(8) 姉の夕実は何かにつけて「お母さんてズルイよね」、「お母さんのこと嫌いだよね」と友之に言い、それに対する同意を求めた。そうして有無を言わせぬその雰囲気に友之がオズオズとして頷くと、夕実は決まってその事を嬉々とした様子で母の涼子に「告げ口」しに行った。 母はその度困ったように小さく笑い、ただ俯いていた。 「 お母さんは優しいけどさ、でも一番好きなのはお父さんとコウちゃん。私とトモちゃんはおまけなんだから」 それが夕実の口癖だった。家にいる時はそれこそ始終母に寄り添い離れないくせに、友之と2人だけになると、夕実はいつもそんな話をしては2人を遠ざけようとした。 友之は母の事が好きだった。 夕実の前では素直に頷いていたし、母とは極力話をしないようにしていたけれど、実際「お母さんはズルイ」、「お母さんなんか嫌い」などと思った事は1度もない。学校から帰るといつも笑って迎えてくれたし、いつも美味しいお菓子を作ってくれた。運動会や遠足の前には必ず「どんなお弁当を作ろうか」と夕実や友之に訊き、また長い休みの前などは、旅行会社の店頭に並んでいたパンフレットをたくさん持ち帰ってきて「何処かへ行こう」と家族旅行を持ちかけた。あの「夕暮れの丘」へ行った事以外、大抵は夕実に突っぱねられ母の意見は通らない事が多かったけれど、それでも友之は優しい母が好きだった。あの寂しそうな笑顔でも何でも、母の事は好きだった。 ただ、「分からない」のだ。 「 いってらっしゃい…」 心配そうな顔で見送る母の視線を背中にひしりと受けとめながら、友之は鬱々とした気持ちのまま家を出た。とぼとぼとした足取りは結局昨日と何も変わりはしない。こんな事ではあの母にまたいらぬ負担を掛けるだけだと分かっているのに、混乱する心を鎮める事ができなかった。 母に甘えたい、甘えられる。そう、今こそあの時出来なかった事がそれこそ何だって出来るはずなのに。そう思っているのに、友之は母と面と向かう事が怖かった。夕実という壁を隔てた所でしか存在していなかった母。好きなのだ、それは間違いない。嫌いなはずがない、それも分かっている。それなのに友之は躊躇していた。それどころか、ふと気づくともう次の瞬間には、自分の手を取り一緒に歩いてくれた光一郎の姿ばかりが脳裏を過ぎった。 川に落ちて泣いた日。「あの時」の光一郎の声と姿と手の温もりばかり。 「 友之!」 「 !」 その時、突然掛けられたその声に驚いて、友之はびくんと背筋を伸ばしたまま硬直した。 「 あ…ご、ごめん! 急に後ろから声掛けたから…びっくりしたか…?」 「 ……拡」 恐る恐る振り返った先、そこには学生服姿の沢海の姿があった。 「 ア、 アパートの前に立ってたんだけどさ…。どうしようって思ってる間に友之が出てきたから」 「 何で…」 ここから沢海の家とは駅を挟んで反対方向のはずだ。友之が依然として驚いた目を向けると、沢海はますます困ったような顔をしながら口を開いた。 「 友之、昨日も学校休んだし…それで今日はどうするのかと思って」 「 あ…」 はっとなって友之は口を開いたまま動きを止めた。沢海とは一昨日母の職場で「明日は行く」という約束をしていたのに、結局駅には行けなかったのだ。心配して当たり前だ、それどころか故意ではないにしろ、沢海との約束を破って知らんフリしてしまった事に友之は思い切り慌てた。 「 ごめんっ」 「 え…?」 しかしそう思った瞬間、先にそう言って頭を下げたのは沢海の方だった。 「 拡…?」 深々と頭を下げた沢海に友之はオロオロとし、屈み込むようにして相手の顔を窺った。何故沢海が謝罪する必要があるのか。約束を破り、優しく気にかけてくれた沢海の気持ちを無駄にしたのは自分の方だ。 「 拡、どうして…? 