―15―



「何それ。何の冗談?」
  友之が開けた弁当箱を覗きこんだ湧井は、心底バカにするような声を出した。
  出掛けに修司が渡してくれた弁当箱の中身は鳥の唐揚にウインナー、卵焼きにプチトマト等々―…学生の弁当としては至ってスタンダードなおかずが所狭しと詰められたものだったが、如何せん、白米に明太ごまで描かれた「メッセージ」が普通ではなかった。
「誰が作ったのよ、それ」
  気持ち悪い、と容赦なく呟いた湧井は、自分自身は近場のコンビニで買ったおにぎりの袋を破いて豪快にばくりと頬張り始めた。女子高生にしては勢いのあるその食べっぷりに友之は多少意外な気持ちがして目を見開いたのだが、それよりも度肝を抜かれたのは修司からの弁当だったので、視線は再びその箱の中身へと落とされた。
  ほんのりピンク色の明太ごまで記されていたのは、「トモ」と言うカタカナと丸っこいハートマーク。
  修司らしいと言えばそうだけれど、これを友之以外の人間が目にしたら、からかわれるのは必定だ。そこのところを修司が一体どういう風に考えていたのかは極めて謎だが、友之は朝から機嫌良くこれを拵えてくれた「兄」の顔を思うと湧井のように悪くも思えず、ただ途惑いながら大きなハートマークをじっと見つめやった。
「ねえ。誰が作ったのよって」
  黙りこんでいる友之に湧井が再度訊いた。忙しなくおにぎりを口にし続けてはいるが、友之とも会話をする気があるようだ。比較的新しい木造りのベンチに並んで座っている2人だが、その間には微妙な距離がある。その狭間には湧井が買ったペットボトルのお茶がぽつんと1本置かれているが、彼女がそれを手にしたのはまだ1度だけ。丁度そのボトルが2人のその微妙な間を埋める役割を果たしていた。
  友之は未だ弁当の蓋を持ったまま湧井の方へ顔を向けた。
「しゅ……兄、貴……みたいな、人」
「みたいな人? 本当の兄貴じゃないってこと?」
  すかさず問い返されたのですぐにこくんと頷いたが、湧井は「意味分かんない」と眉を吊り上げた後、再びがぶりがぶりと手にしていたおにぎりを口に詰め込んだ。
  朝方、駅の改札前で湧井と出会ってから、既に数時間が経過している。辺りはそろそろ昼を迎えようという時刻で、友之たちがいる国立公園にも徐々に昼の休憩で訪れたサラリーマンやOLの姿が目立ち始めていた。
  湧井は駅前で友之が「どうかしたのか」と問いかけた事に関して、苛立たしそうに「何それ」と文句を言った。
  そうして、「どうせ行っても行かなくても同じでしょ」と言った後は、友之を引っ張って改札をくぐり、学校とは正反対の電車に半ば押し込むようにして同乗させると、そのまま片道1時間以上もするこの場所へと連れてきた。
  そこは東京を通り抜けた別の県内にある有名な海浜公園で、外国からの大型船が多数停泊する港とも隣接している場所だった。だからそこからは当然海も見える。その為この場所を訪れる人々は綺麗に整えられた緑の芝生や、友之たちが腰を下ろしているベンチから、海や船や空を行き交うカモメを眺めたりして自由な時間を満喫する事が出来る。そんな場所だから、自然仲睦まじげなカップルの姿も多数見受けられた。
  勿論、今の友之たちにそんな甘い雰囲気は存在していないが。
「“みたいな人”って言うのはよく分からないけど。あたし、あんたの本当の兄貴の顔なら見た事あるよ」
「え…?」
  湧井はおにぎりをばくつきながらも、視線は前方に広がる海へとやっている。友之を見てはいない。
  友之は彼女の眼鏡の奥に潜む凛とした瞳を見やりながら、驚いたように声を出した。
「いつ見たの…?」
「年度末か何かにやってた三者面談の時。あんたんとこ、親じゃなくて兄貴が来てたじゃない」
「……うん」
  そうかと思って友之は何気なく頷いた。
  父親が友之に対して経済面以外での教育を全て「放棄」している現在、実質的な保護者は兄である光一郎だった。だから友之が熱を出して欠席する時に学校へ連絡を入れるのは光一郎だし、保険医である白石とマメな遣り取りをしているのも光一郎だ。それ故1年の終わり頃、これまでの学校生活や今後の進路等について話をする三者面談があった時も、友之は光一郎に親代わりとして学校に来てもらったのだった。
