―14―



「面倒」
  修司の「連休中、どっかへ行こう」という誘いの言葉に、光一郎は開口一番そう言った。
  その口調は限りなく冷たく、素っ気無い。機嫌は相変わらず悪いようだ。
「面倒でも何でもバイトは休め。勉強もお休み」
  ただ修司は光一郎がこういう返答をするとハナから分かっていたのかもしれない。別段驚いたりショックを受けたりする事もなく、平然と言い返した後は光一郎のノートパソコンで色々な旅行会社のホームページを閲覧し続けている。遅くに帰ってきた光一郎よりも一足先に夕食を済ませた友之も、先ほどからそんな修司の横でさり気なくパソコンの画面を見つめていた。普段あまりインターネットなどに縁がないせいか、修司が見ている旅行関連のサイト画像は真新しく、珍しくて仕方なかったのだ。
  青い海や色取り取りの花、建物。それに深い緑に包まれた神秘的な森の写真が次々と視界に映る。久しぶりに何だか楽しかった。
「トモ」
  けれど光一郎はいつまでも友之にそんな優雅な時間を与え続けてはくれなかった。修司の作ったビーフシチューに手をつける間もなく、テーブルの上や下に無造作に散らばるスナック菓子やジュースの缶を見て、咎めるような目を向ける。
「何で飯の後にこんなもの食べてるんだ」
「あ…」
「俺が食べていいって言ったの。食後のデザートデザート」
「こんなジャンクフードはデザートじゃない」
  憮然とする光一郎に、しかし修司はやや仰け反りながら呆れたように唇の端を上げた。
「うるっせえなあ、小姑かよお前は。偶にはいいだろうが、俺が酒のつまみ買ってきてって言ったの。それで自分だけ食って、トモに食べさせないなんて可哀想だろ?」
「じゃあ、お前が飲むのを止めろ」
  むっとしたまま光一郎は譲らない。基本的に「だらしない事」は許さない光一郎だが、最近はそう言った類で叱られる事はめっきりなくなっていた。友之が光一郎の言う通り「きちん」とした生活を送っていたからというのもあるが、何より光一郎自身が友之に対して「かなり」甘くなっていたから。
  だから友之も油断していた。確かに、夕食の後にこんなにたくさんのお菓子を広げて汚く食べ散らかすのは「良くない」事だと思う。
「ご、ごめ…」
  謝りながら慌てて片付けようと腰を浮かしかけた友之に、けれど今度は修司が腕を伸ばしてそれを止めた。
「いいから、トモはじっとしてなさい」
「え…」
「修司」
  光一郎がそれにすかさず責めの言葉を吐く。それでも修司は薄い笑みを張り付かせたまま不敵な様子で、ようやっとパソコンの画面から目を離し、顔を上げた。
「どこ行く? 連休」
「行かないって言ってんだろ。忙しい。それより早く片付けろ、ここ」
「無理矢理忙しくしてるだけだろうが。1日2日くらい何とかなるだろ」
「……どうしても行きたいなら、2人で行ってこい」
  ふいと視線を外して光一郎は踵を返した。友之は焦った風にその背中を追ったが、それが立ち止まり振り返る事はなかった。
  そうして光一郎は修司に止めろと言っておいて、自分も冷蔵庫からビールを取り出すと、すぐにそれを開けて自棄のようにぐいと煽った。ここ数日、修司がいる間の光一郎は毎晩何がしかのアルコールを摂取していた。
「コウ君、ビールもいいけど、俺が作ったビーフシチューも食べてよ」
  座った場所から修司が声を掛ける。目線は旅行サイトに注がれたままだ。
「うるせ」
  そんな修司に光一郎は乱暴に返答をした後、ぶすっとしたままその場で再度ビールをぐいと飲んだ。
  友之はそんな2人の遣り取りを忙しなく眺めた後、どうしたらいいのか分からなくなってオロオロと身体を揺すった。もうコーラも、先刻まで食べていたお菓子の味も、まるで分からない。喉がカラカラと渇いていた。
  別段、2人は「喧嘩」をしているわけではない。互いに分かり合っている存在だからこそこういった荒っぽい遣り取りをするのだし、そもそも修司が常に余裕の体でいるせいか、こんな事が起きても通常周りには深刻な感じを与えない。光一郎とて修司の軽いノリに呆れたり苛立たしさを見せる事はあっても、基本的に心底怒っているわけでもないし、意見の相違はあっても、これは断じて「喧嘩」ではないのだ。
  それでも友之は落ち着かない。
