―13―



「北川、飯行こうぜ」
  昼休みを告げるチャイムと共に一気にざわつき始める教室内。
  クラスメイトの大塚はいつもの大きな弁当箱を掲げながら、もう昔からそうしてきたかのように友之の席に寄ってきた。
「あの…拡は?」
  一日ぶりの学校は普段と何も変わらない。誰もがそれぞれの生活を守るべく、また楽しむべく賑わっていて、休み明けの友之が頭に包帯を巻き、額にガーゼを貼り付けていても、それに対し声を掛けてくる者は皆無だった。
  友之自身が自分の怪我を「転んだ」と主張し、実質的現在の保護者である光一郎も取り立てて学校に対して抗議しなかったせいか、教師陣も今回の件には及び腰だった。一応担任が「大丈夫か」という声掛けと、「精密検査の結果すぐに教えろよ」くらいは言ってきたが、バレー部の顧問という教師は「あいつらに謝らせる必要がある場合は言ってくれ」という、何だか訳の分からない台詞だけを放って逃げるようにその場を去って行った。
  だから、「怪我をしている」友之でも、周囲がその事を気にする素振りは今のところ見受けられない。
  それでも普段なら沢海だけは必ず友之を心配して駆け寄ってくれるのだが。
「風邪…?」
  朝からずっと訊きたかったのに誰にも訊けず、今に至ってしまった。友之は昼休みになってようやく自分の元に来てくれた大塚にその疑問をぶつける。
「お前さぁ…」
  すると大塚は少しだけ呆れたような顔をしつつ、弁当箱を持った手で頭をぽりぽりと掻いた。そうして次にはやや批難するような目を向けて唇を尖らせる。
「気になってたんならそういう事はさっさと訊けっての。俺、お前が訊いてくるまでは絶対言わねえって思ってたけど、さすがに今訊かなかったらキレてたかも」
「ご…ごめ…っ」
「あ、ストップ! 今のなし、やっぱなしッ! 忘れてマジで! 今言ったのは俺じゃなーいッ!」
  咄嗟に謝ろうとした友之に大塚はハッとしてから蒼白になると、ぶるぶると首を振りながら大袈裟に両手を振った。恐らくは以前にもちらと口走った、「拡を怒らせると怖い」という事を自分で思い出したのだろう、友之には極力キツイ言葉を吐いてはいけないと脳内にインプットしているようだ。
  ひょろりと背の高い大塚は人の良さそうな顔をしているが、何しろガタイはあるので一見しただけで迫力はある。しかしそんな長身があわあわと焦って慌てふためく様子は傍から見るととても滑稽だった。
  本人はとにかく必死なのだが。
「あ、あのさ。とにかく、とりあえず飯行こうぜ! 教室は何つーか落ち着かねーし、外行こうぜ、外! お前、今日は弁当? 学食?」
「あ…お弁当…」
  友之が机の横に下げてある鞄をちらと見てそう答えると、大塚は「うんうん」と意味もなく頷いてから、何故か自分がその鞄を持ってさっさと廊下へ向かって歩き出した。
「あ…」
  友之は驚いて自分もその後をついていくべく席を離れたが、その際ふと背後が気になって何気なく視線をそちらへやった。今日は誰からも何も言われないし、からかいの視線すらない。中傷メモが投げられる事もなかった。
  その日、友之のクラスは沢海と、友之が座る後方の席にいる湧井だけが欠席だった。

「わっ、何その弁当! 笑えるー!」
「………」

  学食の横に広がるテラスの周りには青々とした芝生が広がるが、そこに直接腰をおろして昼食を取る学生も多い。
  丁度心地良い木陰になっている胡桃の木の下をゲットした大塚は、「ああ腹減った」と言いながら友之を待たずに己の弁当箱を開けてガツガツと白米を頬張り始めた……が、友之がやや遅れて己も「兄」から持たされたそれをパカリと開いた時には、無遠慮にその中身を覗きこみ、開口一番先の台詞を放って笑った。
「すげえなそれ! 昔何かのテレビで見た事あったけど、実物は初めて見るよ。ホント、ちゃんと食いもんでアンパンマンになるんだなぁ」
