ひとりでも歩ける(1)
|
薄桃色の芝桜が一斉に咲き揃ったせいか、このところの雨続きにも関わらず、河川敷添いの表通りはどことなく明るい様相を呈していた。 「神社の桜が見ごろになるのは今度の週末らしいんだけどね。その時晴れてたら、ユリたちとお花見する約束してるんだけど、もし良かったら北川君も来ない? あ、あいつらと喋るのが嫌だったら、私と2人だけでもいいんだけど! というか、私はどっちかっていうとそっちの方が嬉しいんだけど! そしたら私はあいつらとの約束なんかポイッだから! うへへ、うへ…」 話があるからと、わざわざ友之を校舎の裏手に呼び出したクラスメイトの橋本真貴は、意味不明な含み笑いを漏らしつつ、まくしたてるようにそう言った。 ……否、橋本が友之の「クラスメイト」だったのは先月までの話だ。正確には「元」クラスメイトという事になる。短い春休みも終わり、2人は共に高校2年生となったが、その際のクラス替えで友之は1組、橋本は4組となった。1年次に知り合い、不慣れな学校生活で何かと気に掛け話しかけてくれた橋本と別々のクラスになった事は友之にとっても残念だったが、こればかりはどうする事も出来ない。 その橋本が「話があるから」と友之に声を掛けてきたのは実に3日ぶり、新学年に入ってから今日が初めてだった。 「北川君は携帯持たないの」 唐突に橋本が言った。呼び出した割に校舎の壁ばかり見て友之の方を見ようともしない。それが友之にも違和感だったのだが、それでも橋本と久しぶりに言葉を交わせた事は素直に嬉しいと感じていたので、何とかそれを示そうと不慣れな口を動かした。 「必要ないから」 ぶっきらぼうではあるが、友之にしてみたら大成長な反応だった。 元々話す事が苦手で、自分の感情を表に出す事が苦手だ。それではいけないと日々努力はしているが、意識し始めたからと言ってすぐに明るく饒舌になれるかと言えば、やはりそううまくもいかない。そんな自分をもどかしく感じるが、それでもそれに絶望して口を閉ざしてしまった昔とは違う。 何故かこちらを向いてくれない橋本の背中に友之は再度言葉を投げた。 「電話って…苦手だし」 「うん。そうだよね」 よく分かっているというように深く頷き、橋本はその後も何度も頷いた。 春休み中、橋本は友之が所属する草野球チームの練習を一度だけ見に来た。「ちょうど部活が休みだった」と言う彼女は、しかしジャージ姿でその場に現れた時も激しく息を切らせていて、明らかに「たった今、練習試合をしてきました」というような大きな荷物も抱えていた。別段嘘をつく必要もないだろうに、それでも橋本は「たまたま暇だったから」というような事をしつこく連呼した後、辺りに整然と咲き並ぶ芝桜に目をやりながら「立派だねえ、このピンク色が大好きなんだ、でも私は女の子らしくもないし、ピンクが好きなんておかしいでしょう」……等々、数十分程「雑談」を繰り広げた後、やや悲痛とも言える声で呟いた。 もし違うクラスになっても、これからも友達でいてね。 あまりに突然話題が変わるものだから、友之としても最初は何を言われているのか意味が分からなかった。やがて、ああ新学期のクラス替えの事だなと気づいた時には、橋本はもうぐしゃりと表情を歪めて「同じクラスにはなれないよね、きっと」と言って唇を噛んだ。友之達の学年は6クラス。確かにクラス替えをして再び同じクラスになれる確率は高くない。橋本がそれを気にして悲嘆しているだろう事は春休みに入る前から散々叫ばれて知ってはいたが、ここまで落ち込んでいる様子を見たのはその時が初めてだった。 その時、友之は橋本の落ち込みっぷりに慌てて「友達だよ」と返したのだが。 「こんなのは私らしくないって分かってる」 校舎の薄汚れた壁に手をついたまま、ハアと大きく溜息をついて橋本は言った。 「でも無理に明るくしようとしても駄目なんだ。何ていうの、情緒不安定っていうのかな。私はまだ北川君や沢海君とかと、どうでもいい話したりして仲良くしてるのが好きだったんだ。それだけで満足だったの。部活も楽しいし、学校自体、嫌いじゃないしね。あ、北川君はあんまり好きじゃないんだっけ…。