悪いのは…」 「 友之!」 「 ……ッ」 小さな声を出しながら肩先に触れようとしたその時、沢海がガバリと顔を上げて向き直ってきた事で、友之は驚いて出しかけていた手を引っ込めた。 「 友之、ごめんなっ」 そして沢海は再度友之に謝った。 「 友之が昨日学校休んだ事、おばさん知らなかったんだろ? 俺がまた店に行ったせいで友之の欠席おばさんにバレちゃって…。おばさんにも心配掛けたし、友之も困らせた」 「 あ…」 何だそんな事か。 ふっとそう思った友之に、しかし沢海の方は更に1人深刻な顔で続けた。 「 俺、明日は来るって言った友之がまた来なかったから、思わず橋本に電話して友之が学校行ってるか訊いたんだけど…。やっぱり連絡なしで休んでるって聞いてさ…どうしても気になって。それでまたおばさんの店に行っちゃったんだ」 「 拡…」 「 そしたらおばさん凄くびっくりしてさ…。その瞬間しまったって思ったけど、でも…それじゃあ友之、何処行ってんだろうって。夜に電話した時もまだ帰ってないって聞いたし…」 「 ご、ごめん…」 友之がしゅんとなって項垂れると、沢海はぎょっとしたようになって両手を振った。 「 違うよ、友之が謝る事なんかない! 悪いのは俺なんだ。友之が何で休んだのか知らないけど、何かあったんだよな? でもおばさんに心配掛けないように昨日はちゃんと家出てたのに、俺が余計な事しちゃってさ…。最低だよ」 「 違う、ひ、拡は悪くない…っ」 「 友之…」 友之が必死になってそう言うと、ようやく沢海は申し訳なさそうな空気を消し、しかし今度は半ば唖然としたような顔で黙りこくった。 朝の駅へ向かう通学路は既に多くの人で込み入っていた。歩道の端とはいえ2人で立ち尽くす友之たちに胡散臭そうな視線を投げ捨てて行く人間は多く、友之はそれだけで萎縮して自然身体が縮こまった。 「 友之」 するとそれを素早く察した沢海は、友之の腕を掴むとさっと歩道を外れた建物の脇に移動して自分が外側へ立ち、友之をその人ごみから遮断した。 「 ……拡」 ややほっとして顔を上げると、沢海は照れたような笑みを浮かべ、それから再び「ごめん」と言った。 「 友之、お節介なのは分かってる。だけど良かったら言ってくれよ。三日前からヘンだろう? 俺の事を本当に俺かなんて訊いたり、学校休んで…何か怯えたような顔したり」 「 ………」 「 何かあったんなら言ってくれよ。なぁまさか……学校で誰かに苛められた、とか?」 「 え……」 「 もしそんな事あったんなら、遠慮しないで絶対俺に言えよ。友之を悪いようにはしない、だから…もしそんな奴いたら絶対言ってくれ」 「 な…で?」 「 何で? だってそんなの絶対許せないだろ。友之は俺の親友だから」 「 ………」 「 だから俺はお前のこと放っておけない」 「 ………」 友之は真っ直ぐな沢海の瞳に吸い寄せられるようにして自分もまたじっと見つめ返し、そして訊いた。 「 ……拡から見た、お…俺って…どんな人?」 「 え?」 怪訝な顔をする沢海に友之はあからさまに慌てふためいた。けれど必死になって口を継ぎ、咄嗟に浮かんだ疑問を再度繰り返した。 「 だ、だって…。そんな…苛められるようなタイプ、なの…? コウ兄は…明るくて、し、しっかりしてるって…」 「 コウ兄…?」 「 クラスに…友達だって、いっぱいいた…」 この世界へ来た初日、訳も分からず学校へ行って目にした風景は現実とはまるで逆さまなものだった。「無口で近づき難い北川友之」を避けるクラスメイトは一人もおらず、そこにいたのは「 元気でとっつきやすい北川友之」を明るく迎えるクラスメイトばかりだったのだ。学校だけではない、母の職場の人たちも友之の事は店を手伝ってくれる、しかも客寄せまでしてくれる役に立つ子どもとして歓迎してくれていた。