―11―



  狭い部屋の中には既に裕子たち3人がいたから、という考え方もあるが、修司は隣室の扉の入口に突っ立ったまま、なかなか友之の方に来ようとはしなかった。
「具合はどうなの、トモ」
  ただ淡々と友之の様子を訊く。視線は常に友之の傷口に当てられたガーゼに向いているようだ。
「あ…」
  友之は修司の「いつもと違う」様子に狼狽しながらも慌ててその箇所に触れ、黙って首を横に振った。本当なら数馬や裕子に対して言ったように、「全然大丈夫なんだ」、「ただ転んだだけなんだから」と言えれば良かったのだが、何故か先刻までやっていたその咄嗟の嘘を紡ぐ事は出来なかった。
  今の修司に嘘をつくのはとても怖い事のように思えた。
「お前、今まで何してたんだよ」
  微妙に気まずい空気を壊すように正人が修司に訊いた。裕子は修司と話をする気がないようで…、というか、あからさまに避けている雰囲気が見て取れたので、自分が切り出すしかないと思ったのだろう。正人はやや大きく嘆息しながら、どこか責めるような目で修司を睨み据えた。
「今回は大分長い間姿消してたらしいじゃねェか。マスター、かなり心配してたぞ」
「トモ」
「って、おい! お前、俺の話聞いてんのか!?」
  自分の問いかけを軽く無視された事で正人は当然の事ながら身体を揺らし、怒りの表情を露にした。
  それでも修司は揺るがない。未だいつもの笑顔をちらとも出さずに、ただひたすら友之にのみ視線を集めて言った。
「誰がやったの、それ?」
「え…」
「トモに怪我させたの、どこのどいつ?」
「……っ」
  無意識にごくりと喉を鳴らし、友之は絶句した。怖かった。修司が怖い。やはり怒っているんだと思うと恐怖で何も言う事が出来ない。早く言葉に出して「違う、誰のせいでもない」、「これは転んだだけで、自分が悪いんだから」と言わなくてはいけないのに、冷たい汗まで噴き出してきて殆ど金縛り状態だ。
「…ぁ…」
  何とか声を搾り出そうとして、どうにも情けない掠れた音だけが小さく漏れた。先刻から友之の手をしきりに握っていた裕子がさっと眉をひそめ、「トモ君…?」と窺うように声を掛けてきたが、それに応える事も出来ない。
  するとその時、そんな友之の身体にいきなりさっと暗い影が覆った。はっとして顔を上げると、ベッド脇に座っていた数馬が立ち上がり、自分の隣に座りこんでいた裕子ごと友之を覆い隠すようにして修司の前に立ちはだかったのが分かった。
「荒城さん、今物凄く機嫌悪いでしょ」
  数馬は平静な声でそう言った。友之の視界からはそう言った数馬の表情は見えない。今はそんな数馬に隠されて修司の顔を見る事も叶わない。
  ただ目に入るのは、自分と同い年なのにとてもそうとは思えない、数馬の大きな背中だけ。
「らしくないんじゃないですか。そういう顔、友之に見せるのは止めてくれません?」
「……どいて。トモが見えない」
「おい、お前ら―」
  不穏なものを感じ取って正人が間に入ろうとするも、数馬はその先輩の仲裁すら余計だと言う風に頑とした口調で先を切った。
「見えないようにしてるんでしょ。精神衛生上良くないよ。今のアンタの、その顔」
「数馬、テメエは何言ってんだ!?」
  正人がぎょっとしたように更に横槍を入れるも、後ろ姿を見た限り数馬はまるで動じていない。揺ぎ無くそこに立って、絶対にここを動かないという雰囲気を発していた。
「仮にも友之、病人だし。怪我は大した事ないみたいだけど、熱が出てるんだってさ。だったら安静にさせなくちゃ。そうでしょ」
  最後の言葉のみようやっと先輩である正人を見て、数馬は当然だろうという風に同意を求めてきた。
「ま、まあ…そりゃ…そうだが、よ」
