―12―



「……それで」
  帰ってきた光一郎はスーパーの袋をぶら下げたまま、部屋の入口に突っ立って呆れたような声を出した。
「何でうちで宴会やってるんだ」
「呼んだのはコウちゃんじゃなーい!」
「そうだそうだ、お前が呼んだ!」
  既にかなりデキ上がっているらしい裕子と正人が、ふざけたように手にした杯を掲げて見せる。普段は互いの悪口ばかり言い合っているくせに、何故か意気投合したようだ。今は仲良くテーブルを囲んで、適当に買ってきたのだろう、たくさんの菓子や漬物などを酒の肴にしてへべれけだ。
  光一郎はそんな2人を見やりながら冷淡に言ってのけた。
「別に呼んでない。トモの怪我のこと、お前らには言っておかないと後で色々煩いだろうと思ったから」
「なあに、その言い方―!」
  裕子はほんのり顔を赤らめた状態だったが、自分が酔っている事には気づいていないようだ。むうと顔をしかめて立ち尽くしている光一郎を下から凝視すると、いやに不機嫌な声と表情で喧嘩を売るように唇を尖らせた。
「そんなの当たり前じゃない。トモ君に何かあったら逐一報告するのは、コウちゃんの義務なんだから! 伝えてきて当たり前! でも、『色々と煩い』ってのは心外よ! 別に煩くなんかないでしょ、あたし達」
「そうだ、別に俺らは何も煩い事なんか言わねえよ!」
「……正人、お前まで酔ってるのかよ」
「煩ェ! 酔わなきゃやってらんねーんだよッ!」
「そうよッ!」
  まるでハモるように2人は声の調子を合わせ、やや引き気味になっている光一郎に更に当たって―…。
  そうして一斉に「その原因」を指差した。
「いいか、コウ。お前はここで飲んだくれてる俺らよりも先にツッコミ入れなきゃいけないモノがあるだろう? なあ、あるだろ? あれだよあれッ!」
「そうよ! あのねえ、あたし達が《アレ》をただ放置していたと思う? 違うわよ、ちゃんと止めたし、何回も文句は言ったのよ!? でも言う事聞かないのよあのバカ! そ、それに…それに、トモ君も…! 別に、嫌じゃないって…言うから!!」
「お前はこいつらに甘いんだよ! だからこんなになったんだ!」
「……分かった。分かったから少し黙れよ」
  ハアと大きく溜息をつき、光一郎は次々と愚痴を飛び出させる幼馴染2人を静かに制して、ここで初めてスーパーの袋をローテーブルの脇にドサリと置いた。テーブルの上には置けなかった。既に散乱しているビールの缶やら焼酎のビンやらが所狭しと置かれていたから。
「あ、ビールある? メール読んだ? 買ってきてって言ったやつちゃんとあった?」
「買ってきたよ」
  裕子の期待に満ちた目がすかさずその袋に飛ぶのに苦笑しながら、光一郎は律儀に返事をした後その場に座りこんだ。いつもなら買ってきた物はすかさず台所へ運んで仕舞う物は仕舞うし、出す物は出したりと忙しなく動く方なのに。座ったすぐ傍には正人がいて、光一郎はその正人に「明日仕事は?」と何気なく訊いた。
「あるよ。けど、帰んねェからな」
「あたしも今日は泊まるから!」
「別に帰れなんて言ってないだろ」
  それだけ酔ってるんだから、もう外へは出させねえよとやや乱暴な口調で光一郎は嘲るように言い、それからようやっと2人が荒れている「元凶」―彼らが先刻指差した方向を何気なく見やった。
「―で?」
  視線の先には修司がいる。
  それから、その修司に背後から抱きかかえられるような格好で座っている友之も。
「お前らそれ、何の遊びだよ」
  光一郎が至極もっともな質問を浴びせると修司は持っていた箸をぴたりと止めて、一切悪びれる事なく平然と答えた。
「トモにご飯食べさせてる」
「それはトモが望んだ事か?」
「ううん。でもトモもいいって言ったよ? ねえ、トモ?」
「う、うん…」
  友之は困惑していた。
