―17―



  両の手で数えられるほどしかないけれど、友之は夕実の預かり知らぬ所で修司と何度か遊んだ事があった。

「黙っていればいいんだよ。そうすればバレっこない」

  とても悪い事をしている気分だった。でも、「嫌だ」とも、「やっぱり帰る」とも言えなかった。
  「遊んだ」というより、それは「一緒にいて少し話した」程度の接触に過ぎない。それでも当時の友之にとって夕実の許可なく彼女以外の人間と一緒にいるという事はとんでもない事件だったから、自分にそんな「とんでもない事」をしようと持ちかける修司は奇異で凄い存在だった。既にその頃は兄の光一郎を含め、近所に住む正人をはじめとした同年代の子らも、「友之と話すと姉貴の夕実が面倒臭い」というイメージで定着していたから、友之を好き好んで遊びに誘う者はいなかった。

「光一郎の弟なんだろ。全然似てないね。もっと何とかならないの?」

  友之はまだ小学生だったが、修司は中学生になっていた。その頃は修司も友之に対し今のように目に見えて「優しい」という感じではなく、時折辛辣な口調を放ちもしたし、不遜な視線をぶつけてもきた。いつも姉の夕実の背後に隠れてオドオドし、誰とも口をきかない異質な少年。それが周囲からの憧れと羨望を一心に背負い、尚堂々としている光一郎の弟だとは、修司としても俄かには受け入れ難い事実だったのかもしれない。
  修司は本当に気が向いた時、夕実がほんの少し目を離した隙をついて友之を自分の元へ引き寄せた。そうすると当然夕実の方は急に所在の知れなくなった友之の姿を追って半狂乱にその行方を追ったのだが、ともすれば修司はそんな夕実の様子を隠れ見て笑っているような節すらあった。
  修司は昔から夕実の事は本当に嫌っていた。
  反して、友之の事は「可愛いね」と言って笑いかけた。
  「もっと何とかならないの?」なんて冷たい言葉も吐くくせに。

「トモはあいつから逃げたいと思わないの?」

  ある日修司は本を片手に、何気ない風に友之に訊ねた。その日も光一郎は正人たち仲間とどこかへ遊びに行っていたが、夕実は裕子と友之とで買い物に行こうと話しており、修司は皆の遊び場である水源地の辺で独り読書に興じていた。
  本来なら「誰にも内緒」のその隠れ家に友之を連れ込んで、修司は持参していたビニールシートの上に座ると、傍の大木に背をよりかからせて、友之にも隣に座るように言った。友之は姉の夕実に内緒でここまで引きづられてきた事に途惑っていて、とても落ち着いて修司と話す心の余裕はなかったのだけれど、強気な態度で「帰る」とも言えず、また言いたくもなくて、ただ困ったように修司の前に突っ立っていた。友之にとって修司は光一郎の親友で、近所に住む年上の「お兄ちゃん」だ。以前、夕実の真似をして正人の事を「正人」と呼びつけにしたら当人にこっぴどく叱られた苦い思い出がある為、修司に対してははじめから「修兄」と呼んでいる。あまり面と向かってそう呼んだ事はないから心の中で、だけれど、修司が他の人間より抜きん出て色々なところに秀でているという事は知っていたし、何より自分の中で「1番凄い」はずの兄・光一郎がその修司の事をいつも「あいつの方が凄い」と話していたので、友之の中で彼は更に神格化されているところがあった。
  だから、親しくはなりたいけれど、どちらかといえば近寄り難い憧れの存在、といったところか。
  それなのに修司は気が向くと友之を気楽な感じで呼び出して、こんな風に自分の話し相手をさせたがる。友之はいつだって緊張の糸が切れなかった。