でも、私はそういう北川君の近くにいてお喋りしてるのが楽しくて」 「橋本さん…?」 「ああ、ごめん。頭混乱してきた…」 ぶつぶつと話し続ける自分に脈略がなく、友之が混乱しているのもよく分かったのだろう。橋本は「うー」とがしがし短い髪の毛をかきむしった後、ようやくくるりと振り返って自ら手にした携帯電話を差し出した。薄いピンク色をした、最近CMでもバンバン宣伝されている最新型モデルだ。勿論、友之に携帯電話の種類などよくは分からないけれど、それが綺麗な女子校生らしいアイテムだなという事は何となく感じ取れた。ごちゃごちゃとたくさんついている人形のストラップも、皆カラフルで目を引く可愛らしい物だ。 「友達とは実際に会って話すし、毎日部活と勉強で忙しいんだから、こんなのせいぜい親に連絡する時に使えればいいよ。私はプロフも音楽も可愛い画像も、そんなに興味ないしね」 「うん…?」 迫力に押されて何となく頷いた友之に橋本は自棄のように続けた。 「だから! もし北川君が自分の携帯持ってて、私とメール交換とかしてくれるんなら、そりゃあ携帯は必需品だけど! 別々のクラスになっちゃったんだから、それくらいの楽しみは欲しいけど! でもそんなの無理だから分かってるんだ、だから別にいらないんだよ携帯なんか! うざいよむしろ、告白とかさ! むしろ酷くない!? そんなもん、いきなりメールとかでしてくんなっての!」 「………告白?」 「あっ!」 首をかしげながら何となくその単語を反復した友之に、橋本は「しまった」というような顔をしてから再びぐるんと背中を向けた。そうして彼女は再度オーバーに携帯を持った方の手と合わせて髪の毛をかきむしると、「今のは何でもない」と言った後、がっくりと脱力した。 「………」 ジェットコースターのような橋本の喋りを聞き続けて1年。さすがに友之にも耐性は出来ている。彼女の取り乱した様子をじっと眺めた後、友之はゆっくりと言葉を選ぶようにして声を出した。 「橋本さん、誰かに告白されたの」 「………」 「橋本さ―」 「うん」 友之の再度の呼びかけを途中で掻き消し、橋本はそれを肯定した。また暫くの沈黙。終業のHRが終わってすぐにここへ来たとは言え、そろそろ外が賑やかになってくる頃合いだ。右手に見えるグラウンドに部活動で移動してきた生徒たちの姿をちらりと認めてから、友之は再び橋本に声を掛けようとした。 それに勘付いたようになって先に言葉を出したのは橋本だったのだけれど。 「『その人の事が好きなの?』…とかは、訊かないでね」 半ば怒ったように橋本は言った。 「私も分からないんだ。何か急だったしね。いや、前からちょこっとだけ仲良くはなってたんだけど。でもさ……まあ、私が北川君にフラれたのはとっくの昔だし、それは別にいい…はず、なんだから、それはいいんだし。多分。私も北川君とは友達だと思ってるし。だからそいつの事と北川君は関係ないし」 友之の反応を避けるように橋本はそう言い進め、それからもう一体何度目か、「うう」と苦しそうな声を漏らした後、「でも」と言った。 「何かよく分かんないんだけどさ。北川君に『良かったね』とか、それは言われたくないなというか。そもそも知られたくなかったというか。あ、バラしたのは私だけど。でも知っててもらいたかったという気持ちもあり。沢海君から伝えられるのが一番むかつくってのもあったし……ああ、あいつにだけは『良かったな!』とか言われたくないというか! うわー、何か今あいつの喜ぶ顔が浮かんできた、むかつくー!」 「橋本さん…?」 さすがにそのテンションについていけなくなって友之が途惑った声を出すと、何を思ったのか、橋本は「ごめん!」と叫んだかと思うと、そのまま脱兎の如く文字通りその場から「逃亡した」。 「………」 唖然としてその場に留まるしかなかった友之は、けれどじわじわと染み渡ってきた奇妙な感情に身体を侵食されながら、肩に下げていた鞄を改めて掛け直した。 どうやら橋本が誰かに告白されたらしい。それも携帯のメールで。 橋本が言ってくれたのと同じように、友之自身も彼女の事は友達だと思っている。数少ない、自分を分かってくれて尚一緒にいてくれる大切な存在。