などではなかったのに。 「 どうして…無理するの…」 「 え、何?」 「 ………」 母には友之の声が届かなかったようだ。2人が黙り込むと、カチカチという電卓の音だけが辺りに響いた。そういえば外で仕事をしていなかった時の母もこういう事には非常にマメな性格だった。友之は数少ない母の記憶を引っ張り出しながら、いつでもきっちりと家計簿をつけ、その生活費から自分たちの服や靴、時には学用品までも知らない間に買い揃えてくれていた母のことをぼんやりと思い返した。 そして、そんな母に満足に感謝の気持ちを伝えたことがあっただろうかと思った。 「 ……なよ」 意識しないうちに声が出た。 「 え?」 それは本当に掠れた小声だった。だから聞こえないのも無理はなかった。 「 ………」 けれど友之は自分の言葉を聞き取ってくれなかった母に思わずカッとなった。 そしてもう一度、今度は腹の底から搾り出すように声を上げた。 「 寝なよっ!」 「 ……トモ、ちゃん?」 驚いたような声と同時、母がくるりと振り返った。 「 ……っ」 その顔を見た途端、友之はよりカーッと身体中の熱が上がるのを感じてみるみる頬を上気させた。そしてぐっと握った拳に更に力を込め、自分の荒げた声で目を丸くしている母に再度口を開いた。 「 どうしてそうやって、む…無理する…っ。熱があるんだから、休まないと…駄目なのに!」 「 ……だから熱はないのよ」 ぱちぱちと両目を瞬かせて母は言った。それから機嫌を取るようににこりと笑い、首をかしげる。 「 トモちゃん、心配してくれるのは嬉しいけど。お母さん、明日までにやらなくちゃいけない事があるし、まだ休めないから。先に寝てていいから」 「 どうしてっ」 また思わず叫んでいた。母はより驚いたように体を揺らしたが、すぐに元の表情に戻るとなだめすかせるような声で言った。 「 どうしてって…トモちゃんこそ、どうしたの。本当にヘンよ?」 「 どっ…どうしてっ。心配っ…心配、するの悪いっ?」 「 悪くは…ないけど…」 「 そうやって…。隠して、無理して…。そんな風に笑われたって、嬉しくないんだ…! そうやっ…そうやって、お、お母さんは…!」 さよならを言う間もなく、死んじゃったじゃないか。 「 ……トモちゃん?」 「 ……ッ」 息子の異常な興奮ぶりにたちまち真剣な顔になる母。そんな母の顔が、ゆらめく瞳や自分に向かって何かを言おうと動く唇が、まるでビデオのスローモーションか何かのように友之の視界にザザザンと飛び込んできた。息が苦しい。ゼエゼエと荒く息を継ぎ、友之はその画像を黙って眺めながら、ちっとも冷えない身体を鬱陶しく思いつつただその場に留まり続けた。 この世界は夢ならいい。何度思ったか知れない。先刻とてそう思ったのだ。全部が夢で全部が幻。この世界のことは全部ウソ。ホンモノじゃない、と。そうすれば自分は光一郎がいて修司がいて、北川友之という本当の自分を分かってくれる人たちの所へ帰る事が出来る。全部がおかしな夢だったと笑って、このおかしな出来事もいつか忘れて。 そして。 そして、そのホンモノの世界では、母はやっぱり死んだままで。 「 ……っ…」 「 トモちゃん…」 ここにこうして生きていてくれる母が夢幻ならば良いと、自分は本当にそんな恐ろしい事まで考えているのだろうか?考えていた? 「 ちがう…」 「 トモちゃん…ねえ…」 「 僕…僕は…お母さんと…話せて……」 会えて嬉しいはずだ。そう、母はこうして目の前にいるのだから。こうして、元気で。 「 だから…具合…悪くならないで…」 せめてこの世界の母だけはいつでも元気でいて欲しいのだ。 「 お願いだから…休んでよ…」 「 ………」 「 お願いだから…」 「 ……まるで」 下を向いたままそれきり唇を噛んでしまった息子・友之を見やりながら、母がようやくはっと息を吐いて言葉を切った。 