「…アンパンマン…?」
  何それと思ったけれど何故か訊くのは躊躇われて、友之は蓋を持ったまま未だケラケラと楽しそうに笑っている大塚を不思議そうに見やった。
  それから再び弁当箱に視線を落とす。
  テレビのキャラクターものなのだろう、丸い顔に赤いほっぺた。にこりとしたその顔は友之の観点からは「可愛い」と感じなかったけれど、ほのぼのとした雰囲気があって小さな子は好きだろうと思った。その「アンパンマン」とやらを象った弁当は、白いご飯の上に肉のそぼろが丸くちりばめられて顔の形を描き、黒豆で丸いつぶらな目を、プチトマトで赤い頬を、炒り卵で笑う口を表現していた。顔と同じく丸い鼻はミートボールだ。
「いやぁ、可愛いなあ。食うのが勿体無くなるな!」
  最初こそからかうように笑っていた大塚は、しかし今はもう心底関心したように友之と同じく弁当箱の中身を見つめている。そうして「兄貴が作ったのかよ、それ?」と訊いてきた。
「え…?」
  友之がその質問に弾かれたように顔を上げると、大塚も「ん?」と不思議そうに首をかしげた。
「何、違うの? ああじゃあ、幼馴染の姉ちゃんが作ったとか?」
「何で…知ってるの?」
「え? ああ、お前んとこの家族構成を? だって言ったじゃん、俺、北川と同じ中学だし、拡とは付き合い長いし。お前の母ちゃん死んじゃって今は兄貴と2人暮らしってのも聞いた事あるもん」
「………」
「あ、悪い! 俺、何か無神経だった?」
  母の死をさらりと言った事にハッとした大塚はすぐに申し訳なさそうな顔をして謝った。
  友之はそれにすぐ「別にいいよ」と慌てて首を振ったのだが、今までろくに接触のなかった大塚という同級生が自分を知っているという事実は、「嫌」とかではなく、単純に不思議な気持ちがした。
「これ…コウ兄が作ったんじゃないんだ」
  気を取り直して友之は大塚の質問に答えた。
「修兄って言う……コウ兄の、……友達が作ったんだ」
  修司は自分にとってどういう存在なのだろう。うまい言葉が思い浮かばなくて、友之は暫し考えた挙句そういう風に説明した。
  大塚は修司の事はあまり知らないのか、「ふうん?」とよく分かっていないような顔をして頷いた後、再び食事を再開して「それでさあ」と口に食べ物を含みながら何気なく言った。
「拡の事だけど、まだ答えてなかったよな」
「あ…うん」
  友之がその言葉に前のめりになって聞く体勢を取ると、大塚はそんな相手の反応が意外だったのかたちまち苦笑して、持っていた弁当を芝生の上に置いた。
「聞きたい? 拡の話」
「うん」
「良かった。あいつの事、ちょっとは興味あるんだ?」
「……何?」
  大塚のそれは厭味だったのだけれど、友之にはイマイチ通じなかった。彼の含みに何がしかの感情が込められている事は分かったから、無意識に眉は寄ってしまったが。
「だって」
  それでも大塚は友之のその表情を何ほどのものともせず、軽く肩を竦めた。
「北川って誰にも興味ないような顔してるだろ、いつも。もし拡に対してもそうだったら…幾ら何でも『そりゃねえよ』って思うしさ。あいつの親友としては」
「………」
「ああっと! 今のもちっとはキツイか!? 今の発言も俺じゃねえから!」
  拡には言わないでくれよなとしっかり前置きをしてから、「しかしなあ」と大塚は考えこむように腕を組み、大袈裟に溜息をついて見せた。
「あのさあ、まあ拡は北川のこと構い過ぎるというか、面倒見過ぎって思うぜ、実際。ありゃ、やり過ぎだろ。クラスとかでも噂になってるじゃん、お前らが付き合ってるとか何とか。あれ、北川がどう思ってるのか知らねえけど、明らかに拡のせいだろ。フツーは迷惑だよな、北川も。だから俺はそれについてはあいつにちゃんと言ってやったんだ」
「え…? 何を…?」
