(14) 「 ごめんねえ、何もないんだけど」 「 …いえ…」 恐縮する光一郎に笑いかけながら、母の涼子は居間のテーブルに運んできたりんごと包丁を手にとって、実に器用な手つきでシャリシャリとその皮を剥き始めた。 友之はやや緊張した面持ちでいる光一郎の横顔を隣の席から正座した格好でそっと見やった。滅多に見る事のない表情だった。光一郎はいつでもどんな状況でも常に落ち着いていて物怖じした様子がない。そんな兄だからこそ時に萎縮してしまう事もあったが、逆にそんな光一郎だからこそ、友之は安心して頼ったり甘えたりする事ができたわけだ。 「 ………」 ところが今の光一郎はどうだろう。黙ったまま、ただ視線を真っ直ぐ母の涼子に注いでいる。 何事か深刻そうに考えこんで。 「 そうやって2人で並んでいると」 すると沈黙の重いその空気を破るような声で母が口を開いた。穏やかな眼差しは手の中のりんごに向けられたままなのだが。 「 何だか本当の兄弟みたいね」 「 え…」 光一郎の乾いた声が後に続いた。友之がはっとして身体を揺らすと、途端ぎくりとしたように光一郎の肩口も揺れた。 「 ……あ」 視線があった。 光一郎がちらりとこちらを見た事で、友之の心臓は一気にどくんと早鐘を打った。 「 ふふ」 そんな2人の様子に気づいているのかいないのか、相変わらず母はマイペースにりんごの皮を剥き続けている。そうして4等分にしたもののひとつを完全に剥き終わると、皿に乗せる事もなくそれをすっと光一郎に差し出した。 「 はい。一番手は光一郎君」 「 え…あ、いや俺は…」 「 光一郎君はお客さんなんだから。当然一番でしょ。ね、トモちゃん」 「 えっ…」 突然自分に向けられたその言葉に焦りながらも、友之は慌ててこくんと頷いた。そのまま流されるように光一郎に視線をやり、もう一度頷く。 「 ……す…み、ません。それじゃ…」 たどたどしい声。やはりおかしいと友之は思った。遠慮がちに手にしたりんごをまじまじと見つめ、それからゆっくりとそれを口にする光一郎。無言のままだ。目が離せなかった。食い入るように見つめていると、母の涼子がおかしそうに声を立てて笑った。 「 ちょっとトモちゃん。貴方ね、人が食べているところをそんなにじっと見たりしないの。失礼でしょう」 「 あ…」 「 それじゃ光一郎君だって食べづらいじゃない。ねえ?」 「 え?」 「 ……って、あら? 気づいてなかったの?」 「 はあ…」 「 あら、何だ。あはは」 ぼんやりとまた考えこんでいたような光一郎は、母の涼子と友之のやり取りを最初から聞いていたわけではなかったらしい。話しかけられて初めてハッとしたようで、そんな光一郎の態度に母は思い切り顔を綻ばせた。 「 光一郎君って意外にも…あ、こんな事言っていいのかしら。でも、やっぱり…うーん、何だかイメージ違うかも」 「 え…?」 「 あ、気を悪くしたらごめんなさいね。でも光一郎君って町内きっての品行方正な優等生で通っているでしょう。いつでもきちっとしていて、あんまりこういう…ぼーっとしたような顔って見た事なかったから」 「 ………」 「 親戚同士の集まりの時も、家長みたいな風格漂ってたし」 「 え?」 これには友之が思わず声を上げた。怪訝な顔をして母を見やると、母の方は「ああ」という顔をしてから苦笑した。 「 そういえばトモちゃんは連れて行った事なかったもんね。でも前話さなかったっけ? お葬式に行った時のこと」 「 お葬式…? 誰の…?」 「 誰のって…。北川の大叔母さんのお葬式よ。そんなに経っていないでしょう? 覚えてないの?」 「 ………」 一体誰の話なのだろう。友之が半ば縋るように顔を上げると、それを向けられた光一郎は自身でも途惑った様子ながら声を出した。 「 そういえばあの時は家族の誰も葬儀に参列しなかったので、俺が親父の代わりに出席しました」 「 そうそう」 光一郎の反応に母は深く頷きながら、2番目に剥き終わったりんごの欠片を今度は友之に差し出した。 友之はそれをただ機械的に受け取った。 「 あの時確かお父さんはお仕事の都合で来られないって事だったのよね。まぁ親戚の叔父さんたち、最初はそれで案の定ぷりぷりしていたんだけど。