「 …本当に大袈裟ね。まるでお母さんが死んじゃうような顔して」 「 ………」 返事が来ない事に母は再び嘆息した後、手にしていたボールペンのフタを締め、改めて体勢をその友之の方に向けた。 「 でも友之、そんな風に怒れるんだね」 そして母は言った。 「 そんな風にお母さんを責めるならね。お母さんだって言わせてもらうよ。友之、いつだって無理して頑張っちゃうのは友之の方じゃない? お母さんが心配したって大丈夫だの一点張りで、学校であった事だってあんまり話してくれない、いつだって楽しいよ特に何もないよなんて当たり障りのない話ばっかりして。気を遣ってるわけよね、親子なのに」 「 ………」 投げ掛けられたその言葉に友之が驚いて顔を上げると、そこには眉を吊り上げ厳しい目をした母の顔があった。 母は続けた。 「 確かにお母さん、いつも仕事仕事ばっかりで、友之の話あんまり聞いてあげられない悪い母親だって自覚あるけど。でも、そんな風に息子に我慢されるのってね。お母さんだって堪らないんだよ。だから再婚の話だって…」 「 え…」 友之が思わず声を出すと母は途端瞳に光を宿してすかさず言った。 「 そうだよ、再婚の話だって何度も相談してるのに何も言ってくれない。お母さんが良いようにすればいいよって。お母さんは友之の意見が聞きたいのに。友之がどう思ってるのかが知りたいのに。どうして何も言ってくれないの?」 「 ……何も」 自分たちは何でも話し合える家族では…。そう思う友之に、母はたたみ掛けるように繰り返した。 「 そうだよ。友之は何も言ってくれない」 「 そ……」 「 だからそれが悲しいよ、お母さんは」 「 ……そ、それはっ」 母の勢いに最初こそ押されて度肝を抜かれた。けれどこの時、友之は不意に身体のどこかからか湧き上がった衝動に突き動かされるように口をついていた。 「 それは…それはお母さんの方だっ。いつも我慢してっ! いつも…いつも、気ばっかり遣ってたじゃないか! 父さんにも、夕実にも! 僕にも! あ、あんな…あんななら!」 あんな風にいつも寂しそうにしか笑えないのなら。 「 結婚なんか、しなければ良かった!」 「 え…?」 眉をひそめ声を消す母に、友之は気づかなかった。 友之は身体全身を使って叫んでいた。 「 家族に、ならなければ良かった!」 父とも夕実とも、そして光一郎とも。 或いは自分すら。 「 ……く、苦しい…なら…。お母さんが、悲しいなら…」 母は本当に幸せだったのだろうか。 あの家で、あんな風に過ごして、あんな風に急に亡くなってしまって。息子の自分は本当に駄目な奴だった。最低な奴だった。いや最低な奴、だ。だってそれは今も続いていて、いつだって自分の事しか考えていないのだから。光一郎に優しくされたい、修司に冷たくされて哀しい、そんな事ばかりだ。 「 大嫌いだ…僕、なんか…」 「 トモ、ちゃん…?」 「 ……っ」 掠れた母の声が耳に痛い。友之はその瞬間、ぽろぽろと涙を落として泣いてしまった。 「 友之…」 「 う…う、うぅ…ッ」 母がゆっくりと立ち上がって頭ごと抱きかかえるようにして引き寄せ背中を撫ぜてくれた。先ほど光一郎がやってくれたように。温かい手が友之の身体に触れた。 けれど友之は泣き止む事ができなかった。 「 うう、う、うぅーっ」 とくんとくんと母の心臓の音が聞こえる。母は生きている。この世界では母は生きていて、自分の母親なのだ。 その母の事をもっとたくさん知りたいと、友之は「この世界に来て」初めて思った。 |
To be continued… |
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