(19)



  ごとんと重い音がして慌てて振り返ると、焦って落としてしまった学校カバンと一緒に母が渡してくれたシオンの鉢植えが転がっていた。
「 あっ…」
  しまったと思ってすぐに戻り、友之はカバンは無視してとりあえずそれだけを拾い上げた。そうして今さっきまで聞こえていた声を再度追いかけようと踵を返す。
  すぐさま後を追いかけてきた光一郎に腕を取られ止められてしまったのだが。
「 ちょっと待てって!」
「 あっ、でも…!」
「 でもじゃねえよ! いいから止まれ!」
「 ……ッ」
  強い口調でたしなめられ、友之は一気に身体を竦めて動きを止めた。指先にかけたビニール袋がそれと共にガサリと微かな音を漏らしたが、今はそちらに意識をやっている余裕はなかった。
「 まったく…。急に走り出すなよ。びっくりするだろ?」
「 ………」
「 一体どうしたっていうんだ。誰かいたのか?」
「 ………」
  うまく答えられずに友之が俯いたまま沈黙していると、光一郎は今日一体何回目かも分からないため息を1つ吐いた。そして友之がまた走り出さない事を確認してから、ゆっくりと掴んでいた手を離し、足元に放置されていたカバンを拾い上げた。友之はそんな光一郎の動作を視界の隅にちらとだけ捕らえた。
「 確かに、ここへは俺が勝手についてきたんだ。お前に話す義務なんかないけど…」
「 ………」
「 けど、差し支えないなら話してくれ。一体何しにここへ来たんだ? お前…一体誰を探してるんだ?」
「 え…?」
  光一郎の質問に奇妙な感覚を味わい、友之は伏せていた顔を思わず上げた。
「 誰って…?」
「 そうだろ。少なくとも俺にはそう感じた。誰か来るのか、ここに…」
「 別に…」
「 ならどうしてこんな所へ来たんだ。今何か見たんだろ? だからいきなり走り出したんじゃないのか」
「 ……声が」
「 え?」
  ぼそりと呟くと光一郎がすかさず聞き返してきて、友之はそれだけでびくりと身体を震わせた。こんな態度では光一郎をイラつかせるだけだと分かっているのに、どうしてもうまく答えられない。もっとも、それも当然と言えば当然で、友之とて分からないのだ。先ほど耳に響いた痛いくらいの悲鳴は誰のものだったのか。どうしてこんなに胸が逸ったのか。
  自分はどうしてここに立っているのか。
「 ……俺も何でこんなにムキになってんのか分からないんだよ」
  すると光一郎が友之に負けず劣らずの押し出すような低い声で呟いた。友之が改めてはっとして光一郎を見上げると、向こうは背後に続く階段下を振り返っていてこちらを向いていなかった。
  光一郎は友之から視線を逸らしたまま言った。
「 初めてお前に駅で声掛けられた時な…。俺、実は内心でかなりむかついてたんだぜ。知ってたか?」
「 え…」
  訳の分からない事を言われて友之は眉をひそめた。しかし光一郎の方は依然として友之の方を見ていなかったから、その表情にはまるで構った様子がなかった。
  光一郎は続けた。
「 あの時のお前、何気に妹と同じ目、してたから。何期待してんだ、お前、俺に何言って欲しいんだって…さ。確かに親父たちが再婚すれば俺たちは兄弟になるのかもしれないけど、所詮は他人だろう…って。…そう、思ってた」
「 コウ兄…」
「 それで、その『コウ兄』だ」
  友之の消え入りそうな声に光一郎はようやくくるりと体勢を戻し、どことなく冷たい笑みを口元に閃かせた。ただそれはほんの一瞬の事で、光一郎はすぐにその表情を隠して俯くと、手にしていた友之のカバンについた埃を誤魔化すようにぽんぽんと叩いた。
「 ………」
  友之はその光一郎の所作を黙って見つめた。
「 あの時はお前も俺がどこか突き放した態度取ったの感じ取ってたみたいだから…いや、少なくとも俺はそう感じてた…。お、コイツ結構敏感だなって。だから…失望させて悪いとは思ったけど、これでもうそれほど関わり合いになる事もないだろうって安心してた。それでいいだろうって…思ってたんだよ」
  独白のような光一郎の語りの内容が友之には全く分からなかった。それは一体いつ交わされたものなのか、恐らくは「こちらの世界の友之」と話した内容なのだろうが、「今の友之」には、その時の事を思い出している光一郎がひどく苦しそうだというただ1点しか理解する事ができなかった。