  珍しくその後輩に気圧されるように曖昧に頷き、正人はやがて眉を潜めたまま修司をちらと見て、それからこちらを自分と同じような様子で眺めている裕子を見やった。
「ちっ…」
  そうして何かを諦めたような顔をして俯くと、正人は自分が先に一歩を踏み出し、入口付近に立ち止まったままの修司の肩をぐいと掴んだ。
「おい、出ろよ」
「………」
「聞いてんのかッ!? どけって言ってんだよッ!」
「正人、大きな声出すの止めてよ!」
  ここで初めて裕子が声を出した。友之の手は握ったままだが、正人や数馬同様、勿論修司の尋常でない「怒りのオーラ」には気づいているようだ。だからこそ焦っていたというのもあるだろう、自分こそが大きな声を出して、ようやっと数馬の間越しに言葉を投げる。
「修司、あんた帰りなさいよ。どうせいたって役に立たないんだから。…今夜は私がトモ君の面倒見るし」
「裕子さんが役に立つのかって点にも疑問は残りますけどね?」
「……正人、この生意気な後輩も連れて帰ってよ」
  裕子は数馬がとことん苦手なようだ。直接会話をする気はないのか、正人の方に話を振り、意地悪な目をして振り返ってきた数馬からはふいと視線を逸らす。
「っせーな、命令すんじゃねえよ!」
  それに対して正人は当然のようにむっとしたのだが、ここでいつまでも立ち往生しているのも嫌だと思ったのか、「数馬!」と呼んで顎でしゃくる。
「おら、お前も行くぞ!」
「何で」
「何でじゃねえよッ。こんな狭い所で、お前みたいなデカイのがいつまでもいたら邪魔だろうが!」
「邪魔かどうかはトモ君が判断すればいいんじゃないですか。トモ君は裕子さんが残るより、ボクに残って欲しいって思ってるかも」
「お前な…」
  正人はハアと再び大きな溜息をついた後、ぐいと数馬に接近して顔を寄せ、小声にもなっていないが努めて押し殺した声で囁いた。
「分かってんだろうが? お前がここに残るっつって、コイツが大人しく引くと思うか?」
「コイツってこの人?」
  数馬がわざと大きな声で修司の事を指し示した。正人はそれで余計にぎりぎりと歯軋りをし、やがて自棄になったように「ああ、そうだよ!」と大声を上げた。
「どっちかだけが残るなんてのはありえねえ! だからお前ら両方とも引けって言ってんだ!」
「それで中原先輩はボクらを追い出した後、裕子さんとここに残っちゃうわけ? あららら」
「数馬!」
「冗談ですよ」
  顔は笑っているが目は笑っていない。数馬も不機嫌になっているのかもしれなかった。
  それでも正人の言いたい事など勿論ハナから分かってはいたのだろう、フンと偉そうに鼻を鳴らして一瞬修司を睨み据えたものの―…。
「じゃあね、トモ君。今日は帰るよ」
  数馬はちらりと顔だけ振り返ってこちらを見つめている友之に軽い挨拶をした。
「……っ」
  友之はそんな数馬から目が離せず、何か言おうと口をぱくぱくと開いたのだが、やはり情けなくも声を出す事は出来なかった。数馬にさえ、出来なかった。心臓が早鐘を打っている。この緊張感は久しぶりだった。学校の女子生徒らに「死ね」と言われても、橋本が泣きそうな顔で「北川君、ごめんね」と必死に謝ってきても、皆がこんな風に心配して「大丈夫?」と自分の為に躍起になってくれる姿を見ても。
  心こそ痛いと苦痛に呻いても、こうはならない。
  この今にも全身が風船のように膨らんで破裂しそうな危機感。バクバクとした胸を掻き毟るような焦燥感は、昔の「あの時」以来かもしれない。
  そう、夕実から「叱られる」と感じる何秒か前の緊迫感に。
  酷く似ている。
「……トモ君」