  自分が修司の言葉に甘えて「だらしない」事をしたのがそもそもの始まりだ。
「………」
  修司がまた止めるかもしれないと思ったので、そうっと、努めてさり気ない動きで友之は菓子の袋を取ってその口をゴムで縛った。元々夕食の後で1袋全部食べきれるわけもない。早々に戸棚にしまってしまおう。ただ、さすがに修司の為にと買ってきた分まで片付けるわけにはいかないから、とりあえず一番近くにあった自分が手をつけていた物だけでもテーブルから退かす事にする。
「あーあ」
  すると修司がちらと友之を横目で見やってから、わざとぶすくれたような顔をした。
「やっぱりトモはコウの味方だよ」
「えっ…」
「俺、片付けなくていいって言ったじゃん」
  さり気なくやったところで見えないわけもない。余裕でバレている自分の行動を指摘され、友之は困ったように視線をあちこち彷徨わせた。
「だ、だって…」
「だって?」
「もう……お腹いっぱいだから」
「そう〜? 本当にぃ〜?」
「本当だよっ」
「くはは。ムキになっちゃって、やっぱりトモは可愛いな」
  肩を揺らして笑う修司に、友之は途端恥ずかしい気持ちがしてさっと俯いた。修司に「可愛い」と言われる事には慣れているけれど、それでも何だか変だった。ついこの間、「怖い」修司を見たばかりだったせいもあるだろう、柔らかく、からかう風に接してくるいつもの修司がくすぐったい。
  そして一方で、何だか胸が痛い。
「トモ」
  その時、台所からその様子を見ていた光一郎が声を掛けきた。はっとして顔を上げ、すぐに視線を向けると、光一郎は依然としてむっとした様子のまま少しだけ顎先を上げ、「そっちも」と、放ったままでまだ開けていないジュースの缶を指し示した。
「うん…」
  片付けろと言われた事をすぐに理解して、友之は今度こそ素早く缶をかき集め、それを冷蔵庫にしまうべく動き出した。修司は未だどこか呆れた風な笑いを浮かべていたが、もう何も言おうとはしない。ただ独り言のように「おっ、こことかいいかも」と、相変わらず連休中に3人で過ごす場所を決定するのに忙しなくネットの海を探索している。
「大体今頃探しても、どこもいっぱいだろ」
  自分の傍に来て冷蔵庫へジュースを入れる友之を見つめてから、光一郎がそんな修司に声をかけた。
「たとえ休みが取れたとして、何でわざわざその休みに人がごちゃごちゃいる場所へ行かなくちゃならないんだよ。お前は慣れてるのかもしれないが、俺たちは―」
「俺だってヤだよ、人が沢山いる所は。だから。そりゃー、穴場スポット狙おうぜ、行くんなら」
「お前が見てるの旅行会社のサイトだろ? そんなものに載っている所なんて―」
「ああ、これは写真見てるだけ。参考までにどういう系統がいいか見てるだけだから、別にこっから申し込みするわけじゃないし」
  光一郎の言いかけた言葉を掻き消した後、「それで」と修司は再び顔を上げて台所にいる2人の兄弟を順繰りに眺めた。
「2人して俺に薄情な言葉を並べてくれたわけだけどさ。お前ら2人とも行くんだからな」
「2人してって…」
  光一郎が呟くように言いながらちらと友之を見下ろすと、修司はハッと軽く笑った後、肩を竦めて見せた。
「お前もさっき、『行くなら2人で行ってこい』って言ったろ。トモもそう言ったの。『コウと2人で行ってきていいよ』ってさ」
「はぁ…?」
「な? そりゃ、『はぁ?』だよな?」
  はははと軽く笑った後、修司は冷蔵庫の前で屈んでいる友之に害のない笑顔を向けた。
  友之はどんな顔をして修司のそんな表情に対していいのか分からず、焦ったようになりながらわざと冷蔵庫の扉に顔を隠した。そんなに笑う事じゃない。だって本当にそう思ったからそう言っただけ。自分は邪魔だと思ったから、それなら修司と光一郎とで出掛けたらどうかと思ったのだ。
  2人から邪魔だと思われるのは嫌だ。要らないと思われるのは耐えられない。
  それなら自分から離れる。
「トモ。何考えてるんだ、お前」
  自分の事を棚に上げて光一郎が訊いた。びくんと肩先を揺らして、今度は逃げられない位置にいる相手の顔を恐る恐る見上げると、その声色からも予想していた通り、案の定光一郎は怒った顔をしていた。ここ最近の光一郎はずっと「そんな感じ」だけれど、今のこの顔は更にそれに輪を掛けて不機嫌だった。
