母・涼子の墓参りをしようと言い出すのはいつだって光一郎の方で、友之からその話をした事などただの一度もない。忘れたわけではない。忘れるはずはない。けれど友之が母との思い出を意図的に封印しようと思った事は確かだった。
  思い出すのは夕実に「悪い」から。
「 お前がそうなったのは俺のせいだから」
  自分のせいだ、と。
  だから光一郎は時間を見つけてはそう言って、定期的ではないにしても母が眠る郊外の墓地へと友之を誘った。友之が母親である涼子の事をなかなか口にしないこと、また彼女との思い出を少なからず苦いものに感じてしまっていることに、光一郎は誰よりも責任を感じていたのだ。
  ちがう、と。
  本当はすぐにでも、それこそ言われたすぐ後にでも、友之は光一郎にそう言うべきだった。墓参りに行こうと言われ、それを断る理由や気持ちは友之にはなく、むしろそう言われるといつだってやはり嬉しいと感じた。その時だけは母の事を思い出しても許される気がしていたし、光一郎と共に語る母との思い出なら、自分にとってただ辛いだけのものではない気がしたから。
「 コウ…」
「 ん…? さ、行くか」
「 ………」
「 どうしたトモ。早く来い」
「 うん…」
  けれど友之はいつだってただ黙っていた。黙って光一郎の後を追うだけで、言われるままに花や線香を供え、手を合わせるだけだったのだ。
  そして母には「ごめんなさい」と。
  ただ、そう言うだけで。


『 ね。このお話の弟君はトモ君みたいだよね。優しくて健気で。そういう子はね、絶対幸せになれるって決まってるんだよ』


  それなのに、裕子は以前そう言って笑った。
「 あ…!」
  その裕子の言葉を思い出した瞬間、友之はハッとなって閉じていた目を開いた。



  (13)