  けれど数馬はそんな友之の気持ちを察したようだった。最初こそすうと目を細めて相手の様子を観察していたが、一度だけ友之の事を呼ぶと後は踵を返し、彼は再び入口前に突っ立ったままの修司と対面した。年齢は下でも、身長で言えば数馬は決して修司を見上げる形にはならない。元々性格的にも相手を敬うだの尊重してだのと言ったものとは無縁の青年ではあるが、しかしこの時は更にそれに輪を掛けて一層傲慢な様相で、加えてやや威嚇するような殺気すら込めて、数馬は修司の事をじいっと見据えた。
  それから心底軽蔑するように。
「ホントむかつくよ、アンタ」
  正人が止める間もなくさらりと数馬は言い放った。
「何がどうなってスイッチ切っちゃったのかは知らないけどさ。そういうのはズルイんじゃない」
「……どけよ、お前」
  修司はとことん数馬とは会話する気がないようだ。けれどそれこそ、いつもの余裕は全くないらしい。どこか憔悴しているような様すら見せて、修司は煩い蝿を振り払うかのように初めて身体を逸らし、片手をブンと振り回した。
  それが数馬に当たる事はなかったけれど。
「どかないよ。だってアンタ、トモ君を心配してきたわけじゃないでしょ」
  けれど明らかに癇には触ったようだ。数馬はますます険悪な表情を閃かせると修司が動いたのを良い事に一歩を踏み出してより接近するような形を取り、疑う余地はないという風に堂々と言い切った。
「自分の都合だけで来たでしょ」
「………何?」
  けれどこれには修司も初めて反応した。さっと眉を寄せると言われた事の意味を反芻するように瞳を燻らし、数馬をどこか不思議そうに見つめる。
  それから一瞬バカにしたような笑みを閃かしたものの、修司はしかし特に反論はせずにその場に佇み、おもむろに下を向いた。
「お前は何言ってんだ?」
  代わりに反論をしたのは正人だった。いい加減2人を部屋から追い出したいというのもあったのだろう、数馬の背中をどんと力強く押すといよいよ友之のいる寝室から締め出して、自分がその入口の前に陣取る。
  そうして自分を見ない数馬の背中に批難するような声を浴びせた。
「確かにこのバカ修司のローテンションな態度にはムカムカするけどよ。コイツがこんな不機嫌なのはトモが怪我したからに決まってんだろ? トモを心配して来たわけじゃないってどういう意味だよ?」
「どういう意味も何も、そういう意味ですよ」
「訳分かんねェ! お前何意味不明な難癖つけてんだ? いや…別にこの修司を庇うわけじゃ全っ然ないけどな? けど、こいつがキレる気持ちは俺だって分かるんだぜ。…正直、どこの誰だか知らねーが、トモに難癖つけたクソガキは俺だってそれなりに締めといてやりてえって思うし―」
「だからそんな話じゃないってば」
  ウンザリしたように数馬は振り返り、「先輩は黙っててくれません?」と偉そうに言う。それにまた当然のように正人はカッカときて声を荒げたのだが、数馬は数馬で修司の反応があまりに鈍い事にイライラときていたのか、その攻撃に対して真っ向から挑み始め―。
  その場は暫し正人と数馬の訳の分からない言い合い合戦が繰り広げられた。
「あんた達、いい加減にしなさいよ!」
  当然のようにその仲裁に入ったのは部屋から出てきた裕子だった。
「もう出てって!」
「うおっ…てめ!」
  部屋の入口に立っていた正人を今度は裕子がどんと押し出し、見かけとは裏腹に怪力のあるところを見せ付ける。そして自称「トモ君の第二の姉」は、仁王像のように目を剥いた恐ろしい顔で両手を腰に当てると、全てを薙ぎ払うかのような勢いで言い放った。
「早く出てって。トモ君が全然休めないでしょ!」
「…偉そうに命令しないでくれます?」
  数馬がむっとした声を上げる。彼はとことん裕子が嫌いなようだ。
  しかしこの時は裕子もびくともしない。
「仕方ないでしょ、アンタ達が煩いのがいけないんだから。いいから、はやく行って!」
