(7)



「 まずい…」
  口に出して言うつもりなど毛頭なかったのに、友之は驚きのあまり咄嗟に浮かんだ本音をつい外へと漏らしてしまった。
「 ……悪かったな。だから責任持てないって言っただろ?」
「 ………」
「 普段自分でメシなんか作らないからな」
  ぴたりと箸を止めてしまった友之に光一郎はあからさまにむっとした顔を見せた。
  しかし光一郎のその態度も当然と言えば当然だ。いきなり自宅に押しかけてきた、大して親しくもない「未来の義弟」。その相手に慣れないながらも作ってやった折角の料理をこうもはっきり貶されては、気分も悪くなるというものだった。確かに涙が出る程美味い代物というわけでもないが、ハムとありあわせの野菜を塩コショウで炒めただけのものだから、決して食べられない類の物ではないはずだ。「まずい」などと口走る友之の舌が贅沢なのだ。
「 ご、ごめんなさい…」
  けれど一方で友之のその失礼な発言もある意味仕方がないと言えた。友之はこの光一郎からはいつもびっくりする程美味しくて栄養バランスの取れた食事をこさえてもらってきた。だからこの大皿に乗った大雑把な「料理」が、その同一人物から作られた物だとは到底思う事ができなかったのだ。
「 これでも啜ってろ」
  所在ない形になってしまった自らの料理を横に除け、光一郎はお湯を注いでそろそろ3分になろうというカップラーメンを友之の前に差し出した。
「 ………」
  友之は気まずそうな顔をしたまま、またしてもそんな光一郎に何事か訴えるような目を向けていたのだが、結局はだんまりのまま差し出されたカップめんを手に取った。
  「ここにいたい」と言った友之に、光一郎は予想通りの反応を示した。
  最初はただただ面食らい、沈黙。そしてその後はここにいたいとはどういう意味か、もう暗くなるし母親だって心配しているだろう…そんな風な言い方をして、友之にやんわりと帰宅するよう促した。

「 ここにいたい…いたい、です…」

  それでももう後に引けなくなっていた友之は、今にも倒れそうになる足を何とか踏ん張って再度光一郎に懇願した。すると光一郎はやはりあからさまに途惑いながら、「本当にどうかしたんじゃないのか」と気味の悪いものでも見るような目を向けた。それもそのはず、後で光一郎自身に聞いたところによると、以前親同士の再婚話がきっかけで友之と挨拶程度の会話を交わした時は、友之は「こんな風」には見えなかったそうなのだ。そう、「この世界の友之」に対する光一郎の第一印象は、片親を幼い頃から支えてきた事による自信と強さを兼ね備えた「しっかり者」という事だった。
  ささやかな夕飯の席でその話を流れるように聞いていた友之は心の中で密かに自嘲した。それは一体誰の話なのだろう。それがこの世界の北川友之だというのなら、自分は一体何者なのだ。どう贔屓目に見てもそれは今の自分とはまるで重ならない別人ではないか。
「 ……そういや友之君のお母さん、弁当屋だっけ」
  沈黙がいい加減気まずかったのかもしれない。光一郎が再度友之に話しかけた。まずいと言われてしまった肉野菜炒めにはもう自分も手をつける気がしないようで、友之同様湯を注いだカップめんのフタを取ってそちらに箸を向けている。
「 夕実や裕子からも聞いた事あるな。凄く美味しいって評判なんだって?」
「 ………」
  反応できないでいる友之。
「 あのなぁ…」
  もう何度目か分からない、ざわりとした苛立ちが、呟く光一郎の胸を確かに過ぎったようだった。それは近くにいる友之にも痛い程に伝わった。
「 ……家でも」
  けれど光一郎はその事に自身で知らないフリをしようと決めたようだ。めげずに淡々と話を続けてきた。
「 家でも美味いもん食べさせてもらってるんだろうね。そういや親父の奴も、最初はその料理の腕に一目惚れしたとか何とか言ってたような」
「 え…」
  ふと父の姿が脳裏に浮かび、友之はどきりとした。自分にとってはあまりに遠い存在の人だったが、そういえば母の料理はいつも残さず食べていたように思う。