  先ほどから正人と裕子がピリピリしているのも耐え難いが、何しろ読めないのは自分を文字通り「抱っこ」して離さない修司である。どうしてそういう流れになったのかは分からない。ただ、修司は友之に怪我をさせたバレー部の女子たちを「殺すしかない」などと「物凄く性質の悪いジョーク」を放った後、少しだけ態度が軟化した。友之がその冗談に思い切り怯えて硬直したからさすがにマズイと思ったのかもしれないし、何だかんだで友之の怪我が大した事はなさそうだと思ったから安堵したのかもしれないし、或いは―友之の方から修司の手を取り、「話したかった」と言ったからかもしれない。
  どちらにしろ、本当の理由は分からない。ただ、修司の機嫌は確実に良い方へ動いて。

「トモ。やっぱり俺はトモの事を嫌いになれない」

  さらりとそんな事を言った修司は、その後本当に態度をいつものものにコロリと変えて、裕子たちが悲鳴にも近い抗議の声をあげるのにも構わずに、「一緒にご飯食べよう」と、今のこの体勢に持ち込んでしまったのだ。
  まさか「食べさせる」事までしてくるとは、友之も想像していなかったのだけれど。
「トモ」
「えっ…」
  どう答えようかと考えあぐねていると、すぐ向かいの場所に座った光一郎が友之を見て訊ねてきた。
「お前もいいのか。修司の、そういうの」
「あ…っ…」
「いいわけないのよ! ただトモちゃんは優しいから断れないだけ!」
  横から裕子がいきり立って声をあげる。それから手にしていたビール缶を持ち前の怪力でぐしゃりと潰し、友達の悪戯を先生に言いつける子どものように、必死になって口を継ぐ。
「こいつ、今日は来た時から物凄く機嫌悪くて! 最初なんて正人が連れてきた香坂君と凄く険悪になって喧嘩しそうにもなったんだから!」
「数馬と?」
  光一郎が初めて驚いた反応を見せたが、これには正人がすかさずフォローを入れる。
「バ数馬の奴もイラついてたけど、そもそもはコイツが悪い。トモが怪我したからって妙にブラックモードになりやがって、当のトモに当たるような態度取ったから、数馬の方が先にキレたんだよ」
「へえ…」
「けど、結局はトモが懐いたら、こいつの態度もこんなだぜ? コロッとな、あっという間に元通りだ。むかつくだろ?」
「そうだな」
「……は?」
  光一郎がすぐに返事をして、更にはあっさりと自分の意見に同意するとは思わなかったのだろう。正人はぽかんとした顔をしてすぐに反応を示さなかったものの、光一郎が実は「怒っている」と思ったのか、途端慌てたようになってゴホゴホと咳き込んだ。
「だ、だろ? むかつくよな? だから俺はさっきからコイツに、こんな妙な体勢でトモにちょっかい出すなと何度も―」
「でも仕方ないだろ。トモがいいって言ったんなら」
「コ…コウ?」
「コウちゃん?」
  正人と裕子は「あっさりしているけれど、でも明らかに不機嫌」な光一郎に度肝を抜かれたのか、恐る恐るという風に昔ながらの幼馴染を見つめやった。確かに自分たちも修司のこの「友之独り占め」を許せなく思っているし、そもそも高校生である友之を抱っこしてあまつさえご飯を食べさせてやるなどと、「異常」以外に適当な言葉が見つからない。そして大層腹立たしい。
  けれど、それでも、何より当の友之がこの修司に懐いている事は昔から痛いほど知っている事実だから、正人たちとしても文句を言いつつどうにも出来ない半ば諦めの境地に立っているというのが実情だった。
  しかし、まさか光一郎までこの状況を「面白くない」というような態度を取るとは。
「……修司。あんたホント、いい加減どきなさいよね」
「そうだぞテメエ。そろそろ俺もマジでキレっぞ」
  裕子と正人は「だから」改めて、依然として友之に自分の手から食事を取らせようとしている修司にギンとした視線を向けた。付き合いが長い分、2人は光一郎の静かな怒りにめっぽう弱い。光一郎は普段から表立って己の怒りを表出させる方ではないから、こういう風に静かにキレられると余計に怖く感じるのだ。心を許している自分たちにだからこそ、光一郎がこうやって時々でも素を出してくる事は嬉しく思うが、だからと言って怖いものは怖いのである。
  それはここにいる修司もよくよく分かっている事だと思うのに。
「コウ君がやめろって言ったら、やめるかも」