「 お。目、開いた」
「 ………」
「 おはよう友之クン。ほんの数分の夢の世界。どうだった?」
「 ……修兄?」
「 うん。もうすぐ降りるよ」
「 え……」
  長い足を組んで悠々と横に座っている修司の顔を眺めた後、友之はガタガタと揺れる自らの身体を意識しながら、寝ぼけた頭を振りつつ前方を見やった。
  ああ、そうだ。バスに乗ったのだった。
「 まだ寝ぼけてる?」
「 あ…」
  慌てて首を横に振ると、隣にいる修司はくっと喉を鳴らして少しだけ笑った。一番後ろの5人席に座っているのは友之たちだけだ。帰宅途中のサラリーマンや学生もちらほらと乗車しているが、思ったよりは混雑していない。むしろ前方の席にもぽつぽつと空きがあった。そんな中、修司は後方の席でまるで王様か何かのようにリラックスし、そんな自分とは正反対にまるで落ち着かない様子の友之に気づくと、再びやんわりとした目を向けて言った。
「 バスの方が早いと思ったから乗っちゃったけど、ちょっと渋滞にハマッたな」
「 ………」
「 でも、まあ良かったかな? 友之クンもうたた寝するくらい疲れていたわけだし。そりゃそうだよな。知らない間に知らない場所まで行っちゃってたら」
「 あの…」
「 うん?」
「 僕の家…」
「 ああ。だからちゃんと送ってやるって言ったろ?」
「 ………」
「 心配しないで、修兄ちゃんについてきな」
「 修兄…」
「 うん。修兄、修兄。まあ…それもいいかもな」
  友之の言葉を軽く受け止めたように返しながら、けれども修司は涼し気なその目をさっと他所へ向けた。友之は自分から視線を逸らす修司をじっと見やりながら、あんなに慌てて母の元へ帰る、帰りたいとせがんだくせに、バスに乗るや否やすぐに寝こけてしまった自分を恥ずかしく思った。
  それでも今、隣に修司がいてくれるのは頼もしい。
「 修兄は、本当に今の僕の家が分かる…?」
「 うん?」
「 ………」
  母とのあのアパートはもうこの世界にはないのではないだろうか。何となく、友之はそんな根拠のない思いに駆られていた。そしてそのせいでぎりぎりと胃の締め付けられる思いがした。一瞬でも意識を失って寝てしまったのはきっと修司がいたからこそで、本来ならば今気を飛ばす事はとても危険な事のように思えた。
  またいつ知らない何処かへ飛ばされるとも限らないから。
「 本当言うと、友之クンの家って俺知らないんだよな」
  そんな事を考えている友之に、不意に修司がそう言った。驚いて顔を上げる友之をちらと楽しそうに見下ろしてから、そう発した修司はまたくっと小さな笑みを零した。
「 だって俺たち知り合ったばかりだろ? 友之クンにお呼ばれされた事もないし? あの時だって友之クン家に送ったの光一郎だったからさ。だから正直、『家に帰りたい、でも家が分からない〜!』って喚いた友之クンには呆れたよ。いや、そんな事言われても俺に分かるわけないじゃんって」
「 あの…」
「 ああ、でも大丈夫大丈夫。駅に着いたら光一郎に電話して訊くからさ。あ、でもあいつさっき携帯圏外だったからな。けど裕子とかに訊いても分かるかな?」
  どう?という目を向けられ、友之は困惑した。あちらの世界の裕子なら、勿論自分の自宅など知っているが、「こちら側」の裕子はどうだろう。幼馴染というわけでもなさそうだし、今の母と自分との自宅を知っているかどうか。
「 わ、分からない…」
「 そう? でもあいつ、随分と友之クンのこと気にしているようだったから。たぶん夕実から聞いたりしてるんじゃないかと思うんだよな。あいつ、夕実と仲いいだろ? ほら、キミの未来のお姉さん」
「 ………」
「 俺はあの子ちょっと苦手なんだけど」
「 え」
  思わず声をあげると、修司は珍しいものを見たというような顔をしてから口元を歪めた。
「 何かねー、相性悪いの。たぶん。俺が光一郎とも裕子とも仲いいのが気に食わないのかね?」
「 ……でも、裕子さんとは」
「 ん?」
「 仲、いい?」
  何となく夕実から話題を逸らすと、修司は裕子の話をされる方が嫌だったのか、一瞬だけ言い淀んだようになって沈黙した。それから再びふいと視線を窓の外へやりながら、素っ気無く言った。
「 仲、いいよ。それなりにね」
「 ………」
「 友之クンは俺が光一郎と仲悪いの嫌だって言ったけど、裕子はどう? やっぱり悲しい?」
「 …うん」
「 ……そうか」
  ふ、と微かに笑って修司はそれきり沈黙した。その時、ゆったりと進んでいたバスが次の停車駅の名前を告げるアナウンスを流した。修司はにゅっと腕を伸ばして横にある降車を知らせる赤いボタンを押した。
  駅前に停車したバスを降りたのは友之たちだけではなかった。いよいよ本格的に暗くなってくる。帰り道を急ぐ人で、通りはなかなかにざわついた雰囲気を有していた。
「 さあ、それじゃ友之クン家を探す冒険、始めるとしますか?」
  修司が友之の背中をぽんと押して茶化すように言った。友之はそんな修司をちらと見上げてから、改めてもう十分見慣れたはずの風景をぐるりと見渡した。
「 駅、は…」
「 うん?」
「 ちゃんと、見覚えがある…」
「 ……そりゃそうだろうな。だって毎日ここからガッコ行ってんだろ?」
「 ……うん」
  そうなのだ。この駅は知っている。だからここからの帰り道だって自分はよく知っているはずなのだ。知っているはずなのに。
「 なあ。光一郎か裕子に電話して訊いてみてもいいけどさ。もう一回だけ、自力で帰ってみたら?」
  その時、茫然と立ち尽くしている友之に修司が言った。
「 今度はちゃんと帰れるかもよ? もしまた友之クンが迷子になったとしても、今度は俺がちゃんとついててやるから。な?」
「 修兄…」
「 あのね、もしかして光一郎から聞いた事あるかもしれないけど、俺も時々自分家って忘れるんだよなぁ」
  ぐりぐりと友之の頭を撫でながら修司は何でもない事のように言った。
「 完全に帰れない、忘れちまったってのとは、実はちょっと違うけどな。けど足が遠のくのはホント。何もかも意識から消えて家が『消える』事はある。……俺の頭からぱっと消える事は」
  そして友之がそれに対し何か答える前に修司は尚も続けた。
「 けどさ、さすがの俺もそういう事する度に俺を叱り飛ばす親父さんや裕子なんかにはちょっと悪いと思うわけだ。そんでその後は決まって、『俺みたいな薄情もんはいつかホントに帰る所ってやつがなくなるんじゃねーの』って。思わなくもない」
「 そんなの…」
「 でも友之クンはそういう俺とは違うわけだから。帰れると思うんだよなあ」
「 ……は…」
「 え?」
「 薄情者…だよ…」
「 誰が?」
「 僕……」
「 え…はは、何で?」
「 ……忘れてたから」
「 あん?」
「 ………帰る」
「 あ、ちょっと」
  修司に全部を言うのは躊躇われて友之はそれだけ言うと先を歩き始めた。修司の言う事も自分の事も、もしかするとおかしな見当違いをしているのかもしれない。けれど友之はこの時は少しだけ自分と修司の似ているところを見つけたと思った。
  忘れるわけはないと思いつつ、やっぱり自分は「忘れていた」のだ。ずっと忘れていた。自ら思い出そうともしなかった。いつも光一郎が「行こう」と言わなければ、母の墓参りすらしようとしない薄情者。
  いなくなった母のことを思い出そうともしない、駄目な息子。