光一郎君がちゃあんと礼儀正しく皆を回って挨拶した後には、もうすっかりご機嫌になって収まって。あの時は感心したわ」 「 ……いえ。あんなもの―」 「 ん?」 「 あ…何でも…」 「 え? ……ふふ、どうしたの?」 「 はい…」 何か言いそうになりながらも黙りこむ光一郎に、母は小首をかしげて笑いかけながらも無理に問いかけようとはしなかった。そうして再びやってきた静寂を消すように、母はまた包丁を動かして残りの皮剥きも再開し始めた。 「 ………」 徐々に色が変わっていこうとするりんごを手に、友之はただじっとそんな2人のことを見つめた。幸いにも、激しく鳴り響いていたはずの心臓の音は、今はもう徐々に元のリズムを取り戻し始めている。ぎこちない手つきでりんごをかじった。甘酸っぱい味が口の中いっぱいに広がる。友之はその味覚に神経を浸しながら、やはり一方で考えていた。 ここにいる光一郎は、本当に「あの」光一郎なのだろうか。 「 ……ぁ」 唇を開きかけて、けれど友之は誰に咎められるでもなくその口を閉じてしまった。空気を抜かれて一気に萎んだ風船のように、訊いてみようかというその思いは、そう思った直後にはもう吹き飛ばされて消え入ってしまった。 この場で問い質せない事はある意味では当たり前なのだけれども、それでももし仮にここに母がいなかったとして、友之は今隣にいるこの光一郎に「それ」を問う事ができるのか、自身でも疑問だった。最初に光一郎と玄関先で目が合った時、そして自分に手を差し出してくれる所作を見せてくれた時、「もしかして」と友之は思った。刹那、修司が言っていた光一郎の不審な言動が思い出され、また自分の事を思い出してくれたような表情を脳裏に浮かべ、その思いはより強まっていった。 けれどもそう思う一方で、既に「こちら側」の光一郎と出会い接してしまっている友之は、それらの推測が全て自分にとってただの都合の良い願望なのではないかという思いも完全に消す事ができなかった。だからあと一歩を踏み出す勇気が持てないでいた。 「 あの…」 その時、光一郎の思い切ったような声が響いた。友之は驚いて顔を上げた。 「 はい?」 それは母にしてもそうだったのだろう。多少意表をつかれたような顔をして、けれど相変わらず人の良い笑顔を見せて、母は光一郎に「何?」と聞き返した。 「 あの、お…涼子さんは……」 「 あら!」 「 え?」 突然声を上げた母に光一郎が驚いたように声を止めた。母はくしゃりと目を細めて片手をひらひらと振った。 「 あ、ごめんなさい、何でもないの。でも、いつも私のこと『おばさん』って呼んでいたのに、急に『涼子さん』なんて言うから驚いちゃって」 「 え!? あ、すみません!」 「 ああ、いいのいいの! 嬉しいんだから」 やっぱりおばさんって呼ばれるのには、どんなに年取っても抵抗あるもの。 母はおどけたようにそんな事を付け足した後、無事剥き終わった残り2切れのりんごを皿に乗せた。 そして改めて光一郎を見やる。 「 それで何を訊こうとしたの?」 「 あ…はい」 光一郎はやたらと憔悴しているように見えた。友之はハラハラとした思いでそんな兄を見つめていたのだが、不意に母の視線がじっとそんな自分に向けられている事に気づき、ぎょっとして身体を後退させた。 母はそんな友之の様子にくすりと小さく笑った。 「 ………」 対する光一郎の方は、そうやって息子である友之に慈しみの視線を向けている母の様子に茫然とし、またしても声を失ったようになっていた。何に驚いているのか、光一郎は母のそんな一挙手一投足に動揺しているようで、問いかけた口を改めて閉じるとまた黙りこくってしまった。 「 コウ兄…」 友之がそんな兄に恐る恐る声をかけると、光一郎ははっとしたようになってすぐさま視線を向けてきた。右斜めの視線からこちらを見やる友之の瞳が心細そうな事にようやく気づいたようだ。光一郎は先刻まで途惑っていた表情を無理に毅然としたものに戻すと、「大丈夫」と目だけで合図し、きゅっと唇を引き結んだ。 「 ねえ、やっぱり」 するとそんな2人にまた母は可笑しそうな声で言った。 「 やっぱりさっき私が言った通り。2人は兄弟みたいね。もうずっと昔から一緒にいたような」 驚いて何も返せないでいる友之たちに構わずに母は続けた。 