それでもその彼女から「良かったねとは言われたくない」というのは、友之にとっては微妙な問題だった。それは彼女が告白してきた相手をそれほど好きではないからなのか、それとも普段から橋本に対し気の利いた台詞の1つも吐けない自分を責めたものだったのか。橋本がそういう類の人間でないのは友之とて分かってはいるが、友達の悩み一つ受けとめる事も出来ない自分をもろに突きつけられたようで、友之も己を卑下する気持ち、そしてやはり悲しい気持ちが胸を去来するのを止められなかった。 携帯電話があったら、やはり少しは違うのだろうか。 「メール…」 思わず呟いてみて、けれど友之はやはり駄目だと首を振った。どちらにしろ、自分にはそれをうまく屈指できる自信はない。口下手な人ほど「手紙」にしてみると却って饒舌に語るというけれど、友之にしてみれば口だろうが文章だろうが、それはどちらでも同じ事のように思えた。 自分の気持ちを表現するのは難しい。 混乱した橋本の相談に乗りたいけれど、そう思っている事すら告げられない。 喧騒とした校舎、その脇のグラウンドで声高に練習に励む運動部員達の姿を尻目に、友之は新学年に入った今も、やや俯きがちに高校の表門を目指して逃げるように歩を進めた。 友之が兄である光一郎と共に都内のボロアパートで2人暮らしをするようになってから、もう1年と半年ほどの時が経つ。その間、「実家」である父親の元へは、友之は一度も帰宅していない。求められていないからというのもあるし、友之自身その勇気がないからというのもある。 母が他界した後すぐ別の女性と結婚した父は、友之に高校を卒業するまでの経済的援助は約束してくれたが、それ以外の事に関しては「人に迷惑をかけない」範疇で勝手にやれというスタンスだった。元々幼少の頃より父との接触は少ない。「今」の友之はそれを寂しいと思うけれど、今さらその距離を急に縮める事など出来ないし、もしかするとそれは生涯果たせない望みかもしれなかった。 父にとって「我が子」とは長男の光一郎のみであり、友之と、家を出たきりまるで音沙汰のない娘の夕実については、最早どんな感慨も抱いていないように見えたから。 「あ…」 けれど、肉親であるその父は例外としても、光一郎と共に在るようになって友之に様々な変化が起こるのと同時―…、まるで魔法のように次々と周囲の状況も変わっていった。 帰宅し、ポストに入っていた1枚の絵葉書を見つけて、友之は思わず目を見開いた。異国の大きな宮殿を写したその画は、いつも修司が見せてくれる写真とはまた別種のものだったが、その圧倒的な存在感と美しさにはすぐさま目を奪われた。 ハガキの差出人は新垣澄子、光一郎の実母である。仕事の都合で現在は再婚相手の男性とタイで暮らしているが、宛名にはきちんと友之の名も添えてくれていた。向こうで見つけた逸品のお茶を光次の所へまとめて送っておいたから、“トモ君たちもアイツから後で必ず受け取ってね”と言う事だった。 「元気かな…?」 今まではあまり接触のなかった人だが、息子である光次を1人日本に置いて行くにあたり、彼女は殆ど初めてと言ってもいい体で突然光一郎との会話を望み、姿を現した。光一郎はそれをけむたく思っていたようだが、実の弟である光次を無碍にも出来ず、結局「困った事があったらいつでも頼っていいから」と答えていた。 友之としては、光一郎の本当の弟であるという光次の存在には最初単純にショックを受け、気持ちも不安定になったのだが―…、今では光一郎によく似た、優しく人当たりの良い光次を好きだと思っているし、もっと仲良くしたいと思っている。だから澄子のこういった配慮がとても嬉しかった。 ハガキを大切に胸に抱えたまま部屋に入ると、途端冷たい空気がすうと顔に当たってきて、友之は微か目を細めた。春先とは言え、人のいない室内はまだまだヒンヤリとしている。そこでまずは、光一郎がいつもやっているように湯を沸かす事にした。以前なら学校から帰ると一もニもなくぐったりして、そのままその場に横たわるのが常だったけれど、今は家の中の事も大分出来る。制服のジャケットをハンガーに掛けてからヤカンに水を入れて火をつけると、友之は次に光一郎からの置き手紙がないかとテーブルの上へ視線を移した。 