「 でも本当は自分でも嫌になるくらいあの時の事は引っかかってた。俺は初対面のガキに何をあんな意地悪しちまったんだって。……自惚れかもしれないけどな、あの時俺に声掛けたお前、たぶん俺に夢見てただろ? 俺たちが家族になったらどんな兄貴になってくれるんだろうって…そういう目。だから普段ならやらないような態度も取っちまったし…」
「 迷惑…っ」
「 ん」
「 迷惑、だったの…? 弟になられるの」
「 ああ」
  光一郎はきっぱりと答えてから「悪い」と片手を額にかざし顔を隠した。友之のざっと青くなった顔にあからさまに動揺したようだった。
「 だからそんな顔するなって言ってるだろう…。俺だって悪いとは思ってたんだ。けど俺は…真面目に兄貴だとか長男だとかって立場にははほとほと嫌気が差してるんだ。そのせいで今までどれだけ酷い目に遭ってきた事か。……なのに正人たちと居酒屋いた時…お前、いきなり『コウ兄』だろ? 何だコイツ、馴れ馴れしいにも程があるだろって…俺はフツーにそう思ってたよ」
「 ……そう言えば良かった」
  友之は半ば茫然とした顔のまま、気づくとそう言っていた。疲れたような光一郎の顔から目が離せなかった。
  普段、光一郎が友之に向かって愚痴を発する事など殆どない。修司や正人がいる所でならそれらしいものを目にする事もあるが、基本的に光一郎という人は、己の弱い部分を他人に晒すような真似は決してしない。それは意図的にやっているものなのか、それとも最早自然の状態でそれができるようになってしまっているものなのか、少なくとも友之が知っている光一郎はいつでも毅然としていて弱味を見せない「強い」人だった。本心ではずっと以前から、もう「友之の兄」という立場でいる事を快く思っていなかったのに、友之が一番不安定な時期には黙ってその立場を受け入れてくれていた。それが友之にとって一番良い事だと分かっていたからだ。光一郎というのはそういう人だった。
「 我慢なんか…しなければいい…」
  自分のせいでそうなってしまったというのに、それを棚に上げて友之はだからこの時「こちらの世界」の光一郎の愚痴に思わずそう返してしまっていた。そんな風に迷惑なら、無理に兄貴になんかならなければいい。知らぬフリをしていればいいじゃないか。勝手な、僻みめいた気持ちがむくむくと大きな芽を出していた。
「 はっ…」
  けれどそんな友之の言葉を光一郎は一蹴してかぶりを振った。
「 それを言ったら最後、死にそうな顔してた奴が言うか?」
「 そんッ…」
「 その前にな…俺、修司に言ってたんだ。もしかして義弟になるかもしれない奴、この間駅で会ったんだけど、俺に似てかなり抑えてそうな奴だって。似てるって…さ。けど、あいつ言ってたろ? 『全然似てない』って」
「 ………」
  あの時の事を友之はよく覚えていない。
  ただ光一郎に出会えてほっとした。誰も知らない、皆が「別人」の世界で、たとえこちらの世界の光一郎であったとしても「光一郎」に会えた事があの時の友之には堪らなく嬉しい事だった。だからあの時の、物珍しがって優しくしてくれた正人や裕子、反対にひどく素っ気無く冷たい修司のことを、驚き途惑いはしたものの心の大部分を占める風には成り得なかった。
  だから分からない。分かっているのは、あの時の光一郎が友之のことを想って、「いつものように」無理をしてくれたというその事だけ。
「 ……うん」
「 ん…何が『うん』なんだ?」
「 コウ兄は…優しい、よ」
「 ………」
  友之の発言に困惑したのか、それとも気分を悪くしたのか。
  光一郎は先刻まで張りつかせていた笑みもすっと消し、急にしんと黙りこくってしまった。友之はそんな光一郎に内心ではやはり慌てていたが、あの、いきなり「こちらの世界」に来てしまって混乱していた時の自分を思い返し、確かにあの時光一郎に無碍に突き放されていたとしたら、こうまで自分を保っている事はできなかっただろうと思った。
  しかし、それでは「こちらの世界の友之」はどうなのだろう。
「 ………」
  友之はふっと思い出したように身体を捻ってまだまだ続く石階段を見上げた。既に母が亡くなっている自分の世界の緑園墓地なら、あともう少しこの石段を駆け上がれば母の墓石がある場所に着く。あと少しだ。
  しかし先刻までの友之は母の墓を目指して走ったのではなく、ただ「あの声」に誘われるようにして駆けただけだった。
  あの寂しそうな。
「 こっちの…僕?」
「 え?」
  思わず口にした友之の言葉を光一郎が拾った。そうして今度は友之の隣に立つと、自らも上方に続く石段をじっと見やった。