それだけでも、友之はこちらの世界の光一郎が「自分」に対して下した印象―しっかり者―というイメージをなるほどもっともだと思ったものだ。 しかしここにいる沢海は友之の事を心配している。何かあったのか、学校でトラブルでも起こしたのではないかと。その態度は元いた世界にいる沢海拡と同じものだ。鬱屈として人との関わりを持てない友之を心配し、本来ならもっと名のある進学校へ行けるものをわざわざ放棄して友之と同じ高校を選んだ、あの沢海拡と。 「 言っただろ。俺、本当は友之と同じ学校へ行きたかった」 ぐるぐると考えを巡らせていた友之に沢海が唐突に言った。はっとして上げた視線の先には、どことなく怒ったような憮然とした様子の顔があった。 「 友之は無理してしっかりしようってところがあるだろ。勿論、おばさんに心配掛けないようにする為なんだろうけど…。だから何か辛い事とかあっても無理に隠そうとするじゃないか。だから放っておけないって言うんだよ」 「 拡…?」 「 ……けど、俺があんまりしつこくすると怒るだろ。進路の時だってあんなに…」 「 お…こる?」 沢海が発した言葉を友之はただ繰り返した。沢海はすぐに頷いた。 「 そうだよ。怒っただろ、俺が友之と同じ高校受けようとしたら。でも友之はいつも大丈夫だって無理ばっかりする。大丈夫じゃない事が起きたって自分で見なかったフリとかするじゃないか。だから心配なんだよ。……親友にくらい弱味見せろよ」 「 ………」 「 大体、誰だよコウ兄って」 むっとしてそう訊く沢海に対し、しかし友之は何とも答える事ができなかった。 ますますこの世界の「北川友之」がよく分からない。 しっかり者だけれど放っておけない? 明るいけれど我慢している? 「 母さん…みたいだな」 「 え?」 「 あっ」 思わず声に出してしまった事を沢海に反応されて、友之は急いで何でもないと首を振った。自分自身無意識に思い浮かんだ事を口にしてしまっただけだから、誰かに聞かれてしまうと分かると猛烈に恥ずかしい気持ちがした。 しかし、耳に残ったその自分の台詞は案外的を得ているような気はした。 そう、母のようではないか。この世界の北川友之という人は。 その後、友之は朝のHRこそ遅刻したものの学校へはきちんと行った。沢海には電車の中でも誤魔化したような事しか言えなかったけれど、わざわざアパートまで迎えに来てくれて心配してくれたその気持ちは本当に嬉しかった。橋本をはじめとするクラスメイトたちも風邪だったのか、もう大丈夫かといった気遣いを掛けてくれたが、沢海がくれた言葉ほど嬉しいと感じたものはなかった。 「 拡、ありがとう…」 だから別れ際、友之は駅のホームに降り立った際沢海に向かってそう言ってみたのだが。 「 ……バカ言うな」 何故か沢海は真っ赤になってそう返しただけだった。 金曜日は6時間授業、おまけに休んでいた分の課題を渡すからと担任に職員室まで呼ばれた事もあって、友之が昇降口を出る頃には辺りも薄っすらと赤味がかかって見えた。勿論、部活動に所属している者にしてみればこの時間こそが本来の学校生活だというところもあるのだろうが、この学校でそういったものを経験した事のない友之にしてみれば、グラウンドを走る元気いっぱいの姿も、校舎から聞こえてくる吹奏学部の演奏も、やはりどこか遠い国の出来事のようにしか思えなかった。 「 オラ、声出せ、声―!」 青緑のフェンスの向こう、3年生らしい威勢の良い声が耳に飛び込んできて、友之は校門へ向かう足を動かしながらもその声の方向へ視線をやった。 校舎から校門までの長い並木道の横、高いフェンスの向こうにはサッカー部が使用しているグラウンドがある。