「あの時、あたしも同じくらいの時間に面談で校舎にいたし」
  湧井が言った。
「それに、あんたのクラスの女子とか部活とかで校舎にいた連中がかなり騒いでたから、自然目に入ったし。確かに凄い美形だったよね、周りが騒ぐのもあれには納得だった。あの人って本当に兄弟? 全然似てないし」
「………」
  何とも言えずに友之が黙りこんでいると、湧井はフンと鼻を鳴らしてから「別にどうでもいいけど」とすぐにその話を切ってしまった。
  それから早々に新しいおにぎりをビニール袋から取り出し、乱暴な手つきで包装を破る。彼女の食欲はまだまだ満たされないようだった。
「……いただきます」
  だから友之も開いたままで時間が止まってしまっていた弁当を食べる事にした。何がどうしてこういった展開になったのかは未だ多少途惑うところもあるが、何にしても今日はこの弁当を残すわけにはいかない。折角修司が作ってくれたものを2日連続で残したら、今度こそ修司はがっかりするだろうし、悲しむだろう。
  そのくせ友之には笑顔で「いいよ」と言ってくれるに違いないのだ。そんな修司の顔は見たくなかった。
「みたいな人って言ったら、あたしも同じ。その時もあたしの面談に来たの、父親“みたいな人”だし」
  そんな友之の決意をよそに、湧井が淡々と話し始めた。
「あんたと一緒で、うちも母親いないしね」
「……そうなの?」
  友之が手にしていた箸をぴたりと止めて反応すると、湧井はちらりとそんな友之を見やってから「そうだよ」と答えた。
「だから三者面談にも仕方なくあいつが狩り出されたんだけど。血は繋がってるのかもしれないけど、“みたいな人”って感じよ、あんなの。全然本当の親って感じしてないし。早く離れたい」
「お父さんから…?」
「そんな呼び方、ここ何年もしてない」
  ハッと鼻で笑ってから湧井は口に近づけていたおにぎりを持つ手をぴたりと止め、依然として不機嫌な顔をしたまま唇を尖らせた。
  そして唐突に言った。
「今年の夏からうちの学校でやる、交換留学制度って知ってる?」
「え…?」
「知るわけないよね、学校で透明人間みたいな生活してるあんたじゃ」
  きつい言われ様に自然眉を寄せたものの、事実だから一言もなかった。
  それでも友之は友之なりに新しい高校生活を頑張ってきたつもりだったから、何もかも否定されると、当たり前だが悲しくなった。確かに去年の1年間はクラスメイトの沢海と橋本におんぶに抱っこな状態だったから「何も出来ない奴」「存在感のない奴」と軽蔑されても仕方がない。著しい勉強の遅れも、光一郎のお陰で何とか凌げたようなものだ。環境が変わっても「学校」という場所は相変わらずしんどいし、大勢の人間がいる場所で長く時を過ごすのは疲れる。なかなか慣れない。うまく喋れなくともそれを求められる場面も幾度もあるし、逆に殆どの教師から「別に何もしなくて良い。そこに大人しくしていればいい」というような遠回しな態度で避けられる事も、それはそれで辛いのだ。
  それでも日々何とか変わろうと友之なりに努力しているつもりだから。
  分かって欲しいとは思わないけれど、一方的な攻撃にはやはり理不尽さを感じた。…それを湧井に訴える事は、今の友之には出来ないけれど。
「うちの学校って偏差値もそんなに高くないし、バスケ部以外はパッとしたところもないつまんない学校じゃない。だからか、学校側も生徒集めに必死なんだろうね、カナダの高校と提携して交換留学制度を作ったの。…って言っても、最初はお試しみたいな感じで、夏休みの1ヶ月間だけなんだけどね」
「……ふうん」
「まるで興味ないって感じだね」
  そりゃそうだよねと湧井はまたバカにしたように笑ったが、すぐさまその笑顔をすっと引っ込めると、忽ちつまらなそうに片足だけでぶんと空を蹴った。
「でも、あたしは興味あるんだ。日本の学校なんて大嫌い。あっち行って変わりたい」
「……留学するの?」
「うん、したい。でも、誰でも行けるってわけじゃないよ。進路が迫ってる3年生はその権利自体ないし、入学してきたばっかの1年も除外。2年だけなの。それで、成績優秀な学年トップの1名だけ」
「そう、なの…?」