「 ……何見てる?」
「 あ…み、見てるんじゃ、ない……」
「 ………」
  言ってから友之は耳を澄ますように軽く顔を傾け目を瞑った。光一郎はそんな友之の様子をちらと見やった後、自らも辺りの気配に気を配るかのように静かになった。
  2人が沈黙すると、湿った風がざわりと通り過ぎ、それに伴って周囲の草が一緒になって横倒れにそよいだ。ただでさえ暗い空はますます雲を厚くし、冷たく長い雨粒が今にも降り出してきそうだった。こんな日のこんな時間に霊園の階段で立ち尽くす2人の様子は、傍から見れば確かにおかしなものだった。けれどその場にそれを指摘する者もおらず、当の2人もその自分たちの状況に構っているような心持ちではなかった。
「 何も聞こえない、な…」
  やがて光一郎がはっと息を吐き出した後そう言った。
「 うん…」
  友之も頷くと、光一郎はその様子を見やってから今度は自分が先に階段を上り始めた。何処へ、と咄嗟に訊き掛けたが、友之はその開きかけた口をすぐに閉ざした。恐らくはここにはない「母の墓」へ行くのだろうと思ったし、そもそもここへ来たいと言った自分が「何処へ行くのか」も何もないものだ。
  手元にあるシオンの花に何となく目を落とした後、友之は肩を落としたまま先を行く光一郎の後ろに続いた。


  階段を上り終えたそこは、一週間前と全く同じ風景だった。


「 ここ…」
「 どうした?」
「 ……っ」
  先を歩いていた光一郎が不思議そうな顔をして振り返った。友之は目を見張ったままその場に固まり、前方で自分を見やっている光一郎に機械的に目をやった。
  母の墓石へと続く一本の細い道。
「 ……あの時も」
  一部がたついている石畳。両サイドにある見知らぬ無数の墓石。その列。それはこの世界に迷いこむ直前、光一郎と共に訪れた緑園墓地でのシーンそのままだった。あの時もこうやって自分の前を歩いていた光一郎の背中を眺め、自分はこの道を見つめていた。鉢植えと切り花という点が異なっているが、手にしていたのもシオンの花だ。この花を携えてこのままこの道を歩き母のいない場所に行くのだと思ったら、あの時は何故だか急に眩暈を覚え気が遠くなったのだった。
「 ……おい。おい友之! どうした!?」
「 あっ…何、でも…」
  数メートル前方で光一郎のひどく心配そうな声が再度掛かり、友之は何とか首を横に振って大丈夫だと合図した。光一郎はとても納得した風ではなかったが、憮然としつつもさっと前に向き直ると更に続く道の向こうを指差した。
「 昨日憑かれたみたいに行ったのは、あともうちょっと先に行った所だ。あそこには何もなかった。あるわけないのにな…」
「 うん…」
  当たり前だ、ここの世界の母はまだ生きているのだから。光一郎の声を聞きながら友之は促されるように頷いた。それから手に提げていたビニールごと友之は鉢植えを両手で持ち上げ胸に抱えると、袋から顔を出している小さな花を覗きこんだ。先ほどから強くなってきている風に揺られて、花は震えるようにさわさわと揺れていた。友之は先を行く光一郎のことを気にしながらも、暫しの間立ち止まってその花の顔を見つめた。今朝方別れた母の笑顔がちらりと脳裏を過ぎった。
「 知ってるよ、それ」
  その時、背後で突然そう言う声が掛かった。それによって友之は驚きのあまり持っていた鉢を下の石畳にガシャンと落としてしまった。
「 あっ…!」
「 あっ…!」
  思わず声を上げてしゃがみこんだ友之に、背後の「その人物」も全く同じ反応を見せた。振り返って誰かを確認しようとしたのだが、何故かこの時の友之は屈みこんだ姿勢のまま後ろを向く事ができなくなっていた。金縛りにあったかのように身体が壊れた鉢を前に動かない。型の崩れた土と一緒にその場で倒れてしまったシオンの花。その光景しか友之には見る事ができなかった。
「 ごめん…。大丈夫?」
  背後の人物はそう言ってひどく申し訳なさそうな声を発した。同時に、ゆっくりとこちらに近づいてくる足音が友之の耳にすうっと入ってきた。軽い音。それほど大きな人ではないようだ。声も聞き覚えのないものではあったが、あの声色は自分と同じくらいの少年だろうと思った。
「 ……平気、だから」
  恐る恐るそう言いながら何とか手を動かそうと試みる。けれどこの時の友之は壊れたすぐ目の前の鉢にすら触れる事ができなかった。しゃがみこんだ体勢のまま、指先の1本すら動かす事が叶わない。だらだらと汗だけが額を転がり落ちて、友之は急に背筋が寒くなるのを感じた。