「んー? だからさ、あんまり北川に何でもしてやるなって。そういうのって普通のダチ同士ではやんないから。だってあいつ、俺には何も親切な事してくんないぜ?」
「………」
「まあそこがあいつのいいところっちゃいいところなんだろうけど。北川みたいの、放っておけないって言うかさ。やたら正義感あるというか」
  けどさあ、と大塚は組んでいた腕を解くと、今度は自分が友之の方に顔を寄せて渋い表情を作って言った。
「あいつだって折角モテる要素持ってるんだし、変な噂立てられてあいつにも北川にも面倒な事になるのは青春の浪費だろー? だからさ、今日はいい傾向だと思うぜ。あいつも偶には羽目を外した方がいいんだ」
「拡…何処か行ってるの?」
「うん。デートデート! 何かな、予備校が一緒の桜乃森の子から告白されたとかで、今日一緒にどっか行く約束してるらしーぜ。あいつって高校卒業したら留学するって言ってるじゃん? 向こうも帰国子女か何かで話合うらしいし。あーあ、いいよなあ!」
  大塚は心底羨ましそうな顔をしてから、それでも親友の不毛な噂を払拭できる「健全なお付き合い」を祝福しているのだろう、嬉しそうに笑ってから再び食事を再開し始めた。友之が未だ食事に手をつけず自分の言葉の続きを待っているのにも構わず、とにかく凄い勢いで食べ物を口に入れ続ける。体育会系の男子生徒だ、幾ら食べてもその胃が満たされる事はないのだろう、弁当が空になると今度は購買で事前に買っておいた焼きそばパンの袋をびりりと破いてそれを豪快に口に放り込む。
  友之はそんな大塚の気持ちの良い食いっぷりを眺めながら、やや途惑った気持ちになり、沢海が先日掛けてきてくれた電話での会話を思い起こした。沢海が誰かと付き合おうとしている、または付き合う気持ちがあるという話はあの時も聞かされる事がなかった。大塚にはそういう話をしているのに自分にはない。それは単純に寂しい事だった。友之とて沢海には言っていない事がたくさんあるのだから文句を言う筋合いはないし、勿論そこまで不満に思っているわけでもないけれど。
  それでも、沢海の話を彼の「親友」だという大塚から間接的に聞かされた事は少なからず友之の胸に寒風を呼んだ。自分も沢海の「友達」だと思っているから。
「お。あれ、バレー部の馬場と橋本じゃん」
  その時、大塚が前方にあるテラスを指差して物珍し気な視線を向けた。誘われるように友之もそちらへ目をやると、なるほど学食の真横に設置されている何席かの一つに橋本と馬場敏郎が仲良く向かい合わせに座っており、何やら楽しそうに談笑しながら昼食を取っている姿が見えた。友之たちが見ている事には気づいていない風だ。
「あいつらってやっぱり付き合ってんだ」
  大塚が友之に訊いた。橋本とは仲が良い事を知っているからだろう、友之なら二人の関係を知っていると思っているらしかった。
「………」
  けれど友之は微かに首をかしげただけで、何とも答える事が出来なかった。橋本が馬場敏郎に告白されたという話は聞いたけれど、その後2人が正式に付き合い始めたのかどうかという話は聞いていない。少なくとも保健室に運んでもらった時にはそういった雰囲気は感じ取れなかった。ただ橋本の友人であるアユミという少女は、橋本が「一時は馬場と付き合ってもいいと言っていた」という発言をしていたし、自分に好意を寄せている相手にいつまでもなあなあな態度を取り続ける事は彼女の性格から言ってもないとは思っていた。
  学校はたったの1日しか休んでいないのだけれど、その空白の1日の間に色々な動きがあったのかもしれない。
「似合いじゃん、あいつら。何かバレー部も色々揉めたらしいけど、多分3年になったらあいつらが部内纏めるんだろうし。いい感じじゃねえ?」
