―16―
|
しょんぼりとした気持ちで帰宅すると、玄関先には修司がいた。彼は丁度部屋へと通じる、通路とも呼べないような短い廊下をモップ掛けしていた…が、ドアの開く音と共に現れた友之にやや驚いた顔を見せた。 「あれ。お帰り」 「…ただいま」 友之もアパートに修司がいる事は知っていたものの、すぐに対面するとは予想していなかったので面食らった思いがした。 それでも律儀に返事をし、友之は靴を脱ぐ前に修司が磨いていたであろうその場を見やった。光一郎は休みの度マメに掃除をするから今までとて特別汚かったわけではないが、ワックスによって艶の出たそこは、靴を脱いで上がるのが何だか勿体無い程綺麗になっていた。 「今日早いじゃん。時間割と違くない?」 「え…うん」 修司は自分の学校の時間割などいつ把握したのだろうか。ふっとそんな風に疑問を抱くも、すぐにその思いは霧散した。部屋のサイドボードの端には教科書を忘れないようにと時間割表が貼ってあるし、出掛けに「今日は6時間目まで」と告げた記憶もある。あの公園から1人で帰るのは難儀だったし時間も掛かったが、迷子になる年でもなし、昼の後すぐに帰還した今は普段の帰宅時刻よりは大分早い。修司が不思議に思うのももっともだった。 もっとも友之は別段修司に隠し事をしようとは思わないし、そもそもそんな「裏工作」を考えるだけの気力もない。 「今日学校行かなかった」 だから気まずい気持ちを抱きながらも一気にそう言い、友之は嘆息した。嘘をつくのは嫌だけれど、「悪い事」を報告するのも勇気が要るものだ。勿論、修司は光一郎や夕実のようにそういった事を責める類の人間ではない。どうしてとか、何かあったのかくらいは訊くかもしれないけれど、少なくとも怒られる心配はない。 それでも、悪い事をした後というのはやっぱり肩身が狭い。 おまけに修司には他にも言わなくてはならない事があった。 「学校行かなかった?」 悶々とする友之をよそに、案の定修司は別段驚くでも責めるでもなく、飄々とした様子でモップの柄に両肘を乗せるような格好で動きを止めた。未だ学校鞄を肩に下げたまま靴も脱がずにその場に佇む友之の姿は、雨も降っていないのに濡れ鼠のようにどんよりとしている。 「サボり?」 そんな友之に修司は更に追い討ちを掛けるように問いかけたのだが、友之がぐっと唇を噛みながらもこくりと頷くと、その追い詰められたような雰囲気をようやっと感じ取ったのか、「おいおい」と苦笑するように修司は身体を揺らした。 「トモ。俺は光一郎とは違うぜ。別にお前が学校サボろうがどうしようが、怒るわけないだろ?」 「……うん」 「だろ? 修兄ちゃんが優しいのはトモが一番よく分かってるもんな? ―なら、もう顔上げな。そんな重罪人みたいな顔されて棒立ちされたら、可愛過ぎてこっちがおかしくなっちまうよ」 「……まだ、言う事ある」 「あん?」 努めて明るく振る舞い、気持ちを浮上させてくれようとしている修司に、それでも友之は顔を上げられなかった。言う事を先延ばしにしても意味はない。修司の弁当をひっくり返し食べられなかった事は、友之にとっては学校をサボったそれ以上に罪作りな事なのだ。 それに、それを聞いたらさすがに修司も怒るかもしれない。何せ2日連続で自分が作った弁当を満足に食べてもらえなかったのだ。腹を立てて当然の事を友之はしている。 「どうした、トモ? フリーズしてんぞ」 なかなか声を出さない友之に修司が苦い笑いを浮かべながら催促してくる。 「うん…っ」 だから友之はいよいよ覚悟を決め、ここで初めて顔を上げた。 そして開口一番。 「ごめんなさい」 「は…? 何で?」 当然の事ながら修司には理解出来ない。きょとんとした顔をしつつ、それでもモップに体重を掛けていた肘は浮かして姿勢を正した。