―10―



  翌朝、学校へ行く行かないで2人の間に多少の悶着はあったものの、それ自体に長い時間はかからなかった。
  光一郎の「なら、もし熱があったら休めよ?」という提案に、友之は「熱なんかない」と返したのだが、本人の予想に反して、手にした体温計はかなりの数値を指し示していたのだ。
「何で…?」
  光一郎がこっそり細工したのではないかと疑うほどに、友之自身に発熱の自覚はなかった。ただ、洗面所の鏡に映った顔はほんのり赤らんでいたし、なるほど今の時期にしては多少寒い気もした……が、友之は自分を「元気」だと思っていたし、そもそも「元気でなくてはならない」身だったから、光一郎の申し出に自信満々頷いてしまった事は痛恨の極みと言う他なかった。
「約束したよな」
  反して光一郎の方は友之を家に押し留めておく条件が整ってある意味安心したような顔をしていた。無論、昨夜「己がしでかした事」に関してはいつもの事ながら相当打撃を受けていたようだが、ともかくはムキになっている友之を落ち着かせたい気持ちが優先したのだろう、「学校には俺から連絡しておくからな」と言って、光一郎は早々友之を寝室へ押しやると、自分は大学へと出掛けて行った。
「休みたくない……」
  未練がましく呟いた友之だったが、それを聞いている人間はいない。諦めてベッドに潜り込み布団を被り直したものの、昨夜光一郎から与えられた安心とは打って変わって、今は何とも居心地の悪い気分だった。
  外の光から察するに天気もあまり良くないようだ。
  はあと小さく息を漏らして、友之は自分が学校を休む事によって起きるであろう「騒動」を想像し、心の奥がどっしりと重くなるのを感じた。
  何せ昨日の今日である。白石が橋本たちに言っていた「担任に話す」うんぬんもかなり気になっていた。これまで自分の欠席のせいでクラスに何かが起きるとか、誰かが困るかもしれないといった想像はした事がなかった。中学時代にあったという、沢海とクラスメイトたちの遣り取りの事とて、後で知らされて愕然としたのだ。
「橋本さん…」
  いつも強い橋本真貴が泣きそうな顔で光一郎に謝っていたこと、しきりと自分の顔を覗きこんで「大丈夫?」、「ごめんね」と繰り返したこと。
 友人であるはずの部活仲間を「殺したい」と呟いていたこと。
「……っ」
  その全部を思い返すと、本当に身震いがした。ぎゅうと胸元を掴んで身体を丸めると、火照っていた身体が仄かにより熱くなったような気がした。ああ何だ、やっぱり熱があるのかと認識したのはその時が初めてで、こんな事なら「なるべく早く帰るからな」と言った光一郎に「大丈夫だから」なんて返さなければ良かったなどと思ってしまった。
  そんな弱い自分は大嫌いなのに。
  それでも時間だけはどんな状況にしろ過ぎ去って行く。その間、無理に目を瞑っているうちに何度かウトウトしかけたのだが、何故かその度タイミング悪く隣室にある電話がけたたましく鳴り響いた。…ただ、いざ眠ろうとして意識を外界から遠ざけてしまうと、その音にはハッとなっても起き上がるところまではいけない。動くのが億劫で、何度も鳴るそれを取る事は出来なかった。
  だから友之がようやっと立ち上がってその何度目かの音に反応出来たのは、もう昼も大分過ぎた頃だった。

『寝てたよな…っ。ごめんな、友之!』

  誰だろうと考える間もなくぼんやりと受話器を耳に当てたから、友人の切羽詰まったその声には友之もあっとなって目を見開いた。
「拡…?」
『あ、うん。ごめん、ごめんな? こんな、何回も電話してさ。煩かっただろ…?』
「何回も、電話くれてたの…?」
  遠くで鳴っていたあの音は全てこの友人からのものだったのだろうか。そう思うとすぐに電話を取ろうと起き上がらなかった事が酷く申し訳なくて、友之は「ごめん」と謝ろうと口を開いた。
『ごめんっ』
  しかし友之の声を聞けた事でより一層焦った感じになった沢海は、友之に話させる間も与えずに自分が早口でまくしたてた。