  友之の無反応には慣れているというか、「知っている分、分かっている」のだろう。大塚は別段問いかけを無視された事を害する風もなく、マイペースに自分の感想を述べた後、今度はアンパンを取り出してそれを食べ始めた。
  友之は橋本たちの楽しそうな笑顔を遠巻きに眺めていたせいかなかなか食事を始める事が出来なかったので、その後「午後の授業が始まるから急げ」と急かす大塚を大分待たせる事になってしまった。





  学校が終わってぐったりとしながら家路に着くと、玄関先には鼻先をくすぐる良い匂いが漂っていた。
「トモ。お帰り」
  ドアが開く音で友之の帰還が分かったのだろう、エプロンをつけた修司はお玉を持ったままひょいと顔だけ出してにっと笑った。
「ただいま…何作ってるの?」
  友之が鞄を持ったまま台所へ行ってその鍋を覗きこもうとすると、修司は「待て待て」と言いながら友之を後ろへ押しやり、「出来上がるまでは見ちゃ駄目だから」と大袈裟にわざと叱るような口ぶりで言った。
「でも、匂いで当てて。俺は何を作っているでしょう?」
「シチュー?」
「さっすがトモ。その通り。男のビーフシチューだ。ギットギトでドロドロですんげえ旨いぜ」
「うん」
  修司が言うのだからそれは確かに美味しいのだろうと思う。「アラキ」にいる時以外で修司がこのように料理を振る舞うところはあまり見ないが、彼が光一郎に匹敵する料理の腕前を持つ事は友之もよく知っている。修司はとにかく器用だ。何でも要領よくこなすし、理解も早くてやる事がいちいちスマート。その才能は料理にも如何なく発揮されているわけで、きっと本格的に勉強すれば修司はどんな分野ででも一流になれるだろうと思う。
  光一郎はそんな修司の事を折に触れ「勿体無い奴」と言っていた。
  自分などとは比べものにならないほど遥かに「出来る奴」なのだという事も。
「あ、トモ、弁当箱出しておいてな。後で洗うから」
  ぐつぐつと良い音を出している鍋の様子を眺めながら修司が友之に言った。
  友之ははっとして慌てて持っていた鞄を胸に抱え、「自分で洗う」と弁当箱を取り出そうとした。
「いいよいいよ、トモは勉強してきて疲れてるんだから。修兄ちゃんにやらせなさい」
  修司は言いながら友之から鞄ごとひったくり、中にある弁当箱を覗きこみながら「旨かったか?」と訊いた。
「う、うん。あの…でも…」
「ん? どした?」
「あの…食べるの遅くて…ちょっと…残しちゃった」
  結局昼休み中に完食する事が出来なくて、友之は修司の弁当を残してしまった。否、それどころではない、頭の隅を「ちょっとかじられただけ」のアンパンマンはその原型を殆ど保っていたし、「ちょっと残した」というよりは「ちょっと食べた」と言った方が正しかった。
  けれど修司は別段ショックを受けた風でもなく、笑顔のまま弁当箱を取り出した。
「そっか。気にすんな気にすんな。けどトモ、あん中に何か嫌いなもんあったか? 今度の参考にするからそこだけは教えて?」
「ないよ、嫌いなものっ。美味しかったから!」
  誤解されたらどうしよう。焦って友之はすぐさま口を開き、必死な顔でそう言った。修司はそんな友之に思い切り苦笑して「気にすんなって言ったろ」と言いながら友之の頭を撫でて、それから弁当箱の中身を流しの三角コーナーにどさりと勢いよく捨てた。
「……っ」
  その光景に友之の胸はズキンと痛んだ。
  食の細い友之だが、「食べ物を粗末にしてはいけない」という事は、幼い頃から両親や夕実によって厳しく躾けられてきた。無論、光一郎と共に暮らすようになってからも、光一郎から「きちんと食べろ」と言われて、その都度その言いつけを極力守ってきたつもりだ。…光一郎としては夕実や両親とは違った意味で「友之にはしっかり食べさせなければ」という想いから言ったのだろうが、友之にしてみれば理由はどうあれ、食べ物を残すという事には深い罪悪が付きまとった。