「そんなにびくびくしてないでさ。チョコあげるから、ほら、座りな」

  どうあっても友之が動かないのに呆れたのか、修司はようやく開いていた本を閉じると傍の鞄から板チョコを取り出して友之に差し出した。ちょいちょいとそれを揺らす仕草は、まるで自分に懐かない動物に餌付けをしようとする風にも見える。
「…い、いらない」
  それでも友之はそれに気分を害する暇もなく、ただ精一杯首を振ってこれを拒絶した。夕実から甘い物は食べ過ぎるなと言われていたし、大体にして誰かからお菓子を貰ったなどという事が彼女にバレたら大変だ。後でどんな恐ろしい仕置きが待っているか知れない。
「バカだな。姉貴の事が気になってんのか? 黙っていればいいんだよ。そうすればバレっこない」
  しかしそんな友之に修司はニヤリと笑ってから、今度こそ「早く座れ」と言わんばかりの眼をして顎をしゃくった。そうなるともう逆らえない。友之は魔法にでも掛けられたようにフラフラと歩み寄り、膝を折って修司がいるビニールシートの上に自らも座りこんだ。
「よしよし、いい子」
  修司はそれに嬉しそうに笑うと、褒美だと言わんばかりにチョコレートを友之の胸に押し付け、それを渡した後は再び大木の幹に身体を寄りかからせて閉じていた本を手に取った。
  そうして再度、先刻の質問を繰り返す。
「トモはあいつから逃げたいと思わないの?」
「……え」
  友之が何となく受け取ってしまった板チョコから目を離し顔を上げると、修司は本の方に視線を落としたまま続けた。
「お前のお姉ちゃん。北川夕実」
「逃げる……?」
「そう。兄貴は逃げたいって言ってたよ?」
  その台詞に友之が何か反応を返す前に修司は笑いながら立て続けに喋った。
「それが普通の感覚。光一郎って周りの奴らからは凄いとか天才とか言われてるけど、言ったりやったりしてる事は本当にフツーだよ? ああでも、あんな環境で普通の事が出来てるってのがそもそも凄いのかな。そうすると、トモみたいにちょっとおかしくなっちゃう方が“普通”って言うのかな?」
「……っ」
  訳が分からない。謎掛けのような言葉がくるくると操られて友之の頭の中は混乱した。修司の話はいつだって難しいし半分も理解出来ないけれど、それは友之が普段から修司とあまりいないから仕方がないという類の事でもないような気がした。
  修司は友之に分かってもらおうと思って話しているわけではないのかもしれない。
「でも、時々はこうやって逃げた方がいいよ。そうしないと壊れるぜ」
  何も言えない友之に、しかし修司は唐突に言った。もうその鋭い視線は書物にはない。傍の友之に真っ直ぐ向かっていて、その光は決して優しくはないけれど、威嚇するものでもない。単純にとても綺麗な色をしていると友之は思った。
  修司が言った。
「だからトモが自分の意思で逃げたいって言ったら、その時は俺が逃がしてやるよ。でも、トモがちゃんと自分で言わなきゃ俺は何もしないよ? トモがちゃんと自分で言えた時にだけ」
「べ……別に、逃げたく、ない……」
  友之がやっとそう返すと、修司は少しだけ意外そうに瞳を燻らせた。その返答内容にというよりは、思いのほかその答えを早くに発せられたそれ自体に修司は驚いたようだった。
「そう? それなら、いいよ」
  修司は、ともすれば泣き出してしまいそうなほど顔を赤くさせている友之ににっこりと微笑み掛けた。
「トモがそう思うんなら、それで。あの姉貴にくっついてるのがトモの幸せだって言うなら、いいよ。そうすればいい。―それなら、俺独りで行く」
「え…?」
  咄嗟に「どこへ」という問いかけが頭の中に浮かんだけれど、それが声として表に出る事は叶わなかった。当時友之はまだ修司という人間に対して無条件で心を許していたわけではないし、自分の事を気に掛けて色々と話し掛けてくれる「憧れのお兄ちゃん」ではあっても、1番は夕実だったから、彼女より優先して修司を気に掛けるなどという事は絶対に許されなかった。それは友之自身の中に深く根付いている、揺らぎのないルールだった。
  けれど思えばその頃から、修司は既に多くのものを捨て、振り返る事もなく、ふらりと自分たちの街から姿を消した。人当たりの良い彼には友之とは違って光一郎以外の親しい友人とてたくさんいたのに、その誰に何を言うでもなく突然いなくなって周囲を困惑させた。そんな風だから、「あいつは何を考えているのか分からない」、「時々凄く薄情」といった風評も囁かれた。
  それでも友之はそんな風にいつでも誰にも影響されず独りで遠くへ行ける修司が羨ましかったし、尊敬もしていた。
  いつか修司のようになりたいと思いもした。
  夕実を捨てて自分一人で何処かへ行くなど、当時は絶対に許されない事だったのに。