よくは分からないけれど、雰囲気からして友之が何か大切な事を言おうとしているのは修司も感じたようだった。 だから友之は鞄から弁当箱を取り出して一気に言った。 「お弁当…落としちゃったんだ…。だから今日は…全然、食べられなくて…」 「はぁ…?」 修司は差し出された弁当と今にも泣き出しそうな友之を見て、始めこそ呆気に取られた顔を見せたものの、やがてみるみる笑顔になると困ったように目を細めた。 「何? トモはそれで落ち込んでたの?」 「………」 「ばっか。そんくらいの事でメソメソすんな。しょーがねえだろ、落としちまったもんは。んな事気にしなくてもいいって」 「………」 修司は怒るかもしれない。でも、許してくれる可能性の方が高い。 それは友之がこの部屋に帰ってくるまでに予測し導き出していた答えだった。もし修司が腹を立てたとしてそれは仕方がないし当然だとも思うけれど、でも恐らく修司は目に見えて自分を叱る事はないだろう…。ずるいと思いながらも友之はそんな風に考え、それでますます自己嫌悪に陥って勝手に気分を滅入らせた。 修司はいつだって優しい。この間こそ稀に見る暗い部分を晒して友之も怯えたけれど、でも基本はいつだって「こう」だ。いつも笑っているし、いつも許してくれる。全て分かっているという顔をして包み込むように迎え入れてくれて、友之の罪を何でも綺麗に洗い流してくれる。 そんな空気を持った「兄」なのだ。 だから友之はそんな修司にずっと甘えてきた。修司に寄り添っていれば安全だし、安心だったから。 「お前、もしかしてそれでどうしようって悩んで学校サボってたのか? 俺に何て言おうか考えて、本当はもっと早く帰れたのにこんな時間までウロウロしてたとか?」 「あ…」 修司がそう言いながら頭をぽんぽんと撫でてきてくれたので、友之は慌ててまた俯き加減になっていた顔を上げた。 それから急いで首を振り、「違う」と小さな声で答えた。 「違うのか? じゃ、何で学校はサボったわけ?」 「………」 「別に言いたくなきゃ、いいけど?」 再度友之の頭を撫でてから、修司はくるりと踵を返してモップを普段の定位置である浴室の壁に立て掛けた。それから「いい加減入りなさい」と友之に靴を脱ぐよう促すと、自分は先に洗面台の水道で手を洗い始める。 それでようやく友之も家に上がる気持ちになった。 「ちゃんとうがいもしなさいよ?」 友之の為にその場所を譲ってから修司はふざけたようにそう言い、自分は一足先に友之から受け取った弁当箱と共に台所へ向かった。 「あれー? 洗ってあるじゃん」 友之が急いで自分もそこへ向かうと、修司はキッチンの流しの所で驚いたような声を上げていた。 「ちゃんと綺麗になってる。弁当箱、どこで洗ったの、トモ?」 「……公園」 「公園? 公園の水道で? じゃあもう一回洗わなくちゃなあ」 「僕が洗う」 「いいからいいから。それより、腹減ってんだろ? 夕飯までちょっと中途半端だけど遅いおやつって事で何か作ってやる。何食いたい?」 「……別にいいよ」 「腹減ってないの?」 その問い掛けに友之が黙って頷くと、修司は暫く黙っていたものの、やがて腕を組み、「うーん」と何事か大袈裟に考えるような仕草をして見せた。 「何…?」 「うん? うん。まあ、こっち来いよ、トモ」 修司は怪訝そうな友之に今度はにこりと笑ってみせると、そのまま友之の手を引いて部屋の中央に己と共に座らせた。よくよく見ると、その部屋も真ん中に置かれたローテーブルを中心にすっきりと整理整頓がされていて、こざっぱりとしている。修司が今日1日この部屋で何をしていたかは一目瞭然だった。 「綺麗だね…」 だから未だ修司に手を握られた状態のままで、友之は辺りを見回しつつ素直にそう言った。