  そして今回は特にそれが酷い。何しろ修司が作ってくれたものを残したのだ。修司が朝から早起きをして友之の為に作ってくれた弁当だったのに。
「なあ、トモ。明日の弁当は何がいい?」
  心底落ち込んでいる友之に修司が軽い口調で訊いてきた。友之はすぐにその声掛けに反応する事が出来ず青褪めたまま俯いていたのだが、修司が再度友之の傍に寄ってきて「トモ」と顔を近づけてきたので、その時はぎくりとして慌てて顔を上げた。
「な、何…?」
「明日は何が食いたいって訊いたの」
「あ……」
  何でもいいよと言いたいのに声が出なかった。本来なら無条件で喜ぶべき事を喜べていない自分に気づく。そんな己に愕然とする。修司は一昨日からずっと友之たちの住むこのアパートにいて、もうこれからずっとここに住みますとでも言うように家の事を率先してやっている。その事を友之は「急にどうしたの?」とも訊けず、光一郎もそして当の修司もその事について友之には何も言わなかった。
  修司は「元の修司」のように友之に優しくて、この2日はいつも笑顔で接してくれている…が、帰りの遅い光一郎とは大した会話をかわしていない。修司の機嫌が直ったと思ったら今度は光一郎の番なのか。恐らくは、友之が公園で見かけた2人に臆したようになって、光一郎ではなく正人を頼るような態度を示したからとは思うが―。
  どうも光一郎はあの時から、口には出さなかったが明らかに気分を害したようだった。
  そして奇妙な3人による共同生活は、修司の口ぶりではまだ当分続きそうだ。
「なあトモ」
  すっかり固まってしまい声を失っている友之を不審に思わないはずがない。
  それなのに修司はまるで構う風もなく、再びくるりと鍋の方を向いてしまってから、音楽のような軽やかな口調で1人会話を続けた。
「もうすぐゴールデンウイークだろ? 連休さあ、どっか行こうか? コウ兄ちゃんも偶には休ませなくちゃな? 休めないとか言いやがったら無理やり休ませてさ、泊まりでどっか行こうよ。なぁトモは何処に行きたい?」
「………」
「トモ。何処行きたい?」
  修司は振り返らない。火のかかった鍋から目を離すのは確かに良くない事だろう。けれどこの時は単に友之が青褪めているところをわざと目にしないようにしている風にも見えた。
  淡々とした修司の声が友之の耳に木霊する。返事をしなくてはと思うのに出来ない。連休? 何だろう、何の話だろう、何を言われているのか全然分からないと思った。
  いつもだったら修司が友之に何か持ち掛けてくれる話は、どんな事でも何でも嬉しいはずなのに。
  つい余計な事を考えてしまうせいかもしれない。あの公園にいた2人の姿を思い出してしまうからかもしれない。
「……いよ」
「ん?」
  友之がぼそりと言った声を修司は素早く聞き取ってここで初めて振り返ってきた。優しい笑顔はそのままだ。いつも友之の発するのが異様に遅い言葉を辛抱強く待ってくれる時の、穏やかな微笑み。
  友之はそんな修司をちろりとだけ見て、勇気を出して言ってみた。
「行ってきて、いいよ…?」
「ん? 何が」
「あの…休みの時…。どっか…コウと、どっか」
「はぁ?」
  友之のたどたどしくも、しかしようやっと意味の繋がった台詞に、修司は素っ頓狂な声を上げた後、実に嫌そうな顔をした。
「何? コウと2人で行けって言ってんの? 何でそこにトモがいないんだよ」
「だって…っ」
「連休中って野球の練習はあるの?」
「え」
「いやあ、あっても関係ないだろー」
  自分で訊いておいて答えを聞く前にそう掻き消した修司は、ぱちりとコンロの火を止めると改めて身体ごと友之に向き直り、責めるような目を向けた。
「正人君とは毎週会ってるんだからさぁ、偶には俺やコウ兄ちゃんと遊んでくれたっていいだろ? それともトモはお出掛けをしたくないの? 家にいたい?」