「トモ」
  何も答えない友之に光一郎が再度呼んだ。そんな風に呼ばなくてもいいじゃないか、怒った顔をされたら余計声が出なくなる。―そう思っても、やっぱり何も言う事は出来ない。
  最近では、思った事は例えゆっくりとでも口に出来るようになっていたのに。
「トモも野球の練習か試合かあるみたいだけど、休ませるから」
  気まずい沈黙を修司の声が破いた。
「熱心なものがあるのはいいけど、野球はねえ。あんまりトモに泥臭い事させたくないよな。正人君なんてアブナイお兄さんもいる事だし。なあコウ?」
「……正人は別に……お前よりは危なくない」
  光一郎がやや口篭りながらもそう答えると、修司は「何だそりゃ」と可笑しそうに小さく哂った後、おもむろに煙草を取り出してマッチで火をつけた。修司は正人と違って「友之がいる前では吸わない」といった「自分ルール」があるわけではないので、ここ数日の北川家紫煙率はかなり高かった。友之自身、別に修司の煙草を嫌だと思った事はないので咎める必要もないし。
「でもさ。トモ、意外に正人君に懐いちゃったな」
  ふうと白い煙を吐き出してから修司が言った。そうして、ここで初めて光一郎の事を鋭く見やった。
「お前のせいだぜ」
「何でだよ」
  あからさま不快な表情を見せる光一郎に、しかし修司は動じない。もしかすると修司自身も不機嫌なのかもしれなかった。
「見た目も言う事もかなり怖いオニイチャンだけど、実は“1番お兄ちゃんらしい”のもあいつだろ。だから俺は元からあんまり近づけたくなかったのにさ」
「だったら、最初決める時にそう言え!」
「ハッ、言えるかよ。トモがやりたいって言ったんだろ? それで反対したら、俺かなり嫌な奴じゃん」
  コウ君だってそうでしょうが?と試すように言ってから、修司はふいと顔を動かして「トモ」と今度は友之を呼んだ。
「いい加減、冷蔵庫閉めなさいって。そんで、こっちおいで」
「……あ」
  そう、盾とするにも限界がある。慌てて冷蔵庫の扉を閉めた友之は、そのまま立ち上がって素直に自分を呼んだ修司の元へ行こうとした。修司には逆らえないし、逆らいたくない。
「トモ」
「…っ」
  けれど、そうやって向かおうとした瞬間、光一郎が友之の手首を掴んだ。ぎくりとして振り返ると、それをした光一郎自身、どこか途惑った顔をしていた。自分でも自分の取った行動に理解が追いついていないという風だった。
「トモ」
  それでも光一郎は一拍置いた後、酷く真剣な顔をして口を開いた。
「正人と何か約束でもしてるのか」
「え…?」
「連休。練習のスケジュールとかどうなってる」
「あ…えっと」
  子どもの日か振り替え休日のどちらかで練習試合を入れたと言う話は先週の土曜にちらりと聞いたけれど、実は詳しいスケジュールについてはよく分かっていなかった。何しろこの間の練習日は人数が足りなくてあっという間に解散となってしまったし、あの日は数馬の様子がおかしくて、そちらにばかり気が削がれていたから。
  それに、練習試合だからと言って友之が気負う必要は皆無と言って良い。いつもと変わらず、来いと言われた時間にいつもの荷物を持って行けば事足りる。友之はいつもベンチウォーマーで、まともに試合など出た事がないのだから。
「何だ。聞いてないのか」
  友之の様子から推測して光一郎がズバリその真実を言い当てた。友之がこくんと頷くと、修司が「それなら」と嬉しそうに笑った。
「ならこのまま知らないままでいようなー、トモ。連休中は正兄に会うの禁止だから。あ、数馬君とか、学校の友達もなしだから。OK?」
「数馬も…?」
  何となくその言葉に引っかかりを感じて声を出すと、傍で光一郎がぴくりと反応を返すのが手の温もりから分かった。友之が驚いて見上げた時にはもういつもの平然とした表情になっていたけれど、代わりとでも言うように修司が形の良い唇をくいと曲げた。
「何でトモって“数馬”にはいちいち反応するの? リアクションが他と違うし」
「お前の時だってトモはこうだ」
  むっとしたまま光一郎が言う。友之は気が気がではなく、今はもうそんな光一郎の顔しか見られない。どうしたのだろう、やっぱりここ最近の光一郎は変だと思う。自分に怒っているのは確実で、いつも冷静沈着で穏やかな光一郎をこんな風に苛立たせるなんて、一体自分はどんな罪を犯したのかと空恐ろしくなってしまう。
