(15)



  日曜日。
  ちりりん、ちりりんと、どこか遠くで鈴の音が聞こえたような気がしたけれど、その時の友之はただ眠くて瞼が重くて、その音の出所を確かめる事ができなかった。たぶん、完全に目覚めるほんの数十分前には何か夢も見ていて、その内容こそはっきりとは覚えていないのだけれど、それを見ながら友之は「これは夢なんだな」と思っていたし、「だから大丈夫。でももうちょっとだけこんな風でもいいかもしれない」というような感想も抱いていた。
  胸の中がふわふわとして、身体ごと空に浮いてしまいそうな、そんな高揚感。
  一方で、これでいいのだろうかという不安。
「 ………」
「 あ、起こしちゃった? ごめんごめん。まだ寝ていてもいいよ」
  だからふとしたきっかけでぱっと目を開いた時、傍に立っていた母親の姿を認めても暫くの間はその状況が掴めなかった。まだその「何を見ていたか覚えていない、けれど確実にそこにいた」夢の世界での出来事が頭の中に残っていて、すぐに身体を起こす事ができなかった。
  それにどことなく、明るい母の声も遠くに聞こえるような気がして。
「 ……はぁっ……」
「 どうしたの? 朝から大きなため息なんかついて」
「 え…うん…」
  思わず大きな息を漏らしてしまうと、母は苦笑気味になりながら、未だ布団に仰向けになったまま動かない息子を覗きこんだ。それで友之もようやく意識をしゃっきりと取り戻したようになって黒い目を母の方に向けた。母は白いエプロンをしていて、両腕にこれから洗濯でもするのだろうか、枕カバーやらシーツやらを抱えていた。
「 今、何時…?」
  掠れた声で訊くと母はすぐに友之に答えた。
「 10時前だね。でも今日は日曜日なんだし。たまには寝坊してもいいよ?」
「 ううん…。起きる…」
「 そう? じゃ、カーテン開けてきてね」
「 うん……」
  すたすたと部屋を出て行く母親の背中を見送りながら、友之は自分もすぐに上体を起こした。身体は何となくだるかったのだけれど、いつまでも寝ているのは勿体無いという気だけは強くしていた。
  少しでも母と一緒にいたいと思ったから。



「 何処か行く?」
  最初にそう言ったのは母だった。きつね色に焼けたトーストにゆったりとした動作でバターを塗っていた友之は、にこにこしながら自分を見つめる母を不思議そうに見返した。
「 何処か…?」
「 うん。今日も仕事お休みなんだ。出入り禁止」
  朝も早いうちから同僚の牧村さんから電話が掛かってきて、「今日までは休むように」というお達しを受けたのだと、母は半ば観念したような様子で友之に告げた。熱などないという母を押し退けて強引にその事を決めただろう牧村さんの威勢の良い顔を思い浮かべながら、友之は「ならば、あの時聞いた鈴の音は電話の音だったのだろうか」とぼんやり思った。
「 あとね、牧村さん。たまには息子サービスしろって」
「 え?」
  考え込んでいる友之に母はそうも言った。絞りたてのオレンジジュースが入ったグラスを傾けながら、どことなく照れたような顔をしている。友之はそんな母の顔を不思議そうに眺めた。
「 いっつもすれ違いだからね。たまにはね」
「 ………」
「 あっ、でも誰かと約束あるなら勿論いいよ? 拡君とかクラスの子とか」
「 ………」
  遠慮がちに言うところは本当に自分の知っている母だなと友之は思う。そう、この世界に来てから怯えたり驚いたりばかりだったけれど、こうやって改めて母と向き合ってみると、母はやはり友之のよく知っている母で、他の誰でもない、同じ人だと思う事ができた。
「 ……誰とも約束してないよ」
  そんなよく知る、けれど今までまともに対峙したことのない母に友之はそう言った。少しでも一緒にいたい。そうする事が今の自分に一番必要な事なのだと、友之には「分かって」いたから。
  だから友之はわざわざ手にしていたパンを皿に置いて、まるでデートを申し込むかのように母親に向き直った。
「 一緒にいようよ…。今日くらい」
「 ……そう? ふふ、ちょっと嬉しい」
「 ………」
「 あ、でも」
  母は自分の相手をすると言った息子に殊の外明るい顔を見せたものの、すぐに思い直したようになって訊いた。
「 光一郎君とも、何も約束してない?」
「 え?」