「別に…っ」
「あ、そ。別にいいならいいだろ。じゃあ言う事聞いて一緒に来なさい」
  問答無用でそう言うと、修司はにやりと笑ってから再び背中を向けて夕飯の支度を再開した。
「……修兄」
  何となく呼んだ後、友之は修司がつけているエプロンに目をやった。それは光一郎があの家を出る時、友之たちの母親である涼子が荷物の中に忍ばせたものだ。光一郎は普段それをつけて家事をする事はないから、それを見るのは本当に久しぶりだった。修司は一体どこからあれを引っ張り出してきたのだろう。今や友之よりもこの家の物のありかを知っているのではないだろうか。
  まだたったの数日、ここにいるだけなのに。
「なあトモ」
  未だその場に棒立ちの友之に、不意に修司が声を掛けてきた。はっとして再びがくんと垂れていた顔を上げると、修司はそんな友之に足りない物があるから買い物に行ってくれるかと訊いてきた。
「お釣りで好きなお菓子買っていいよ? ジュースでもいいし。あ、トモ、炭酸好きだろ、ファンタとか。こういう時しか買えない貴重品」
「う、うん」
  友之が幼少の頃夕実から与えられた「いじめ」の一つ―自分は飲むくせに友之には炭酸を与えない―を知っている修司はそう言って、己の財布から無造作に一万円札を取り出すとそれを友之に渡した。
「行っといで行っといで。ついでに俺にも何か買ってきて」
「何かって?」
「んー、酒のお供になりそうなお菓子。つまみは作ってあるんだけどさ、立て続けに呑んでると偶にジャンクな物も食いたくなるのよ」
「………」
  修司の好きなお菓子って何だろう。光一郎はきっと知っているに違いないけれど、自分はそんな事も知らない……けれどそうした友之の途惑いに気づいたのか、修司は「はっ」と軽い笑声を立ててから、「いいんだよ」と友之の髪の毛を片手で荒っぽくまさぐった。
「変に悩まなくていいよ。トモが買ってきてくれたもんなら何でも嬉しいからさ。好きなもん買ってこいって」
「……嫌いなもの、ない?」
「あるといやー、たくさんあるけど? トモが選んだ物にはないよ」
  きっぱりとそんな事を言い切る修司はやっぱり大好きな修司だった。
  それなのにどうして自分は笑えないのか。居心地が悪い。本当に自分はここにいてもいいのかと何度も訊ねたくなってしまう。でも、実際は怖くて訊けない。
  受け取った札をポケットに捻じ込み、友之は笑顔で見送る修司にロクに返事もしないまま家を出た。





  夕暮れ時の商店街は仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの学生、それに遅い買い出しをしている主婦層など、様々な人でごった返していた。
  人ごみは苦手だけれど、こういう通りを歩く事にももう随分と慣れた。未だに通りすがりの人の顔を見る事はできないし、なるべく誰とも視線が交わらないように下を向く癖は抜けないが、それでも友之にとって学校とアラキ、それに河川敷へ行く道以外の場所を歩く事に抵抗がなくなったのは大きな進歩だった。
  それでも今はこの卑屈な性格が嫌で嫌で堪らない。何を独りでいじけているのか。光一郎と修司の仲が良い事など前から知っている事なのに、2人が並んでいるところを見て「自分はいない方がいい」という考えが頭を抜けない。そんな自分が大嫌いだ。
「はぁ…」
  思わず大きな溜息をついてしまい、友之は改めて歩きながら通りの商店街を何となく眺めやった。雑踏の中では様々な人の声が聞こえてくる。楽しげに笑う声、囁くような小さな声、張りのある呼びかけをする声、声、声。
  それら人の波も音も個々として捉えるのではなく「群れ」として認識すると、その中に紛れ込んでいる自分という存在が酷く不可解なものに感じられた。自分が一体何処へ向かおうとしているのかも分からなくなる。