  何故だか無性に怖いと思った。
「 俺も」
  すると背後の少年が友之の心を読み取ったかのようにそう言った。
「 俺…怖い。何か、怖い。自分が怖い。何なんだろう…? 自分で自分の事が凄く怖いんだ。不安に、なる…」
「 ……不安?」
  小さく小さく聞き返すと、相手は友之のすぐ後ろまで来て止まり「うん」と答えた。気の弱そうな、それでいて優しそうな声だった。
  友之の気持ちはそれでふっと楽になった。
「 俺、自分の事が分からなくなっちゃって嫌になっちゃって…何でか分からないけど、気づいたらここにいた。逃げてた。……俺、ホントはすごい偽善者なんだ。強がったり平気だって顔見せて、本当は嫌だって思う事でも、いつだって周りに合わせて周りのいいようにしてた。それで母さんが喜ぶならそれでいいって思ってた。でも本当は…寂しい時だってあったんだ」
「 ………」
「 だから完全に隠せなくて、親友には無理してるのバレバレで…もしかしたら母さんにだってとっくの昔に良い息子の演技なんかバレてたんだ。……バカみたいだよ。大体、もう子どもじゃないのに母さんの前ではいつまで経っても『俺』って言えないんだ。外ではちゃんと今みたいにさ…『俺』って言えるのに」
「 そんなの…」
「 どこかで甘えてるんだよ。そういうのって」
「 ………」
「 そう思わない?」
「 ぼ…俺、も…」
  無理に言い方を変えて友之はぐっと唾を飲み込んだ。本来、友之は「俺」という呼称に慣れていない。強がりの為か或いは義務感からか、数馬や沢海の前では何とかそう言う風に自分を呼ぼうと努力しているけれど。
「 いつだって…コウ兄の前では、『僕』って言ってる…」
「 ………」
「 やっぱり…甘えてるから、かな…」
「 …光一郎、さん?」
「 ………うん」
「 ………」
  ためらった挙句それを肯定すると、背後の少年は暫し黙りこくった。しかしその気配が消える事はなく、その吐息すら聞こえる程の距離で友之は「その人物」をもろに感じていた。
  身体はまだびくりとも動かない。
「 俺……」
  地面にへばりつくようになって固まっている友之をどう思っているのだろうか。背後の少年はそんな友之をじっと見下ろしているのか、寂しげな声をぽつぽつとその背中に落としながら虚ろな声で言った。
「 心のどこかで憧れてた…。お兄さんとか…お姉さん…」
「 ………」
「 父さん、とか……」
「 あ……」
「 でも何処かでそんな自分に逆らいたい気持ちもあった。母さんと2人の暮らしでも大丈夫だって、幸せだって言ってきた自分を自分自身が全部否定しちゃう事にならないかなって…。光一郎さんの弟になれる事に喜んでる自分…何だか情けないよ、そんなの。あの時、光一郎さんに食ってかかって、どっちかって言ったら賛成か反対か、なんて訊いたの、絶対そのせいだ」
「 ………」
「 そういうのって絶対情けない。俺…もっと強くならなくちゃ」
「 ……強い、よ」
「 え?」
「 強い…」
  友之が搾り出すようにそう言うと、背後の少年は微かに哂ったようだった。それは友之を笑ったのではなく、誉められた自分自身を卑下するものなのだろうと友之にはすぐに分かった。だからそれは嫌だなと思った。
「 優しいね」
  すると背後の少年はそう言ってすっと友之の背中に触れてきた。びくんとしたが身体はそれでもやはり動かない。少年はそんな友之に今度は穏やかな笑みを零し、「あのね」と自らも身体を屈め、友之の耳元に声を投げかけた。近い。友之はばくばくと早鐘を打つ心臓がもうすぐにでも破裂するのではないかと思った。
「 あのね」
  そんな友之に少年はもう一度繰り返すとそっと言った。
「 でも、俺も君みたいになりたい…。強くないって、しっかりしてないって…ちゃんとそういう駄目な自分も認められるように…。光一郎さんにも…あんな風に下手な気を遣われなくて済むように…」
「 コウ兄は…」
「 光一郎さん、俺の兄貴じゃないもの」
「 ………」
「 ああでも…君の世界の光一郎さん…何だか凄いお兄さんみたいで、びっくりした…。あんなの…僕は望んでないから」
「 え…っ!?」
  瞬間、友之の身体は見えない鎖が解けたかのように自由になった。
「 コウ兄と会っ…」
  「動いた」と認識してすぐに友之は立ち上がり振り返ろうとした。何もかも分かってしまったという風な、やはり自分よりは数段大人なその姿を反射的に見たいと思った。怖さはいつの間にか消えていた。