「 トモちゃん! お帰り! ど、何処行っていたの、心配したのよ…っ」
「 お母、さん…?」
  けれど友之は帰りついた。
「 何だ、あっさり着いちゃったね」
  玄関に立つ友之の背後から修司が半ば拍子抜けしたような声でそう言った。ドアが開いた瞬間、だっとの如く外まで迎えに出た母の涼子は、息子と共に現れたそんな修司に思い切り面食らったようになって目をぱちくりと瞬かせた。
「 あ、あの…?」
「 あ、すみません。荒城です。光一郎君の友人の」
「 あ…。ああ、この間もお会いしましたよね。あの、今日は息子と…?」
「 はい。すみません、友之クンがあんまり可愛いのでついナンパしてしまって」
「 ええ…? あ、あはは、あらやだ!」
  はじめこそきょとんとしていた母は、けれど全く物怖じした様子のない修司の笑顔に気を抜かれたようになって途端破顔した。そうして何度も頭を下げて、「ご迷惑お掛けしました」などと言って友之にも礼を言うように促した。
  それで友之も母に対面できた驚きからようやく立ち直り、慌てて修司に振り返った。
「 あの、修兄…」
「 ん…良かったね。帰れてさ」
「 あ、ありがとう、修兄…」
「 いーよ。俺も面白かったから」
「 ………」
  修司はにっこりと笑ってから、もう一度母の涼子に会釈するとそのまま何事もなかったかのように帰って行った。友之は暫くそんな修司の背中を見送っていたが、何故あれほど迷い帰り着けなかった自分が帰れたのか、やはり修司がいてくれたからなのだろうかとぐるぐると動きの鈍い脳細胞を無理に動かした。
「 面白いお兄さんね。光一郎君のお友達?って言ってたわよね」
「 あ、うん」
  母の声に友之は再びはっとしてまた家の中に向き直る。母がいる。間違いない。あんなに心配して、あんなに不安に思っていたのに、アパートが消えていた事などまるでなかったかのようだ。
  自分の気のせいだったのだろうか。
「 それより早くあがって。お腹空いたでしょ? ご飯もう出来てるわよ」
  母の「いつもの」様子に友之は何とも言い難い気持ちのまま、黙ってその背中を見つめた。