  光一郎の名前が出た事で友之は瞬時にどきんとして反応を返した。母はそんな息子にクスリと笑った。
「 昨夜は光一郎君のこと追いかけてもすぐ戻ってきたから。その代わり今日とか何か約束してるのかなと思ったんだけど」
「 別に…何も…」
「 そうなの?」
「 うん…」
  あの時、「来るか」と訊かれて首を横に振ったのは友之だ。それでも何となく気持ちが沈んで自然返す言葉尻は弱くなった。
「 ………」
  俯きがちの友之を母は黙って見つめていた。友之自身、すぐにその視線に気づいたけれど、急に無理やり明るくする事は出来そうになかったので、誤魔化すように皿に置いたパンを手に取り、食事を再開した。
「 ふ…駄目だね、トモちゃん」
「 ……え?」
  するとそんな友之に、母の涼子は急に先刻までとは違う口調でそう言った。友之が驚いたようになって顔を上げると、わざとからかう風な目をして指先をぴんと立て、友之の鼻先を指す。
  母は言った。
「 男の子はもっと積極的にいかなくちゃね。本当に相手の事が好きなら、向こうが引いてしまうくらいに押して押して押しまくらなきゃ! たとえば、こういう天気の良い日曜日には、自分からデートの約束取り付けるとか」
「 ……な、に、言ってるの…?」
  いきなり早口になりまくしたてるようにそんな事を言う母に、友之はぽかんとして口を半開きにしたまま何度か目を瞬かせた。母のそんならしくもない多弁にも面食らったが、台詞自体にも十分途惑った。恐らくは落ち込んだ様子の息子を元気づかせるための冗談なのだろうが、母のその突拍子もない発言は、恥ずかしさを通り越して友之を呆然とさせた。
「 ……変な事言わないでよ」
「 あらそう? でも、昨夜からなーんかトモちゃんの光一郎君を見る目って怪しいなあって」
「 ……っ。そんな事ないよっ」
「 ふふふ。ムキになるところが余計怪しい」
「 お母さんっ」
  顔が熱い。
  友之は急激に温度の上がってしまった体内を必死になだめすかせようとしたが、母の面白そうな顔を前にするとますます体温が上昇してしまってどうしようもなくなった。
  光一郎への依存心が過剰である事など、友之は自身でとっくに自覚している。「この世界」へ来てからというものその気持ちにはますます拍車が掛かり、友之の事を認識していない「違う光一郎」であったとしてもその感情を止める事はできなかった。光一郎の傍にいたくて、光一郎に見放されたくなくて必死になった。
  そんな恥ずかしい部分を母に指摘されてしまうなんて。
「 あのねえ、これ真面目な話なんだけど」
  けれど居た堪れず既に真っ赤になっている友之に対し、母はしみじみとした風になって静かに言った。
「 でも、心配しなくても大丈夫だよ。あの様子じゃ、きっと両想いだから」
「 え…?」
「 光一郎君も友之のことすごく好きって感じ」
「 お母さん…?」
「 ああ…《好き》よりも、もっとおっきいものかもしれないよ。本当…凄いよね」
「 何言っ…」
「 だから大丈夫。心配しなくていいよ。どんどん迫りなさい」
「 せま……」
  からかっていない? 真面目な話?
「 ………お母さん」
「 さ、早く食べて片付けて。外行こう外! 予定がないなら今日のトモちゃんはお母さんとデートだ! うん、まぁたまにはいいよね!」
「 ………」
  もりもりとサラダを口に入れ始める母を依然として呆として眺めた友之だけれど、何故か追及の言葉が見つからなくてその話はそこで終わってしまった。
  確かに母の言う通り、今一瞬垣間見せた母の目はとても優しくて、本人の言う通り「真面目」なものには見えた。けれど「両思い」だの「迫れ」だのといった一部の大胆な台詞には抵抗を感じたし、自分の心根を見透かされたようでやはり恥ずかしいと感じだ。
  大丈夫だよ、というその一言は、胸にとても温かかったのだけれど。
「 本当、今日はいい天気だね。何処へ行こうか?」
  黙りこむ友之に、母は今日二度目の同じ質問をして笑った。





  一般の高校生男子は普通母親と2人で遊びに行く事などしないのだと母は言った。
「 普通はお母さんに誘われても嫌がるものなんだよ。恥ずかしいとか、忙しいとか言ってさ」
「 そうなの…?」
「 そうだよ。トモちゃんてそういうの全然気にしないの? 出かけようって言ったのお母さんだし、 今更こんな事言うのも何だけどさ」