「ボクはトモ君の為にこの人に警告してあげてるんじゃないですか。何をとち狂ってんだか知らないけど、あんな態度取って後で悔やむのは自分なんだし。弱ってるトモ君に“更に俺の方が弱ってる”的な顔して注目浴びようなんてさぁ、ズルいんだよ。それに、そんなのこの人自身が1番嫌いな事なんじゃないかと思って」
「数馬、あんたね…」
「大体」
  仮にも「先輩の友人」にぺらぺらと失礼極まりない台詞を吐き続ける数馬を裕子は呆れたように見やったのだが、それでも火のついた香坂数馬は止まらない。それどころか今度は矛先を裕子に向け、体勢を変えて完全に彼女の正面に向かうと容赦のない冷えた声を投げつけた。
「どういう経緯でそうなったのかは知らないし興味もないからどうでもいいけど。お互い納得して付き合ってんだから、いい加減周りを振り回すの止めてさぁ、ずっとくっついててくれません? 貴方たち、かなり迷惑なカップルだよ」
「おい…」
  これには正人が何事か「まずい」というような顔をして身体を動かしたが、やはり数馬はそれも軽く無視する。
「『好きあってないなら付き合わない方がいい』なんて考え方はボクにもないんで。貴方たちの関係をどうこう言うつもりもないしさ、むしろ…ああ、トモ君は変に悩んじゃうのかもしれないけど、くっついてたらくっついてたで、安心かもしれないしさ?」
「安心…? 誰が…?」
  修司が口をきいた。その表情はやはり何も読み取れない能面のようなものだったが、数馬の発言が引っかかったのは間違いないらしい。問いかけるような目で自分を見る修司に、数馬も「おや」という顔をしつつ肩を竦めた。
「誰って。トモ君とか?」
「何でトモが安心する?」
「あぁ…トモ君って言うより、ボクの安心かも? だって荒城さんが誰かとくっついてたら、トモ君は変な煩わしさもなく、平安でいられるし。とにかくさ、アンタはフリーでいない方がいいよ。誰かに飼ってもらってた方が安全なの」
  だから裕子さんがちゃんと手綱持っててくれれば―…と、そこまで言いかけたところで数馬の口はようやく止まった。
  自分自身で止めたのではなく、止めさせられたのだが。
「おかしいのはお前だ」
  正人のその台詞に数馬はフンを笑いつつも同意した。
「……確かにね。ボクもちょっと熱くなり過ぎた」
  正人に胸倉を捕まれ今にも殴られそうになっているのに、数馬は別段畏れた風ではない。ただ、言葉とは裏腹に反省もしていないようだ。意思の篭もった強い眼で数馬は正人を挑み返すように見つめ、それから自分の手で彼の拘束をぐいと解いた。それが簡単に取れたのは、正人がハナから数馬を殴る気がなかったからというのもあるが、数馬の力がとても強かった事も間違いない。
「帰りますよ、でも」
  数馬はズンズンと先に玄関の方へと歩き出しながら振り返らないままに言った。
「ボクだってこの間はトモ君に意味もなく八つ当たりしたけど。だから荒城さんだって偶にはそういう事あるかもしれませんけど。……でも、友之怖がらせるのは明らかに反則でしょ」
  中原先輩、ちゃんと光一郎さんに告げ口しておいてよ、ボクはそういうちくりはやらないから、と。最後の最後まで横柄な態度でそこまで言った数馬は、後はもう乱暴にドアを開けるとそのままバタンと後ろ手にそれを閉めて去って行った。
「……何なんだあのクソガキ」
  正人がハッと安堵なのか溜息なのか判別がつかないような息を吐いた。けれど確かに、数馬の存在はまるで嵐のようだ。いるだけで周りの者を圧倒するし、何かを喋るだけで誰かにとんでもない影響力を残していつまでも留まる。消える事を許さない。
「本当。先輩の指導が悪いからじゃない」
「俺かよ!」
  裕子がその空気に知らぬフリをするようにふざけた物言いをし、それに乗るように正人ががなった。しかし、ふと申し訳ないような顔をして髪の毛を一度だけかきむしる。