  何故かは分からないが、その風景を思い出した時、友之の胸はまたちりりと痛んだ。
「 それに友之君のお母さんはいつも笑ってて優しそうだしな。それで料理もプロ級って…やっぱりこんな所で俺とマズイもん食ってるより、家帰ってお母さんにご飯作ってもらった方がいいんじゃないか」
「 ここに…ッ!」
  半ば光一郎の厭味とも取れるようなその発言に、しかしこれには友之もすぐにしっかと声を返した。
「 ………?」
  光一郎がそれで眉をひそめて手を止めるのを視界に留めながら、友之は恐る恐る続けた。
「 ここに…いる方がいい…」
「 ………」
「 さっきは、本当にごめんなさい…」
「 何で」
「 あっ…。まずいって、言っちゃって…」
  友之の焦って俯く姿を見やりながら、光一郎はかぶりを振った。
「 そうじゃないよ。何で家に帰るの嫌なんだ? お母さんと喧嘩でもしたの?」
「 ………」
「 そんなわけないよな。あのお母さんと喧嘩なんかしようもないだろ? 君自身、そういうタイプにも見えないし。それともやっぱり、親父との再婚話で何か揉めたとか? だから俺の所に来たとか?」
「 ………」
「 そうでなかったらここに来る理由はないよな? 親と何かトラぶってちょっと家空けるとしても、学校の友達とか、少なくとも俺以外の親しい奴の所行くだろうし」
「 ………」
「 ……まただんまり?」
  ふうと大きくため息をつく光一郎に、友之は先刻の恐怖を思い出してびくりと肩を揺らした。
  咄嗟に「ここにいたい」と言った自分に対し、途惑いながらも、そして迷惑そうな空気を放ちながらも、光一郎はやがて「……ならあがれば」という答えをくれた。それが嬉しくて切なくて友之はまたそれはそれで泣きたい気持ちがしたのだが、光一郎にこれ以上嫌な思いをさせたくなかったので何とか堪え、後はただ見知った空間に身を寄せて「いつも」自分が座っている場所に腰を下ろした。多少趣が変わっているのは否めなかったが、けれどそこは間違いなく自分がいた光一郎との住みかだった。
「 普段どんなもん食べてるの」
  光一郎が口調を変えてまた訊いた。
「 ………っ」
  はっとして顔を上げると、光一郎はカップめんを啜りながらチラとそんな友之を見返してきた。帰るうんぬんといった話に友之が反応を示さないから光一郎も諦めたのだろう、違う話をしようと思ってくれたらしい。
「 ……ハンバーグとか、から揚げとか」
「 そういうのが好きなの?」
「 ………」
  黙ったままながらもこくりと頷くと、光一郎は「へえ」と言った後、何故か少しだけ嬉しそうな顔をした。高校生と言っても光一郎から見たら友之は立派な「子ども」だ。その子どもがハンバーグだのから揚げだのが好きだと答えれば、なるほど普通の子どもなのかと安心もするというものだった。
  友之もそんな柔らかい雰囲気を見せた光一郎が嬉しくてつい口を開いた。
「 あと…オムライスとかエビフライ、グラタンも得意だからよく作ってくれる…。数…友達は、子どもが好きそうなものばかり作ってバカみたいだって言ったけど…。でも、僕が好きだから」
  そう、以前数馬に今と同じような質問をされた事があって、その時は思い切りバカにされた。光一郎さんはトモ君の好きなものばっかり作っているけど、あの人がそんなお子様メニューを嬉々としてこしらえてるサマなんてホント笑える、バカみたい、と。その時友之は口達者な数馬にまともな反論ができなくて随分と悔しい思いをした。しかしいつの間にその話題を耳にしていたのか、後日中原が「気にすんな。あのバ数馬は単にヤキモチやいてるだけだから」と言って珍しく優し気に目を細めて笑っていたので、友之も何となく毒気を抜かれてその話はそこで立ち消えとなったのだった。
  光一郎は何でも出来る。光一郎は凄い。
  勉強もスポーツも、そして料理だって何だって。それは友之の何にも変え難い自慢で、そして憧れだった。
「 ……料理なんか本見てその通りにやればすぐ出来るんだって」
  ぽつりと零して、友之はカップめんから沸き立つ湯気を何となく眺めた。