『本当にごめんっ。俺…友之が休んだの聞いて…というか、昨日の事聞いて、いてもたってもいられなくってさ…! 大丈夫なのか、本当に? 傷、痛んだりしてるんじゃないのか?』
「大丈夫…あの…」
  休んだのは怪我のせいではないと言いたかったが、それでも友之はまだ喋らせてはもらえなかった。
『あのな、俺、本当うざい奴なんだけど…っ。光一郎さん所にも電話しちゃってさ、一応昨日の病院でお医者さんに言われた事も聞いてるんだ。だから大丈夫なんだろうって言うのは分かってるんだけど。白石先生も『大した事ない』って言ってたし。でも、あの先生って何ていうかお気楽って言うか、あんまり物事真剣に捉えてないって感じするだろ? だから、結局友之の声、直接聞かないと落ち着かなくってさ』
「コウにも電話したの…?」
  沢海は一体いつ光一郎の携帯の番号を知ったのだろうかと何となく思う。自分とて光一郎の番号を知ったのは最近だと言うのに。
『友之のことが心配なんだ』
  沢海が言った。
『お節介なのは分かってる。それのせいで……俺のせいで、友之が遭わなくていい災難に遭ってる事も分かってる。…でも俺、友之の事が心配で―…ごめん』
「……ううん…っ」
  どうして沢海が謝るのだろう。それが嫌で友之は電話越し、必死になって首を振った。
  きっと沢海は今、とてつもなく悲しい顔をしているに違いない。昔からそうなのだ。沢海は何があっても友之の事を優先して、友之の事ばかりを考える。それを沢海は自分で「お節介」と言うけれど、友之はそうは思わない。
  沢海はとても優しい人なのだと思う。
「あの…ありがとう。電話、してくれて…」
『え……。あ、いや……』
  友之がようやく落ち着いた風に声を出すと、沢海はそこで初めてはっとしたようになって黙りこくった。それから友之が「ちょっと熱が出ただけだから。でも、もう全然平気だから」と続けると、沢海はまた曖昧に『ああ』と頷いたようになってから、ふっと声色を変えた。
『あのな…。橋本たちバレー部のこと』
「あ……」
『友之は関係ないって言ってるそうだけど……関係ないわけは、ないよな』
  沢海の声がどことなく暗く翳っていたので友之は焦った。
「関係ないよっ」
『……ふ。そうやってすぐ言葉を出してるのが嘘って証拠だよ』
  友之は嘘が下手だなあと電話越し薄く笑って、沢海は電話の向こうでふっと溜息をついたようだった。
「拡…?」
  友之にはそれが少しだけ不安だったのだが、それでも昔からの「友人」は確固たる意思の篭もった声で言った。
『友之が優しいのは知ってるよ。でも、それがいつでも正解ってわけじゃないと思う』
「え…?」
『少なくとも俺は納得できない。……絶対に許せない』
「拡…っ?」
  ドキリとして友之が焦ったように受話器をぎゅっと握ると、その緊張がもろに伝わったのか、沢海は途端波長を緩めて『大丈夫』と安心させるような声を出した。
『友之が困るような事はしない。約束する。……ただ、俺個人が許せないと思っているだけだよ。友之を傷つけた奴ら、許せない。そう思う事は俺の自由だろう?』
「駄目…!」
『え…?』
  友之の珍しく強い口調に沢海は面食らったようだが、すぐに立ち直って電話越し苦笑した。友之がこういう態度に出る事も、ある程度は予測していたのかもしれない。
『はは、駄目、なんだ? 俺が勝手に思うだけなのも駄目なの?』
「駄目だよっ」
『………そっか』
  友之がムキになっているのが瞬時に分かったのだろう、沢海は途端静かになって電話越し黙りこくった。……するとその向こう側で学校の喧騒とした雰囲気が友之の所にまで伝わってきた。
  ざわついた校舎内。午後の授業が始まろうとしている予鈴のチャイム。誰かを呼ぶ放送の声。
  生徒たちのはしゃいだような駆け足、笑い声。
  沢海は今、あの学校にいるんだなと思う。
「拡……橋本さん、大丈夫…?」