「 うん…」
  そういうものなのかと思いながら、友之は母の涼子と連れ立って当てもなくいつもの河川敷の道を歩いていた。天気の良い日曜日なだけあり、多くの人が散歩を楽しんでいる。河原沿いのグラウンドでは朝も早くから多くの草野球の試合が組まれていたらしい。使い古しのボードには既に終了したゲーム結果記録が隅の方に書き残されているのが見えた。もう少し歩けば中原たちの野球チームが試合をしているグラウンドにも行き着けるはずだ。
「 友達に会ったら気まずいとかない?」
  数馬や修司もいるだろうか、何となくそんな事を考えながら先の風景を追っていた友之に母が再度訊いてきた。
「 えっ…?」
  友之はその言葉に視線を戻すとぴたりと立ち止まり、まじまじと母の顔を見上げた。悔しいかな、背丈は母の方が少しだけ高いのだ。
「 何で?」
「 いや、だから。一緒じゃ嫌かなと思って」
「 別に…何とも思わない」
  こんな言い方ではなくて、「むしろ自分はお母さんと少しでも一緒にいたいのだ」と言えれば良いのに。
「 ………」
  そうは思うものの、友之もそこはさすがに素直に口にする事が難しくて口篭った。小学生かそれ以下の頃はまだもう少しは母に甘えたいという気持ちが強かったかもしれず、夕実の傍で物欲しそうな目は向けていたかもしれない。けれどいつしかそれすらなくなり、母とまともな会話をする回数も減ると、友之は母とどんな会話をすればいいか、それ自体が分からなくなってしまった。
  今はそれをきちんとするチャンスなのだけれど。
「 ……ねえ。友之」
  その時、母が不意に思い切ったような顔をして言った。道から外れてグラウンドへ下りる草地に足を踏み入れた母は、背後から友之が追ってくるのを確認した後、途中でぴたりと歩を止めた。
「 何?」
  グラウンド向こうに流れる川に視線をやっている母の後ろ姿を何となく見つめながら友之が聞き返すと、母は何でもない事のように、けれど丁寧な口ぶりで言った。
「 今度さ。北川さんと会ってみない?」
「 え……」
「 それと、夕実ちゃんも。あ、勿論その時は光一郎君も一緒だよ」
「 一緒に…?」
「 うん。いつ言おうかと思っていたんだけど、北川さんに今度家族みんなで食事をしませんかって誘われてたんだ。友之に訊いてみますって言ってからもうすぐ1週間経っちゃう。早く訊かなきゃと思いつつ、お母さんも何となく貴方に聞きそびれていてね」
「 ………何で」
  ぽつりと呟くように言葉を漏らすと、母はくるりと振り返ってきた。日差しの眩しい空の下、母のその顔は友之にはよく見えなかった。
「 昨夜も言ったじゃない。こういう話って照れくさいから。何となく、ね。それにトモちゃんが反対なら諦めるし」
「 ……好きなんだよね」
「 え?」
「 おと…北川さんのこと」
「 ……うん」
「 夕実のことも」
「 うん」
「 ………」
「 勿論、光一郎君のこともね」
「 ………うん」
  清清しいまでに堂々とそう答える母の姿に、友之は太陽の光とはまた別に眩しいものを感じながら、目を細め頷いた。すうっと何かが降りてくる感触。昨夜も嬉しかったけれど、改めてその言葉が聞けて友之は改めて胸の中がすっきりするのを感じた。
  母は光一郎のことも夕実のことも、そして父のことも大好きなのだ。
「 だからって」
  そして母はにこりと笑うと黙ったままの友之に向かって笑いかけた。
「 新しい家族が増えるからって、一番の息子をないがしろにしたりはしないから。あ…ははは、いつもほっときっぱなしのくせにこんな事言うのも何だけど。でも、うん。お母さんにとって友之は大事な可愛い息子だから」
「 ………」
「 あー、何で何も言ってくれないのよ。普段が普段だから信用ならないとか?」
「 ううん」
  唇を尖らせる母に友之はふっと苦笑するとすぐに首を振った。何だか不思議だ。どうしてあの時もこんな風に話せなかったのだろう。幾らでも出来たはずなのに、どうして。
  後悔の気持ちを織り交ぜながら、それでも友之は今この時を共にいる母の顔を真っ直ぐに見据え、きっぱりと言った。
「 僕も母さん…とても大事だよ」





「 あー、友之君! こんにちは!」
「 ……裕子さん」