「滞在費用とかのお金払って英語のテストをパスすれば、あと数名は行けるらしいけど。でも、奨学生扱いみたいなので行けるのは1名だけだよ。……あたしはあの男にお金出してって頼めないし、行くならトップ取らないと駄目なんだ。今度の中間テストで」
「…ふうん」
  友之には無縁な話過ぎてあまりに実感が沸かない。どうとも反応出来ないから困るというのが正直なところだった。
  元々実家のあの部屋から出る事すら、光一郎が「来い」と言わなければ考えもしなかったのだ。今の高校とて友之は光一郎が勧めてくれたからこそ受けたのであって、本当なら父親が行けと言った全寮制の男子校へ入る予定だった。そこに自分の意思など全くない。
  更に今、光一郎の傍でとても自由な生活を保障されても、友之は平日は学校、週末は野球の練習以外特別行く所はないし、別段行きたいという欲求もない。修司のようにこの街以外の場所へ飛び出して行く勇気はない。考えた事もない。今の友之にとっては光一郎の傍だけが自分の居場所だし、もしその光一郎から「ここ以外の、どこでも好きな所へ行け」などと言われても途方に暮れる事は目に見えている。
  たかだか数日の連休すら、修司に「どこへ行きたい?」と訊かれても何も言えない。
  それが海外だなんて。話が遠過ぎて湧井の話にはついていけない。
  分かるのは、ただ彼女が「ここが嫌い」と訴えている事だけだ。
「でも、1年の三者面談の時に言われた。奨学生の枠で留学するのは、沢海がいる限り無理だろうって」
「え?」
  不意に聞こえてきたその聞き覚えのある名前に友之は驚いて顔を上げた。湧井は友之の事を見ていない。ただじっと無表情で遠くの海を眺めるだけだ。気づけばあれだけがっついていたおにぎりも、だらりとした手と共に膝の上に置かれている。
「拡…?」
  ただ、友之は湧井を見続けた。それからその友人の名を発する。
  湧井はその「拡」という単語にあからさまな反応を示した。
「そうだよ。あんたの彼氏。沢海拡」
「………」
「また否定しない。やっぱ付き合ってるんだ、あんた達」
  気持ち悪い、と心底軽蔑したように言ってから、湧井はぐしゃりと手の中のおにぎりを握り潰した。
「何であんな桁外れなのがうちの学校なんかにいるのって、いつも思ってた。あいつ、有名予備校の全国模試でもいつも上位にいるんだよ、知ってる? まぁ知ってるよね、彼氏なんだから。毎回、都内でも1番のエリート校、修學館の連中とかと張り合っててさ、ありえないでしょ。何でうちの学校にいるのよ、そんなのが」
「………」
「でも、その理由もよく分かった。あんたがいるから」
「え…」
  何となく聞き返すと、湧井の眼鏡の奥の目はよりきつくなり、形の良い小さな唇も悔しそうに歪んだ。
「北川がいるから、沢海はうちを選んだ。あんたと同じ学校になりたいって、たったそれだけの理由で。信じられない。何なのそれって」
「……拡がそう言ったの?」
「あいつがあたしなんかに本当の事言うわけないじゃない」
  むっとしてから湧井はふいと横を向いた。
「でも、見てれば分かるでしょ。あんたが何かと周りにバカにされても、火の粉が大きくなる前にあいつが全部消しちゃう。“北川友之を悪く言う奴は許さない”って、恥ずかしいくらいの正義感振りまいてさ。ああ、正義感って言うより、ホモの愛情ってヤツ? ―…それでいてあいつは他の事にも抜かりない。あんたの事守りたいなら、それだけ一生懸命やってればいいじゃない。何であんな何の希望もない学校で勉強も部活動もちゃんとやって、おまけに生徒会なんてものにまで参加しようとしてるわけ? …そんな化け物がいたら、あたしみたいな平凡な人間が敵うわけないし」
「……そんなの」
「『やってみなくちゃ分からない』なんて言わないでよ。腹立ってどうにかなっちゃうかもしれないから」
  潰したおにぎりを元のビニール袋に入れながら湧井は素っ気無く言った。
「だからね。あたしは、あんたも沢海も大嫌いなの。特に、あの完璧男に守られて、何考えてるのかうじうじしてるあんたが大嫌い。見てるとイライラするし」
「………」
「女バレの連中に何言われても所詮は沢海に守ってもらえる。だからあんたは何も言う必要がないんだよね。本当、楽チンでしょ? しかも何それ? そのお弁当」
