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  修司と裕子が付き合い始めたのは、2人が高校2年か3年に上がった春先のはずだが、正確なところは最早当人たちでさえまともに覚えていないようだ。
「別に、何となくよ」
  ただ、一部地域住民の間で2人はそれなりに有名人だったから、そのビッグカップルの噂は瞬く間に親しい者たちの間で格好の酒の肴となった。バッティングセンター「アラキ」では密かに裕子のファンだったという常連の男性陣が心底悔しがっていたし、店のマスターで修司の父でもある宗司などは、まるで我が事のように鼻高々と嬉しそうにしていた。
「ノリよノリ。そのうち飽きたらポイだから」
  それでも裕子は素っ気無くそう答えるばかりで周囲の冷やかしにも全くとりあおうとはしなかったし、修司に至っては怒り心頭の正人を軽くかわしながら「誰が誰と付き合ってるって?」ととぼけて笑うのみだった。
  友之も、「裕子は光一郎を好きだったはずなのに、いつから修司の方が良くなったのか」という単純な疑問だけは頭の片隅に浮かべていたが、それについて長く思考を持続させる事はなかった。当時はまだ夕実との事で必死だったし、2人が自分にとって大切な存在だと認識はしていても、「それ」について思いを巡らせる事は、夕実の基準からいけば「悪」だったから。

「裕ちゃんは趣味が悪過ぎる。誰への当て付けか知らないけど」

  夕実にとって男女の付き合いとは、いつでもドロドロしていて不潔で「いやらしい」ものだった。少なくとも友之は夕実からそう教えられて育った。だから親友であるはずの裕子の交際を夕実が悪く言うのも一部仕方がないと思っていたし、吐き捨てるように呟いていた「誰への当て付けか知らないけど」という言葉にも深い意味は見出せなかった。
  そんな風だったから、友之が2人の関係をまともに考えられるようになったのは、それこそ光一郎と2人、落ち着いた暮らしを始められるようになってからだった。





「別に好きじゃないならきっぱりそう言ってあげてくれない? 意外に残酷だね」
  光一郎と別々の朝を迎えた翌日。
  友之はいつものように登校し校舎へ入る直前で、数名の女子生徒たちから囲まれてそう噛み付かれた。始業のベルが鳴る数分前だったからか、その昇降口付近に人の姿は少なく、友之たちを気に留める人間もいない。
「前からはっきりしなくて、まあそれがキャラなんだろうとは思ってたけど。いい加減、真貴の事解放する気はないわけ? それってちょっと都合良過ぎじゃない?」
「ホント、見ててイライラするんだよっ」
「敏郎(としろう)君も可哀想だし!」
  友之が逃げられないよう、ぐるりと堅固な包囲網を張った女生徒は全部で4名。皆、同じ真っ青なジャージに身を包んでいて重そうなボストンバッグを傍に置いており、明らかに橋本と同じバレー部員だと言う事を感じさせた。その中には昨年度まで同じクラスだった女子も1名いたが、友之にとって後は全員が知らない顔だ。
「真貴から聞いたんでしょ。敏郎君のこと」
「とし…」
「敏・郎・君! 馬場敏郎! 真貴や私らと同じバレー部員だよ。去年まで隣のクラスだったんだし、知ってるでしょ!?」
「………」
  同じクラスですら、一度も話す事なく2年になって別れた者もいる。そんな友之が何の接点もなかった隣のクラスの人間など知っていようはずもない。…しかし彼女たちにとって、親しかった橋本の友達である「馬場敏郎」を友之が知らないなどあるはずがない、そんな事は許されない、という風だった。
「あのさあ!」
  友之を最初に睨みつけ恫喝してきた強気な女生徒は、ぎゅっと縛った二つの長い髪を揺らしながら、更に詰め寄るように唾を飛ばした。
「何でなのか、アタシらにはさぁっぱり理解出来ないんだけど! 真貴がアンタの事好きだって言うから、まあ仕方なく目を瞑ってきたわけよ、今までは! でももう、あの子もアンタの事は諦めるって言ってるし、前から敏郎君の事は満更でもなかったんだからさ。だからアタシらだって敏郎君の背中押して、やっとここまで来させたってのに!」
「ホント、KYってのはアンタみたいな奴の事を言うんだよ! ホントいらつく!」
「はっきり言って、アンタかなりキモイよ。前からボソボソした声しか出さなくて、何考えてるのか分かんない無表情ばっかだし。何なのそれ? 何か狙ってるわけ?」
「ちょ、ちょっと……あんまり大きな声出すの止めなよ。誰か来ちゃうよ」
  友之が唯一顔を知っている元クラスメイトの女子だけが、強気な3人に対し逆に引いたようになってオドオドと周りに目を配った。彼女とは橋本を通じて友之も何度か話をした事があるから、多少なり情があって友之を憐れに思ったのかもしれないし、仲間がここまで興奮して友之を責めるとは考えていなかったのかもしれない。「私が話すから」と言って、彼女はすっと1歩前へ出ると、焦った風な早口ながらも窺うような目をして友之に言った。
「あのさあ北川君…。北川君は、前から真貴のあのしつこさに結構参ってるようだったじゃない? 真貴だって、前に『北川君からはとっくにフラれた』って言ってたけど。でもさぁ…何というか、それってハッキリあの子に言ったわけじゃないでしょ? 何か中途半端に仲良くしたままだし。だから真貴もまだ諦めきれないって言うか、敏郎君の事も曖昧にしちゃってると思うんだよね」
「そういうのって、こっちもかなり迷惑なんだよ!」
  最初の2つ結びの女子生徒が再度声を荒げて友之を詰った。
「………」 
  友之はその間一言も口を開く事が出来なかったのだが、驚き困惑はしても、さすがに彼女らの言いたい内容だけは理解出来たから、訳が分からず混乱するという事はなかった。
  それでも反論したい部分は多々ある。