「 お店に行ったらやっぱりというか何というかで凄く怒られちゃってね」
  静かな夕食を済ませた後、母は台所の片づけもそのままに「さっき途中で止めちゃってたから」とテーブルの上に画用紙やらマジックやらをガチャガチャと広げ出した。
「 仕方なく帰ってきたんだけど、お母さん、本当に元気なのよ? 全然具合悪くなんかないからもう暇で暇で…。それで、来月からの新メニューとかオススメのおかずとかを描いたポスターでも作ろうかなって」
「 ………」
  深刻な顔で黙りこくる息子を相手に一方的に喋るのは、さぞかし疲れる事だろう。けれども母はめげずに手を動かしながら、楽しそうにそんな話を続けた。確かに母の顔色は昨日よりもずっと良いように見えた。頬にも赤みが差していたし、はきはきと話す口ぶりも健康そうだ。心の中で安堵の気持ちを抱きながら、友之はそれでも沈黙したままただ母の隣に陣取って軽快に動くその手を観察していた。
  すらすらと動く母のその手は魔法のようだと友之は思った。
「 来月は若鶏のから揚げ大プッシュ。あとはね、デザートにかぼちゃのプリン! トモちゃんも好きだよね?」
「 ………」
「 たくさん作って家にも持って帰るからね。お客さんにも好評なんだ、月替わりプリン。お母さんも色んな種類のを作るのが毎月楽しみ」
「 ………」
  元気だった頃の母も友之や夕実が小学生の時まではおやつにプリンを出す事が多かった。カボチャのプリンや牛乳プリンが友之のお気に入りだった。他にも生クリームやフルーツをたくさん乗せたものも食べさせてもらえた。……友之がそのおやつを殊の外喜ぶと、夕実が「こんなのもう飽きた」と言って、母に違うおやつを作らせるようになってしまったのだが。
  そんな昔の出来事をつらつらと考えながら、友之は母の滑らかに動く手によって白い画用紙に次々とつけられていく華やかな色をじっと見つめ続けた。母は料理だけでなく絵もうまかったのか。そんな事を考えながら、ただ目だけを忙しく動かしていた。
  その時。
「 あ……」
「 え?」
  ずっと口を閉じていた友之が思わず声を漏らしたことで、しきりに動いていた母の手が止まった。友之の画用紙に注がれた驚いたような顔に途惑ったような笑顔を閃かす。
「 ……どうしたの?」
「 その花…」
「 え?」
  友之が茫然と言葉を漏らすと、母は一旦は聞き返したもののすぐに「ああ」となって得心したように頷いた。それから使っていたマジックの蓋を閉めると、傍にあった色鉛筆のケースを引き寄せ、紫色のペンを取り出す。
  そして友之がしきりに見やっている花を指して言った。
「 シオンよ。お母さんたちのお店の名前にもなっている花」
「 シオン…」
「 そう」
「 ………」
「 可愛いでしょう?」


『 トモ君、これね。シオンって言うの。アスターとも言って、それは星の意味があるんだよ。ね、花びらが星みたいに広がってるでしょ?』


  不意に裕子が言っていた台詞が友之の脳裏を過ぎった。
「 お母さん、この花好きなんだ」
  母の涼子が絵の花に目を落としながら言った。
「 知ってる? トモちゃんは、この花の花ことば」
「 ………」
「 そんなの知らないよね」
「 ……れ、ない」
「 え?」
「 ……忘れない…」
  友之が呟くように答えると、母は「え! そうそう!」と感心したように頷いた。
「 よく知ってるね。あれ、前母さんが教えたのかしら? シオンにはね、《追憶》とか《君を忘れない》っていう意味があるの。大切な事だよ。そういう気持ちを持つって事はね、とても大切な事だと思うの。そこには人の優しさとか思いやりとかね、そういうの持っていようって願いも込められていると思うから」
  何も発しない友之の表情に母は気づいていなかった。紫色のペンを持ち、既に塗られた花びらにシャッと新たな色を付け加える。
「 お母さんね、色んな事忘れないでいたいんだ。悲しいこととか辛いこともいっぱいあるけど、そういうのも全部忘れないようにしようって。そうしたら嬉しい思い出だってその分もっと嬉しく思い出せると思うから。うん」
  1人頷き、母は友之に視線をやらず続けた。
「 お店出した時真っ先にこの名前がいいって思ったの。母さんはお店で出会った大切なお客さんのことも忘れない。逆にお客さんにも母さんたちのお店やその想いを忘れないでいてもらいたいなって。そういう意味もあるんだよ」
「 ………」
「 トモちゃん?」
「 ……ご」
「 え?」
「 ご、ごめん…」
「 え? 何、どうしたの?」
「 ごめんなさい…」
「 ちょっと…」
「 ごめん…」
  友之は母の顔をまともに見られなかった。
  だらりと項垂れ、ただ謝る事しかできなかった。母を忘れようとしていた罪悪感、母との思い出を封じ込めていた罪悪感に苛まれてどうしようもなくなった。
  ただどうしようもなかった。