  薄い笑みを顔に張り付かせたまま、修司はただひたすら友之を背後から眺めやり、3人の方にはちらとも視線をやらなかった。友之の方は当然もう食事どころではないから傍の4人を交互に見やっているのだが、修司の視線は全く揺るがない。
  ただ友之のみを見つめている。
「修司」
  するとそんな時がどれくらい続いたのか、いつの間にやら傍にあったビール缶を1つ手に取ってそれを煽っていた光一郎が声を出した。
「お前、いい加減にしろ」
  そして修司にそう言った。
「何の話」
「トモにそういう風に甘えるな。トモはトモでそういうお前に勘違いして甘えるし、何も良い事ない」
  光一郎のきっぱりとした物言いに、しかし修司はただ哂った。
「そうかな。少なくとも俺は嬉しいぜ? トモとこうしてると精神安定するし、イイ事が全くないって事はないね。悪い事してるって自覚はあるけど」
「なら離れろよ」
「悪い事してるって自覚はあるけど、コウ君がそうやって不愉快になるのを見るのは楽しい」
「修司、テメエ!」
  これには正人が声を荒げた。裕子も何かを言ったようだけれど、正人の声の方が大きかった。
  立ち上がりはしないまでも、正人は光一郎と修司との間に入るように身を乗り出して鋭い眼光を剥きだしにした。
「お前、そりゃ今度は光一郎に喧嘩売ってんのか? どんだけ身勝手やれば気が済むんだよテメエは!」
「俺はコウ君とは喧嘩しないよ。正人君とはしてもいいけど、コウ君を敵に回すのは嫌だね」
「じゃあその態度は―」
  興奮して更に前傾視線を取る正人に、修司は片手を制し暗に黙れと合図した。
「違う。正人君には分からないと思うけど、俺はこういう事言ってコウ君に甘えてるだけ。だってトモに甘えるのは駄目だって言うからさ。じゃあコウ君に甘えるしかないじゃん。俺にはこの2人だけなんだから」
「修司…」
  裕子がむっとしたような顔をしたが、修司はこれも軽く無視した。それからおもむろに手の中の箸をぴしりとテーブルに置き、友之の肩をそっと叩いて身体を離すと、修司は立ち上がって笑顔のまま光一郎を見下ろした。
  そして言った。
「行こう、コウ」
「……疲れてる」
  光一郎の露骨な面倒顔を、修司は肩を竦めるだけでかわした。
「知らないよ。折角待ってたんだから付き合ってよ。久しぶりじゃん?」
  ね?と、ともすれば女性のような繊細な表情と声質で修司は光一郎を見つめ、そのくせどこか不敵な様相を漂わせて、彼は他の3人には何も口出しさせないような雰囲気を醸し出した。
「修兄…?」
  それでも友之が何とか自分から離れた修司の名を呼ぶと、修司はふっと視線を友之に向けてから、いつもの人好きのする顔でにこりと笑った。
「ごめん、トモ。後は自分で食べな。俺、これからコウ兄ちゃんとデートしてくるから」
「だからお前はそういう言い方止めろ」
  友之が何かを言う前に光一郎がすかさず声を出し、心底腹を立てたような様子を見せた。…それでも結局言う通りに立ち上がったのは、修司がこうなったら絶対に引かない男だという事を知っているからだろう。
  正人に「悪い、ちょっと出てくるから後頼むな」と言うと、光一郎は友之には何も言わずに修司と外へ出て行ってしまった。
「何なのよ、もう…」
「……まあ。いつもの事だろ」
  正人も光一郎と同様、重い溜息をついたものの、裕子ほど怒りを持続させはしなかった。当面修司を友之から引き離せた事で安堵したというのもあるのだろう、正人はハッともう一度違う種類の吐息をした後、ややあってからボー然としている友之をじろりと睨み据えた。
「お前なあ、幾ら修司がああいう奴だからって、その流されまくりな態度は、いい加減ちっとは直せ。修司だけでなくて、そのうち違う奴らからもつけこまれっぞ」
「そうねえ…。私もトモ君の事は今後がちょっと心配」
  まるで父親と母親のようだ。2人して残された友之に向かってそんな事を言い出すものだから、友之としても光一郎たちの背中を追っていたものの、視線まで遮断されてその先を追う事が出来なくなってしまった。
  目の前にずんと迫ってくるようにしている正人と裕子を前に、友之は修司に抱かれていた時よりも困った風になって視線をあちこちに泳がせた。