書き置きは光一郎の帰りが遅い日には必ず残されているものだ。だからそれはないに越した事はないのだけれど、果たしてその日はいつもの几帳面な文字が並ぶメモ用紙がキッチンのテーブルにさらりと残されていた。 「……帰らないんだ」 春先に入ってから光一郎の多忙さにはより拍車が掛かるようになった。友之同様、進級して大学三年となった光一郎は、ますます進路を意識した活動や勉強が要求されるようになったし、長く続けている法律事務所でのアルバイトも日を追う毎に色々な仕事を仰せつかって、しょっちゅう遅い帰宅を強いられていた。 光一郎はそういう時、いつも朝方に友之の夕飯の支度をして、そして必ず「ごめんな」と謝っていたのだけれど。 友之にしてみれば、自分の事などいいから偶にはゆっくり休んで欲しいとハラハラせずにはいられなかった。光一郎の身体が心配だった。 そして今日も。 その何においても「完璧な兄」は、バイト先に詰めるから翌日まで帰れないと言う。メモ用紙の下には、最近その職場で無理矢理持たされたらしい携帯電話の番号も記されていた。 「………」 その番号を食い入るように見つめた後、友之はくるりと振り返って火に掛かったヤカンに目を戻した。番号を知ったとしても、恐らくよほどの事がない限りそこへ掛ける事はない。光一郎の仕事の邪魔をするのは本意ではないし、「声が聞きたいから」などという我がままを押し通せるほど、友之ももう子どもではない。明日になれば会えるのだしとすっかり諦めて、友之はただじっと煌々と光る青白い炎を見つめた。 そうして、「携帯電話を持たないの?」と言っていた橋本の寂しそうな顔をふっと思い出した。 「飯」 夜も20時を回ったところで、独りきりの友之の自宅へやってきたのは、もう1人の「兄」である中原正人だった。仕事はなかったのだろうかと訝しむ友之を前に、正人は渋い顔をしながら近場で買ってきたのだろう弁当の袋を突き出し、「いいからさっさと中へ入れろ」と、相変わらずの偉そうな態度で汚れたスニーカーを脱いだ。 「今日は昼の勤務だ。俺だって早々夜勤ばかり入れられちゃあ、堪んねェからな」 居間のローテーブルで弁当の袋を開けると、ハンバーグと焼き魚の弁当がそれぞれ1つずつ入っていた。それをテーブルの上に出してから、友之はビールを探しに冷蔵庫へ向かった。正人の方は着ていた薄手のジャケットを乱雑にその場に脱ぎ捨てると我が家で寛ぐようにどっかと胡坐をかき、持っていた自転車のキーをテーブルに置いた。早く自分の車が買いたいと零しているが、まだまだその願いは成就されそうにもないらしい。 「夜勤は疲れる…?」 光一郎も自分が留守の時に正人が来る事は予測済みなのだろう。或いは、はじめから頼んでいるのかもしれない。明らかに正人の好きな銘柄のビールが入っているのを見つけて、友之は素早くそれを2つ胸に抱え、戸棚に納まっているグラスにも手を伸ばした。友之も正人の晩酌のお伴にはいい加減慣れているので、正人の好きなビールや、いつもここで使うグラスについては承知している。だから、昔は正人から「いつもノロノロして気が利かない」と怒られていたものが、最近ではとんとそのお叱りの回数を減らしていた。 「疲れるに決まってんだろ? 俺ももうそんな若くねェからな」 「弟」のてきぱきと働く様子を黙って眺めていた正人は、その質問にはTシャツの襟首をパタパタと伸ばしながら憮然として答えた。部屋は友之が帰宅した時よりは温かくなっているが、「暑い」という事はない。それでも正人はどこか暑苦しそうに厚手の長袖Tシャツをはためかせながら、「最近じゃ、腰も凄ェ痛いしよ」とぶすくれた。 「正兄…まだ、全然若いのに」 「精神年齢はどんどん老けてってるぞ。これでもな」 確かに以前のキンキンに明るかった正人の金髪は、今では影も形も見えぬ「真っ黒」に変貌していた。染める時間も気力も、それにそんな意味も見出せないと言う事だったが、しかしたったそれだけの事で友之の正人に対する印象は格段に変わった。子どもの頃から正人にはこずかれたり怒鳴られたりしていたから、「恐ろしい」という気持ちは依然として根強く残っているけれど、少なくとも「見た目」だけはマシというか、それほど怖くなくなった。