「あいつ、お前らが別れた事、知らないんだよ。だからあんな事言ったんだ」
「……別にどうでもいいよ。それに、知らなくて当然でしょ。だって……別に、そういう話、お互いにしたわけでもないし」
「はっ…? けど、お前―」
「でも、別れたのは間違いないよ。…こいつだって分かってるよ」
  ちらと修司を見やる裕子はどこか気まずそうにした後、視線を逸らした。
  修司の方は最初から裕子の方を見ていない。ただそんな事はどうでもいいという風に、今度は思い切り不機嫌な顔を浮かべたままその場に突っ立っていた。
  けれど次の瞬間には修司の顔色が明らかに変わった。正人と裕子がそれに一斉に不審な顔を見せ、その視線の先を追うと、何の事はない、友之がひょいと寝室から姿を現してきたのが見えた。
「トモ君!」
「トモ、お前はそっちいってろ」
  2人の保護者はほぼ同時にそれぞれが同じ事を言い、寝床から抜け出してきた友之をたしなめた。
「…平気」
  さすがに友之もそう言われる事は予測していたので驚きもせず、ただ緩く首を振る。注意される事が分かっていてそれでも安全な場所から出てきたのは、勿論修司を探す為だ。何も言わずとも察して数馬が「庇って」くれた事は嬉しかった。やっぱり数馬は凄いと思った。…けれどそれに反して、修司と同じように相手の顔が見えなくなった事に不安を感じたのも本当だった。
  今、修司と何も言葉を交わさずに離れてしまうのは嫌だった。
「あの…修兄…」
「―……」
  友之の呼びかけに修司は声では返さなかった。
「あ…!」
  ただ、本当に素早く修司は動いた。
  動いて、正人や裕子が何も言葉を差し挟む余地も与えない自然な所作で、修司はするりと友之の傍にまで歩み寄ると、そのままその小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「しゅ…っ」
「な…ッ」
「ちょ…」
  2人の保護者はそれを目の当たりにして、はじめこそポカンとしていたものの、やがてそれぞれが言葉にもなっていないような音を発し、それからやがて怒号とも取れる声を噴出させた。
「ちょっと何してんのよアンタはッ!」
「修司テメエ、離れろ!!」
「あの…っ」
  されるがままに抱きしめられていた友之は、自身も最初こそ呆気に取られていたものの、そのあまりの強い拘束力に息が詰まって少しだけ咳き込んだ。両腕が動けないように抱きすくめられてしまったせいで、関節を曲げる事も出来ない。だらりとそれを伸ばした状態で修司に抱きしめられたまま、友之は何とか相手の顔を見ようともがいてみた。
  それでも修司はびくともしない。
  ズクンと、友之は己の胸の奥が痛むのを感じた。
「訳分かんねェ! いいから離れろって!」
「全く図々しい!!」
  ただ、修司の抱擁は時間にすればほんの数秒に過ぎなかった。正人が力づくで修司の事を引き剥がしたし、裕子は裕子で友之を奪還するべく、修司の腕が離れた瞬間にはもう友之を抱き返していたから。
「何すんだよ」
  修司は強引に肩を掴まれてかなり痛い思いをしたのか、俯きがちながら押し返された箇所を片手で押さえつつ抗議した。
「はぁ!? そりゃ、こっちの台詞だっての!」
  けれど乱暴を働いた正人の方は当然の如く悪びれない。
  それどころか余計に頭にきたと言う風に熱くなり、やっぱお前はおかしい、さっさと帰れとガーガーと喚き散らす。
  修司はそれに対しては何も応えようとはしなかったのだが。
「しゅ、修兄…」
  けれどそのいつまで経っても終わりそうにない騒々しさを止めたのは友之だった。
「ちょっ…トモ君!?」