  それでも気になって仕方がないのも事実だから、口だけはぼそぼそと自然に動く。
「あの…2人は、何処行ったの?」
「あぁ…?」
  正人は友之が自分たちの「説教」をまるで聞く気がない事が分かって思い切り眉を吊り上げた。……が、友之が気にする気持ちも分かるのだろう、ふっと息を吐くとテーブルに肩肘を乗せて、面白くもなさそうにふいとそっぽを向いた。
「知らねーよ。どっかそこらへんだろ。そんな遠くには行かねーと思うけど」
「何しに行ったの?」
「いつもの事じゃねーか」
  正人の言葉に友之は意味が分からず、ただ首をかしげた。すると横から裕子が「そうか」と得心したように呟いて、やや途惑いがちに言葉を発する。
「トモ君はこれまであんまり見てなかったかもね。コウちゃん、トモ君と一緒に暮らすようになってからは大学とバイト以外じゃそんなに外、出歩いてないだろうし」
「まあ…そういや、そうか」
  裕子の言葉に正人もふと気づいた風になって顔を上げた。それから未だ何の事やらという風な友之をまじまじと見やり、何という事もないように答える。
「昔はよくあいつら2人だけでつるんでたんだ。俺は元々修司の奴が気に食わねーから、あいつが来る時は俺がパスしたし、逆に俺がコウの奴と約束してる時は、あいつは来ねーしな。殆ど。…―で、こういう大人数の時は、修司の奴、コウだけ連れ出してバックれんだよ」
「そうそう。あと、コウちゃんと会う時は私には絶対内緒にしてたしね」
「何で…?」
  正人たちの会話についていけず困惑していたものの友之が何とかその最後の台詞にだけ問い返すと、裕子は可笑しそうに目を細めた。
「修司ってそういうとこ、本当女の子だから」
  これには正人が「はっ」とバカにしたような笑いを浮かべたが、裕子は自分も苦笑しながら軽く肩を竦めた。
「修司はね、コウちゃんと遊ぶ時は他の誰も入れたくないの。でもそういうのって小学生に結構あるでしょ? 『今日は私がA子ちゃんと遊ぶんだから、B子ちゃんは来ちゃ駄目!』みたいな、ね。済ました顔してるけどねー、本当独占欲強いんだから。結局我がままなのよ、あいつは」
「お前はお前で、よくそんなのと付き合ってたな」
「煩い」
  正人の厭味にぎっと睨みを利かせたものの、裕子は言うほど修司を嫌っているわけでもないから、そこはそれ以上突っかかりもしなかった。光一郎が帰ってきて早々彼を連れて外へ出た修司を面白くないとは思っても、恐らく裕子は修司が何故そうしてしまうのかが何となく分かってしまうから、強く物を言えないのだ。実際、裕子自身も修司を言えない事を数多くしてきているし。
「………」
  友之はその後も続く2人の思い出話兼、光一郎と修司の話を何となく耳に入れながら、頭の中では全く別の事を思い出して半ば放心していた。
  つい先日、光一郎は修司の事を「夕実と似ている」と言っていた。
  修司が光一郎をとても大切な親友として誰よりも尊重しているのは友之も普段より強く感じるところであるが、こうして皆がいる中で2人だけで何処かへ行く姿など初めて見たからあまり実感がなかった。これまで、光一郎は言うに及ばず、このアパートに修司が訪ねてくる時は、最初こそ必ず光一郎の話を振っても、後は絶対に友之を優先してくれたし、光一郎が帰ってきたところで友之を置いて2人で何処かへ行く事など絶対になかった。だから修司の「独占欲」うんぬんなどと聞かされてもあまりピンとはこない。
  けれど、今日のようなところが多くあるというのなら、それは確かに夕実に酷似している部分は大きいと思う。
  夕実もよく友之を誰とも接触出来ないようにした。裕子と3人で遊んでいる時でさえ、直接2人が話す事を嫌った。いつでも夕実を間に挟まなければ駄目で、裕子相手でさえそうだったから、他の人間など言語道断だった。

  トモちゃん、トモちゃんにはあたしがいるんだからそれでいいでしょ。お姉ちゃんがずっと傍にいてあげる。
  だから、トモちゃん。
  絶対あたし以外の人と特別に親しくなっちゃ駄目だよ?