  自分は橋本を迷惑だと思った事など1度もない。

「ホモはおとなしく沢海といちゃついてな」
  女子生徒の1人が心底軽蔑したように言った。その目には悪意しか見当たらず、友之や、恐らくは己の友人であるはずの橋本への気遣いも一切なかった。
「女、駄目なんでしょ? アンタみたいなの、マジで気持ち悪いよ。一部の連中は沢海を持て囃してるみたいだけど、アタシらにはそれも意味不明だから。アイツはアイツで気持ち悪いよね」
「変にイイ男なだけに、アンタみたいのにまとわりついてるの見ると、寒気する」
「ちょっとアンタら、いい加減にしなっ! 拡君の事まで言うなら、私、もう抜けるよ!?」
  暴言がエスカレートしてきた仲間に段々嫌気が差してきたのか、元クラスメイトの女子生徒が途端剣のある声をあげた。それでさすがに3人はへらへらしながらも一旦は口を噤み、「アユミは沢海みたいな優等生が好みなんだもんね」と冷やかした。
「いいから、趣旨違ってきてんだろっ。…ったく、幾ら敏郎君の事でムキになってるからって、調子乗り過ぎ! ……北川君」
  仲間から「アユミ」と呼ばれた元クラスメイトは、ほとほと疲れたように嘆息してから、バッグを担ぐとむっとした顔で友之を見やった。
「まあ、今ので分かったでしょ? こういう奴らに絡まれたくなかったら、興味ない真貴とはきっぱり縁切って、ちょっとおとなしくしてた方がいいよ。……何だかんだで、色々目立ってるんだからさ」
「ホモのレッテル貼られると、その先も生き辛いよ〜?」
「あははっ。ホント、サイテー」
  先刻まで散々怒っていたようなのに、残りの3人はもうキャラキャラと明るい笑声を立てている。友之に文句を言ってとりあえずは満足したのか、「アユミ」に倣って自分たちも荷物を抱えると、後はもう友之になど目もくれずにバラバラとその場を立ち去って行く。今しがた大勢で1人を罵倒した事など、彼女たちにとっては何ほどの事もないようだ。
「………」
  友之はただボー然としてその場に取り残された。いつの間にか始業のチャイムも鳴り終わって1時限目も始まったようだ。偶々そこを通りかかった別の学年の教師から早く教室に入るよう注意されて、友之はそこでようやく鞄を抱え直して新しいクラスへと向かった。
  学校は相変わらず憂鬱な場所には違いなかったけれど、そのまま回れ右をして帰ろうとは思わなかった。