「 友之!」



  しかししっかと立って背後に目をやろうとした瞬間、もうずっと前を歩いていたはずの光一郎から声が掛かった。そのあまりの切羽詰ったような声がまるであの時倒れる自分を呼んだ光一郎のようで、友之は思わずそちらに目をやった。
「 あ…」
  けれどその光一郎の顔を見たと思った途端、友之はまたがくりと視界が空へ移った。おかしい、今度は眩暈など感じなかったはずなのに、何故か身体がぐんと後ろに倒れようとしていた。
  折角立ち上がったのに。
「 ……ッ」
  この時、友之はビデオのスローモーションを見ているように自分の倒れて行く様が分かった。まるで外側から自分自身の身体を見つめているかのような、それはひどく奇妙な感覚だった。その不安定な自分を引っ張り上げたくて何かに掴まりたくて浮いた片手を宙で掻くと、不意にふんわりと何かが自分の指先に触れ、そしてがっしりと掴んできた。はっとしてその手を握ってくれた先を見やると、そこには初めて見る、けれど嫌というほど知っている顔がぼんやりと両の目に映っていた。
「 ……さよなら」
「 え…」
「 ありがとう」
「 と…友…」
  似ていない。同じなんかではない。なりようがない、赤の他人。
「 ……友之…、友之!!」
「 ………」
  薄らぐ景色の向こう、音も消え入る寸前に、自分を呼ぶ光一郎の声を確かに聞いた。けれど友之はもう目を開いていられなかった。あの時と同じように。意識がゆっくりと深い海の底へ沈み込んで行くように、友之は痛みも恐怖も悲しみも、マイナスの波動を全部投げ捨てて眼を瞑った。妙に穏やかな心持ちで視界を遮断できたのは、たぶん倒れこむ直前に支えてくれたあの手と声があったからだろうと友之は思った。
  今まで自分の事を好きになれた事はなかった。いつまでも光一郎に頼ってばかりの、情けない弱い自分。思った事もはっきり言えない駄目な自分。嫌いだった。
「 でも…」
  声にならない声で友之は微かに唇を動かした。
  少しくらいなら好きになってもいいのかな、と。










「 ………」
  信じられないくらい身体がだるい。
「 ……ん」
  目を開き意識を取り戻した時、まず一番最初に友之が思ったのはそれだった。金縛りにあった時のように身体が思うように動かなかったが、今度は自分自身が動く事を拒絶しているだけなのだという事がすぐに分かった。だらりと伸ばした両腕と両足を無理に意識しながら、友之はそれでも微動だにせず、ただ何度か瞬きをして目に映る見慣れない天井を眺めていた。
  どこだろう、ここは。
「 ……トモ」
  ああ、でも。
「 友之」
「 ……コウ」
  この声があるのなら、どこで、どんな知らない場所で目が覚めても自分は平気だと思う。友之はようやく身体を動かす気になり、機械仕掛けのように凝り固まってしまっている首を無理に声のする方へ移した。
「 ………」
  すぐ傍で、光一郎が胡坐をかいたどこか気だるそうな格好でこちらをじっと見やっていた。重苦しくて手を動かすのも億劫だと思っていた友之以上にどことなく憔悴している。友之はそんな光一郎の顔をまじまじと見やった後、そっと片手を持ち上げた。
「 トモ」
  その手はすぐに光一郎が握ってくれた。嬉しかった。
「 コウ…ここ…?」
「 ん…隣の寺。お前が起きるまでここで休んでいけばいいって言ってもらえてな。だから」
「 お寺?」
  訳も分からず言われた単語を繰り返し、友之はそれでも起き上がる気がしなくて見える範囲だけで辺りを伺った。確かに普通の家にしてはいやに広い間取りの部屋だと感じる。板張りの床に直接敷いてもらったらしい布団のすぐ横には、開け広げられた障子の向こう、丁寧に手入れされた豪奢な庭が見て取れた。
「 夢…だったの…?」
「 ………」
  友之が訊くでもなくそう呟いたが、光一郎は何とも答えなかった。ただ友之が差し出した手を両の手で大事に大事に包み込むようにして握り締めると、それに額をつけてハアと深く大きく息を吐いた。
  そうしてその一拍後には心から安堵したように。
「 心配させやがって…」
  光一郎は恨みがましい口調でそれだけ言った。



To be continued…



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