「え…?」
  不意に指摘された膝の上のそれに友之は途惑って息を呑んだ。手の中のそれが途端存在感を増してこちらを見上げてくるように感じた。
「あんたには」
  そして湧井もそれを感じているのか、彼女はますます剣呑な雰囲気になり、駅前で会った時のようなキンとした声を張り上げた。
「あんたには、そうやってあんたの事見てくれる人間が他にもいるって事だよね。その兄貴みたいな人とか。…本当の、兄貴とか」
「………」
  やはり湧井は夕実に似ている。咄嗟にそう思って、友之は自分の傍でまさに今湧井がしている表情と同じように、くしゃりと小さな相貌を歪めた。
  そんな風に相手に辛く当たっても仕方がないのに。どんなに言葉をぶつけても自分がすっきりする事はない、むしろどんどん苦しくなって自分自身にこそ腹が立って後で悔やむに違いないのに。
  現に湧井はちっとも友之の方を見ない。如何に自分が理不尽な事を並べ立てて友之を責めているか、よくよく分かっているのだろう。
「湧井、さん……」
  恐る恐る名前を呼ぶと、相手はびくりと肩を揺らして驚いたように友之を見た。
  だから友之も窺うような視線のまま、相手の顔をまじまじと見つめ返した。
「どうしてうちの学校入ったの?」
「……はぁ? 何、突然。そんなの。あそこしか入れなかったからだよ。あたし、こんな性格だし、中学の頃から教師とかにも好かれた試しないから。内申悪いから都立には行けないし、あの頃勉強もあまりしてなかったから。成り行きで近くのあそこを選んだだけ」
  「内申が悪いから近場のここしかない」という理由は友之ともよく似ている。湧井も学校に行っていない時期があったかもしれない、友之は何となくそう思った。
「考えないで適当に入ったのは自分だけど。だから自分のせいだけど、だからこそ、今凄く後悔してるの。周りの奴らもみんなバカだし、喋りたくもない。だから早く出て行きたいの。あんな所から」
「……だから留学?」
「悪い?」
  フンと鼻を鳴らし、湧井はがつりと横に置いてあったペットボトルを手に取った。それからまるで自棄酒のようにそれを一気にぐいと煽る。友之はそんな湧井の一挙手一投足を目が放せない想いで見つめながら、(夕実もそんな気持ちであの家を出て行ったのだろうか)と思った。
「あの男はあの男で、よくよく事情も知らないくせに、“お前、こんなバカ学校でもトップ取れないのか”って煩く言ってくるし…むかつくのよ何もかも! 全部……全部、沢海のせい! あいつがうちの学校にいるせい!」
「拡は…っ」
  焦って勢いこんだせいか、友之はけほりと咳き込んで後の言葉を詰まらせてしまった。
  それでも湧井のぶつけようのない怒りが沢海の方へ向く事だけは嫌だった。
「拡は……悪くないよ…っ」
  だから息を整え、それだけはきっぱりと言った。それによって湧井の般若のような顔は余計に吊り上がったのだが、自分でも己の「不利」はよく分かっているのだろう、この時は先刻まで立て続けに出していた文句を発しようとはしなかった。
  暫く、2人の間にはしんとした沈黙が漂った。辺りのざわついた喧騒と遠くから聞こえる大型船の汽笛が滑稽なほど嘘っぽい。おとぎ話のような美しい風景の中にいるのに、それがあまりにも現実から遊離していて、今の2人の問題とは関わりがなさ過ぎて。
  明るい昼間のはずなのに、友之には今いる場所が不安定で危げなものとしか思えなかった。
「……あたし、日本は嫌いだけど、ここだけは好きなんだ」
  けれど突然、湧井が言った。
「ここから海を見たり、出港していく船を見ていると、嫌な事忘れられるから。自分もそのまま遠い外国に行った気分になれるし。……だから、時々ここに来るの。息詰まってもう限界だって思った時」
「……昨日もここに来てたの?」
「昨日? ―…ああ、昨日は違う。昨日は沢海に会ってたの。あいつに呼び出されて」
「え?」
  意外な発言に友之は眉をひそめた。大塚の話では、昨日の沢海の欠席は「桜乃森女子高の子とデート」だったはずだ。その子との約束の前に湧井に会ったという事だろうか。