「友之。おはよう」

  そんな事があったせいで遅れて教室に入った友之に、真っ先明るい挨拶をしてきたのは、今年度も変わらず同じクラスとなった沢海拡だった。とうに授業は始まっているだろうと思われたが、1限の担当が自宅から持ってきた特別教材とやらを職員室に忘れたとかで、幸いな事にまだ遅刻にはなっていないらしい。教室内は騒然としていた。
「どうした? 珍しいな、遅れるなんて」
  黙って鞄を置く友之に不審なものを感じたのだろう、沢海は椅子に肘を乗せた格好のままで立ち上がりはしなかったけれど、前の席から心配そうな声を投げ掛けてきた。
  昔から沢海は友之のほんの些細な変化も見逃さない、細かい配慮を怠らない「友人」だ。そんなところが兄の光一郎にどこか似ていて、友之は沢海の事を本当に信頼していたし、友達としてもとても大切に思っていた。1年の時にそんな沢海から好きだと告白されて、一時はその関係も気まずくなったけれど、今では互いに当時の事には一切触れず、至って「普通」の友人関係を送っている。……と、友之は思っている。だから今回も同じクラスになれた事は素直にとても嬉しかった。
「何かあったのか」
  沢海が再度訊ねてきて、友之はハッとし顔を上げた。慌てて何でもないと言おうとしたが、口を半分開きかけたところで別の方向からわざとらしい大声が投げ掛けられた。
「またかよー」
  それは嘲笑うような声だった。
「沢海って本当あれなー? 北川の事、大好きでしょうがないのな!」
「やばいよなぁ、お前ら!」
「うん、マジでヤバイッ!」
  1人が発したら、後はもう次々とその声は止まなかった。特別意地の悪いものでもなかったけれど明らかにからかいの色は濃く、またそれが男子だけでなくひそひそとした女子の囁き笑う声と入り混じって、友之の耳にきつくこびりついてきた。

『別にいいじゃん、うっさいのよアンタら!!』

  いつもなら。
  いつもなら、もしこんな事があったとしても、沢海の抑制の声と共に橋本の迫力ある大声が教室に木霊して、友之を虐げようという雰囲気はあっという間になくなった。…けれど、その橋本はもういない。新しいクラスになったばかりでもあり、2人の仲について慣れたような「別にどうでもいいんじゃない」というような空気もなく、むしろ「これが噂に聞いていた、沢海の構いたがり病か」と物珍しく眺める連中が大半だった。
「マジ可哀想。沢海君が」
  その上、ぼそりとどこからか聞こえてきた声にハッとして、友之は焦った風に後ろを振り返った。誰も友之の事は見ていないし、どこからその声が発せられたのかも分からない。けれど、女子生徒のものであるその声は明らかに友之の後ろの席から聞こえてきたし、それを発してもおかしくはない「候補」は、視線を向けた先に何十人もいた。
  反射的に、「怖い」と思った。

  バンッ!