「 でも毎日色々忙しいのに、全部やるのはきっと大変なんだ…。でも、いつもご飯作ってくれて、勉強も教えてくれる…。何でも…やってくれるんだ」
  思えば自分は何という甘ったれだろうか。光一郎が何も言わずに何でもやってくれる事を良い事に、自分では何もせずただされるがままにその生活を受け入れていた。最近でこそ手伝いらしきものをするようにもなったが、そんなものは所詮自分自身を慰める程度のものにしか過ぎない。
  それなのに普段から光一郎に「ありがとう」の言葉すら満足に言えてないではないか。
「 本当にお母さんのことが好きなんだな」
  その時、目の前にいる光一郎が突然そんな事を言った。
「 え」
  びっくりして友之が顔を上げると、光一郎は優しい目をして笑った。
「 いや、友之君の事だよ。仕事して家事もやってくれるお母さんだからってそんな風に感謝してさ。最近、そんな素直に物言う高校生ってなかなかいないんじゃない」
「 ………」
「 そういう事ってちゃんと言ってあげた方がいいよ。お母さんも喜ぶし」
「 ………」
「 ああ、でもさ」
  何も言えないでいる友之に、光一郎は突然饒舌になって続けた。
「 きっとお母さんの方も友之君の事が本当に大切なんだよ。そういう話している友之君を見ているだけでよく分かるよ。……良い家族なんだな」
「 ……家族」
「 ああ」
  すぐに頷いたこの時の光一郎の顔には、偽善や厭味なものなどは一切感じられなかった。お世辞でもない、本心から友之の慕う「母親」との関係を良いものだと賞賛しているのだ。
  再び友之の胸に暗いものが差した。
「 けど、何回も蒸し返すようだけど、何でそれで俺の所に来たんだ? 本当、お母さんにはせめて電話だけでもした方がいいよ。絶対心配してるって。もう20時過ぎたし」
「 ……泊まって」
「 え?」
「 今日、泊まっても、いいですか…?」
「 ……まあ。俺は構わないんだけど」
  一瞬躊躇したような光一郎に、やはり迷惑なのだろうなと思ったが、とりあえず友之は安堵の息を漏らした。
  母に会いたくないわけではない。あんなに優しくて自分を守ってくれる母だ。むしろあそこへ戻った方が安全ではあるのかもしれないと思う。
「 ほら、電話」
  けれど。
  自らの携帯を投げて寄越した光一郎を見ながら、友之は喉にずっと刺さっているような小さな棘のようなものを感じてけほりとひとつ咳をした。
  そして渡された携帯電話をじっと見つめた。そうだ、居酒屋で裕子にこれを渡された時も、何か同じような気持ちがしたような気がしていた。
  母に会いたくないわけではないのだけれど。
「 どうしたの友之君。早く掛けなよ」
「 あっ…」
  不審な声で言われ、友之はまた慌てて顔を上げた。光一郎の不思議そうな、それでも何か機嫌を取るような笑顔が目に入ってどうしたものかと考える。
  けれど友之はやがて思いきったように口を開いた。
「 あの…番号」
「 え?」
「 うちの、番号…教えて下さい…」
「 は?」
  ぽかんとする光一郎に友之は一気にカーッと赤面して俯いた。光一郎の反応ももっともだ、どこの世界に自分の家の電話番号を他人に訊く人間がいるというのか。
「 何、番号忘れた?」
  光一郎は苦笑しながら片手を差し出すと友之から携帯を取り戻し、何やらピッピと数度ボタンを押した後、「ほら、これが君んち」とディスプレイに表示された番号を指し示してくれた。
  友之はそれをぼうとしてただ眺めた。
「 修司もそうだな」
  すると光一郎が言った。
「 あいつもすぐ自分ちの番号忘れるから。あいつの場合は家の場所も時々忘れるらしいけど」
「 ……修兄が」
「 そう。あいつから聞いた事ない? 確か仲いいんだよな」
「 ……ううん」
「 え? 違うのか? 何だ…。俺はてっきり、ようやくあいつもそういう気持ちになったのかと思ったのに」
「 え……?」
「 それに友之君も一昨日あいつを庇っただろ」
「 あの…そういう気持ちって…?」
  光一郎の話の意味が分からずに聞き返すと、光一郎はどことなく嘲るようにして答えた。