  けれど先の言葉を待っている友之に対し、湧井はそれ以上その事について話をしようとはしなかった。ただハアと大きく息を吐き出した後、湧井はちらと友之を見つめてから、「あいつって」と口許で呟くような声を出した。
「今まではクラスも違ったし、遠くで見てただけだけど。想像してたのとキャラ全然違うね。何て言うか、ちょっと危ないよ。あんたの事になると顔つき変わるし……本当、今だってこうしてあんたをこんな所にまで連れ出したって分かったら半殺しかも。……あんた、言う? 今日学校サボって、あたしなんかとここに来た事」
「拡……そんな、怖くないよ?」
「だからそれは北川にだけだって」
「拡は誰にでも優しいよ」
「だから……ああ、いいよもう。……それに、そんなの、分かってる」
  むっとした後、湧井は何故か急に赤面し、不自然に視線を逸らした。友之がそれに「何だろう」と小首をかしげるとますます動揺したようになり、「煩いね」と何も言っていない相手に暴言を吐いた。
「あたしなんてこんなだし、ブスだし。死んだ方がいいのはあたしの方なんだ。そんなの分かってる。でもあいつは……こんな最低最悪なあたしにも徹底的に突き落とすって事をしない。それどころか北川のこと分かれば、あたしもあんたの“いいクラスメイトになれる”って、散々脅すような態度取った後にそれだよ? 凄いよね、あいつの飴とムチ作戦」
「何…?」
「……何でもない。きっと北川には知らせたくない世界の話」
  湧井はそう言って訳が分かっていないという風な友之の横で一人小さく笑ってから、「でも」と続けた。
「あたしは、あんたと仲良くする気はないんだ。他の奴らとだってそうだよ。みんなあたしの敵だもん。だからあたしは沢海に勝って、こんな所から脱出するの。そりゃ、例の留学制度は1ヶ月だけだけど。それを基盤にして卒業後は絶対向こうで生活する」
「……脱出」
  友之が繰り返すと、湧井は「そうだよ」とムキになって答えた。
「ここに居続けたら、どんどん死にたくなるしね」
「駄目だよ、そんなの…っ」
  友之が心底辛そうに言い返すと、湧井は不思議な生き物を見るような顔をして友之の顔を初めてまともに直視した。
  そして呆れたように肩を竦めた。
「……よくそういう事言えるね。あんたの事も沢海の事もボロくそ言ってるあたしにさ」
「死ぬとか……そういうのは、駄目だから」
「だって関係ないじゃん。北川にあたしの生き死には関係ないじゃん」
「関係あるよ」
「どうして?」
「もう……知り合ってるから」
  友之の言葉に湧井はぴたりと動きを止めた。表情からは何も読み取れない。先刻のように焦ったりもしていないし、怒ってもいない。
  けれど、喜んでもいない。
  友之はそんな湧井の顔を見つめながらそっと訊いた。
「湧井さん……今日、ここに2人で来た事、内緒にして欲しいの?」
「え…あぁ…別に。どっちでもいい」
  突然先の話題―ここに連れてきた事が沢海にバレたら半殺しの目に遭うかも―を蒸し返した友之に、湧井は一瞬面食らったような顔を見せたものの、すぐに平静となってさっと立ち上がった。数歩前に踏み出したせいか、友之に背中を向けるような格好になっている。だから彼女の表情を探る事はもう出来ない。
  そしてその湧井は友之に背を向けたまま唐突に言った。
「下駄箱にメモ入れたの、あたしだよ」
「え……」
「教室で何か投げてたのはあたしじゃない。それは後ろのバカ2人組。女バレの奴らに頼まれたのを面白がって引き受けてたんだ。……あいつらを嫌いと言っておいて、あいつらの真似して最低な事したのはあたし。沢海に言っていいよ。教室のメモは他の奴らにも見えてたからバレバレだけど、下駄箱のメモの事はあんた言ってないでしょ?」
「うん…」
  促され機械的に頷いただけの友之に、湧井は自嘲したような笑みを浮かべた。
「言いなよ。そしたらまた沢海が守ってくれるから。それであたしはあいつに殺される。あいつになら……まぁ、殺されても諦めつくかな」
「………」
「ね。言いなよ」
  何も答えない友之に催促するように湧井は繰り返した。友之はやたらと「死」をちらつかせる彼女の言葉が嫌で終始眉根が寄ってしまっていたが、やがて意を決すると少しだけ俯きながらもはっきりと言った。
「言わない」
