(3)



  いつもの中原なら、友之を居酒屋に連れて行く事など絶対になかっただろう。
  けれど「この世界の」中原正人は、自分も連れて行ってくれと頼んだ友之に対し暫くは黙り込んでいたものの、やがて「行きたいのか?」と聞き返した。その口調は穏やかだった。
「 はい…」
  その問いかけに友之がすぐ頷くと、中原は片眉を上げながらも「別にいいけどよ」とあっさり承諾した。そうしてどことなく手持ち無沙汰のように尻ポケットにしまった携帯を何度か出し入れしながら、中原は友之の方は見ないで続けた。
「 でもお前、具合悪いんじゃねえの?」
「 だ、大丈夫…です」
「 お前が行っても別に面白い事はねえぞ?」
「 ………」
  確認するように中原は言ったが、友之はただじっと黙ったまま目の前の「兄」を見つめた。いつもは本当にただ恐ろしいだけの人だけれど、自分が本気になって接していけばこちらの想いに応えてくれる人物だという事は知っていたから。
  だからただ、見つめ続けた。
「 分かった分かった。そんな睨むなよ」
  すると中原はまたいつもなら絶対に見られないような苦笑を漏らすと友之に向かってかぶりを振った。先刻まで俯いて地面を見やっていた中原は何となく何かを考えこんでいる風でもあったが、友之の視線がいい加減痛かったのだろう、まるで「降参だ」とでも言うように頷いた。
「 まあ、メシ食わしてやるって言ったばっかだしな。どうせコウは遅れてくるし、俺もあいつらと3人で席囲むなんて気が重いって思ってたんだ」
「 えっ…。遅れる…って…?」
  言われたその台詞に友之はあからさまに焦ったが、中原は何でもない事のように自転車に跨ると言った。
「 コウはバイト。後から来るってよ。何だお前、一緒に来たいって、あいつに会いたいわけか?」
「 ………」
「 ん? 何なんだよ。……何だっていいぜ俺は。んじゃ、乗れや」
「 ………」
  別に来ないわけではないのだし。
  思い直した友之は、中原に促されるようにして自転車の後部座席に跨った。と同時に、中原がゆっくりとだが力強い調子でペダルを漕ぎ出した。意表を突かれて体勢を崩したものの、中原の後ろに乗るのはこれが初めてではなかったから、友之は躊躇う事なく咄嗟にその背中にしがみ付く事ができた。
「 お前なあ…。そんな抱きつくんじゃねーよ、バランス崩れるだろうが」
「 ………」
「 ……まあ。いいけどな」
  中原がそう言って後は何も言わずに自転車を漕ぎ出した事が友之には有難かった。
  今朝からひどく心細い思いをしていた友之にとって、こうして中原の背中を捕まえ見慣れた風景に溶け込んでいく事は、少しだけだが心の休まるものだったのだ。