  その時、突然今度は前方から教科書を机に叩きつける音が聞こえた。それがあまりに賑やかしく浮き立っていた室内とは異質な音で、その場にいたクラスメイトらは全員がぎょっとして一気にしんと静まり返った。
  友之も勿論、その音のする方向を見やった。
  すると、分厚い教科書を片手でもって机に叩きつけたその人物―沢海―は、友之を除く他のクラスメイトたちを順繰りに見やるような、余裕のある雰囲気を発しつつ、にっこりと秀麗な笑みを作って言った。
「何かあるなら、俺の目の前で直接言って?」
  丁度その時、タイミング良く走って戻ってきた男性教師が「ごめんごめん」と言いながら教室に入ってきた事で、その場はあっという間に収まった。明らかにほっとしたような空気も生まれ、生徒たちは皆おとなしく教師の始まりの言葉に従った。
「ごめんな友之」
  沢海はもう元通りだった。それだけを言うと、もう後は前を向いたきり、自分もクラスメイトと同じように授業を聞く準備をする。
「………」
  友之は一瞬だけれど殺気立った沢海に青褪めてしまい、ぎこちなく椅子に座って俯いた。何でもない、こんな事は何でもないからと言い聞かせるが、落ち着かない。知らない人間の笑い声や、悪意なのか冗談なのか分からないきつい言葉はとても嫌だけれど、友之にとってそれ以上に恐ろしいのは、沢海が自分のせいで無駄な敵を作ってしまうのではないかと言う事だった。中学の時もそうだったのだ。学校に行けなくなった友之の為に、沢海は当時の担任やクラスメイトの大半を敵に回して、ひたすら友之を守ろうとした。そのあまりに真っ直ぐで正しい感情が、時に多くの悪意に飲み込まれてしまう事を友之は何となく肌で感じ取って知っていた。だからこそ余計に怖かった。
  その時、ぽんと不意に飛んできた丸まったメモ用紙が友之の机の端に転がって止まった。
  くしゃくしゃになったその紙をゆっくり開くと、そこには「ホモはしね」とだけ書かれてあった。





  部活と予備校で忙しいから「絶対に嫌だ」と断り続けていた沢海が、2年になって生徒会に入ったのは、有無を言わせぬ教師からの圧力と、大勢からの他薦があったからに他ならない。
  本来生徒会役員は新1年が学校に慣れ、3年があらゆる活動から引退する9月の中旬に選挙を行い決定されるが、元々学年首席でバスケット部のホープ、顔も良くて背も高くて人格者となれば、生徒だけでなく教師陣から「我が校始まって以来の逸材」と持ち上げられるのも当然だった。
  だから丁度新学年に入る直前、生徒会員の1人が家庭の事情で転校したのをこれ幸いにと、急遽沢海がその空席に就く事となったのだ。友之はその事をただただ「凄い」と感心していた。
  …もっとも、本人が本当に嫌がるようなら、周囲とて無理強いは出来ない。心底引き受けたくないのなら、沢海はきちんと断れたはず。沢海はそういう風に周りに流される性格でもない。

「絶対裏で何かあった」

  それは優秀過ぎる沢海への妬みとも取れる悪意ある噂に過ぎなかったのだけれど、そもそも1年の時ほど騒がれなかった「沢海と北川はアヤシイ」というからかいに拍車が掛かったのは、全てこの事が発端だった。
  即ち、「沢海は北川と同じクラスになる為の交換条件として、生徒会の仕事を引き受けた」と。
  実際のところは、未だ教師陣から「元不登校児で無口な危険因子」と捉えられている友之の世話役として、旧知である沢海が選ばれただけだ……が、そんな大人の事情は一般の生徒たちには分からないわけで、橋本真貴という1枚岩がいなくなった事とも相俟って、友之を取り巻く環境は少しずつ悪い方へと傾いていた。
(拡に迷惑がかかったら嫌だ…)
  ただでさえ毎日忙しそうな沢海に、これ以上負担を掛けたくなかった。だから朝の事は勿論、メモの事も絶対に誰にも口にはしないと友之は心に決めた。
「昨日のあれ見た? すっごい笑えたよねー!」
「お前あの曲入手したってマジかよ!? 早く俺にも貸せっての!」
  休み時間になり、忽ち喧騒とする教室内。友之は生徒会の仕事でいなくなった沢海の席を眺めながら、ただぼんやりと無為な時を過ごした。
  相変わらず新しいクラスでも沢海以外まともに話せる人間がいない。この1年で友之をよく知る人たちは皆、「トモ君、成長したね」、「変わったね」と良い風に誉めてくれるが、そうそう人間の内面がそれを知らない多くの第三者に伝わるはずもない。友之自身、それをアピールするだけの力もない。
  悶々とした気持ちのまま見知らぬ人間が大勢いる「教室」に収まり続ける事で、友之の心には薄っすらと靄が掛かり、やがて眩暈と吐き気を感じた。結局周りから「気持ち悪い」と思われるのもその弱さのせいだ。早く強くならなければ、早くもっとちゃんとしなければと言い聞かせ―…けれど友之はその不快感をどうしてもどうにも出来なくて。
  その日は終業のチャイムが鳴るのと同時、友之は逃げ出すように校舎を飛び出した。沢海が何かを言ってくれていたように思うのに、その言葉にすらまともな反応を返す事が出来なかった。