  友之自身、自分の世界は既に夕実しかなかったから、何故夕実が折に触れそんな事をしつこく言うのか理解出来なかった。勿論、夕実に言われるまでもなく、友之には夕実しかいない。だから誰かと親しくしようなんて考えもしなかった。それは実の母親ですらそうで、むしろ母と仲良くしているところなぞ見られたら後が大変だから、友之は家族に対してですら、近しい接触を取らないようにと努めて気をつけていたのだ。
  そういえば夕実は今頃どうしているのだろう。最近では荷物を送ってくる事もなくなった。以前はよく「差し入れ」と称して色々な物を送ってきていたのに。
「…おい、トモ」
「……っ」
  ぼんやりしていたから不審がられたのだろうか、正人から不意に声が掛けられて友之はびくんとして我に返った。見ると声を掛けてきた正人だけでなく、裕子までもが心配そうな顔をして覗きこんできている。
  友之は慌てて目をぱちぱちと何度か瞬かせると、何か口にしなければと思って咄嗟に頭に浮かんだ事を口走った。
「2人、探してきたい」
「は?」
「え?」
  友之の殆ど衝動とも言うべき台詞に、当然の事ながら2人の保護者はきょとんとして動きを止めた。
  ややあってから先に口を動かしたのは正人だ。
「やめとけ。今何時だと思ってんだよ。ほっときゃそのうち帰ってくるし、お前は風呂入ってさっさと寝ろ」
「何でそういう乱暴な口しかきけないのよアンタは!」
  これには裕子が茶々を入れ、「トモ君は熱があるんだからね」と言いながらさっと細く綺麗な手を額に伸ばして撫でてくる。
「あ…もう、大丈夫」
  友之はそれを遠慮がちに解きながら心配がないという風に言うと、今度はその裕子に懇願するべく、「行きたい」と繰り返した。
「2人、何話してるのか見たい」
「どうせしょーもねえエロ話してるだけだって」
「え」
「正人! あんたは適当な嘘言ってトモ君を驚かせないの!」
「だってこいつが…」
「煩い! …ね、トモ君。何であいつらの話してるところなんて見たいの? 別に…確かにこうやって出て行くのを見たのは初めてかもしれないけど、2人が会話しているところなんてのは、この部屋でだって見たことはあるでしょ? 実際、本当に大した事は話していないと思うし。単に修司が我がままでコウちゃん連れ出しただけだから―」
「……うん。でも、見たい」
「こういうところが頑固なんだよな」
  正人が呆れたように横から再度言葉を差し挟み、それから「仕方ねえな」と言いながら重い腰を上げた。裕子がそれに「え」と声を上げたものの、正人は構う風もなく友之を顎でしゃくった。
「んじゃ、この辺りぐるっと一周して、いなかったら諦めろよ? すぐ帰るからな」
「ちょっと正人」
「仕方ねーだろ。それにこいつも1日中部屋ん中にいてクサクサしてたから身体もなまってんだよ。散歩がてら行ってくるだけだ」
「でもトモ君、熱が…」
「おいトモ」
  裕子に有無を言わせず、正人は友之をじろりとわざと厳しく睨みつけると、壁に掛けてあったジャケットに手を伸ばしてそれを乱暴に投げつけた。
「厚着してけ。テメエ、もしこんなんで風邪引いたとかってなったら、俺がこいつ含めて色んな奴らからうぜえ事言われんだからな。風邪引いたらタダじゃおかねえぞ」
「うん…っ。あの、正兄はついてこなくても大丈夫…」
「煩ェ。酒買ってくるついでだ、ついで。ごちゃごちゃ言ってねーでついてこい。お前に荷物持ちさせてやっから」
「……うん」