未だ鋭い目つきで威嚇するような低音を出されると震えてしまうが、それでも光一郎がいないこんな夜に2人でいる事を嫌だと思わなくなったのは信じ難い進歩なのだ。 そしてそれは、恐らく「2人」にとっての喜ばしい進歩だった。 「正兄、ビール」 「おう」 自分の傍に座ってグラスを差し出してきた友之に、正人は当然のようにそれを受け取って、更にまた当然のようにそこへ注ぐよう無言のまま顎を動かした。友之はそれを承知とばかりに頷いて、たどたどしい手つきながらすぐに栓を開け、泡が立つようにゆっくりと慎重にビールの缶を傾けた。シュワシュワと白い泡と金色の液体が透明のグラスに注がれていく様を見るのは友之も嫌いではない。むしろ好きだった。 「コウの奴も偶には飲んだりしてんのか」 サンキュと礼を言ってからビールを一口煽り、正人は何気なく訊いた。 友之はそれにすぐさま首を振ると、ビールの缶を握り締めたまま答えた。 「コウはあんまり飲まないんだ」 「だろうな」 「最近…凄く、忙しいみたい。帰りも、今日、帰らないって言うし」 「みたいだな」 「知ってた?」 やはり光一郎から聞いてここに来たのだ。弁当の事についてまだきちんと礼を言っていないと思った友之は、光一郎が用意してくれていたおかずも出さなくてはと同時に色々考えながら焦った風に正人を見上げた。 正人はそんな友之の方は見ておらず、ジーパンの尻ポケットから携帯を取り出してそれに目を通しながら何でもない事のように言った。 「あいつはお前の事が心配でしょうがねェんだな。俺よりあいつの方が断然口煩いだろ? 早く寝ろとか、部屋片付けろとか宿題しろとかよ? で、結局1番ベロベロに甘いのも光一郎の奴なんだ。最近俺はそれが身に染みて分かるようになった」 「あの…正兄、本当は今日何か用があった…?」 「あぁ…? ああ、ああ、別に何もねェよ。お前がンな事気にしてんじゃねえ。別にあいつに頼まれたから来たってわけでもねーし。俺だってな、トモ。独りで飯食うよりは、全然喋らねェお前でも、2人で食った方がいいに決まってんだ。そういうもんだろ?」 「………」 「…何だよ」 何も言わない友之に正人はようやく携帯を閉じ、胡散臭そうな視線を送ってきた。 友之はそれに対してはすぐに慌てて首を振ったが、やはり「嬉しい」と思う気持ちは止められなくて、思わず小さく笑みを零した。 「正兄…1人でご飯食べるより、僕とご飯食べる方がいい、の?」 「はぁ…? ったく、くだらねえ事で笑ってんじゃねーよ。悪いか?」 バツの悪そうな顔をして正人は友之の頭を軽く叩いた。それから「早く弁当食えよ」と言ってごほごほと咳き込む。 以前の正人は何かと言うと、「お前みたいな陰氣な奴といるくらいなら、独りでいた方がいい」とか、「根暗が移るから近寄るな」、「お前といると気分が滅入る」等々、平気で色々言っていた。友之としてもそれは真実本当の事だから反論のしようもなかったのだが、当然の事ながら、そんな風に言われて落ち込まないでいられる程図太い精神の持ち主でもなかったから、いつでもがっくりして意気消沈して思い悩んでもいた。 けれど、いつからだろう。正人は「光一郎に頼まれたから仕方なく」、「裕子が言うから仕方なく」という台詞をつけなくても、こうして時間が空けば友之と食事を取ってくれるようになった。だから友之も、「怖い正兄」から、「ちょっと怖いけど、優しい正兄」へと、その印象を少しずつ変えていく事となったのだ。 「いつもから揚げなのに、違うんだね…?」 ニコニコしながら、友之はようやく弁当へと意識を戻した。ハンバーグと焼き魚。友之にはいつもハンバーグを買ってくる正人だが、自分の分もいつも大体はから揚げと相場が決まっていた。それなのに焼き魚弁当という見慣れぬものがあった事で、友之は不思議そうに首をかしげた。 「メタボが心配でな」 ビールはガブ飲みするくせに正人はオヤジ発言丸出しで渋い顔を見せた。 「お前のカッコ良過ぎる兄ちゃん達みたいに…、とまではいかなくてもな。トモ、俺だってスタイルの一つや二つ気にする年頃なんだぜ。婿の貰い手がなくて売れ残るのも嫌だしな」 「婿…?」 「そーだよ。