  まだ光一郎はいないだろうと思うと家に帰る気もしなくて、友之は鞄を持ったまま、避難所の一つであるバッティングセンター『アラキ』へと向かった。
「お、トモか。いらっしゃい」
  マスターのいつもの笑顔に心底ホッとした。息を切らせてずっとここまで走り通しだったせいもあって挨拶もロクに出来なかったが、嬉しい気持ちだけは表現したいと何とか頬を緩めて見せる。
  それがちゃんとした笑顔になっていたかは定かでないが。
「どうした、走ってきたのか? 急がなくてもうちは逃げないよ」
  早くここに座りなと言って、修司によく似たその優しい目は暗にカウンター前の指定席を示してくれた。
  平日の午後という事もあって、人の入りは少ない。
  喫茶店にもなっているから、仲良しグループとお茶だけを楽しみに来たという風な中年女性の1団が1組。あとは、学校なんて行ってられませんというような、中原の後輩予備軍的な若者が数名、奥のボックスで談笑していた。
「客は少ないが、煩い面子ばっかりだから賑やかだろ」
  周りに聞こえないように囁きながら水の入ったグラスを差し出したマスターは、未だ息を荒くしている友之に悪戯っぽく笑いかけた。
「トモが1人で来るのは最近じゃ珍しいな。新学期始まって学校も忙しくなったろうから、平日はもう来てくれないかと思ってたよ」
「……うん」
「週末はあいつらが煩くて満足に話もできないしな。どうだ、学校は? 少しは楽しくなってきた?」
「うん」
  すぐに嘘をついた。親代わりだとでも言うように何かと気に掛けてくれるこの人に心配を掛けたくなかったし、つい最近まで沢海や橋本のお陰で平和な学校生活を送れていた事にも間違いはなかったから。
  ただ、新しい環境になって少しだけ途惑う事が多いだけだ。今に慣れる。
「何飲む? オレンジジュース…って、トモももうそんな年じゃないか? おじさん自慢のコーヒー淹れるか!? そろそろトモもコーヒーの味が分かる年頃じゃないか? それとも腹減ってないか、何か食うか?」
「……大丈夫。夕飯、コウと食べるから」
  遠慮がちに首を振ると、マスターは別段残念そうでもなく、「ああ、そうだな」とすぐさま頷き、直後にやりと笑って腕組をした。
「昨日さ、コウがバイトでいないってんで、正人の奴が行っただろう?」
「え?」
「もうさ、あいつには笑っちゃうよ。もうトモの事、自分の本当の弟と勘違いしてるんだな。あ、これ内緒の話な? 本当に内緒だぞ? いやね、あいつ、昨日いきなり店にやってきてさぁ、『修司のバカは帰ってきてないだろうな』って怖〜い顔して訊くわけさ。ふはは、何でだと思う? 折角自分がトモのとこ行くのに、修司が邪魔してきたら嫌だからだよっ」
  勿論そうとは言わないけどねと付け加えてから、マスターは心底可笑しそうに目を細め、組んでいた腕をおもむろに解くと腹を擦った。
「で、『あのバカはこうい時必ず現れる。鉢合わせして嫌な目に遭うくらいなら、トモんとこには行かねえから』だってさ。嘘つけよっての、なぁ?」
  よっぽどトモと2人で飯食うのが楽しみだったんだなあとマスターは言い、身体をやや屈めて不思議そうにしている友之の顔を覗きこんだ。
「イイ兄貴が2人もいて、トモは幸せだ。な?」
「2人?」
  思わず反復すると、マスターはすぐに折り曲げていた身体を元に戻して、フンと唇を尖らせた。
「そうさ。2人だよ、2人。コウと正人の2人。まさかトモ、そこにもう1人、あのバカを入れる気じゃないだろう? 正人じゃないけど、本当、『あのバカ』だよ、あのバカは!」
「修兄…?」
  友之の言葉にマスターは大袈裟に片手を振った。
「あいつの事を兄貴なんて呼ばなくていいよ。むしろ調子づくから、もし今度アイツに会ったら、無視してくれていいから。そうだ、コウにもそう頼んでおかなきゃな。ったく、“親の心子知らず”とは、まさにアイツの事を言うんだよ。おおらかな父親である俺でも、いい加減頭にくるさ」
「修兄…まだ帰ってこないの?」
「全く分からないよ。何せ連絡がまるでないんだから」