  以前の正人だったら、友之のこんなちょっとした我がままも絶対に聞いてはくれなかったと思う。光一郎と修司の仲に割って入るような真似をするのは正人自身、一番面倒臭くてやりたくない事だろうし、友之がどういう気持ちで2人を探したいと言っているかを量りかねていたとしても、本来ならば「ここにいろ」と言って取り付く島も与えなかったに違いないのだ。
  けれど、今は違う。
「何よ。それなら私も行きたい」
  裕子がぶつくさと文句を言うようにそう主張したものの、これも正人は一蹴して、「お前はここでコウの飯でも作ってろよ」と逃げるように友之を連れて外へ出た。実際留守番がいるのは確かだったし、裕子と友之を2人で夜の外へ出すなど、正人の性格から言っても絶対にありえない事だ。
  2人でアパートの階段を下りて、やはりまだ相当涼しい外気にふうと息を吐いて、正人は友之たちの部屋を見上げるようにしてからぼそりと言った。
「あいつって、まだ光一郎の事好きなのか」
「え…分からない、けど」
「ま、俺には関係ねえ話だけど」
  おら来いよと、自分から立ち止まって話を振ったくせに、正人は急に決まり悪くなったように自分が先導して歩き始めた。友之はそんな正人に慌てて歩幅を合わせようと軽く駆け出して、何処へ行ったのかも分からない光一郎と修司の後を追うようにアパートの敷地を出た。





「お前さ」
  コンビニにも行きたいからと駅前の方へ向かって歩き出す正人が、暫くしてから友之に言った。
「その怪我。喧嘩止めようとしてなったのか」
「……うん」
  正人はこちらを振り返らない。それが気楽で、友之は先を歩く「兄」の背中を眺めながら途惑いつつも返事した。もう額のガーゼも気にならない。頭にも痛みはなかった。
「お前のせいで揉め事起きたって言ってたけどよ。……お前、学校で苛められたりしてんのか」
「してないよ」
「ホントか?」
「うん。友達もいる」
「ああ……。何か、中学の時からのあいつ…ヒロム、だっけ?」
「うん」
「ふうん」
  けど、何か色々あるんだなと呟いた正人は、それでも暫くしてからちらと振り返り、友之が思ってもみなかった言葉を吐いた。
「やるじゃねェか」
「え…?」
「喧嘩止めようとしたんだろ? それでこそ男だ。お前も成長したな」
「……怒らないの?」
「は? 何で怒るんだ? まあ、詳しい事はよく知らねーけど、お前が何かしなくちゃって思ってやった事だったんなら、俺は嬉しいぜ。前のお前だったら想像も出来ねェ事だろ?」
  違うか?と正人は問うて、ただその答えは求めずに再び前を向いて歩き始めた。
  ただ、「ああ、怪我した事だけは、そりゃまずいけどな」と付け足して。
「コウがヒヤヒヤしたのも想像できっし。まあ、修司のバカが殺気立ったのも、ある意味分かるけどな。けど、俺はお前を怒る気はねーよ。……安心したか?」
「うん」
「ははっ。何だよ、マジで心配してたのかよ?」
  正人は軽く肩を揺すって笑ってから、またちらりと振り返ってその笑顔を友之に見せた。いつでも爛々としていた正人の攻撃的な瞳は、今この時だけは、柔らかい月の光に照らされているせいか酷く優しいものに見える。
  友之はそんな正人の表情にすっかり気が抜ける思いがして、自分もようやっと安心したように笑って見せた。
「…っと」
  そして、ほぼその直後。
  正人が再び目的のコンビニへ向かって歩き出してすぐのところで、友之の方の目的が先に達せられた。
「やっぱこっちだったな」
  正人が言った。
  光一郎と修司はアパートのすぐ近くにある小さな公園にいた。以前、友之が「修司を好き」だと言う少女・由真と並んで話をした場所だ。そう、あの夜、由真はここで修司に振られたと言って友之の前で泣いていた。
  その修司は、今はそこで穏やかな顔をして笑っている。