「 あいつ変わり者で有名だろ? 確かに俺や裕子あたりとはまだよく話す方だけど、根っこでは誰とも馴れ合わない奴だから。でも、友之君みたいな人とだったら馬があうのかなって」
「 ……? コウ兄は?」
「 ん? 俺が何?」
「 修兄の…親友でしょ?」
「 え?」
  友之の不可解な顔に、しかしそう言われた光一郎の方はより不思議そうになって眉をひそめた。
  それから少しだけ笑って首を振る。
「 あいつに親友なんていないよ。俺なんかしょっちゅうむかつかせてるから、確かに機嫌良い時は一緒にいる事もあるけど、基本的には『お前いらない』っていつも怒らせてる」
「 う…嘘だ」
「 はっ、嘘じゃないさ。そんな事嘘言っても仕方ないだろ? 大体見て分からない? 俺と修司じゃ性格も生き方そのものも全然違うだろ? お互いのやってる事理解できないから」
「 ……嘘だ」
「 ……? 何でそんなこだわるかな?」
  蒼白になった友之を光一郎は半ば心配そうな顔で覗きこんだ。
  友之はただ愕然としてしまい、そしてもしかすると自分がこの世界に来て一番衝撃を受けたのは今この瞬間なのではないだろうかと思った。
  光一郎と修司は親友同士ではない。照れや言葉のアヤで言った台詞ではないというのは直感で分かった。きっとこの世界では本当にそうなのだろう。光一郎と修司は、確かに友人なのだけれど、修司の中で、そして光一郎の中でも互いは「それなり」の仲というだけなのだ。一体何がどうズレてそんな風になってしまったのか。自分と違い、光一郎と修司は元々家族関係にあったわけではなく、近くに住む幼馴染という境遇に何の変化もないはずだ。
  何故、2人の関係までこの世界では違いが出てきてしまっているのだろう。
「 じゃあ……コウ兄の親友って誰?」
「 俺の? そうだなあ…」
  友之がややあってそう訊くと、光一郎は暫し考えた風になった後、苦く笑った。
「 俺も冷めた奴だからな。広く浅くがモットーだから。……あぁ、そういう意味ではあいつと似てるところもあるのか…」

  どうにも、期待はずれの兄貴でごめんな。

  意図しない台詞なのは間違いなかった。けれど友之は自分にそう言った光一郎をまじまじと見やった後、ここにこうしているのは紛れもない光一郎本人なのに、どうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろうと思った。
  それは「光一郎に認識されない事が悲しい」という種類のものではない。
  光一郎というここにいるこの人が、友之にはとても悲しい人に見えたのだ。





  そのせいだろうか、その晩友之はとにかく酷い夢を見た。


「 友之君…友之君…!」
  内容は覚えていない。真っ暗で胸が苦しくて、ひたすらに息苦しい。マイナスのイメージだけが脳全体を支配して、うまく呼吸する事ができなかった。遠い場所でしきりに自分の名前を呼ぶ光一郎の声が聞こえていたが、返事をする事も瞼を開いて合図を送る事もできなかった。
  けれど自身でも分かる悲痛な呻き声が唇の先に乗った時だった。
「 友之君! 大丈夫か、おい起きろ!」
「 ………」
「 友之君!」
「 ……っ!」
  ひゅっと小さく喉を鳴らし、友之はがくりと揺らされた身体に驚いて目を開いた。
「 ……ぁ」
「 友之君…? 気がついたか、大丈夫か?」
「 コウ…兄?」
「 どうした…? 怖い夢でも見たのか?」
  しっかりとこちらを見据えてくる瞳、それに声。
  徐々に明るくなる意識と共に、友之は自分の身体を両手でがっしりと掴んでくれている光一郎の姿をぼんやりと見つめた。
「 コウ…兄…」
「 ああ。ここにいる。……泣くな」
「 ……?」
「 泣くな…」
  ああ、優しい。光一郎が優しい。
  横たわった体勢の中、暗闇の中でそう呼ぶ光一郎の声に、友之はうっとりとして再度目を瞑った。この布団の感触、それに部屋の空気は間違いなく「あのアパート」だ。そしてそのすぐ横では、自分を気遣ってくれる光一郎の優しい声が聞こえる。
  元の世界に戻ったのだろうか?