すると一方の修司は突然そんな事を指摘されるとは思っていなかったのか、一瞬だけ何の事を言っているのかと言う顔を見せたものの、一拍後には「そうだろ」と忽ち破顔して見せた。 「うまい事片付いてるだろ? 俺もコウ兄ちゃんには負けてないだろ、掃除名人」 「うん」 「修兄ちゃんは何でも出来るからなぁ」 「うん」 「……はっ」 何でも素直に頷く友之に、修司は自分から言い出したくせに「参ったね」とぽんと空いている方の手で友之の手の甲を軽く叩いた。 「トモの前じゃ冗談も言えねえな。全部本気に取っちまうから」 「冗談…?」 「そうだよ。何でも出来る人じゃないよ、俺は」 「何でも出来るよ」 「トモはそう言うと思ったけど」 でも違うんだなあと修司は呟いてから、また今度は確かめるように友之の手を握っていない方の手でさらりと撫でた。 「お前らの部屋で主夫してんのも大概楽しいけどな。たった2日で、実はもう飽き気味なの、俺。これをずっとやるのはきついわ」 「そう…なの?」 「うん。家にはいられないタイプ」 にこりと笑う修司の眼に嘘はなさそうだ。友之はそんな相手の顔をまじまじと見やりながら、言われてみればそれももっともだと納得する。 修司は昔からいつだって独りでいる事を好み、正人が光一郎ら近所の仲間を誘って野球をやる時もじっと黙って本を読んでいるようなタイプだった。気紛れで彼らの中に入る事はあっても、「群れる」事は決して好まない。気がつくといつも何処かへ消えていて、それで父親である宗司が慌てて近隣を探す事などしょっちゅうだった。本を読むのは好きでも一つどころにずっと留まってもいられない性格。だから、静かな時はとても静かなのだけれど、ふいといなくなる時も、音も立てずその場から姿を消す事が当たり前だった。 思えば裕子と別れる直前、ああして友之に会いに来て「これから出掛けてくる」などと予告してからいなくなるのは、ひどく珍しい事だった。 「また…どこか行くの?」 あの時のキスを不意に思い出しながら友之は訊いた。修司は自分が良い写真を撮ってきたらまたキスをしようと笑っていた。だから今回、1枚の画すら持参せずに友之の前に現れて無理にしてきた「それ」には面食らった。あんな修司は初めて見た。だからこそ友之は恐れを抱き、また修司にそんな態度を取らせてしまった自分自身を嘆いたのだけれど、それ以上に途惑いを覚えたのは、事によるとカメラを持たない修司の姿そのものかもしれなかった。 本人は何となく始めただけでカメラに執着はないといつも言っているけれど、友之にはそうは思えなかったから。 「あのなあ、トモ」 「…っ」 考えに耽っていた友之に修司が話しかけた。ハッとして我に返ると、修司はそんな友之を勝手知ったるように眺めた後、再度ぽんぽんと友之の手の甲を叩いた。それは心地良い感覚だった。 「さっきは知らなかったって風な態度取ったけどさ。実は俺、お前が学校サボったって事は知ってたんだわ。ごめんな」 「え…?」 「だって光一郎が電話してくんだもんよ。かなりキレてる感じで。バカだねぇ」 「コウが…」 どきんとして友之は修司に手を握られている事も忘れて身体を揺らした。そんな動きくらいで修司からの拘束は外れなかったのだけれど、友之にしてみたら今はそれよりも先刻電話で話した光一郎の怒った声だけが鮮明に思い返されて、ずっと胸の奥で淀んでいたモヤモヤとした気持ちが不意に沸きあがってくるのを感じた。 「いつ…コウ…」 「うーん、昼くらいかな。トモが帰ってないかって。何で、いないよって答えたら、クラスメイトの…誰だっけ、トモにいつも優しくしてくれてるって同級生」 「拡…?」 「ああ、そうそう。そのヒロム君がな、電話してきて、トモが来てないけど風邪ですかって訊いてきたんだって。