  もう電話を切った方がいいのだろう、そうは思ったものの、気づけば友之はそれを訊いていた。何回か鳴っていた電話音の中で、もしかすると橋本からのものもあったかもしれない、ふとそう思ったから。
『大丈夫って言ったら嘘になるかな』
  友之のその問いに沢海は正直に答えてきた。それから友之の反応を窺うように一拍置き、やがて『でも』と努めて明るい声を出す。
『あいつって強いだろ? それは友之も知ってると思うけど。自分が凹んでたら友之に余計迷惑掛かるって分かってるし。……だから、さ。むしろ、あいつの代わりにカッカきてんの、俺は』
「え……」
『女子ってヤだよな。お前にバカやった奴らは言うまでもなく、橋本のやたらタフなところとかも。俺、なんか最近女不信かも』
「そう…なの?」
『そうだよ。湧井の奴もさ…』
「え…」
  友之がその名前に反応しそうになると、しかし沢海はすかさず「しまった」と言うような態度を取って『何でもない』と掻き消した。
『まあ、いいや。友之の声聞けたし。友之の気持ちは改めてよく分かったし。あのな、本当心配するなよ? バレー部の事とかもさ。悪いようにはならないから』
「本当…?」
『うん。大丈夫。……でもなあ、やっぱりな。友之の心配って、“そっち”なんだよな』
「え?」
『偶には自分の心配もしろよ?』
  沢海はそう言って今度は本当に軽い笑声を立ててから、「じゃあな、また明日な」と言って電話を切った。友之がもう一度「ありがとう」を言う間もなかった。予鈴も鳴っていたし、自分が引きとめていたせいで沢海は午後の授業を遅刻したかもしれない。それが少し気になった。
「明日…学校行ったら、訊いてみよう…」
  自分に言い聞かせるようにそう呟いて、友之はカチャリと受話器を電話に戻した。
  それから沢海が発した言葉を頭の中で反芻する。

  偶には自分の心配もしろよ……

「いつも…自分の事ばっかり、なのに」
  そういえば光一郎もそんな風に言っていた。光次とファミリーレストランで食事していた時だ。自分の事ばっかりなんだ、こいつ、というように苦笑して、それが困るのだと光次に零すように言っていた。
  光次は光次で、「それは光一郎さんもでしょ」と茶化すように言っていたけれど。
「………」
  光一郎は、今日こそ大学できちんと勉強出来ているだろうか。昨日は講義中だったであろう光一郎を早退させてしまったし、その前などはこれもまた「駄目な弟」である自分のせいで丸1日をフイにもさせてしまった。1週間もしない間に2回も光一郎の足を引っ張っている。共に暮らし始めた時、「それだけはしたくない」と思っていた事を頻繁にしてしまっている。
  本当に情けない。1人では何も出来ない。どうしようもない子どもだ。
  ひとりでも歩ける。そういう人間になりたいのに。
「あ……」
  その時、ふと電話台の横に置いてあったメモに友之ははたとなって目を留めた。昨日、学校へ行く前に光一郎から貰ったメモと同じ。几帳面な光一郎が用心にと、ここにも用意していったものだろう、光一郎自身の携帯番号と、後は「いつ使われなくなるか分からない」修司の携帯番号が2つ、はっきりとした数字で記されていた。
  それを何ともなしに手に取り、友之は2つの番号を順繰りに見つめやった。
  昨日はこのメモを持っているだけで力が沸くようだった。だから別に電話をしようとは思わなかった(そんな余裕もなかったし)。単純に光一郎が普段大学でどういった生活を送っているのかを知りたい気持ちはあるけれど、そんな理由でいちいち電話して煩わせるのは嫌だ。―…また、修司の方は、電話したい気持ちは光一郎とはまた違った意味で物凄くあるのだけれど、一方で途惑いや恐怖や、色々な感情がごちゃまぜになってしまってどうにも手が出せない。あんな別れ方をした後だから、尚更だ。いつも「待つ身」だった友之にとって、自分から修司に連絡を取るというのは、よほどの理由がない限りはなかなかにし難い行為なのだった。
「でも……会いたい、な」
  こんな時、修司ならどう言ってくれるだろう?