  いつもなら偶に何処そこにいるとか、ハガキを送ってくるとかが最低月に1回はあったのにと、マスターは思い切りぼやいてみせた。成人しているとはいえ、我が子である修司の事が心配で堪らないのだろう。元々修司は放っておくと知らない間にフラリと姿を消して、家には気の向いた時にしか帰ってこない。だからマスターも、慣れていると言えばそうなのだろうけれど、やはり音沙汰が全くないのはヤキモキするのか、「何て親不孝な奴なんだ」と愚痴が止まらなかった。
「裕子ちゃんにフラれたのがそんなにショックだったのかねえ」
  誰に言うでもなくマスターは呟いて溜息をついた。
「元々フラれて当たり前だよ。あんないい加減なバカ息子、裕子ちゃんみたいないい子には勿体無いと前から思っていたんだ。……でもなあ。血なのかな」
「血…?」
「そうだよ。あいつは、この血を継いでるわけだから」
  自分の胸の辺りを指でこづきながらマスターは苦笑した。友之はそんなマスターの姿をまじまじと見やった後、やっと「修兄、すぐ帰ってくるよ」と小さな声で言った。
「ありがとう。やっぱりトモは優しいな」
  マスターはそんな友之に嬉しそうに笑い、「飯いらないなら、やっぱりジュース出そうジュース!」と言って、いそいそと巨大な三段式の冷蔵庫を開けた。そうしてフンフンと鼻歌を交えながら冷えたグラスを取り出し、「とびきり美味いオレンジ絞ってやるな」と浮き立った声を出す。
  その時、背後でしきりに聞こえていたお喋りが一瞬止んで、「ちょっとごめんなさい」と椅子を引く音が聞こえた。ふと気になって振り返ると、丁度電話がかかってきたようで、派手な服を着た女性が携帯を片手に店の隅に移動しているのが見えた。
「あの…修兄、携帯電話持ってないの?」
  その姿を認めた友之が問うと、丁度全く同じ事を考えていたのだろう、マスターが「なあ?」と多少憤慨したように声を出した。
「それがありゃあ、少しは安心するってもんなのに。アイツは駄目だ、ああいうの嫌いだからな。あんな風貌で、アイツは全然現代人じゃないんだ」
「現代人?」
  友之が首をかしげるとマスターは深く頷いた。
「そうだよ。原始人だから、あいつは。現代人じゃないから、今の時代に適合出来なくて生き辛いわけだろ? ああいうのはね、何処へ行こうが、苦しいだけだな」
  それでも、外国にでも行きゃあ違うのかねえとマスターはその後もぶつくさ言っていたが、友之は「それじゃあマスターが寂しくて耐えられないだろうな」とすぐに思った。
  放任、鷹揚、特別煩い事も何も言わない「理想の父親」として、近隣の所謂不良たちから絶大な信頼と好意を寄せられている「マスター」こと宗司だけれど、元から彼がそんな人間だったかと言えば決してそんな事はない。現に、以前修司がバイクを船に乗せて東南アジアだか何処だかへ1ヶ月間放浪してきた時は、「帰ってきた直後に張り手された」と修司は笑って言っていた。中原の家ほどでなくとも、修司も宗司からは「躾」と称した暴力は幼い頃から受けていて、友之も修司が「今回は蹴りがないだけまだマシ」と、光一郎に愚痴とも嘆きとも取れる鬱屈を吐いていたところを見た事があった。
  いつから今のような温和な人になったのかは分からない。ただ、その頃には修司の母親は姿を消していて、友之も修司からそれについての話を聞いた事は一度もなかった。
  そして宗司については一度だけ、「空気が抜けちまったな」と、よく分からない感想を漏らされただけだ。
「駄目な父親だから。今さら親だって主張しても調子の良い話だけど」
  友之が考えている事が読めたのだろうか。ふと顔を上げると、マスターはどこか寂しげな顔をして弱々しく笑って見せた。
「でもなあ、トモ。あいつもまだまだ駄目な子どもだよ。それが親のせいだとしてもね。俺は、それだけは主張したいね」
「子ども…」
「そうさ」
  子どもだよ、と呟いて、マスターは出してきたオレンジを手にしたナイフで軽やかに切り始めた。それは友之が落ち込んでアラキに来た時、修司が気紛れで何かを作ってくれる時の手つきと非常に良く似ていた。
  貰った絞りたてのジュースはとても美味しかった。暫く会っていない修司を恋しいと思いながら、友之は口の中に広がるその甘酸っぱさに暫し辛い時を忘れた。