「…あほらし。お前にこそ、トモは“そう”だって」
  すると今度は修司がそんな光一郎の言葉に返して、「いい加減、トモ放せよ」と抗議した。
  光一郎はそれでようやく友之を掴んでいた手をするりと解いた。
「………」
  友之はその手を放して欲しくないと思った。
  でもその事は決して伝えられず、結局その夜も2人が何事か言い合いをしながらの晩酌をしている間、友之は隣の部屋で宿題をしてから早々に眠りについた。だから連休の件もどうなったのかは分からないままだった。





「トモ。お弁当持った?」
  玄関先で見送ってくれるのは大抵光一郎なのだけれど、今朝「も」その役目を担ったのは「第2の兄」である修司だ。
「持った…」
「よしよし。昼になるまで開けちゃ駄目だからな? 開けてからのお楽しみ」
  靴を履いてから渡された鞄をモタモタと肩に提げる友之を見つめながら、修司は壁際に半身をもたれ掛けさせた格好で嬉しそうにそう言った。
  友之は毎朝弁当を作ってくれる修司にきちんとお礼を言えていない…否、口では言っている。受け取る時も、鞄に入れる時もいちいち「ありがとう」と言っている。
  けれど友之の中では、それを素直に受け取る事に未だ途惑いがある。
  だからまだ心からの「ありがとう」が言えていない。
「あの…修兄…」
  だから思い切って顔を上げて、今朝こそはと思ってごくりと唾を飲み込む。部屋には光一郎がいるはずだが、友之が立つ玄関先からその姿は見えない。友之には今修司の姿しか見る事が出来ない。
「修兄、あの…」
「ん? あ、そうだ。トモにこれ貸してあげる」
「え……」
  けれど友之が意を決して言葉を出す前に修司に先を越されてしまった。ぐいと手を掴まれて強引に握らされたそれは、古ぼけた薄型の携帯電話だった。
「これ…?」
「俺の。番号変えたし、トモの知ってる一部の人間しか知らないから、掛かってきても怖くないよ? それに、何かあったらトモがそれで家に掛けてくればいい」
「何か…?」
「そう。例えば、学校で誰かに苛められたら」
  にこりと笑って修司は少しだけ首をかしげ、後ろにあるであろう室内の電話機を指差した。
「俺、いるから。トモがSOS出したらすぐ助けに行ってあげる。だから、それ持ってな」
「……苛められてないよ?」
「うん。でも、もしもって事があるだろ? だから」
「だから…」
「そう。修兄ちゃんに電話して? ……あっちで不貞腐れてる奴に掛けても、そりゃあ別にいいけどさ」
  最後の言葉だけ囁くように小声だ。修司は悪戯っぽく笑ってみせてから、不意に身体を屈めて友之の頬をさらりと撫でた。
「それでさ。前賃って事でトモにちゅうしていい?」
「え?」
「助け賃ってやつ? っていうか、名目は何でもいいんだ。行ってらっしゃいのキスでもいいし、とにかくしたいんだけど。駄目?」
「しゅ…修…っ」
  思わず退けようとして背中を少し逸らしたものの、今度は修司が肩先をがつりと掴んで顔を寄せてきたものだから逃げられない。キスされると思ってきゅっと固く目を瞑ると、修司の唇が間近でふっと微笑んだのが気配だけでも分かった。
「……?」
  ただ、予想していた唇への感触はいつまで経ってもやってこなかった。
「……ってえ」
「あっ…」
「あまりふざけてると、今すぐ追い出すぞ」
  いつの間に来ていたのか、光一郎が修司のすぐ背後にいて、恐らくは友之にキスをしようとした修司の足に容赦のない蹴りを入れたようだ。修司は本気で痛いらしく、暫くその部分を片手で押さえてがくんと項垂れていたが、光一郎はそんな親友に対し全く申し訳ないという風ではなかった。むしろやはりその目には怒りが湛えられていて、その光がそのまま友之に向かったものだから、友之としてもあっという間に萎縮してしまった。
「トモ、早く行け」
「う、うん……行ってき……」
「……今度目なんか瞑ったら、お前も承知しないぞ」
「……っ」
  えっと思って振り返ったものの、ドアを開けて外に出た瞬間だった為、扉は無情にもそのままバタンと閉じて光一郎の顔は見えなかった。
  あのくぐもったような、たった今発せられた台詞は何だったのか。