  中原たちが試合をしているグラウンドにまで歩いて行くと、そこには既にピクニックシートを敷いてその試合を観戦している裕子の姿があった。草むらにそれを敷き、傍に水筒やらお菓子やらを用意している裕子は思い切り寛いだ様子で、刺繍の施されたロングスカートにスニーカーという格好もこの場にとても似合っていると感じられた。
「 良かったらここ来て! 今私1人だし、誰かナンパしてくれないかなあって思ってたんだ」
  にこにことした裕子も「いつもの」裕子にしか見えなかった。友之は抵抗なくそこへ行き、すとんとシートの隅に腰を下ろした。裕子はそんな友之を嬉しそうに見やった後、背後をきょろきょとやりながら訊いた。
「 友之君も1人?」
「 うん」
「 そう。正人たちの試合、観に来たんでしょ?」
「 うん。本当は…」
「 ん?」
「 母さんも…さっきまで一緒だったんだけど」
「 あ、そうなんだ。何? 先に帰っちゃったの?」
「 ううん…。ちょっと職場を盗み見してくるって言って…」
「 ええ? あはは、何それ?」
  おかしそうな顔をして笑う裕子に友之もつられたようになって少しだけ笑いながら、元気良く声を出している中原らの試合風景に目をやった。まだ試合は序盤で、得点は入っていない。けれど丁度打席はチームの中心人物、電器店の村さんが入っていて、俄然盛り上がっている様子だった。
  一緒にこの試合を観に行こうと言ったのに、母は「友達もいるでしょ。1人で行きなさい」と言った後、自分は職場を覗いて来ると一方的に告げ行ってしまった。母はそれについて行こうとする友之の事も「すぐに戻るから」と追い払う仕草すらしてそれを許してくれなかった。デートだなどと言っておいて、息子と2人で歩く事に抵抗を感じているのは母の方ではないかと不満に思った友之だが、1人で歩いているうちに「ああ、こんな風に過ぎる程気を遣ったり遠慮深いところは、やはり母らしいな」と妙に納得もしてしまった。それは遅い朝食を摂っている時に見た母の態度からも感じた事なのだが。
  1日中いい年頃の息子を束縛する事に何となく罪悪感を抱く母。それは友之のよく知っている母の姿なのだ。
  勿論そんな母を歯がゆく感じ、またそれに素直に従ってしまう自分を駄目だとも友之は感じたのだが、それは互いが本当の親子だと強く実感できた瞬間でもあった。
「 相変わらず弱いチームよね」
  不意に裕子の声が耳に入り、友之ははっとした。
「 このチームの打線、村さんくらいしかいないし、頼りになるの」
  裕子は傍の水筒を持ち上げると紙コップにその中身―紅茶―を注ぎながら言った。
「大砲がいないと、チームもどうしても地味になるよね」
「 正兄は?」
  友之が訊くと、裕子は「あんな奴」とバカにしたような言い方をしただけで特にそれ以上の感想は述べなかった。そうして紙コップに淹れた紅茶を友之に渡してから、傍にある美味しそうなスナック菓子やらチョコレートやらを友之にさっと指し示した。
「 それより、ねえねえこれ食べて! たくさん買い過ぎちゃったよ。私1人じゃ食べきれないし。余らせると後であいつらに食べられちゃうから。友之君が食べてよ」
「 ……こんなに?」
  友之がやや引き気味になりながら訊くと、裕子はどことなく皮肉めいた顔を閃かせて苦く笑った。
「 ヤケ買い。修司のバカのせいでね」
「 え?」
「 あいつの病気はいつもの事なんだけど。また人との約束放棄してどっか行っちゃった」
「 ………」
「 ホント、何考えてんのか全然分からない。あいつの放浪って毎回毎回本当意味ないから余計にむかつくんだよね。ただ逃げ出してるだけでしょ、現実から」
「 そんな事…ないよ」
「 え?」
  遠慮がちに、けれど思わず口を開いてしまった友之に裕子がびっくりしたように目を見開いた。友之は慌てて視線を逸らしたけれど、「だって」と修司の優しい笑顔を思い浮かべながら続けた。
「 修兄は…帰ってきた時には…いつも凄く綺麗な写真持って、帰ってきてくれる…」
「 修司が…?」
「 うん。あんなの…誰にも撮れないから」
「 ああ……そういえば」
  友之の言葉にふと思い出したようになって、裕子は何かを考えるように顎先に指を掛けた。そうして何故か途惑った風な笑いを浮かべた。
「 マスターが言ってた。あいつ、珍しくがちゃがちゃとカメラ道具一式担いで出て行ったって。一回は止めたって言ってたのに、どういう風の吹き回しだろうって」