「 あ、でも、うーん…。何だかそれ以上かもしれない。だって2人とも何も話さないでも何でも分かり合えてるみたいな顔してるし。兄弟だってそうは簡単にいかないからね。そういうのよりももっと強い絆を感じるな。いいね、男の子同士はすぐに仲良くなれて。ちょっと妬けちゃう」 「 あの…」 「 光一郎君」 先に言葉を出そうとした光一郎を制し、母は不意に凛とした声を放って言った。 「 友之、本当に貴方のことを頼りにしてるんだね」 母のその言葉に光一郎はぴくと微かに身体を揺らした。表情に変化はなかったけれど、驚いているような空気は傍にいる友之には強く感じられた。 2人を前にして母の涼子は尚も淡々と発した。 「 この子、ずっと前からお兄さんが欲しかったんだものね。ああ、お兄さんというか。自分のことちゃんと見てくれる大事な人」 「 お…母さん…?」 「 お母さん、いっつも自分のことばかりで友之のこと見てあげてなかったから…」 「 おか…」 急にツキンと胸が痛んで、友之は母を呼ぶ声を途中で消してしまった。 何だ? 「 あ……」 また前触れのない不吉な予感に襲われて、友之はぎゅっと片手で胸を抑えた。 息が。 「 今は…貴女がいるじゃないですか」 けれどその痛みに呻き声を上げそうになった時、不意にそう言う光一郎の声が聞こえて、友之はその音がする方へ首を動かした。 「 コウ…」 微かに呼んだが、この時の光一郎は友之の方は見ず、ただ母の涼子を見たまま、ややもすると厳しい面持ちで言葉を続けた。 「 どうしてそんな言い方するんです。こいつが…不安になるでしょう」 「 え? あ…そうかな? あはは…ごめんね」 急に怖い顔をしてそんな風に言う光一郎に面食らったのだろう、母は困ったような目をしてから「ごめん」と言い、続けざま友之を見やって決まり悪そうな顔をした。 「 ごめんねトモちゃん」 「 あ……」 「 ただ…。うん、やっぱり。色々反省する事はあったかなと」 「 何でです」 光一郎がすかさず訊くと、母は「ええ、と」と教師に怒られた生徒のように片手を頭にやってからぼそぼそと口を動かした。 「 あのね、今回の…光一郎君のお父さんとの結婚の事にしてもそうなんだけど。どんどん話が進んでいったでしょう。それこそこの子と話しあう時間もないまま、周囲だけで話が進んでしまって」 「 親父との…」 光一郎が呟くように返すと母は「そう」と相槌を打ってから続けた。 「 光一郎君も分かっていると思うけど、うちは元々光一郎君の家の…北川家の分家でしょ。だから私のお祖父さんお祖母さんなんかは特に光一郎君のおうちにはお世話になった事あったから。このお話が来た時は皆喜んだのよ。私は家と折り合いが悪かったんだけど、そんな事まるでなかったみたいに皆ニコニコしちゃってね」 「 ……聞いた事あります。親父自身はあまり…そういう親戚付き合いは好きではないと言ってましたけど」 過去の出来事を反芻するように光一郎が答えた。母がそれに再度頷く。 「 うん。そうなのよね。光一郎君のお父さんはそういうの嫌いなのよね。知ってる」 「 ………」 自分は知らない。 そう言いかけたものの、うまく2人の中に入れず友之はただ沈黙していた。自分の家、正確に言えば家族以外の親戚の事など、詳しく考えた事は友之には1度もなかった。以前、数馬にその事を指摘されて「そんなのおかしい」と言われた事はあるけれど、友之にはいつでも家族、とりわけ夕実のことだけで精一杯で、そして自分にはその夕実がいてくれればそれで良かったから、それ以外の血筋の者の事など考える必要はなかったのだ。 しかし当たり前の事だけれど、自分に母の涼子がいたように、母にもまた母親がおり、そして祖母がいるのも事実なのだ。母の生前、一度もそういった人たちの話を聞いた事はなかったが。 否、聞こうともしていなかった。 「 ………」 反して光一郎はそんな友之よりは幾らか事情を知っているようだ。じっと母の話を聞いているその表情は、その思い出を楽しんだり懐かしんだりしているわけではなさそうだったが、それでも真剣に話に耳を傾けているようには見えた。 「 それで」 母が言った。 「 自分勝手な身内が嫌いと思っていてもね。結局、いつもそうなのよ、私は。あの人たちと同じなの。