  ドキドキする胸を片手で抑えながら、友之は暫しその場に留まっていたものの、やがてぶるりと身震いすると、そのまま逃げるようにアパートの階段を勢いこんで駆け下りた。
  光一郎を怒らせている事実が友之にはただ堪らない。けれど、自分ではもうどうしようもなかった。





  商店街を通って駅に向かう頃にはその心臓の鼓動も通常の速さに戻ってはいたが、憂鬱な気持ちは相変わらずだった。学校へ行く事も憂鬱だし、家にも何となく居辛い。かと言って友之には他に行く場所もないのだ。アラキに行けば修司の事を訊ねられるだろうし、正人は仕事に違いない。第一、学校をサボって正人の所へなど行ったら、「何考えてる」と怒られるのが関の山だし、後で光一郎にもこっぴどく叱られるだろう。裕子の家とて、無邪気に遊びに行っていたのは子どもの頃の話で、新しい彼氏とやらが出来たという、新しい生活を始めようとしている彼女の生活を侵す事はできない。そもそも、誰かを頼って何処かへ行くなどという選択肢は許されないのだ。
  それでも、こうしていつもと同じ道を辿っていても、学校へ行くのは気が重い。修司が言うような「いじめ」があるから、などという理由では決してなくて。
「北川」
  そんな友之に、しかしその思いを更に助長するような人物が不意に声を掛けてきた。
「あ…」
  聞き慣れないその声にぎくりとして俯けていた顔を上げると、改札のすぐ真横に湧井が制服姿で立っていて、じっと友之の事を見つめていた。
  否、見つめていたというよりは、「睨んでいた」だ。
「ちょっと来てよ」
  湧井は友之が改札を通ろうとしていたまさにその瞬間を捕まえ、偉そうに顎でしゃくってそう言った。相変わらずぶすっとしていて不機嫌で。友之に対する好意は欠片も見当たらない。
  あるのはただ「みんなあたしの敵」と言った、刺々しい視線だけ。
「何……」
  とは言え、クラスメイトを無視も出来ない友之である。出し掛けていた定期を鞄に仕舞い、友之はのろのろとしながらも人々の群れをかき分けて壁際にいる湧井の元へ歩み寄った。まともに相対するのはこれで二度目だ。一度は保健室へ連れて行くという名目で彼女が友之を外へ連れ出した際そのまま帰れと言われ、あまつさえ「死んだ方がいい」とまで罵倒されてそれっきり。それからも何かというと攻撃的な視線や声は投げ掛けられたが、沢海によって守られていたし、沢海が欠席の昨日は何故か彼女も学校に来ていなかった。
  だから今日が二度目。
「おはよう…」
  友之が傍に寄って挨拶すると、湧井はそう言われた事を意外だとでも言うように一瞬目を見開き、それでもぼそりと「おはよう」と返した。そうしてくれた事に友之はほっと安堵した。本当はそんな風に親しげに語り掛けていいのだろうかとびくびくもしていたから。
「学校行くんでしょ」
  友之より少し背の高い彼女は、友之を見下ろすような姿勢でそう言った。
  友之が黙って頷くと、湧井は再びキンとした鋭い目線で睨みを利かせた後、「何で」と言った。
「今だってどんよりしたオーラ身体中に纏って、陰氣臭いったらないよ。別段学校が好きってわけじゃないでしょ。何しに行ってんの。まさか勉強が好きだとでも言うつもり?」
「……嫌いじゃないよ」
「ふん。でも好きでもないんでしょ」
  友之の小さなボソボソ声が本当に癇に障るのだろう。湧井はイライラしたように身体を揺らしてから偉そうに腕を組み、足元に置いていた自分の学生鞄をガンと踵で蹴った。
「昨日、沢海いなくても苛められなかったでしょ。あのバカくさい女子連中も他の奴らも、もうバスケ部の大塚中心に睨み利かせられてるから、だんまり決め込むしかないし。…元々一部の女子以外はみんな沢海の味方なのよ。『北川君みたいな弱い子を守ってあげてるヒロムクン、マジカッコイイ!』とかさ。目ん玉ハートマークの奴ばっかで、ホントばっかみたい。知ってる? 噂は噂としても、ホントは悪意に取ってる奴なんて殆どいないのよ。単に面白がってる奴とか、一部女バレの奴らが他の事であんたらの悪評ばら撒いたみたいだけど。基本は沢海がさ……あいつが、人徳あるから」
「うん」
「何が『うん』なの?」
  自分のべらべらとまくしたてる台詞に友之がすかさず頷いたのが気に食わなかったのだろう、湧井は余計目を剥きだしにして怒ったようにキンキンとした彼女特有の高い声を出した。