  友之を守るように抱きついていた裕子もぎょっとする。それもそのはず、修司の無理矢理の抱擁から解放したはずの当の友之が、まるでそんな事をしないでくれとでも言わんばかりに、距離を取らされた修司に向かってすっと片手を手を差し出したのだ。
「……トモ」
  するとそれに誘われるように、修司が自らの腕を伸ばした。
  開かれた掌はそのまま手を出している友之の元へと届き、修司はそのままがつりと友之の手を握った。
  それは酷く異様な光景だった。
「な…何で? トモ君?」
  当然の事ながら裕子がボー然としつつ訊いた。友之はそんな裕子をちらりとだけ見て、申し訳なさそうに目を伏せた後、「あの」とようやく出せなかった言葉を発した。
「修兄と、話したかった」
「修司と?」
「何でだよ!?」
  これには正人も追い討ちを掛けるように怒鳴る。それに友之は見事びくりとして身体を震わせたのだが、手を握っている修司が更にぎゅっとそこに力を込めたので、咄嗟に離そうとしていた修司の手を自分も握り返す事が出来た。
  友之はこの時初めて修司の顔を見た。
  修司も友之の事だけを見ていた。それはやはり怒っているようにも見えたし、何故だか泣き出しそうにも見えた。
「おいトモ! 何だってこいつと話したいんだって!?」
「それにしたって触る必要はないんじゃないの…!」
  ぴりぴりとした空気を裕子までも発し、友之はいよいよ居心地が悪くなって遠慮がちに裕子の腕を振り解いた。裕子はそれに驚いたような顔をしたが、身体を離す時に修司と繋いでいた手も離れたので、その点にはほっと息を吐いていた。
  友之は自由になった身で2人の兄と1人の姉を順繰りに見つめてから、ぼそぼそとした声ながらはっきりと言った。
「この間…修兄のこと、怒らせた…から。ちゃんと、話したかった」
「は…?」
  正人がぽかんとした声を出す。裕子も唖然としていたが、すぐさまキッとなって修司の方を睨んだ。
  修司には動きがない。ただ黙って友之を見据えるのみだ。
「謝ったら修兄が…また怒るって、分かってるから。修兄は『別に怒ってない』って答えるに決まってるから。でも、顔見て、やっぱり怒ってるって思ったし」
「怒ってない」
  修司はすぐに答えたが、やはりその声色は暗かったし棘があった。
  友之はそんな修司の態度に自分こそが泣き出しそうになったのだけれど、「でも」と抵抗する姿勢は示して、その後は息切れをしたようにハアハアと胸を上下に動かした。たったこれだけ喋るのに、もう心臓が苦しくなっていた。それはやはり夕実の前で悪くもない時に言い訳めいた謝罪をする時になる症状と似ていた。
  別に修司を怖いと思う必要などないはずなのに。
「でも…修兄は、優しいのも、修兄だけど……今の…今の、その顔も…、修兄、でしょ?」
「……何でそう思う」
「前からそう思ってた」
  ぐっと喉が詰まったものの、それははっきりと言えた。それから修司に飲まれまいとすっと見上げて拳を握りしめる。傍にいた裕子の方が息を呑んだように張り詰めた表情を浮かべた。恐らく裕子自身は修司のこういった所謂「不機嫌な時」を幾度かは見てきている。だから何が原因でそうなっているのかは分からないまでも、「ああ、また悪い病気が出たな」くらいに思う事が出来る。けれど、友之が「そういう修司」に気づいているとは思っていなかったに違いない。裕子はいつでも友之にべろべろに甘い修司をずるいと思っていたし、けれどそういう修司だから友之がここまで懐いているのだと思っていた。要は悪い部分の修司を友之は知らないから、だからこれだけ2人の仲は良いのだろうと。
  それは修司自身ですらそう思っていたはずだ。
「なぁトモ」
  その時、硬い表情のままだった修司が初めて声色も友之に対する態度も軟化させて口を開いた。
「その怪我。どうしたの」
「え…」