何つーか、その、ヒロム君? かなり度々余計な事してない? だってさ、その電話さえなきゃ、別にトモがサボった事もバレなかったろうに。前にもそんな事あったよなぁ、確か」 「別に……拡は……」 沢海は友之の事を心配して掛けてきてくれただけで、別に悪い事など何もない。 そう言いたかったのだけれど、今は光一郎と修司の電話の会話が気になって、まともな言葉が出てこなかった。 修司もそれを察したのだろう、すぐにその答えをくれた。 「うん、まあヒロム君の事はいいよな。で、とにかくまだ家には帰ってないから電話すればって言ってあげたの。ほら、丁度うまい具合に、トモには俺の携帯貸してやってたろ? だからそれで場所確認すればいいじゃんって」 「そしたら…?」 「そしたらねえ、それは分かったって言ったんだけど、その後すぐ『お前もう帰れ』って。すっげえ唐突。ホント、笑えた」 何も答えない友之に修司は1人でくっと笑い、その後ようやく友之の手を離した。 それからおもむろに煙草に手を伸ばし、マッチを探る。友之がその一連の流れを黙って見守っていると、修司は咥えた一本に火をつけると、ふっと煙を吐いてから続けた。 「あのバカ、いつ言い出すかと思ってたけど、案外早かったな」 「何…?」 「んー? こうやってさ、俺が居座り続けたら、コウ君は一体いつ位に『いい加減出てけ』って言い出すかってこと。1週間はないと思ってたけど、まさかたったの2日で限界とはね、意外だった」 「……コウ……修兄に、出てけって…?」 「そうだよ? 今言ったでしょ? 電話でソッコー、キレながら。まあトモがどこ行ったのかって心配だったからってのもあるだろうけど。トモだってもう高2なんだからさ、誘拐でもされない限りはちゃんと帰ってくるでしょ。…ああ、この可愛さだから、それを心配してヤキモキしてたのか?」 「………」 「なんて、な」 ふっと再び紫煙を吐いてから、修司は不敵な笑顔でニヤリと笑った。友之はそんな修司から目が離せない。相変わらず柔らかい雰囲気を漂わせている「兄」だけれど、親友である光一郎から出て行けなどと言われて心中穏やかでいられるわけはない。もしそれが、光一郎の発した台詞が自分が原因で出たものなら、尚の事修司に申し訳ない。 友之はハラハラとした気持ちで修司の顔を見つめやった。 「あの…コウが出てけって言ったから…修兄は出て行くの…?」 「ううん」 けれど友之のこの質問にはあっさりと否定し、修司はふいと外が見える窓へと視線を移した。 その横顔に取り繕ったり偽ったりといった色は見当たらない。 「言ったじゃん、トモ。俺はずっと同じ所にいるのは苦手だよ。別にコウ兄ちゃんがそう言わなくたって出て行くつもりだったしさ。そもそもあいつもバカなんだ、わざわざ言わなくても俺が出て行くのは分かってただろうに」 「え…?」 友之が思わず聞き返すと、修司は今度こそはっきりと哂った。 「だってさ、今回俺がこうやって泊まるのって、俺があいつに頼んだ事なんだけどね。あいつ、バカにするように笑ってたぜ。『ずっと居座るって言ったって、お前のずっとはせいぜい3日だろ』って」 「そう…なの?」 「そうなの」 友之の復唱を同じようにふざけて真似、修司は笑みを零しながら俯いた。 「そうなんだ。あいつは何でも分かってる。俺の事は分かってる。……まぁそこが憎らしくも、愛しいところではあるんだけどね」 「………」 「でもトモにずっと誤解させたままなのも…まぁ面白いから惜しい気持ちはあるけど。けどまあ、やっぱ可哀想だしさ、言うけど。―…別に俺は“そういう意味”で言ってるんじゃないぜ?」 「そういう…」 友之が聞き返そうとするのをかき消すように、修司はきっぱりと言い含めるように告げた。 「コウ兄ちゃんの事は大好きだけど、トモが想ってるような“大好き”とは違うよって意味」 「………」 そうだろうか、咄嗟にそう思って友之は眉をひそめた。 