  そして不意に、友之は自分という人間がこの世界でたった独りのような気がした。バカバカしい、そんな事はないと知っているはずなのに。
「あら。トモ君」
  その時、背後からぽんと肩を叩かれ気さくな声が掛けられて、友之はびくんとして背中を伸ばした。慌てて振り返るとそこには裕子の母親が立っていて、スーパーの袋を携えた格好でにこにことした人の良い笑顔を閃かせていた。
「買い物? 偉いわねえ、家の事手伝って」
  あのバカ娘にも見習わせたいわとといつもの不平を零した後、裕子の母は「今日はAマートの卵が安い」とか「こっちのB店だとビールが30%オフ」だのという主婦の豆知識を披露し、「でも酒を買ってもあのバカ娘には飲ませない」と最後にはまた裕子の悪口を言った。
「あの子がトモ君に会いたいからってこっちのスーパー色々開拓したから、私も車でわざわざこっち来るようになったんだけど。ホント、最近全然いないわよ、うちに! 昨日は久しぶりに家でぐうすか一日中寝てたけど…、あっ! そうそう、トモ君、その怪我大丈夫なのお!? 裕子から聞いたわよ、大変だったわねえ」
「あの…」
  もう大丈夫と言いたいのに、さすがに裕子の母親と言うべきか、マシンガントークはなかなか止まらない。何でも大型スーパーの駐車場に車を停めた後はこの辺りのお得な店をはしごするのが常だったが、ここ最近は裕子が遊び呆けて家にも殆どいない為買い物に行っていなかった、すると昨日久々に帰ってきた裕子が「家に食べ物がない」と文句を言ったから、かなり派手な喧嘩になったと言うのだ。
「大喰らいの娘が家にいなかったら、自然私とお父さんとテスの分だけ買うようになるでしょ。それでやれビールが足りない、つまみがないだの言われても、そんなの知らないってのよ。もうねえ、トモ君、今度あの子に言ってやって! あの子はトモ君の言う事だけは聞くんだから!」
「裕子さん…今日も家に…?」
「ああ、今日はまたどっか行っていない! ただ何か今度、彼氏連れてくるらしいわよ? 彼氏なんだか彼氏候補なんだか知らないけど。でもねえ、修司君よりカッコイイ子なんてなかなかいないでしょう? おばさん的には期待度ゼロだわね。あはははは!」
  豪快に笑う裕子の母親は、それでも娘が連れてくるという彼氏が楽しみには違いないのだろう、手にした買い物袋には色々な食材がぎっしりと詰まっていた。
  友之はその話にまた驚いてしまい声を失いながらも、何とかたどたどしい挨拶をしてその場を離れた。
「……っ」
  そうして友之は裕子の母親が見えるか見えないかくらいの所まで歩いた後、改めて後ろを振り返った。彼女の姿はない。雑踏に紛れて完全に距離を取れたようだ。ドキドキする心臓の鼓動を悟られるのではないかと気が気でなかったから、それを確認する事によって友之はようやくほっと胸をなでおろした。
  今日はおかしな日だと思う。
  沢海も友之の知らない桜乃森女子高の子とデートだと言って学校を休んだし、同じく橋本も噂の馬場敏郎と仲良く話していて友之の存在に気づく事はなかった。
  修司はあの日からずっとアパートに泊まっていて、光一郎が帰ってくると一緒に晩酌をして友之の知らない話をしている。
  そして裕子も。新しい彼氏が出来たようだ、今さっき見た裕子の母親の好奇心に満ちた目が思い返される。
「コウ兄…」
  無意識のうちに友之は光一郎の名前を呼んでいた。
  相変わらず街の通りは賑やかだ。多くの人が友之の横を通り過ぎ、そして消え去って行く。
  友之はその人の群れに押し潰されそうな気持ちを抱きながら、胸に燻る不可解な感情を必死にもみ消すべく、息を止めて駆け出した。



To be continued…




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