練習試合でもしているのだろうか、赤と白のゼッケンをつけた選手たちが黒いジャージを着た審判役の上級生たちに喝を入れられながら、実に機敏な動きで1つのボールを追っている。 友之の通う学校は野球部こそなかったが、このサッカー部をはじめとして活動に力を入れている部は多かった。中でも沢海が所属しているバスケットボール部は全国大会をも狙える位置にいるくらいの強豪だと聞いた事がある。…もっともこの世界のバスケ部にはチームのホープである沢海拡がいないから、その強さも多少は変わっているかもしれない。 サッカー部の練習を眺めながら友之はぼんやりとそんな事を考え、そして小さく嘆息した。 この世界の友之はどうなのだろう、部活はやっていたのだろうか。或いは「彼」もこうしてサッカーの練習を見やりながら家に帰っていたのだろうか。 一体どんな気持ちで日々を過ごしていたのだろう。 母とは、仲良くやっていたのだろうか。 「 ……いいに決まってる」 ぽつりと呟いて友之は再び嘆息した。今朝方、母は言っていた。私たちは何でも話し合ってきた仲じゃない、何かあるなら何でもお母さんに言ってくれていいのよ、と。そう、この時代の北川友之は母とはそういう関係で、何の屈託もなくうまくいっていた家族で。沢海が言うには多少無理しているところもあったようだが、それでも、少なくとも自分と「あちらの世界の母」のような遠い距離にいる関係ではなかったはずなのだ。 こんな息子が「来て」しまって本当に申し訳ないと、駅までの道をひたすらに進みながら友之は思った。 「 ………」 そしてこちらの世界の母だけではない、この時友之は既に亡くなっている自分の世界の母に対してもすまないという気持ちでいっぱいになった。今更だが、自分は何という親不孝者だったことか。夕実に流されていた、抑え付けられていたなどというのは単なる言い訳に過ぎない。むしろそんな理由を盾にして、母とまともに向きあおうとしなかった自分は卑怯者だ。あんなに優しく、そしていつでも寂しそうだった母を、自分はいつだって知らぬフリをしてきた。自分こそがかわいそう、自分ばかりが独りだと、勝手にいじけていたのではないか? 夕実だけを慕い、一方でその夕実の影に怯え、母をはじめから自分にとってないも同然、ただの同居人として扱ってはいなかっただろうか。学校へ行かなくなったのだって、周りが解釈したように母が死んだ事がショックだったからではない。夕実が自分を置いて家を出て行ってしまったから、それが悲しくて閉じこもってしまったのではなかっただろうか。 「 ……いっ…た…」 不意に胸がツキンと痛んで、友之はがくりと体勢を崩した。昨日と同じだ。直後、今度は頭が痛くなり、冷や汗が流れた。ぐらりと眩暈がして景色が霞む。いけない、こんな道路の真ん中で倒れてはいけない、必死に呪文のようにそう唱えながら、友之はよろよろと歩きながら何とか傍にあった電柱に身体を寄せた。 知らぬ間に随分と歩いたものだ。駅はもうすぐだった。 「 あと…」 そう、あとは駅の改札を抜けて電車に乗って、そして昨日完全に覚えた「我が家」へ向けて歩けばいい。それだけであの母が待っているアパートに帰り着き、そして今日は心配掛けずに学校へ行けたよ、と。拡も学校の皆も心配してくれて、先生も宿題を出してくれたりして構ってくれたよ、と。誰も彼も心配してくれて嬉しいんだ、と。 そう胸を張って報告できるはずだ。 「 ………」 頭はそれを命令している。あとたった数十分我慢すれば、今頭に思い描いたシーンを演出できる。そうしろと。 けれど。 「 …コウ…にぃ…ッ」 ちくちくと痛む胸がその思いを掻き消していく。 「 来ると思ってた」 今日はバイトがないのだろうか、インターホンを鳴らしてからすぐにドアを開けてくれた光一郎は、目の前の友之にしてやったりというような顔を見せて笑った。 