「…何で?」
  湧井がくるりと振り返って問い返した。その顔はあの改札で見た時と同じ、やっぱり泣き出しそうなものだった。
「言わない」
  友之はそんな彼女を見つめながらもう一度告げ、そうしておもむろに制服のポケットからあの日入れたままにしておいたメモを取り出した。取り出して、それを黙って湧井にすっと差し出した。
「…何?」
「返す」
「はぁ?」
  友之がメモを突き出しながらそう言うのを湧井は怪訝な顔で問い返した。メモを受け取ろうとはしない。
  だから友之は再度くいとメモを差し出す所作をしてから、珍しく強い口調で言った。
「湧井さんが、捨ててよ」
「……何で」
「そしたら、なかった事になるよ」
「!」
  友之の言葉に湧井はあからさま動揺したようになったが、その後すぐさま眉をひそめて思い切り責めるように唾を飛ばした。
「ば…っかじゃない!? なかった事になんてなるわけないじゃん! やった事は戻らないよ! あたしは最低で、最悪な人間なの! だからあたしは…っ」
「そんな風に思ってないよ」
「な…っ」
「湧井さんって……正直だね」
「…っ!」
  友之の言葉に湧井は再びカッと赤面し、その後はそんな自分を押し隠すように「バカじゃない!」と先の言葉を繰り返して、そのまま駆け足でその場を去って行ってしまった。彼女のその行動に友之は「あ」となったものの、膝の上に置いたままの弁当のせいですぐに立ち上がる事が出来なかった。友之はただ彼女の駆け去る後ろ姿を見送った。
  見知らぬ、今まで来た事もない場所に独りきり。友之は暫しボー然とその場に座り続けた。
  湧井の困惑したような顔や「死にたい」と口走った彼女を悲しいと思ったけれど、友之は自分に対し発せられた数々の悪口については不思議なくらい綺麗に流れて何も気にならなくなっていた。最初にここへ連れて来られて、悪意ある目と声に晒された時はどうなる事かと思ったが、あのまま逃げ出さずに彼女の腕を掴んで本当に良かった。心からそう思った。咄嗟にああしたからこそ、湧井は自分をここへ連れて来てくれた。あんたなんか大嫌いだと言いつつも、自分の想いを少しだけれど話してもくれた。己の怒りを素直にぶつけてきてくれた。
  それは友之にとってとても凄い事だと思えた。そうしてもらえた事が嬉しかった。
「あ……」
  そこまで思って、ふと友之は鞄を引き寄せ、その中に入れていた携帯電話を取り出した。
  修司が渡してくれたそれを目にすると、自然そのまま修司の笑顔を思い出した。
  同時に、抑え切れない苛立ちを露骨に見せていたあの時の修司も。
「修兄も……もっと、見せてくれたら、いい」
  あの時は怖くてただ申し訳なくて。修司をあんな風に怒らせてしまった事に対する己の不甲斐なさだけが胸にこびりついて離れなかったけれど、普段見せないああいった陰の部分を見せてもらえた事は、間違いなく大切で意味のあるものだった。いつも優しい修司だけれど、それが修司の全てでない事は友之とて前々から知っていた。それでも、その普段見えない部分をいざ差し出されたら、怖くて足が竦んで、ただ謝る事しか出来なかった。
  それでは修司も苦しいに決まっている。
「もっと……聞かなくちゃ」
  もしかしたら修司は待っているのかもしれない。友之が自分から修司に「どうしたの」と言ってくるのを。いつも肝心なところは誤魔化してしまうから。見ないフリをしてしまうから。修司が「それでいいよ」と笑ってくれるから。
  でもそれではいけないのだと思う。
  もっと分かり合いたいと思った。それは勿論、光一郎とだって。
「……掛けて…みようか、な」
  ぽつりと呟いて、友之は携帯電話を更に強く握り締めた。あの時怒っていたのに、どうして今は優しくしてくれる? こんな風にお弁当も作って、大好きだよって笑ってくれて。
  「もう怒っていないの?」と確認したい。

  けれどそう思った瞬間、まるでテレパシーのように。

「わっ……」
  突然持っていた携帯がブルブルと震え、誰かからの着信を告げる音が高らかに鳴り響いた。
  友之はあまりの驚きにそのまま携帯を地面に落としてしまい、その拍子に修司の弁当までベンチの下にひっくり返してしまった。