修司が光一郎に一方ならぬ思い入れがあるのは誰が見ても明らかだし、ましてやそれをすぐ傍で見てきた友之にしてみたら、幾ら修司が「違う」と言ってもなかなか信じる事は難しい。光一郎もそれは違うと言っていたけれど、光一郎が言っても友之は信じられない。 それくらい、光一郎と修司の間には友之が立ち入れない何かがあると感じさせる。 「勿論、コウは特別だけど」 まるで友之の思考を読んだように修司は言った。 「他の誰を切り捨てても俺はあいつだけは切れない。あいつは俺の特別だよ。それは認める。……けどさ、トモ? 俺はさ、お前の兄ちゃんに対して、お前に対して抱くような感情はないんだよ」 「……何?」 気づくと再び手を握られていて友之はどきんとした。修司の眼は真剣だった。もうそこに戯れのような笑みはない。 「トモ。この間、お前に変なとこ見せちまったけど…あれさ、凄く後悔した一方で、別にいいかって思う自分もいたんだ。まあいいか、トモになら見せてもいいかってさ。トモはさ、俺にとっては、大好きだけど大嫌いな存在。―凄い、存在」 「修兄…?」 大好きとも言ってもらえたけれど、後の「大嫌い」の言葉の方が重かった。そちらの言葉だけが胸に大きく残ってしまう。瞬間、「やっぱり」という思いや「ごめんなさい」という気持ちが全身を覆う。泣き出しそうになるのを堪えようと思うと余計目頭が熱くなり、頭の後ろがキーンと痛くなってどうしようもなくなった。 修司に嫌われるのは何にも代え難い苦痛だと気づく。 だってずっと優しくしてもらってきた相手だ。母が死んだ後、あの暗い部屋にずっと閉じこもっていた時。光一郎に連れ出される前までは、あの暗い部屋で修司だけが自分に心の安寧と笑顔をくれた。 とても大切な人なのだ。 「あぁ。ごめんごめん。トモ、ごめんな?」 友之の表情に気づいた修司は「またやっちまったな」と苦笑し、煙草を自身の携帯灰皿に押し込むと、珍しく焦ったように友之の髪の毛をぐしゃぐしゃとまさぐった。 「…っ」 友之にしてみればそんないつもの慰め方に余計泣きたい気持ちがした。修司が怒っていないという事には単純にほっとし、荒く肩で息をついたものの、涙を落とさないようにするのは難儀だ。潤んだ瞳はそう簡単に正常な視界を取り戻さないし、目の前の修司はぼやけて見える。恐る恐るその顔を見上げて何とか落ち着こうと努めると、修司はそんな友之にどこか困ったような顔を見せて「マジでやばいな」と呟いた。 「コウ兄ちゃんに殺される前に退散するかな…」 そうしてそうぽつりと発した修司は、もう一度友之の頭を撫でた後、「あのな」と再度言い聞かせるような声で友之の顔を正面から捉えて言った。 「何もかも分かってる光一郎も、俺にとっては勿論凄いよ。―けど、ホントはバカで単なるクソ真面目な、本当につまんない奴だって事も知ってる。俺には真似できない事たくさんしてる、だから尊敬もしてるけどな? けど、たとえば…あいつの人への優しさは、“教科書に載ってるからやってる”ってだけの、悪く言えば“機械(マシン)”だ。……でも、トモは違う。お前は全部無意識でやってる。人への優しさも愛情も、全部簡単にくれちまう。光一郎や俺が散々苦労して出してるそれを、お前は息を吸うみたいに簡単にやっちまうんだ。だから本当に凄いんだよ?」 「何…? わ、わ…分かんない…」 「うん、お前は分からないんだよ。無意識にやってるから」 そこが好きなんだけどねと綺麗に笑った修司は、友之の手を己の唇に持っていってそこに軽いキスをした。 「…っ」 友之はぎくりとした。そして反射的に、「これ以上は駄目だ」と警告が鳴る。朝、光一郎が怒っていた。修司とキスをしそうになった時、今度目なんか瞑っていたら承知しないぞ、と。