「コウ君は詳しく教えてくれなかったんだよ。ただトモが怪我してるから、心配だったら見に行ってやれって。……心配に決まってるじゃん。あの男は、本当にむかつく」
「コウが…?」
「ねえ。どうしたの、その怪我。学校で怪我したんでしょ」
「うん…」
「トモ君…? 別に言いたくないなら言わなくてもいいんだよ…?」
  裕子が気を遣うようにそう言った。正人はずっと顔をしかめたまま何も言おうとしない。ただ自分の目の前にいる人間たちの動向をじっと観察している風だ。
「トモ、教えてよ」
  修司が再度繰り返した。そうしてもう一度友之に向かって手を差し出す。友之がそれにほぼ反射的に腕を出すと、すかさず手を握られてまた2人は立って向かい合ったままの格好でまた握手するような姿勢を取った。ただ今度は裕子もそれについて咎めるような声を出さなかった。
「あの…」
  本当の理由を言ったら、絶対に良くない事が起きる。友之は頑なにそう思っていたし、実際その確率は高かった。修司だけではない、正人も裕子もいる前で「あの事」を言ったら、学校で未だ馴染めず集団から疎外されている自分を皆は心配するだろうし、無駄に心を痛めるだろう。…ましてや、今回は女子生徒からやられたのだ。友之とて男だから、それに関して情けないという気持ちとて当然ある。
  そして何より、この事を話して問題を大きくした時に、橋本の所属するバレー部に何かが起きるのは。それだけは絶対に避けねばならない。
  だからこの事は絶対に絶対に内緒にしておかなくてならないのだ。
  それなのに。
「け……喧嘩、止めようと、して」
  友之は修司を見つめながらもう答えていた。
「僕のせいで…橋本さんたち、仲悪くなっちゃって…喧嘩、に、なっちゃったから。だから、それ、止めようとしたら……手が、当たって」
「そこ?」
  自らの額を友之の手を握っていない方の手で指し示す修司。友之はこくんと頷き、あぐあぐと口を開きながら更に続けた。もう今さら後には引けなかった。
「自分のせいなんだ…っ。その後、勢いがついてて、自分で勝手に転んで…っ。それで、頭ぶつけた」
「何に」
「つ、つ、机に……」
「それで、それ?」
  今度は修司は、頭の包帯を指差す。それにも友之はこくんと頷いて、ぐっと唇を噛んだ。
  その数秒後。

「……殺すしかないな、そいつら」

  ふっと物騒な事を呟いた修司にぎょっとして顔を上げる。咄嗟に「駄目」と言おうとして唇を開くと、修司が再度ぎゅうと友之の手を握り締め、それからもう一方の手を覆いにするようにしてそっと重ねた。友之が弾かれたように顔を上げると、修司はもうとうにそんな友之を見つめていた。
「嘘だよ。びびんなよ、こんな冗談で」
「……冗談に聞こえなかったよ」
  裕子がほっとしながらも責めるような声を上げる。すると修司はここで初めてはっと笑みを浮かべ、それから友之を冷めた眼で見下ろした。
  そして言った。
「トモ。嘘だよ? 分かるよな?」
「……っ」
  声にはならなかったが、友之は何とか頷いた。それ以外の返答は許されない感じだったし、そもそも嘘でなくては困る。
  やはり言わなくては良かったのだろうかと思いながら途惑っていると、暫く黙っていた正人がその空気を割るように口を挟んだ。
「それでお前らはいつまでそうやって手ェ握りあってんだよ。気持ち悪ィな」
  そうして、「まったく腹立たしいぜ」と吐き捨てるように言い、正人はジーンズのポケットから煙草を取り出し、その1本を口に咥えた。ライターは出していなかったから吸う気はなかったようだが、どうにもイライラが止まらないようなのは誰の目にも明らかだった。



To be continued…




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