  落ち込んでいる時に修司はいつでも手を差し伸べてくれた。言わずとも察してくれて、欲しい言葉をくれて、信じられないくらい優しい笑顔を見せて「トモはそれでいいよ」と言ってくれた。夕実に縛られていた頃、ああやって自分に近づいてくれる人間は誰もいなかったから、友之にとって修司の存在は本当に大きかった。
「掛けて…みようか、な…」
  ぽつと口にして言ってみて、友之はメモを握り締めたまま、もう片方の手ではもう受話器を握っていた。繋がったら何て言おう? 最初は「この間はごめんなさい」かな? でもまた謝ったら修司は怒るかな? それでもやっぱり謝りたい…。
  物凄いスピードで混乱する思考を整えようとしながら、友之はもう既に暗記してしまった数字を何度も何度も眺めながら、再度ぎゅっと受話器を握り締めた。
「……っ」
  それでも、やっぱり掛けられない。
  音も立てずに持っていたそれを元に戻すと、友之は避けるように電話から離れて寝室のベッドへ戻った。
  駄目だ。今修司に電話をするのは、結局甘えるのと一緒だ―…そう思ったら止まらなくなって、友之はほんの少しでも電話を掛けようとした己を思い切り責めたくなった。
  もう眠る事など出来ないのに、友之は固く目を閉じてそのまま動くのを止めた。
  そうしていつしか本当の眠りに入り、日が落ちるまではもう目を覚まさなかった。





  次に友之が意識を取り戻したのは、自分の頬を何度もぺちぺちと叩く、ひどく冷たい誰かの手を感じたからだった。
「もう起きなよ」
  その人物は本気で友之を起こす気はなかったようだが、言葉では「起きろ」と言っていたし、実際友之の頬を叩いてもいた。ただそれは本当にそっと触れる程度のもので痛みもないし、声にも責めるものは感じられない。
「………」
  それでも友之の意識を覚醒させる凛とした響きが相手のその声色には含まれていた。
「数馬…?」
  相手を確認する前にそう言うと、ベッド脇に腰を下ろしていたその人物は暗闇の中で「そうだよ」と何という事もないように答えた。
「目、開けてないのによく分かったね」
「声…」
「ちっちゃい声だったのになぁ。やっぱキミ、寝過ぎ。だから目が覚めたんだよ。別に起きなくても良かったのにさ」
「起きなって…」
  言ったのは数馬じゃないかと言いかけたものの、友之は再度ヒンヤリとした手で頬をぺたりと触られて息を呑んだ。慣れてくるとそれもとても気持ちがいいのだけれど、最初はさすがにびっくりする。
  虚ろな目をそれで覚ましてから何度か瞬きすると、本当に数馬が自分のいるベッドの端に腰を下ろしてこちらを見下ろしているのが見えた。
「何で…いるの…?」
「キミのピンチだから?」
「あ…怪我のこと…」
「ボクは何でも知ってるよ。キミの事なら何だって、さ」
  日も暮れていて電気もつけていない部屋だからか、数馬の顔ははっきりと見えない。それでも白い歯がニヤリと笑んだのは分かって、ああやっぱり数馬だと思うと安心した。この間は元気がなかったようだし、こんな不敵な表情を見るのも何だか久しぶりな気がして、友之はそれを再度確認するように自分も手を差し出して数馬の掌に触れてみた。
「冷たい…」
「うん。キミ、熱があったみたいだからさ。冷やしてあげてたの。人間タオルだね」
「え……ずっと?」
「ずーっと! …って、言いたいところだけど、それは嘘。来たのは今さっき。えーっと、もうすぐ煩いのがここへ来ると思うんだけど…」
「誰が煩いのだ」