「 友之君…」
  違う。
  本当の光一郎は自分の事をこんな風に呼んだりしない。
  友之はがっかりして、けれど呼ばれるままにまた重い瞼を開いた。
  暗い部屋の中、真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる光一郎の双眸が光って見える。
「 汗が凄いな…。熱でも出たか…」
「 ………」
  独り言のようにそう呟く光一郎の手のひらは、その瞬間友之の額にそっと乗せられた。ひやりとするその感触に友之は「ああ、やっぱりコウ兄の手だ」と思った。自分が熱を出した時は、光一郎はよくこうやって自らの冷たい手を額や頬に当ててくれた。
  そして決まって「大丈夫だ」と言ってくれるのだ。
「 苦しいか? あんな寒い所でずっと座ってたんだ、熱も出るよな…」
「 ん…」
「 何か飲むか…? 欲しいものとか…」
「 ……っ」
  黙って首を横に振ると、光一郎は微かに頷いた後、今度は氷水で冷やしたタオルを額にそっと乗せてくれた。それから再度火照った友之の頬に両手を当てて、柔らかい声で言った。
「 大丈夫だから」
  誰にでも向ける表向きの優しさだとしても。
「 明日には下がってるよ」
  それでもいいと友之は思った。
「 大丈夫だから」
「 コウ兄…」
「 ん…」
  だから友之はかさかさに渇いた唇を無理にゆっくりと開いた。
  そう、誰にでも向ける表向きの優しさだっていいのだ。
  今はこうして、自分の傍にいて欲しい。
「 コウ兄…ここに…」
  力なくも片手を差し出すと、傍に座る光一郎が一瞬息を呑むようにして途惑ったのが分かった。
「 手…」
  それでも友之は頑固にそう言い張ると、光一郎に向かって手を差し出し、ねだるように潤んだ瞳を必死に向けた。
「 ここにいて…」
「 ……ああ」
  ややあって、その声はようやく返ってきた。
「 いるよ。だから大丈夫だよ」
「 ここに…」
「 ああ、ここにいる。だからもう一回目瞑れ」
「 う、ん……」
「 ………」
「 眠る……」
「 友之――」
  友之に向けて発したようでもない、その声。
  しかしそう言って友之の手を包み込むように握ってきた光一郎の手のひらは、先刻よりも微かに熱を帯びているようだった。





  金曜日。
「 ただいま…」
「 トモちゃん、大丈夫なの! 熱が出たって聞いたけどっ」
「 うん…」
「 おばさん、すみません」
「 まあ光一郎君…。ごめんなさいね、何だか迷惑掛けちゃって」
  友之と、その友之を送ってきた光一郎を、母の涼子は真っ青な顔で出迎えた。今朝早く光一郎から電話で友之の発熱を聞いていた母は、既に息子が家でゆっくり休む為の準備を整えて待っていたらしい。友之が部屋に上がると、テーブルの上には簡単な軽食と薬、それにパジャマが綺麗に畳んで置いてあった。
「 今日は学校休んで寝てなさい。無理しない方がいいしね」
「 行くよ…」
「 えっ、でもトモちゃん」
「 俺もうちで休んでいていいと言ったんですけど」
  登校するという友之に2人はあからさまに渋い顔をした。
「 行く…」
  けれど友之は繰り返した。
  昨日はつい逃げて休んでしまった、だから今日は行かなければ。隣の部屋へ移って白いワイシャツの掛かったハンガーを取り、友之は念仏のようにもう一度「行かなきゃ」と呟いた。
「 友之君、無理しない方がいいよ」
  光一郎がたしなめるように言ってくれたが、それでも友之はやんわりと首を横に振った後、心配そうな視線を送る母にも背を向けてハアと息を吐いた。