  家に帰ると、中は暗くしんと鎮まり返っていて、光一郎が未だ一度も帰ってきていない事を感じさせた。友之は鞄を玄関先に置いてすぐに家の電話を見つめ、そこに予期していた留守番電話のランプが点灯している事に嫌な予感を覚えて、眉をひそめた。
  果たしてそのメッセージを残していたのは案の上光一郎で、そこには今日も家には帰れそうにない、何かあったらすぐに電話してきていいんだからなという気遣いの言葉と、いつもの「悪い」という、謝罪の一言が入っていた。
「………」
  友之はそのメッセージを黙って聞いていたものの、止めようと思うのに無意識に溜息をついてしまった。今日も会えないと分かると、ますます会いたい気持ちが強くなる。一ヶ月や半年、ともすればもう何年も会えていないような、気の遠くなる思いすら沸いた。重症だと思ったけれど、光一郎を慕う気持ちを止められない。
「早く…」
  帰ってきてと言いそうになり、友之は思わず口を噤んだ。駄目だ、困らせる存在ではありたくない。誰かを煩わせる人間にだけはなりたくない。強く言い聞かせ、友之は一度だけ片手で己の黒髪をぐしゃりと掻いた後、もう一度嘆息してその場に座り、そのままごろりと横になった。
「………」
  目を瞑ると、無音の室内で何故か教室の喧騒が聞こえてきた。

  ホモは死ね!

  幻聴だと分かっている。それでも誰かの嘲笑する声をわざわざ自分から呼び起こしてしまう。男子や女子、同じ年の生徒たちが次々と友之に悪意ある目を向け、白い歯を見せ、笑っている。
「ふ…っ」
  どくどくと心臓の鼓動が早くなり、友之はぎゅっと胸の辺りを鷲掴みにして身体を丸めた。
  同時、つい数日前に光一郎から与えられた温かな熱を思い出し、急に身体が熱くなった。
  光一郎は友之の身体を思って決して無理な行為を強要しないけれど、あの日は久しぶりという事もあって少し激しかったし、お陰で身体につけられた跡もなかなか消えなかった。けれどそれが愛しかった。何度も交わした深い口づけや優しい愛撫を思い出すと、それだけでぶわりと泣きたい気持ちになった。
「コウ兄…」
  思わず呼んでいた。応える声がないと知っているのに、そうしていればせめて夢の中で光一郎に会えるのではないかと思ったから。

  けれど頭を過ぎり続けるのは、侮蔑に満ちた他人の冷たい視線だけだった。



To be continued…




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