  数馬が振り返ったのと同時、むっとした声と共に隣室の扉を開いて中へやって来たのは正人だった。明るい光が差し込んできて、その姿もはっきりと分かる。
「正兄…?」
「……ったく、お前は。バカだバカ。大バカ野郎だな」
  傍に寄ってきた正人はわざと数馬を押しやるようにして片手で彼の頭をのかし、友之の顔を覗きこんだ。その拍子、数馬が与えてくれていたヒヤリとした心地良い感覚は離れていってしまったのだが、代わりに正人の無骨な手が額のガーゼ付近に当てられた。
「痛むか」
「あ……」
  全然平気だと言うようにかぶりを振って起き上がろうとすると、正人はまた「バカ」と言って無理矢理友之の肩を片手で押した。それで友之はあっけなくベッドに逆戻りだったのだが、傍にいた数馬ですら「いいから寝てなよ」と言うものだから、無理には起き上がれなくなってしまった。
「頭打って目の上も傷作って、その上、熱だ? ボロボロじゃねえかよ。なのに今日は学校行くって言い張ったんだってな? どこまで真面目なんだお前は」
「イイコちゃんなんだもんねぇ、トモ君は」
「バ数馬。テメエは黙れ」
「何だよー、先輩こそ、散々この人の事バカバカって言ってたくせに!」
「うるせ!」
  俺はいいんだ、でもお前は駄目だ、と。当然のように正人は言い張り、それからふうと嘆息してから、「煩くて悪いな」と暗に数馬を指し示すようにして顎でしゃくった。
「俺は1人で来るつもりだったんだけどよ。コウから連絡があった時、タイミング悪くコイツもいて」
「悪くないでしょ。トモ君が弱ってる時にはやっぱりボクがついててあげなくちゃね」
「だから、るせーんだよテメエは。弱ってんのはテメエの方も同じだろうが」
「え…?」
  正人が発した言葉に聞き捨てならないものを感じて、友之がすぐに反応を返した。それに数馬は忽ち「フン」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、正人は別段隠す気はないのか、偉そうに腕を組んだ後、不満そうに唇を尖らせながら「こいつ」と口を切った。
「家出してきてやんの。それで俺ん家に居候」
「家出…?」
「やだな、人を不良少年みたいに。今日日の高校生、1日や2日家を空けるくらい珍しくもないでしょ。ねえ、トモ君?」
「お前とトモを一緒にすんな!」
  数馬の頭をべしりと軽く叩き、正人は再び大きな溜息をつくと、がしがしと既に乱れていた髪の毛をまさぐった。今日は仕事はどうしたのだろう、いつものラフな普段着を見るに、家にいたような感じだが。
  友之が布団の中から半分だけ顔を出した形で正人の顔をじっと見上げていると、正人の方は友之に問われているその目に気づいたのか、どこか決まり悪くなったようにふいと横を向いた。
「とにかく、だな。出来の悪ィ後輩どもを持って俺はホント苦労するぜ。折角の休み、バ数馬には俺の安息の地に居座られるわ、トモは勝手に怪我なんかして心配掛けるわ…」
「別に心配してくれなんて頼んでないよ、ねー?」
「ならお前さっさと出てけ! もう俺ん家ぜってぇ泊めねえー!」
「あ。じゃあ今夜はトモ君ちに泊まろうかな! ねえ、いいよねトモ君? キミが半分そっち詰めてくれたら全然2人で寝られそうだし」
「俺がそれを許すと思うのか?」
  数馬のふざけた物言いにはいい加減慣れたのだろう、正人は特別声を荒げるでもなくその発言を流してしまい、未だきちんと閉じられていなかった窓のカーテンをジャッと勢いよく引いた。それによってただでさえ暗かった部屋の中が本当に薄暗くなり、隣の部屋から漏れる明かりのみが唯一の光源となる。