  駅前のその居酒屋は友之もよく知っている店だった。
  中に入った事はなかったが、光一郎が中原や修司とここでよく飲み会をしているのは話を聞いて知っていたし、登下校の際にいつも目にする店先に置かれた樽いっぱいの野菜―じゃがいもやピーマン、たまねぎ―や、「今夜のオススメ逸品料理」が書かれた黒板を眺めていく事は、何だかそれだけでも楽しいものだった。また若い男性店員が毎朝店先に水撒きをしている姿も友之はよく見ていた。これから学校へ行こうという自分に対し、まるで違う生活臭を漂わせているその光景が友之にはひどく羨ましいものに映る事もあった。
  しかし、そんな以前からのいわば「憧れの店」に対して感慨を抱く余裕などこの時の友之には微塵もなかった。
「 何してんだ。行くぞ」
  呆然と店の看板を見上げている友之を顎だけで促すようにして、中原はさっさと店の中へ入って行った。
「 いらっしゃいませ!」
「 いらっしゃいませー!!」
  既に日も完全に沈もうという時刻だ。
  開かれた引き戸から店内の明るい光がパッと噴き出してきたと同時、友之は明るく威勢の良いその店員たちの声に目と耳をキンキンさせて思わず立ち竦んだ。
「 ………っ」
  当たり前だが、店内にいるのは何も友之たちを出迎えた店員だけではない。がやがやと聞こえてくる大勢の客たちの声も友之には何だかとても空恐ろしいものに思えた。光一郎に会いたいという思いが立って強引にやってきたまではいいが、よくよく考えるとこんなに大勢の人間がいる場所には普段だったら絶対に近寄りたくないところだ。この店だって、いつも学校の行き帰りに何となく店先の雰囲気を眺めて楽しんでいるだけだった。それだけで友之には十分だった。
  それが、今はこんなに喧騒とした中に入り込んで。
「 おい」
「 あ……」
  しかし、とうに先へ行ってしまったと思われた中原がすぐ傍で友之を呼んでいた。怯えた風の友之を困ったように見下ろしてから、中原はまるで庇うような態度で友之の背中をぐいと自らの懐に抱えるようにして押すと、そのまま店内の一番奥、壁際の席へ友之を引っ張って行った。
「 ……あれ?」
  すると、その奥の席で既に向かいあってテーブルを囲んでいた人物の1人がひどく驚いたような声を出したのが聞こえた。
「 どうしたの正人」
  その声はとても聞き覚えのあるものだった。
「 おう。お前ら早いな」
「 悪いね正人君。折角のコウ君とのデートを邪魔しちゃって」
  そしてもう1人の人物も後に続くようにして軽快な声を発した。
「 ……っ!」
  それによってようやく友之はわざと避けていたような視界を真っ直ぐ元に戻し、声のしたテーブル席に目をやった。
  そこには裕子と修司が。
  友之にとってとても大切な人が2人、少しの料理と酒を前に寛いだ様子で座っていた。
  そしてじっとこちらを見ていた。
「 修司。テメエはいい加減そのムカつく喋り方をやめらんねえのか」
  2人の意識が既に友之に集中しているのを承知の上で、中原はむっとした声で修司を睨み付けて文句を言った。2人の仲が険悪なのはどうやらこの世界でも同じのようだ。
  勿論、憮然としている中原に対して修司の方は相変わらず飄々とした態度なのだが。
「 ははは、な〜んだよ、正人君。君もいい加減慣れれば? 俺がこんな奴だって」
「 ちっ! ホントうぜえなお前」
「 ねえ、それより!」
  中原たちの舌戦にはほとほと嫌気が差しているのだろう、裕子はそんな事はどうでもいいというように一言で切り捨てると、未だ呆と席の前で突っ立ったままの友之に笑いかけ、修司の隣の席を指差して言った。
「 そこ座りなよ? 修司、あんたもっと壁側に詰めて!」
「 はいはい」
  裕子の言う通りに素直に壁側にずれた修司は、1人分以上空いたそのスペースを片手でパンパンと叩くと「どうぞ」と友之に人好きのする笑顔を向けた。
「 ………」
  けれど友之はその一言で察してしまった。
  修司はやはり、あの修司ではないのだ、と。
「 お前ら何飲んでんだそれ? 焼酎? いつからここでやってんだよ」
  店員が持ってきたおしぼりで手を拭きながら中原が呆れたように言う。友之はその声を聞きながら席についた後はじっと俯き、自分にも渡されたその白いほかほかの湯気が立つおしぼりを手に微動だにしなかった。何をどうして良いか分からなかった。
  そんな友之を気遣う風に声を出したのは先刻も真っ先に席を勧めてくれた裕子だった。
「 さっき来たばっかりよ。それよりあんたは何にするの、ビール?」
「 ああ」
「 友之君は何にする?」
「 え……」
「 ジュースにする? それともウーロン茶?」
「 ………」
「 はは…えーっと。どっちも嫌?」
「 おい友之。飲みたいもんくらいテメエでちゃんと言えって」
  これにはすかさず中原がキツイ物言いで友之を叱った。友之はそれで途端びくりとなって、凄まれるままに「ウーロン茶を…」と小さく頼んだ。
  裕子はにこにことしてすぐに通りが掛かった店員にそれを注文してくれた。その姿はまさしく、いつもの面倒見の良い姉の姿だと思った。
「 ねえ。それで何で友之君があんたと一緒に来るの?」
「 あ? ああ、こいつが来たいって言うからさ」
  メニューを見ながら適当に自分の頼みたい物を注文する中原。横で裕子が質問する事になどまるで興味がないという風だが、一応自分が連れてきた手前友之の面倒は見ようと思っているのか、「お前も食いたいの言え」などと振ってくる。
  友之はただ中原に促されるまま、目に付いた料理を途惑いながらも指差した。
「 だから! そういう事じゃなくて何で一緒にいるの? 2人って仲良かった?」
「 別に」
「 なら何で…」
「 俺に言わせりゃ、お前こそ何でコイツの事すぐ分かった?って感じだな」
  中原は何故か皮肉めいた笑みを閃かせ、隣の裕子にちらと視線をやり、次に友之を見やった。
「 何でって…」
  言い淀む裕子に中原は続けた。
「 俺はコイツとはさっきアラキで会ったんだよ。けど最初はすぐ分からなかったぜ? コイツ、高校上がってからはあんま姿見てなかったし、やっぱこいつくらいの年って見た目すぐ変わるからな」
「 そうかな…。友之君は昔からちっとも変わってないと思うけど。小さくて可愛い」
「 はあ?」
  途惑う友之をちらと見てから、裕子はやや篭るような声で言った。
「 何で知ってるかって、そりゃあ夕実からさんざん聞かされて知ってたし。写真とかも何度も見せてもらったし。実際、河川敷グラウンドでも姿とか見てたし。…まあ、あんまり話とかはした事なかったけど」
「 何だよそりゃ。お前、そりゃ片想いの女みたいだな」
「 なっ…。そ、それこそあんた何言ってんの!」
「 何だかんだでやっぱお前も気にしてたって事か。ま、もう1人の北川ってなりゃあな」
「 何が言いたいのよ正人!」