  朝、目が覚めた時、光一郎が真っ先に具合を訊いてくれたのは嬉しかった。けれど一方で光一郎に一晩中看病させてしまった、その事が申し訳なくて仕方なかった。母の涼子にしてもそうだ。何だか後ろめたくて申し訳なくてまともに顔が見られなかった。
  つくずく駄目な自分。
「 友之君」
  すると光一郎がいつの間にか傍に来ていて言った。
「 俺はこれで帰るけど。また何かあったらいつでも来るといいよ」
「 ………」
「 うまく話せなくても…いいよ」
「 え……」
「 それじゃ。……おばさん、お邪魔しました」
「 あ、ありがとうね、光一郎君」
  去っていく光一郎の背中を玄関先にまで見送って行く母の声。
  友之はちらりとそんな2人の姿を見た後、再度はっと息を吐いた。
  まだ熱い。何かあると決まって熱を出してしまう自分が嫌いだと思った。それに何より友之が恥ずかしく居た堪れないのは、恐らく熱に浮かされた昨晩、自分はこちらの世界の光一郎に信じられない程甘え縋ってしまった。きっと光一郎はそんな自分に驚き呆れたはずだ。それを考えると友之は違う意味で己の身体全身が熱くなるような気がした。
「 トモちゃん」
「 あ……」
  そんな事を考えていると、いつの間に戻って来ていたのか、母がシャツを掴んだままの友之に声を掛けてきた。
「 本当に大丈夫なの?」
「 うん…」
「 無理しなくていいのよ」
「 大丈夫……」
「 でも……」
  母はそこで一旦止まり、けれど一瞬言い淀んだ後は思いきったように口を開いた。
「 でも昨日も…学校へは行ってないんでしょう?」
「 !」
  ぎくりとして顔を向けると、そこにはとても悲しそうな顔をした母の姿があり、友之は再び胸がつきんと痛むのを感じた。
  過去の思い出にある母の顔と今の母の顔がもろに重なった。
「 ねえトモちゃん」
  そしてそんな母は途惑い声を失っている友之に静かな声で言った。
「 やっぱりトモちゃんはお母さんと北川さんの再婚には反対なんじゃないの? ねえ…そうならはっきりそう言ってくれていいのよ?」
「 え……」
  考えてもみなかった事を言われ、友之は掠れた声しか返せなかった。
  しかしそれを肯定と取ったのか、母は薄く笑いながら言った。
「 光一郎君にもその事を相談に行ってるんじゃない? ね、母さんに言いづらい? でも母さんはトモちゃんの本心が聞きたいのよ?」
「 本心…」
「 そうよ。だって親子でしょう。今まで何だって話し合ってきたじゃない」
「 ………」
「 お母さんに何でも話してくれていいのよ?」
「 ……お母さん」
  けれど友之はそう言って自分に歩み寄ろうとする母に、逆に尻込みしたようになって一歩その場から後退した。
  ああ、そうか。この時友之は気がついた。
  光一郎に会いたい、この世界が恐ろしい。その思いが昨日の行動を引き起こしたのは間違いない。
  けれどもう1つ、友之は。
「 どうしたのトモちゃん…」
「 ……っ」
  心配そうな瞳の母に友之はあからさまに狼狽した。
  怖かったのだ。
  母と何でも話してきた、そんな記憶。この人の優しさに思う存分埋もれて縋って、そして抱きついて。
  そんな、記憶。
「 お母、さん……」
  そんな記憶は経験は、友之には一切なかったから。
  嬉しいはずなのに、どうして良いか分からない。



To be continued…



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