「行くか、トモ?」
  正人が2人を指さしてそう訊ねたのに、友之はすぐに返事が出来なかった。
  公園のすぐ入口の所にある階段の所、その段差に腰掛けているのは光一郎だ。長い足を持て余しているように伸ばされたそれは、下方にいる修司の方にふざけたように向けられていたが、勿論実際に相手を蹴飛ばしたりしているわけではない。修司は修司で地面に直接腰を下ろした格好でそんな光一郎を見上げ、だらんと両手を背の後ろでついて足も伸ばした格好でリラックスしている。
  何を話しているのかは聞こえないが、とにかく2人はとても楽しそうだった。
  光一郎も修司も、あんな風に笑うのかと思った。
「トモ? どうした?」
  正人が怪訝な顔をして訊く。友之はそれでようやく正人の方を見て、「2人…」とぽつりと呟いた。
「何話してるのかな」
「ん? さあな。お前の事じゃねえの?」
「……僕?」
  その言葉に友之が眉をひそめると、正人は正人で何を今さらと言う顔をした。
「あいつらの話題の中心っていや、いつでもお前だろ」
「……そんなこと」
  とてもそんな風には思えない。そして、ただただ身体が硬くて動かなかった。
「僕…」
  修司の表情も珍しいけれど、光一郎が。
  自分は光一郎にあんな風に「楽」な接し方をされているだろうか…友之は咄嗟にそう思った。分からない。光一郎にはいつも無理をさせて、いつでも迷惑を掛けているという意識しかないから、「あんな」光一郎を見るとどうして良いか分からなくなる。
  2人だけでいる方が。
  2人とも楽しそうに見えた。
「トモ」
  その時、光一郎がそんな友之に気がついた。
「おう」
  応えない友之の代わりに正人が軽く手を上げて声をあげる。光一郎はそんな正人もちらりと見て、しかしすぐにまた硬直しきっている友之に不審な目をしてさっと立ち上がった。
  修司はそのままの視線で友之を見ていた。何も言わない。
「……っ」
  それでますます友之はやはり来てはいけなかったのではないかと思った。思わずじりと一歩後退した。
「トモ、どうした」
  それでも光一郎はもうどんどんとこちらへ迫ってくる。逃げ出すのも変な話だし、大体にして離れたくはない。だから友之は固まったまま正人の隣にいたのだが、いよいよ光一郎が傍に来ると分かった瞬間は、咄嗟にその横にいる正人の腕をぎゅっと掴んでいた。
「は?」
「……トモ?」
  これにはされた方の正人もそうだが、光一郎も驚いたようで、反射的にぴたりと足を止めて友之と一定の距離を取った。正人は途惑いがちに「何だよお前は…」と言っていたが、とりあえず友之の様子がおかしいとは思ったのか、掴まれた腕を振り払おうとはしなかった。
「……っ」
  何かを言わなければ。
  そう思うのに、友之は唇を微かに動かしただけでやはり沈黙した。
  不意に夕実の声が花火のように頭の上をチカチカと照らしながら降ってきた。そしてそれは針に刺されるような痛みを伴い、友之の耳を引きちぎろうともした。
  夕実が言っている。

  トモちゃんなんか邪魔。何でいるの?

「あ…」
  こんなのは幻聴だ。分かっている。夕実が過去に言った台詞でもない。
  それでも友之には夕実の声が聞こえたし、ぼんやりと光一郎の困る顔も見えたし、それに―。
  その背後にいる修司の表情も―……笑っているのに。自分を見て微笑みかけてくれているのに。
  何だかとても、怖いと思った。



To be continued…




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