いつもこの子に何の相談もなく事を進めてしまうの。この子が何も言わないのを良い事に甘えてしまっているのよね。本当はたくさん話さなくちゃいけない事があるはずなのに」 「 お母さん…」 「 トモちゃんがここ数日光一郎君の所を頼っているの見てね、お母さん思ったよ。本当、良くないお母さんだなあって」 「 そんなことない…っ」 「 ………」 慌てて否定したが、母は沈黙したままそう言った友之の言葉を流してしまうと、くるりと光一郎を見やった。どこか寂しげな母の顔。それは友之の記憶にもある、自分たちの世界にいた母の顔そのものだった。 「 ……後悔してるんですか」 すると光一郎が言った。 「 親父との再婚…」 「 えーと。まだしてないけどね」 「 ……どっちでもいいです。断れなくて、それで仕方なく?」 どことなく翳りのある光一郎のその声に、友之はびくりと怯えたようになって身体を揺らした。 怒っている? 「 コ…」 瞬間的にそう察知してしまい、友之は「どうしよう」とうろたえた。怖い光一郎は苦手だ。元来光一郎は理不尽な怒りを見せるような人ではないが、もし今その不機嫌な感情が自分やここにいる母に向けられているのだとしたら、それはひどく悲しい事だと友之は思った。 「 ……っ!?」 けれど怯えたように身体を硬直させた直後。 手持ち無沙汰の左手を不意にぎゅっと握られて、友之は思わず声を失った。 「 あ…?」 光一郎が黙ったまま友之の手を掴んだのだ。テーブル越しとはいえ、その所作は向かいに座る母の涼子にも見えたかもしれない。 「 コ……」 「 どうなんです」 けれども光一郎は依然母の涼子に視線を向けていた。尚鋭く問いかける。 「 後悔してるんですか。親父との再婚」 「 ………」 「 俺たちと家族になったこと…」 「 ……そんなわけないよ」 静かな声だった。 母のその音に促されるように友之が今度は目の前の母に目をやると。 「 ふ…」 母はもうとうにそんな友之と、そして光一郎を見て笑っていた。 「 この結婚話に家のごたごた話は関係ないのよ。そんな事関係なく…そういうしがらみなんか知らないで、光一郎君のお父さんは私の事を見つけたって言ってくれたんだもの。お父さんは本当に自由な人だよね。いつも厳しそうな顔しているけど、本当は自分の世界をたくさん持っている素敵な人だもの。あんな人、好きにならない方がおかしいでしょう」 それに、と付け加えるようにして勢いよく母は言った。 「 初めて夕実ちゃんを見た時にね、思ったんだぁ。ふふ…トモちゃんには悪いけれどね。ああ、こんな可愛い娘を持つのもいいなって。夕実ちゃん、元気で楽しい子だけど、早くにお母さんと離れて結構な甘えたがり屋さんでしょう。こんな子のお母さんになったら楽しいだろうなって。そう思ったのよ?」 「 ………」 「 それと、光一郎君も」 母は光一郎に実直な顔を向けると言った。 「 こんなに出来た息子の母親になれるのも。きっと幸せな事だと思ったもの」 「 ………」 「 トモちゃんも絶対喜ぶって思ったしね」 「 ………」 光一郎は何も言わなかった。 ただ友之は、自分の手を握る光一郎の力がこの時不意に強くなったと感じた。 お母さん、どうしてあんな親父なんかと結婚したんだろうな。 折に触れそう言っていた光一郎。今、どんな気持ちなのだろう。勿論、ここにいる光一郎は「こちら側」の光一郎で、自分にそう言っていたホンモノの光一郎ではないだろう。きっと、違うだろうと思う。けれどどちらの世界の光一郎にしろ、息子でさえ忌み嫌うような父親と再婚しようという涼子の想いを訝しんでいたのは間違いないはずだ。 それが、こんな風に全く害のない笑顔で父親との再婚を前向きに考えている台詞を吐かれて。 光一郎は今、一体どんな思いでいるのだろうか。 「 だけど、そういう事全然話せなかったから。ね、トモちゃん」 「 え…」 やっとという感じで母が息を吐きながらそう言ったのを、友之はぼうとしながらも耳にはっきりと入れた。慌てて顔を向けると母はほっとしたような顔をしていた。 「 でも、こういう話って何だか照れるのよね。トモちゃんも積極的に聞こうって感じじゃなかったし。もしかしてこの話には反対なのかなって思ってたし…。