明らかに気分を害した風になって友之の事も怒っていた。 「修…っ」 だから友之は慌てて修司から離れようとし、修司自身にも止めてくれるように頼もうとした。 「うん」 けれど修司はそうやって色良い返事をしたくせに、今度はがっつりと友之の両頬を己の両の手で挟みこむと、「決めた」と言って清々とした様子を見せた。 そして。 「なあ、トモ。週末、デートしよう、デート!」 「え…?」 友之はとにかく修司から距離を取ろうと必死だから、修司の言葉の意味もよく理解出来ない。ただ何とか手を放してもらおうと自分も修司の手首をがっつりと掴む…けれど、如何せん修司の力は思いのほか強くて、挟まれている頬もじんじんと痛い。 「ちょっ…修にっ…」 「な? デートしよう? それでさ、トモも考えたらいい。コウ兄ちゃんから止められてるから俺とキス出来ないのか、単に俺としたくないからこうして逃げてるのか」 「え?」 「トモはきっと、俺の事も好きだろ」 いやに自信のある風に修司は言い、それからふっと笑んでようやく友之を解放した。 そうして修司は勢いよく立ち上がると壁に掛けてあった自身のジャケットを引っつかみ、「帰るわ」とあっさり言い放った。 「デートってさ、待ち合わせとかしてする方が断然それらしいじゃん。だからとりあえず帰るわ。明日は…ああ、まだ金曜か。さすがに学校行かないとコウ兄ちゃんが怒るだろうから、土曜日な? 10時に駅前の改札にしよっか? あ、俺、また弁当作ってくるから。それでトモの粘っこい罪悪感も消してやるよ」 「あの…修……」 「それと、連休の予定は予定で、コウ君と3人でお出掛けってのはするからな! コウ君にもちゃんと言っておいてよ。『お前がいじけるから帰ってやるけど、その代わりバイトは休み取っておけ』って。わざとらしく言っといて。頼むな?」 「あの……」 「んじゃな、トモ」 ひらひらと手を振ったかと思うと、修司はただただポカンとしている友之を置き去りにあっという間にその場からいなくなってしまった。今朝、笑顔で見送ってくれた時には、まさかこんな風に急に出て行くなんて想像もしなかった。ともすれば修司はこのままずっとこの部屋に住むのではないかと思っていたから。 修司はいつだって風のような人だ。それでも、その風はあまりに唐突に吹き去ってしまった。友之の混乱をよそに。 「デート……」 ぽつりと呟いたら少しだけその言葉が現実味を増した。そうして、修司が何気なく発した言葉が頭の中で蘇った。 コウ兄ちゃんから止められてるから俺とキス出来ないのか。 トモはきっと、俺の事も好きだろ。 「……修兄」 修司の事が好きなのは当たり前だ。嫌いだなどと思った事は一度もない。修司が自分を嫌っていると感じた事はあっても、友之自身が修司を嫌う理由はどこにもない。 修司は大切で、ずっと一緒にいたい人だ。それは決まっている。 でも、キスはいけない。それ以上はもっといけない。光一郎と時々しているような事は絶対に―…。 「……っ」 そこまで考えて友之は不意にぼっと赤面し、その思考を誤魔化すようにぶるぶると激しく首を振った。 何を考えているのだろう、突然光一郎の熱っぽい目や、あの最中に自分を呼んでくれる声を思い出したら身体が言い様もなく熱くなった。 ズクンと下半身に疼きを感じる。 嫌だ。 「こんなの…っ」 友之は未だ耐性がない。光一郎とどんなに抱き合っても身体を繋げても、そうしていない時に「それ」を思い出したり想像したりする事がとてつもない禁忌に思えて仕方がない。 何度も何度も首を振り、わざと大きく呼吸をしたりして身体を鎮めながら、友之はもう一度修司が言っていた「デート」の意味を考えてみた。 デートって何をするのだろう。……考えれば考えるほど、頭の中は迷宮のようにぐるぐるとゴールの見えない状態となった。 