 それでも意識は段々とシャンとしてくる。
「腹減っただろ。飯、何食いたい?」
  正人もそれが分かったのだろう、友之の方を見下ろしながら「奢るぜ」とニヤリと笑う。
「やったね、中原先輩の奢り久しぶり! 良かったねえ、トモ君?」
「焼肉でも行くか? お前、頭から血ィ出したんだろ? 俺も昔よくやったけど、そういうのはやっぱ肉だな。肉食えば何とかなるしよ。どうだ?」
「熱ある人に焼肉ってのも凄いよね」
「うっ…。まあ、そういや、そうだな」
  冷淡な数馬のツッコミにぐっとなったような正人は、「では何がいいか」と真剣に思案し始めた。
  友之はそれをこれ幸いにとようやっと身体をむくりと起き上がらせてベッドに座る数馬と視線を同じにした。数馬は静かだ。じっと友之の表情を見つめるその顔には、先日の不機嫌なオーラはどこにもない。いつもの、相変わらずの不敵な目をした余裕のある数馬だった。
  少し安心した。
「家出…したの?」
「中原先輩はそういう言い方したけど? ボクに言わせれば、これは家出じゃないね」
「じゃあ何?」
「ただの外出?」
「人に迷惑掛けといてその言い草はねーだろ」
  お前帰れよと正人はまた横槍を入れたが、それでも今夜のメニューを考える事はかなりの重大事なのか、再び顎に手を当ててあれはどうか、これは病人にはなと、らしくもなく呟き始める。
「何だかね」
  数馬はそんな正人の姿に軽く肩を竦めて見せたものの、自分は自分で友之の事が心配だというのは本当なのか、そっと触れるくらいの軽い仕草で前髪の下の包帯に触れた。
「痛い?」
「全然平気。転んだんだ」
  友之が即答すると数馬は嫌なものを見るような目で「はっ」と嘲った後、「あ、そう」と深くは追求せずに今度は友之の手の甲をぴんと指先で弾いた。
「まあ、死ななくて良かったじゃん。キミって鈍臭いしさ。そもそも、これまで生存していたのが不思議なくらいなんだし? でも、キミが死んだら大変だし」
「え………」
「またテメエは偉そうに」
「ねー、そういえば先輩。夕飯食べに行くのいいですけど、あの人来るんじゃない? 光一郎さん、あの人にも連絡したんでしょ?」
「ああ…裕子?」
  けどあいつ最近顔出さねえしと呟くように言った正人は、ちらとどことなく遠慮するような目線で友之を見つめた。それから微動だにせず自分を見つめる友之の視線に勝手に辛くなったのか、ごほっと軽く咳き込んで荒っぽく答えた。
「コウの奴、今日も遅くなるんだと。本当は早く帰りたかったみたいだけど、何かどうしても今日中にやんなきゃいけない事があるらしくてよ。そんで、お前の怪我の事俺らに言ってきたんだよ」
「いつものお兄さん、お姉さん集団にね」
「集団って何だよ。たった3人だろ?」
「十分だよー」
  迷惑そうに数馬は言って、それからふと動物のようにしゃんと背筋を伸ばし片手を耳に当てると、「あ、やっぱり」と呟いた。
「あん…?」
  それに正人が不審な顔をしたのも束の間、バタンと玄関のドアが激しく開く音がして、同時に「トモ君!」と部屋中が揺れんばかりの大声と共に裕子が部屋に突入してきた。
「あ…」
「トモ君!」
  もう一度友之の事を呼んだ裕子は、ずっと走ってきたのだろう酷く息を乱していたが、以前に会った時同様、綺麗な黒髪はそのままだった。