友之はそんな光一郎の顔をぼうとして見上げた。 「 あ…」 すると光一郎は先刻まで出していた笑顔をすぐに消すと、今度は一転真剣な顔になって言った。 「 ……顔色悪いな。やっぱり具合酷くなってるだろ。だから無理するなって言ったのに」 「 ………」 「 あぁ、いいよいいよ。とにかく入れ」 いい加減、口を開かない友之というのには慣れてきたのだろう、光一郎は更に大きくドアを開くと、友之の返答を待たずして半ば強引に部屋の中へと招き入れた。 「 あ」 しかし玄関先にあった靴に目が留まり、友之は思わず声を上げた。 「 こんにちは」 「 ………」 急いで部屋に向かうと、そこにはベランダ越しの壁際に寄りかかり煙草を吹かしている修司がいた。友之が来る事を光一郎同様予測していたのか、別段驚いた様子も見せずに淡々と挨拶してくる。 「 学校帰り? 高校生も大変だね、こんな遅くまで勉強なんて」 「 ………」 「 ふ…。あららら、嫌われてんのかな、無視なんて」 「 驚いてんだよ、お前がいるから」 後から部屋に入ってきた光一郎が友之の代わりに言葉を切った。そうして修司を見たまま入口付近に立ち尽くしている友之の両肩をぐっと掴む。 「 そこ、座りな」 「 ………」 背後から光一郎にそう言われ、友之は促されるままに修司とは向かいの位置にあたる場所に腰をおろした。 修司はそんな友之の姿を薄い笑みと共にじっと見つめていた。 「 何か飲む? 俺と修司のは駄目だけど、それ以外のなら出してやるよ?」 言われて友之が何となくテーブルに目をやると、そこには一体いつから飲んでいたのか、随分な数のビール缶、それに以前中原が好きだと言っていた日本酒の大瓶が置いてあった。それも既に空に近くなっていたが。 「 コーラとかあるけど」 台所から再度光一郎が尋ねてきたが、友之はそれらの酒瓶を眺めたまま返事をする事ができなかった。 別に2人が酒盛りをしている光景など珍しくはない。中原や裕子ほどではないにしても、光一郎も修司もそれなりに飲めるようだったし、ハメを外したい時や何か良い事があった時などは自分たちが気に入っている銘柄のものを買ってきては静かにちびちびとやっていた。勿論友之はその酒盛りに参加させてもらえないわけだが、それでも2人が何ともなしにぽつぽつと交わす会話を聞いているだけでも幸せな気持ちになれたし、またそんな時間をとても愛しいものに感じていた。 つまりは、だからだろう、動けなくなってしまったのは。 失くしたと思っていたその時がふっと自分に返された気がして。 「 友之君?」 「 ……あっ」 しかし長い事その感慨に耽っていた友之を、当然の事ながらこの世界の光一郎は困ったように呼んできた。飲み物がいるかどうかなどという事は質問されて困るような類のものではないだろうに、いつまでも反応しない相手にさすがに呆れたようだった。 「 何もいらない?」 「 ……っ」 せっつかれるように言われて友之はますます焦って声が出なくなった。実際胸がいっぱいだから、たとえ液体だろうと今は何も口に入れたくない…かといってそのまま「いらない」というのもやはり失礼な気がする。 「 ……ぁ」 そんな情けない様子でただどうしようと口を開閉している友之に対し、それを横目で見ていた修司が何気ない口調で言った。 「 コーラでいいってさ」 「 ……!」 「 あ、そう」 自分には聞こえない声で友之がそう言ったと思ったのだろう。修司の言葉を光一郎は疑う風もなく頷くと冷蔵庫からコーラを出し、グラスにそれを注いでいた。 「 ………」 友之はそんな光一郎の様子と、未だ自分の方を凝視しているかのような修司とを身体を捻らせ交互に見やった。 「 友之君」 すると間もなく修司がゆっくりと口を開いた。