夜になって光一郎が帰ってきた。いつもよりは若干早い帰宅だ。 「お…お帰りなさい…」 恐る恐る声を掛けると、光一郎は部屋に入ってそう言った友之の姿を確認した後、「ああ」と素っ気無く返事をした。友之にしてみたらそう声を返してもらえただけでも御の字というか安心するには十分だったので、緊張で硬くしていた肩からは一気に力が抜けた。 「……トモ」 すると光一郎はそんな友之の様子をまじまじと見やった後、立ったまますぐに言った。 「ごめんな」 「え…?」 「昼間。きつい事言っただろ……だから」 「あ……」 慌ててぶんぶんと首を横に振ったが、光一郎は笑顔の一つも見せないまま踵を返して台所へ向かってしまった。友之はそんな光一郎にドキリとして焦ったように腰を浮かしかけたが、それ以上追いかける事も出来なくて、ただ中途半端な姿勢のままその場で固まった。 光一郎は謝ってくれたけれど。確かにあの急に切られた電話にはショックも受けたけれど。別に光一郎は間違っていない。学校をサボった事は確実に悪かったし、曖昧な返答で光一郎をイラつかせてしまったのも友之自身だ。だからそんな風に殊勝に謝罪されると、却ってどうして良いか分からなくなる。 「ぼ、僕の方が……」 だから友之は自分も謝ろうと思った。自分の方が悪いのだし、光一郎が謝る事などないのだからと。許してもらって、仲直りをして。またいつものように笑って欲しい。ただいまと言って、またお前は何もしないでゴロゴロしてたのか、偶には米研ぐくらいの事はしておけよなんてお説教じみた事も言ってもらいたい。 「修司、帰ったんだろ」 その時、光一郎が流しの所から背中を向けたままそんな事を言った。 「え…う、うん」 だから友之は面喰らいながらも何とか頷き、それからようやっと立ち上がって光一郎の傍に近づいた。 けれど完全にキッチンの中へ足を踏み入れようとした時。 「悪かったな。修司に居て欲しかったんだろ」 「え…?」 「俺があいつに出て行けって言ったんだ。お前に電話する前。けど、その後お前が修司には居て欲しいって言ったの聞いたんだから、やっぱり居ろって言えば良かったのにな。……むかつき過ぎてて、どうしても連絡出来なかった」 「コ……」 「悪い。……修司にも言っておく。お前の話聞いてやってくれって」 「しゅ…修兄は…っ」 別に光一郎から言われたから出て行ったわけではない、もうそうしようと思っていたと言っていたのだ。 だからそれを友之はきちんと伝えようとしたのだけれど、光一郎はそれを望んではいなかった。ようやくくるりと振り返ったかと思えば、光一郎はもう元の光一郎で、友之にどこか甘くなってしまったあの柔らかい表情のまま、「今日は何食いたい」と訊いてきた。 「あいつほど美味くはないけどな…。お前の好きなもの、作ってやるよ」 「コウに…」 何故そんな風に修司と比べるような言い方をするのだろう。修司の食事は確かにとても美味しかったけれど、光一郎のそれとて負けてはいない。否、勝つも負けるもない、友之は光一郎の作ってくれる食事が大好きなのに。 「ぼ…僕も…手伝う……」 ただ、今それを言っても伝わらないような気もして。 「手伝う…」 友之はややボー然としながらもそう言い、ようやく光一郎の傍に寄った。 光一郎はそんな友之に「分かった」と答えたものの、どこか困ったような顔をした。 もしかすると今は独りで働きたかったのかもしれない。―そうも思ったけれど時既に遅しで、友之はその後淡々と作業を命じる光一郎の言うままに、必死に手伝いをする事になった。 本来ならばそれは友之にとってとても楽しいひと時のはずだったのに、とても浮かれた気持ちにはなれなかった。 |
To be continued… |
戻/17へ |