「あ!」
  その事に動揺し、慌てて立ち上がるも何もかもが遅い。弁当は無残な事になってしまい、それに蒼白となっている間も携帯電話が下から煩く鳴り続けるものだから思考が追いつかない。
「はいっ…」
  だから慌てて携帯を拾ってそれに応えた時は殆ど何も考えていなかった。頭が真っ白な状態だった。
『トモ』
  電話の主は光一郎だった。
「あ…」
  弁当の事が気になっているせいか耳がじんじんとして光一郎の声はよく聞こえない。それでも自分を呼ぶその声は間違いなく兄のそれだから、友之は焦りながらも必死に手にした携帯を片耳に強く押し付けた。
『今、どこにいるんだ』
「え…?」
  光一郎の声が怒っている事はよく分からなかった。しかも質問の意味もよく理解出来なかったから、酷く間の抜けた声でただ平坦に聞き返した。
『……今どこにいるんだって訊いてる』
  すると光一郎のくぐもった声はより一層不快な色を濃くして友之の耳に入ってきた。
  友之は光一郎の二度目のそれでようやくはっとし、焦ったように辺りを見回した。
「えっと……よく、分からないけど……公園…」
『分からない? …分からないって事ないだろう、どこの公園だ』
「分からない…。来た事ないから。あの、大きいよ。船もたくさんあって…」
『そんな事どうでもいい!』
「……っ」
  ぴしゃりと言われて友之は再び驚きで携帯を落としそうになった。光一郎の怒鳴るようなその声にどきんと心臓の鼓動を速め、友之は「コウ兄…?」と恐る恐る兄の名を呼んだ。
『……っ』
  それによって光一郎の声色も幾分かは弱まったものの、怒った風な雰囲気は消えないままだった。
『学校サボってどこにいる。拡君から連絡あったぞ、お前が学校来てないって』
「あ……」
『確かに俺は休みたいなら休んでいいって言った。……けど、勝手に知らない所に行っていいとは言ってない。勝手に……何してるんだ、お前。何考えてる?』
「別に…そんなの……」
『学校にも家にもいたくなかったのか? …修司がいるのが嫌なのか?』
「そ、そんな事ない…っ」
  慌てて否定したが、それが余計に光一郎の苛立ちを誘った事には気づけなかった。
  むしろたった今気づけた事を光一郎に知らせようと思い、友之は先走った気持ちのまま必死になって口を継いだ。
「修兄にいて欲しいよ…っ。僕、修兄に、もっとちゃんと話して欲しいって言おうって思って…。いつも…、いつも修兄に聞いてもらってばっかりだったし…、だ、だから、今度は僕が…修兄のこと、ちゃんと全部知りたいって…」
『………』
「……? コウ兄?」
  不意にしんとなった向こう側に不安な気持ちがして、友之はそっと呼びかけた。夢中で話し過ぎたせいで何かおかしな事を言ったのだろうかと、途端胸の中に暗いものが過ぎる。
  待つ時間が数時間にも1日にも感じられた時、やっと光一郎が声を発した。
『…お前の頭の中はあいつの事だけか?』
「え…?」
『よく分かった。じゃあこれからは何でもあいつに頼ればいい。あいつもきっと喜ぶさ』
「コウ兄…?」
『心配だけさせやがって……バカらしい』
「コ―」
  友之が言いかけた瞬間、しかし電話はそれきり勢いよく切られてしまった。
「……っ」
  ツーツーとむなしくなるその音に友之は愕然とし、それから今度こそするりと携帯電話を下に落としてしまう。ただ、今度はそれに頓着する余裕はなかった。
  光一郎を酷く怒らせてしまっている。学校を無断でサボってしまった事は悪かったけれど、あそこまで怒るとは思わなかった。どうしてだろう、修司の事を分かりたいと言ったのがそんなにまずい事だったのだろうか。
  だって光一郎は修司の事をよく分かっているじゃないか。だったら自分だって。
「コウ兄…?」
  急に心細くなって友之はただ無為にその場に佇んだ。足元には修司が作ってくれた弁当がひっくり返ったまま、無念そうにその場にじっと転がっている。
  ただ友之はそれをどうする事も見る事もせず、ひたすらその場に立ち尽くす事しか出来なかった。



To be continued…




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