  けれど友之としては別段適当に相槌を打ったわけでもないし、彼女の怒りの原因がさっぱり分からないから対処のしようがなかった。
  だから思うままに対するしかないと、改めて覚悟を決め、口を開いた。
「拡…みんなに好かれてると思うから」
「……何?」
「人徳あるって…言わなかった…?」
「……言ったけど」
「だから、『うん』って…」
  言ったんだけど、という言葉は喉の奥で消えてしまった。もう少し背が高かったらと思う。同じ年の女子よりも背が低い事は友之にとって単純に悔しい事実だった。兄たち光一郎や修司もとても背が高いし、同級生の数馬や沢海だって立派な体躯をしている。自分もいつかあんな風に男らしい身体になる日が来るのだろうか。
  そうすればこんな風に相手を苛立たせず、堂々と相対する事が出来るかもしれない。
「北川は沢海の事好きなの?」
  湧井が訊いた。もう友之の方は見ていない。
「友情とか、そういう意味で訊いてんじゃないよ。噂のような感じで好きなのかって訊いてんの。ホモとか何とか言われ続けても無表情のままでさ、慌てふためくでも青褪めるでもない、平然としちゃってむかつくのよ、そういうの。あんたって傷つく心とか持ってないの?」
「……持ってるよ」
「嘘ばっかり」
  友之の発言を一刀両断にし、湧井はどこか憔悴したような顔をした後、唾を飛ばすように再び声を荒げた。
「あそこまでやられて平気でいられる神経が信じられない。まああんたみたいなの、悪口言われたりそういうの慣れてるのかもしれないけど。その額の傷とかだって女バレの奴らにやられたって聞いたよ。でも、あんたは全然関係ありませんって、自分で転んだって言い張ったって」
「誰が言ったの…?」
「沢海から聞いた」
「え?」
  眉をひそめて聞き返したものの、その友之の問いに湧井は答える気がないようだった。そうして、一気にまくしたてて息が乱れたのか、やっとふうと一息ついてから、彼女は組んでいた腕をすっと解いて改めて友之をまじまじと見やった。
「沢海が、あんたは優しいからすぐそうやって周りを庇うんだって。たとえ自分のことを嫌って酷い事をしてくる相手に対してでさえ、優しく気遣っちゃうんだって。そんなの単なる偽善だよ。そういうのって大っ嫌い。虫唾が走る」
「……どうしたの」
「何が?」
「なら何で……嫌いなら、何で、声、掛けるの…?」
  友之の当然の問いに、しかし湧井は一瞬躊躇したような、口篭るような仕草をちらとだけ見せた。
「……あんたなんかもう学校来ない方がいいと思って。見てるだけでイライラするし、だから…。だから待ってたの。はっきり引導渡して、あんたにまた不登校にでもなってもらおうかなって」
「また……?」
「中学の頃もやってたんでしょ」
  あんたって意外に色々なところで噂になってるんだよと湧井は言って、それから何故か急に泣き出しそうな目をしてぐっと唇を噛んだ。
「………」
  友之には何故湧井がこんな風に自分を待っていたのか、そしてこんな風にキツイ言葉を浴びせ続けるのか、さっぱり分からなかった。彼女が言うように、友之に「もう学校に来て欲しくないから」という風には、あまり思えなかった。友之に対して悪意があるのは間違いないけれど、でも、それはとても弱々しくて儚いものだ。怖くて悲しいけれど、絶対的な脅威ではない。
  まるで過去の夕実と相対しているような気持ちにすらなる。
  目一杯こちらを攻撃してくるくせに、心の中では「苦しいから助けて」と言っている。
「湧井、さん……」
  だから友之は湧井の事を、彼女が自分を思うように嫌いにはなれなかった。
  そうしていいのかなと思いながらも、友之はそろそろと彼女のだらりと下がった腕に少しだけ触れて、そうして恐れてもいたけれど勇気を出して言ってみた。
「どうしたの……」
  自分などが心配したところで彼女が何を話すわけでもないという事は分かっている。
  けれど自分が弱っているせいだろうか、同じように小さくなっている同級生の事はどうしても放っておけなかった。



To be continued…




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