だから良かった、今日光一郎君がここに来てくれて」 「 俺は…」 「 うん? この件の事で来てくれたんだよね?」 「 ………」 光一郎は答えない。そして未だ友之を握る手を離さなかった。 「 ………」 友之はそんな光一郎を再度不安そうに見つめたが、やはり声をかける事はできなかった。 それから小一時間程して光一郎は席を立った。 「 またいつでも来てね」 玄関先でにこにこしている母と隣で複雑そうに見送る友之。光一郎はどことなく精彩の欠いた顔をしていたが、やはり礼儀正しくきちんと頭を下げると「お邪魔しました」と挨拶し、踵を返した。 ガチャリと開かれたドアの向こう、冷たい夜の風がびゅっと友之の鼻先を掠めた。 行ってしまう光一郎の背中を眺めながら、友之はソワソワとしつつ、かといって帰って行く光一郎に「行かないで」とも言えず、ただ眉をひそめ立ち尽くしていた。 「 トモちゃん」 すると光一郎が出て行ったすぐ後、母がこそりと囁くように友之に話しかけた。 「 ねえ…。光一郎君と一緒に行きたい?」 「 え…」 「 行きたいなら…行ってもいいよ?」 「 お母さん…?」 「 だって」 母が思い切り苦笑して言った。あの寂しそうな目で。 「 トモちゃん、何だか今にも泣き出しそうな顔しているんだもの。光一郎君が行っちゃったのが悲しいって思いっきり顔に出てるよ。今ならまだ間に合うから。行ってもいいんだよ?」 「 ……でも」 「 お母さんは平気だから」 ね、行きなさい。 「 …ぁ…っ」 半ば強引に背中を押され、友之はそれに流されるようにして靴を履き、玄関のドアを開けた。たった今光一郎が触れて開けたドアノブだ。まだほんの微かにその熱が残されていた。 「 コウ…っ」 外に出てしまうともう簡単だった。 カンカンカンと勢い良く階段を駆け下りて、アパートの敷地を出るすぐ傍で光一郎の背中を見つけ、友之は精一杯の声で呼びかけていた。 「 え…?」 光一郎が驚いたように振り返る。短い距離とはいえ、1度別れたはずの相手を追いかけて息を荒く切っている友之に途惑っているようだ。 「 どう…した?」 「 あ…っ」 言いたい事がたくさんあるはずなのに、友之はすぐに声を発せない。母に言われた通り、確かについて行きたい。また、ここにいる光一郎が本当に「自分の知っている光一郎」なのかどうかを確かめたい。頭や胸や、身体全身がとにかく何かでいっぱいになってはちきれそうで、今にも爆発してしまうのではないかという気持ちになっていく。 「 はっ…」 そんな恐ろしくも却って何も考えられない状況に見舞われて、友之はただじっと光一郎を見詰めた。 「 トモ…」 すると光一郎が言った。 「 友之」 「 …っ!」 その声に、呼び声に。 友之の心臓は一気に跳ね上がった。 「 あ…」 「 ……来るか?」 「 コウ―」 けれど、光一郎にそう言われた瞬間、友之はぴたりと自分の中の時間が止まるのを感じた。次いで、何かががくりと大きく揺れたような、そんな感覚に襲われた。ぐらりと身体が傾いた。 「 あ…」 「 友之っ」 光一郎が焦って駆け寄り支えてくれたが、友之はその腕に寄りかかりはしなかった。その手を掴みつつもすぐに体勢を立て直し、友之は1人で立ち上がった。 「 友…」 「 コウ…僕…」 友之は自分でもよく聞こえないような、どこか悪夢にうなされるような声で言った。 「 僕、お母さんのところに…いてあげなくちゃ…」 「 ………」 「 今…行ってきていいって言われたけど…。そしたらお母さん、1人だし…。だから…」 一緒に行きたい。 本当は違う、本心では光一郎と一緒に行きたいと今にも叫んでしまいそうだった。それでも友之は玄関先で自分の背中を押した母のあの寂しそうな顔を思い出すと、瞬間もう言っていた。 母の傍にいてあげたいと思ったのも、自分の本当だから。 「 おやすみ、なさい…」 相手の顔を見ないでそう言った。すると途端、するりと手が離れて光一郎の身体が友之から離れた。 「 ああ…。おやすみ」 そうして静かに返ってきたその言葉。 「 ………」 光一郎のその声を耳に入れただけで、友之の胸はずくんと高鳴り、そして痛んだ。 |
To be continued… |
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