『 この話の弟君、トモ君みたいだよね。優しくて健気で。そういう子はね、絶対幸せになれるって決まってるんだよ』

  だから友之は、あの時裕子が言ってくれたその台詞は「違う」と思ったのだ。あの話を思い出したバスの中でも、やはり「違う」とそう思った。
  ほんのひと時眠ってしまったあの時間の中で、友之は不意に吹いた風に記憶の扉を押し開かれた。そうしてずっと靄が掛かったようになって思い出せないでいたあの時の裕子の話を鮮明に思い出した。「おばさんの墓前に添えてね」と言って友之に薄紫色の花―シオン―を差し出しながら言った裕子の話。
「 この花が出てくる昔話があってね。仲の良い兄弟のお母さんが病気で亡くなってしまうんだけど。兄弟はお母さんのことを心から弔ってお墓参りをしたんだって。だけどお兄さんの方は仕事が忙しくなって段々お墓参りができなくなって、それでお母さんが亡くなった悲しみごと全部忘れようとしちゃったの。でも弟の方は逆にお母さんを忘れちゃいけないってシオンを持ってお墓参りを続けたんだって。シオンはね、《あなたのことを忘れないよ》って意味があるから」
  そして裕子はそんな話を友之に聞かせた後、「似ている」と言ったのだ。
  この話に出てくる母親想いの弟は、友之に似ていると。優しいからと。
  優しくなんかない。それは違う。
「 絶対違う…」
  友之には裕子のしてくれた話と自分とを結びつけることなど、どうしたって無理だと思った。自分は母親思いの息子ではない。毎回墓参りに行こうと誘ってくれるのは兄の光一郎の方で、自分はただついていくだけ。母を忘れないどころか、無理に忘れ去ろうとしていた親不幸者なのだ。裕子の自分に対する身びいきはいつでも過ぎるところがあるが、どこをどう取ったらこの話と自分が繋がるのか、友之には分かりかねた。
  話の最後では、その親思いの弟は「明日の事が前の晩に分かる力」を授かり幸せになるとの事だった。これも友之には何だかよく分からない話だった。友之にとってそういった未知なる力は恐ろしいもので、別段欲しい能力なんかではなかったから。
「 トモちゃん。友之。一体どうしたの?」
「 はっ…」
「 どうしたの。ほら、顔を上げて」
「 ……ッ」
  俯いたまま動きを止めてしまった息子を叱咤するように、母の涼子が珍しく強い口調で友之を呼んだ。友之の頬を両の手で挟んで無理に自分の方を向かせると、心底心配そうな目を向ける。
「 ねえ、どうしたっていうの。どうして謝るの? 何を苦しんでるの?」
「 母…」
「 お母さんに言って。ねえ話して。トモちゃん、お母さんのこと嫌い?」
「 そんなわけない…っ」
「 じゃあどうして…。そんな風に悲しそうな顔をするのよ…」
「 ……お母さん」
「 何?」
「 ……っ」
  口を開けば「ごめんなさい」しか出そうになくて、友之はまた歯を食いしばって視線だけを母から逃がした。両手で顔を挟まれているので身体を逸らす事はできない。居心地が悪く、身体がぱっと熱くなっていた。また涙が出そうになった。
「 トモちゃん、あのね…」
  けれどそんな友之に母が再度口を開きかけた時だった。
「 あら…?」
  母が不審な声を上げてふっと後ろを振り返った。友之がそんな母の動作に気づいて目をやると、母は友之を離して立ち上がり、「はい」と言って玄関に向かった。
  誰か来たのだろうか。インターホンの音にはまるで気づかなかったが。
「 どなたですか…あら。まあまあ」
「 ……?」
  母の驚いたような、それでいて明るい声に友之は自然誘われるようになって立ち上がった。部屋から顔を出して玄関先に目を向ける。
「 あ…!」
「 す、すみません…。こんな時間に突然…」
「 いいの、いいのよ。でもどうしたの光一郎君。何だか顔色が悪いけど」
「 コウ兄…!」
  思わず友之が叫ぶと、光一郎もはっとした顔になってこちらを見た。その瞬間、自分を見るその目が何だか「チガウ」と友之は思った。
「 コウ兄…?」
  けれど問いかけるように発したその声は微かに唇が動いただけで、玄関先の光一郎にまでは届かなかった。
「 ……っ!」
  ただ友之はその時、しっかりと見た。
  ほぼ反射的にだろう、ふらつく足取りで一歩前へ踏み出した友之に、光一郎はすぐさま手を差し伸べようとしたのだ。それは最初に会った時の呆れたような困惑したようなそれではなく、また偽善から出た行動でもなく。
  「いつも」の、いつだって傍にいてくれる時の光一郎で。
「 コウ、兄…」
  何故か視界が薄っすらとぼやけていた。それでも友之は目の前の光一郎から視線を逸らす事ができなかった。



To be continued…



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