  夕実がいなくなってから「姉代わり」を公言している彼女は、友之にとって「身近にいる年上女性」としては殆ど唯一の存在だ。基本的に女性全般には恐怖というか途惑いを感じる友之だが、こと裕子に関してはそれがない。見かけと異なる豪胆さに度肝を抜かれる事はあっても、会えば絶対的に安心出来る、本当に大好きで大切な人なのだ。
  そんな裕子と対面するのは、本当に久しぶりだったのだけれど。
「怪我したって!? 大丈夫なの!!」
「大丈夫だってコウから聞いてんだろ」
「アンタに訊いてないッ!」
  正人の発言を大声で薙ぎ払った裕子は、己が視線も友之にしか向けず、ズンズンと部屋の中に踏み入るとがばりとベッド脇にしゃがみこんで友之の手を握った。
「ゆ…」
「トモ君! ごめん!」
  そして裕子は友之が声を出す前にそう言って謝った。その表情はとても悲痛で、それはどこか昨日の橋本と被るところがあり、友之を驚かせた。頑とした強さを持ち合わせているところは2人共同じなのに、不意に垣間見せるこういった「弱い部分」も似ていたとは。
「ごめんね」
  その裕子は再度そう繰り返して項垂れた。
「あたしっていっつもそう。トモ君が本当に困ってて助けが必要な時にいないんだ。いっつも…! いっつも肝心な時に逃げてて。今回も。本当バカ!」
「案外自分の事分かってるんだ」
「トモ君、本当大丈夫? 頭でしょ? ああ、目の上もこんな痛々しい…! 傷とか跡残らないよね!?」
  数馬のしらっとした発言も軽く無視して、裕子はただ友之を見ていた。友之はそんな裕子のどこか鬼気迫る態度に圧倒されつつも、けれど心配してくれている裕子に何とか返したくて、何度も「大丈夫」、「全然平気」と必死に口を開いた。
「本当に本当? ねえ、無理しなくていいからね? ね、今夜は私がずっと看病してあげる! 光一郎がいなくたって寂しくないよ! 私がついててあげるからね!」
「中原先輩、この人ボクとトモ君の2人っきりの夜を邪魔しようとしてますよ? 何とか言って下さい」
「……うるせ」
  裕子の必死な姿に数馬は呆れ、正人はどこか憮然としつつも半ば予期していたように脱力している。そうして、「はぁーあ、じゃあ夕飯はこいつのまずい料理に決定だなこりゃ」と呟いて。
  友之はそんな3人の表情を順繰りに見やってから、もう一度「大丈夫」と呟いて、ふっと何気なく視線をその3人の誰でもない、部屋の入口へと持っていった。特に何を考えていたのでもない、何かを感じたのでもない、本当に何気なくそれをした。

「あ…っ」

  だから全く予想していなかったタイミングで「その人物」を目に留めて、友之は思わず声を上げた。
「…何だよ。やっぱお前も来たのか」
  その場にいた3人は友之の反応でそれぞれのタイミングで同じように振り返って部屋の入口に目をやった。一番最初に不機嫌な声を発したのは正人で、その後裕子が「……帰ってたんだ」とやはり嫌そうにぼそりと呟いた。数馬は何も言わなかったが、突然現れたその人物がいつもと違う事は何となく感じ取ったのか、さっと友之を見つめてきた。
「……っ」
  友之はけれどそんな数馬を見つめ返す事は出来なかった。ただ、不意に現れたその人を見つめて、「前の時と同じだ」と咄嗟に思った。
「どうも」
  恐らくは正人や裕子に向かってだろう、軽く挨拶をしたその人物―修司―は、友之が固まったようにこちらを見ているのを自分も挑み返すように迎えた後、笑顔の一つもなく言い放った。

「トモ。お見舞いに来たよ」



To be continued…




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