「 ああ!」


  その時、裕子と中原の会話を中断させるような形で突然修司が声を出した。
「 ……何だよ急に」
  裕子との会話を邪魔された中原は露骨にむっとしていたが、当の修司の方はまるで構う風もなく、先刻からまるで我関せずという風に煙草をふかしていた手を止めて、自分の隣で石になっている友之を指さした。
「 この子ってあれ? 友之クン?」
「 だからさっきから友之君って呼んでたでしょ私が…」
  裕子がため息交じりにそれを肯定すると、修司はぱっと目を見開いて今度はまじまじと友之のことを見やってきた。
「 ……っ」
  修司に顔を近づけられる事には慣れていたはずだった。
  けれど友之は思わず身を縮めて避けるように顔を背けた。今隣にいる修司は自分の知らない荒城修司だ。向こうもこちらを把握していない、その事がひどく悲しくて怖くて友之は3人の中では今一番修司と話したくないと思っていた。
  けれど修司はそんな友之の思いを知っているのかいないのか、わざとつんと肩先をつつくと笑みを含めつつ言った。
「 友之クン」
「 ………」
「 ちょっとこっち向いてくれない?」
「 修司、あんた友之君を苛めないでよ?」
「 そうだぞお前。食うなよ」
「 正人。あんた、それはそれで違うでしょ!」
  思わず口走った風の中原の方を今度は呆れたように見やりつつ、裕子は依然として怯えた風の友之をなだめすかせるように優しく話しかけた。
「 友之君、こいつ変な奴ではあるけど、でもそんなに怖がらなくても平気よ。コイツってね、男女問わず可愛い子には優しいから」
「 だから危ないってんだろうが」
「 正人は黙っててよ!」
「 友之クンってば」
  2人の声など耳に入っていないのだろう。あくまでも自分のペースで修司はもう一度友之を呼んだ。
「 ………」
  修司にわざとらしい優しさを向けられる事、何より「友之クン」などと呼ばれる事が友之には耐えられなかった。それでもやはり大好きな修司に逆らう事はできない。
  友之はゆっくりとだが修司に視線を向けた。こうやって見ると、ああやっぱり修司は修司だなと思った。
「 ………似てないね」
  すると修司は言った。
「 ………?」
  分からずに微かながら首をかしげると、修司はふっと鼻で笑うと後はもう興味をなくしたようになって再び煙草を吸い始めた。その態度に何だか見捨てられた思いがして、友之は再び今日何度感じたか分からない、ズキリとした胸の痛みを感じた。
「 ねえ友之君。この間、光一郎に会ったんだって? どうだった?」
「 え…?」
  修司の気紛れには付き合っていられないとばかりに裕子が乗り出すようにして友之に再度話しかけてきた。友之が困ったような顔を向けると、裕子はそんな友之よりも困惑したようになりながらそれでも笑みを絶やさずに言った。
「 あれ? 違った? 私は夕実から聞いたんだけど。この間、友之君が光一郎に会ったみたいって。コウちゃんばっかりずるい、自分も会いたかったのにって凄く夕実悔しがっててさ」
「 どうせ来年には嫌でも顔あわせるんだろ」
  テーブルに運ばれてきた枝豆とビールを交互にやりながら中原が言う。それから「まあ、あいつはもう家出てるから関係ないだろうけど」と付け足した。
「 あれ、でもそれは分からないって話でしょう。夕実の話によると友之君のお母さんはまだちょっと悩んでいるみたいって。でもねえ、私も思った。あのおじさん強引な人だからね、ただ押されて流されて今の状況って事も考えられるもの」
「 結婚なんかめんどくさいだけだぜ」