片膝を立て、そこに片手を置いた格好。気だるそうに摘まれた煙草からはゆらゆらとした白い煙が上がっていた。 「 光一郎は優しいだろ? 俺と違って」 にやりとした笑みを浮かべて修司は言った。友之が何も言わないと知ると、今度はハッと嘲るような笑いになり、そしてそのまま部屋にやってきた光一郎を見やった。 「 この人は良いお兄さんだから、《それなり》じゃない友達をやってくれるよ」 「 バカか」 自分に対しての厭味だと判断したのだろう、光一郎が思いきり不機嫌な顔で友之の代わりに不快な声を出した。それから友之の隣に座ると、「はい」と言ってグラスに入ったコーラを差し出す。 「 ………」 見えない糸で操られているかのように、友之は自然な所作でそのグラスを受け取った。 「 俺は真面目だよ」 そんな些細な動作すら見逃さないというように、修司の視線は未だ友之に注がれたままだ。傍に置いていた灰皿に煙草の灰を落とす時でさえ、修司は友之のことを見つめていた。 その修司が言った。 「 友之君、今日は俺たちキミの噂でもちきり。珍しく話があっちゃって、どうかしたんじゃないって程だよ。しかも俺はフラれて傷心だけど、コウ君の方は何かおいしいポジション貰ってるだろ。ねえ、キミもまた何で突然コウ君に大接近してるの?」 「 修司」 「 お陰でこのクソ真面目が服着て歩いてるコウ君が、バイト休んでキミが来るのを待ってたときた」 「 おい、やめろよ」 「 面白いからやめない」 「 くそっ…。むかつく奴」 「 それはこっちの台詞だよ。こんな可愛いの自分だけで独り占めしやがって」 「 お前が勝手に冷たくしたんだろうがっ」 「 お前は冷たくしても懐かれてんだろ」 2人は友之がその場にいる事を当然知っているはずで、実際修司などは友之に向かって話を振っているはずなのだが、どうにも見た限りではそういう風には感じられなかった。友之がぽかんとしている中、2人は何やら不毛な言い争いを続け、修司などは表情こそ笑っているもののどことなく暗い空気を発していて友之の不安を煽った。 「 あの…っ」 だから友之はやっと声を出す気になった。光一郎の姿を、そして計らずも修司の姿を見る事で、先刻まで痛くて痛くて仕方がなかった胸の痛みが取れたからか。 それとも2人の険悪なムードが堪らなかったからか。 「 あの、喧嘩…しな…で、下さい…」 途切れ途切れになってしまった声に友之は自身で慌てた。一斉にこちらを見る二人の視線が苦しくてぎゅっと目を瞑ったものの、消えた言葉を補うように友之は続けた。 「 2人は親友だから…。いつも、仲…いい…」 光一郎が修司に向かって辛辣になったり、修司が光一郎をからかったりという事があっても、それは互いに分かり合った上でのやりとりだから、友之はいつでもそんな2人の発する空気に埋もれて安心できた。 だから今のこの会話とて、本来ならば別段心配するようなものではない、ただの軽いお喋りの1つと取っても良いはずだった。 「 やめて…下、さい」 けれど友之には分かっていた。 今のこの2人に漂う空気がいつものそれではないという事。光一郎が、修司が自分に向けている優しさがどこか上辺と警戒とを含んだものである事を。だから辛い、だから堪らないのだが、けれど何故か痛かった胸は静かだった。 「 コウ兄も修兄も…本当は…」 だから友之は言葉を出せた。 視界は真っ暗だったけれど。 「 本当は…ッ」 「 友之君…?」 「 ……あれれ、泣きそうかな?」 途惑った二人の声を耳に入れながら、友之は暫く閉じた目を開く事ができなかった。 |
To be continued… |
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