「 ……本当?」
「 うん。何も…執着しないあいつなのにね…」
「 ………」
「 ねえ…。友之君…」
  けれど裕子が言い淀んだようになりながらも、何かを言いかけた時だった。
「 とーもー君ッ!」
「 わ…っ」
「 なっ!?」
  友之と裕子は、突然背後から掛けられたそれに揃って驚きの声をあげた。
「 わ、わ…」
  しかも友之はその声と同時に背後からいきなり抱きつかれたものだから、心臓が飛び出さんくらいの勢いで度肝を抜かれ、身体全身を震わせてしまった。
「 ちょ…ちょっ…!」
  さすがの裕子もその突然の「襲撃者」に声も出なかったらしい。それでも友之のガクガクとした様子にハッと我に返ると、傍のスナック菓子を投げつけながら怒鳴り声を上げた。
「 ちょっと香坂君! 何なの急にっ! 驚くじゃない!」
「 ええ〜? 別にいいじゃないですか。裕子さんに抱きついているわけじゃなし」
「 友之君には抱きついているでしょ! ちょっと早く離れなさいよっ。友之君、驚いて石になってるじゃないの!」
「 ええー」
  突然現れた無敵の高校生・香坂数馬は、裕子のその叱責にはまるで動じなかったものの、自分に抱きつかれ硬直してしまっている友之の様子には「やれやれ」と言った顔を浮かべた。
  それで離れたりはしなかったのだけれど。
「 トモ君、キミもこういうのに耐性つけておいた方がいいよ。世の中物騒だしさ。いつ拡クンとか拡クンとか裕子さんが抱きついてこないとも限らないじゃない」
「 今現在抱きついているのはあんたでしょ!!」
「 うるさいなあ、もう」
  裕子に言われた事でますますぎゅっと抱きしめる腕に力を込めた数馬は、それでも友之が何の反応も示さないと知ると少し気分を害したようで、背後からふっと耳に息を吹きかけてきた。
「 ひっ…」
「 あ。やっと声出した」
「 ちょ、ちょ、ちょっとちょっと香坂君〜!」
  半ば悲鳴を上げる裕子を無視して数馬は友之に話しかけた。
「 トモ君、今日絶対ここ来ると思ったよ。だからボクもね、会いに来てあげたよ。嬉しい?」
「 か、か、数馬…」
「 な、な、何さ?」
  どもる友之をバカにしたように真似する数馬。
「 ……っ」
  けれども友之はそんな数馬に抗議の声すら上げられず、かと言って未だ動悸の早まった心臓を落ち着かせる事もできず、穏やかだった日曜日の昼下がり、突如として来訪してきたその襲撃者の体温にただ翻弄された。
「 い、痛いよ…っ」
「 だって。痛くしてんだもん」
「 数…」
「 どうよ? 今日のボクは、ボクらしい?」
「 え……」
「 それともボクらしくなくて、やっぱり怖かったりして?」
「 ………」
  冗談とも本気とも取れる数馬の台詞に途惑いながら、けれども友之は徐々に慣れてきたその腕の力と熱に懐かしいものを感じてはっと息を吐き、肩から力を抜いた。
  数馬は口は悪いけれど、こうやって抱きしめてくれる時にはいつでもどこか優しいものを感じる。その熱を自分は知っていると友之は思った。
「 ……怖くないよ」
  だからそう答えて、友之は数馬の手に少しだけ触れた。
「 ……あっそ」
  すると数馬は背後でニヤリと笑ったようだった。そうして、横でぎりぎりと怒りに震えている裕子に見せ付けるように、更に友之に顔を摺り寄せ猫なで声を上げた。
「 じゃ〜、今日はずっとこうしててあげようか? 限界への挑戦。ここにいる裕子さんと、向こうで試合そっちのけ、殺気立った視線を向けている中原大先輩様に耐えていつまでこうやっていられるか!」
「 ……っ」
「 あ? トモ君が笑った。ふふふ、面白い?」
「 うん…」
  数馬のおどけた口調に友之がすぐに頷くと、裕子が傍で悔し紛れのため息をついた。
「 友之君っていつもそうよね…。1人でいても、こうやって大抵誰かに取られちゃう…」
「 ……?」
  裕子のその呟きに友之は微かに首をかしげた。ああ、この世界の友之の事かとはすぐ直後に思ったのだけれど、友之はそのまだ見ぬ「彼」の姿を頭から消すと、今ここにいる自分が北川友之には違いないのだから…と、心の中で言い聞かせるように呟いた。



To be continued…



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