  吐き捨てるように中原は言い、ちらと時計に目をやる。それから友之を見てふと思い出したように口を切った。
「 そういやよ、お前おふくろに電話しなくて平気か? 帰り遅くなる事とか言ってないだろ?」
「 あ…」
「 電話しろよ。心配してるかもしんねーから」
「 あ、そうねそうね。そうした方がいいよ友之君。友之君、まだ高校生なんだからさ」
  裕子も頷いて自分の携帯をさっとカバンから出すと友之に差し出した。「これ使っていいから」とにっこりと笑い、友之の目の前にごとりとワインレッドの携帯を置く。
  友之はそれを見つめて眉間に皺を寄せた。
「 どうしたよ。掛けろって」
  不審な声の中原に何とも言えない。既にこの訳の分からない状況だけで心静かに動転中なのだ。この上家に電話を掛けろなどと言われても、電話番号など知らない。
  生徒手帳でも見ればいいのか。何ともなしにそんな事を思うも、それでも手は動かない。
「 えっと友之君、どうしたの?」
「 それにしてもコイツ喋らねえなあ!」
  中原もいい加減イラついたように声を荒げた。友之はぐっと唇を噛み、仕方なく携帯に触れてみたが、手にするまではどうしてもいかなかった。
「 帰れば」
  すると。
「 ね」
  修司が友之に言った。
「 ………」
  友之が何とも言えずにただ無機的な顔を修司に向けると、そう言った「兄」の方もやはり感情の見えない目をしてただ静かな視線を向けてきていた。
「 ちょっと何なの修司」
  しかしそんな修司を思い切り剣のある声で呼んだのは裕子だった。
「 その言い方。めっちゃくちゃ感じ悪い。むかつくんだけど」
「 おい友之、こいつは何も考えてねえからあんま気にするな」
  蒼白の友之が泣き出しでもしたら困ると思ったのか、それとも裕子の味方がしたかっただけか、この時は中原までが気遣う言葉を投げてきた。
  けれどやはり修司は2人の事など眼中にないようだった。
  ただ友之を見つめて修司は形の良い唇を動かすともう一度言った。
「 帰りな」
「 ………」
  まるで魔法に掛けられたようだった。
  友之はゆっくりと立ち上がると、触った携帯を裕子の前に戻し、ぺこりと頭を下げて踵を返した。
「 お、おい友之!」
「 友之君待って! ちょっ…ごめん大丈夫よ、帰らなくていいの!」
  何故裕子が謝るのかという感じだが、口走りつつ自分も立ち上がった裕子をちらと振り返った友之は、今度こそ自分がごめんなさいという意味を込めて目だけで謝った。
「 友之君…」
  裕子には通じたようだ。黙りこむ裕子と中原、そして何を考えているのか分からない修司を見つめた後、友之はもう振り返らずに店を出た。
  前は向いていられなかったけれど。


「 あっと…」


  しかし、そのせいで。
「 ごめん。大丈夫?」
「 ……っ」
  下を向いていたせいだ。
  友之は店の外に出るまさにその瞬間、ちょうど店内に入ってこようとした人物と思い切りぶつかってしまった。慌てて動きを止めたものの、目の前に現れたその人物の身体に触れ、友之は自分を支えるようにして立つその相手を反射的に見上げた。
「 あ…!」
「 ……あ」
  2人が互いを認識したのはほぼ同時だった。
「 コ…」
  友之はその名前を呼びかけて、けれどそのまま声を失った。
「 ……友之君。どうしたのこんな所で」
  そう言った光一郎は。
  光一郎の自分を映す瞳は。


  やはり修司と同じ色をしていると思った。



To be continued…



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