いい加減、彼女が欲しい」 きっぱりと言ってから正人はやや据わった眼で友之を睨みつけた。それは別段威嚇しているわけでもなかったから友之も平然としてそれを受け留め、それから何ともなしに思った事を口にした。 「裕子さんは?」 「……っ…。……何で、そこであの女の名前が出る?」 当然正人はそれに度肝を抜かれてまたしてもゴホゴホと咳き込んでいたのだけれど、友之にとってはそれは至極普通の事であるように思えたので、またしても平静に答えた。 「裕子さん、修兄と…別れたし」 「……だから?」 「正兄、前から裕子さんのこと―」 「ストップ! お前、黙れ」 正人はそれは最後まで言わせないようにしてから今度こそ怒った風に友之を見やり、思い切り不機嫌になって眉を寄せた。 「あんなバカ女の事は、俺は知らん。お前なぁ、大体、今日だってあいつはお前が今夜独りなの知ってて来ないんだぜ? 何でか知ってるか? 『どうせトモ君の所へはあんたが行くんでしょ、なら私は合コンに行く』だとよ! …っけんなって!」 「……裕子さん、去年から凄いね」 「合コン」というものが実際どんなものかは友之にも定かではないが、裕子は恋人である修司と実に曖昧ではっきりしない別れ方をしてからというもの、何故か北川家にもあまり寄り付かなくなった。以前までは当然のように持っていた合鍵も、今では修司の父親であるマスター「宗司」と、ここにいる正人が交代で臨機応変に持っているという感じだ。 だから友之は最近の裕子とあまり話していない。会えば前と同じように、いつも楽しく話をする事が出来るのだけれど。 「あの女のメールはいつもむかつくんだよ」 ぶつくさと言ってまた携帯を開けたり閉めたりしていた正人は、己の焼き魚弁当を引き寄せながらまだ文句を言っていた。どうやら携帯で見ていたメールは裕子からのものだったらしい。 「裕子さん、どうしたの」 「ちゃんとお前に飯食わせたか、だってよ。『安いもん食べさせてないでしょうね!?』とか付け足しやがって! 悪かったな500円のハンバーグ弁当で! 俺のは450円の焼き魚だっつの!」 大体、心配ならあいつだって来ればいいという正人に、友之はやっぱり正人は裕子の事が未だに好きなのだろうかと思いながら、さすがにそれは訊ねずに半分空いたグラスに再度ビールを注いだ。 「あのバカも相変わらず失踪中だろ」 「修兄?」 素早く反応して友之が聞き返すと、正人はいよいよ嫌な顔をして唇を尖らせた。 「お前って、ホントあれな? コウとあのバカの話にだけは光の速さで反応するよな」 「修兄、まだ帰ってこないの?」 「俺が知るかよ。ただ、この間マスターがさすがにここまで連絡ないとイライラするって言ってたからな。ちっと今までとはパターンが違うのかもな。光一郎の所にすら何も言ってきてねえみてェだし」 「………」 「……ま、あんな根無し草の事はどうでもいいだろ」 正人は言ってからグラスを置き、わしわしと豪快に友之の頭を撫でつけながら言い聞かせるように言った。 「いいか、トモ。お前はあんなバカには絶対なるな。ついでに、バ数馬みたいなアホにも毒されるな。お前は光一郎みたいにまっとうな道行ける奴なんだからな。ちゃんと勉強して、学校行ってダチ作って、そいつら大事にして。そんで、出来れば大学まで行け。もし光一郎が貯めてるもんで足りなかったら、俺だって少しは出してやれるんだからな」 「え…?」 「忘れるなよ」 一瞬だけニヤリと笑って見せてから、正人はまたそ知らぬ風でビールを煽り始めた。 「正に…」 友之はその発言について再度聞き返そうとして、けれど唇を噤んだ。これ以上何も話してくれそうにはなかったし、正人が急に上機嫌で鼻歌まで歌いだしたから。 だからその話はそれきりになり、友之も「そうだった、光一郎が用意してくれていたおかずを出してあげなければ」と思うと、後はその最初にあった考えが先にきて、それについての思考はストップしてしまった。 台所へ向かう時にカーペットに置き去りにされた正人の携帯がまた緩い震動音を放っていた。誰から来たのだろうとは思ったけれど、それを訊く事も友之はしなかった。 |
To be continued… |
戻/2へ |