「ん…っ。あっ、あっ…」
  自分の喘ぎ声とベッドが揺れる音まではいい。本当はそれも恥ずかしくて仕方がないけれど、友之は光一郎に身体を貫かれ揺さぶられると、もう我慢して声を押し殺し続ける事は出来ないし、それと共にベッドが軋んでしまう事も当然だから仕方がないと思える。
「トモ…」
「―…ッ。あぁ、は…コ…! あぁ、あっ、あん…ッ」
  それでも呼びかけられた時にふと覚醒する意識の中で分かってしまうあの水音だけは駄目だ。ぐちゃぐちゃになっている下半身がより鮮明に自分の中で認識されてしまい、羞恥で逆に余計あられもない声を上げてしまう。
「ひぁ…っ。あっ、あぁっ、やっ…」
  友之は光一郎の声だけで達した事も何度もある。その甘い囁きにゾクゾクと全身が総毛立ち、堪えようと思うのに興奮した小さな雄が偉そうに自己主張を始める。それを抑えようと手を差し向けても光一郎に止められるとあっさり白旗を揚げてしまう、そんな自分が情けなかった。
「だ…駄目…コウに…だめ、だめっ」
  もう今夜は既に2回も達している。反して光一郎は友之の中で激しい律動を繰り返すが、一度も精を出していないし、どちらかというと友之を気持ち良くさせる為だけにしているだけで、己の快楽は後回しのような、そんな感じすら見受けられた。
  その日、友之はどこか気まずい光一郎との時間を自分なりに精一杯「気を遣いながら」過ごした。光一郎は嫌そうだったけれど、夕飯の支度も手伝ったし、後片付けも然り。言われる前に明日の授業の予習もした。…本当は復習をすべきなのだが、如何せん今日は学校をサボってしまったので宿題がどこかも分からない。沢海に電話をして訊こうかとも思ったが、光一郎が今日の事を特別避けているようにも感じられたので、極力その事(=学校をサボった)を蒸し返す真似はしたくなかった。でも、勉強はしている所を見せたかったので頑張った。
  その間、光一郎も終始自分の事をしていて友之に話しかけはしなかったけれど、隣の部屋に移るでもなく、同じ場所で同じ机で共に同じ時間を過ごした。どちらがつけたのかは定かでないテレビの雑音も、緊張を呼ぶ沈黙が紛れるから消したくはなかった。
  そうして風呂も使って就寝の時間に入った直後。
  突然、光一郎が何を言うでもなく友之を求めてきたのだ。そこには何の言葉もなく、また友之が何かを考える隙間もなかった。
  あっという間に友之は光一郎の懐に抱かれて、そのままベッドの上で喘がされた。
「んっ…ふぅ、ふっ…ひあぁッ…!」
  身体の奥を抉られるような強烈な感覚に最初は訳が分からずに泣いてしまった。光一郎が別段乱暴に抱いてきたとかそんな事は決してないのに、気持ちがついていかなくて自然身体が強張った。
  それでも光一郎のものを飲みこんでしまうと後はもうただ揺さぶられて絶え絶えに泣き続けるのみだ。一体いつ自分の寝巻きが全て剥ぎ取られてベッド下に落とされたのかも分からない。いつものように友之自身は丸裸で、暗闇の寝室とはいえ光一郎の前に全てを晒している格好なのに、光一郎の方に衣服の乱れは殆どない。ただ、それを嫌だと、ずるいと思う間もなく、友之は先刻から何度も精を昂ぶらせて白い粒を吐き出している。
「あ、あ、や、やぁ…コウ兄ぃ…コウに…そこ、や…あ、ああぁッ!」
  びりりと電流が走るような刺激を与えられると絶叫が止まらない。普段あまり声を出さない分、こんな時だけ大きな声を出せる自分が居た堪れなかった。
  それでも友之は必死に光一郎の首筋に向かって腕を伸ばし、ぎゅっとしがみついたまま、開かれた両足の奥から絶えず沸き起こる快感の波に翻弄されまいと固く目を瞑った。
「にぃっ…コウに…っ」
  呼ぶなと言われても呼んでしまう。助けてもらいたい時はいつでもそうだ。普段は「コウ」と呼ぶけれど、こんな時は「兄」としてしまう、その「癖」がもう何度戒めても直す事が出来ないでいる。最近では光一郎も半ば諦め気味だ。
「あう、あっ、あっ…で、出ちゃう…また、出ちゃう…!」
「…あぁ…ッ」
  そうしていいという風に光一郎が微かに返事をした。ちろりと顔を下げてその様子を窺うと、光一郎もどこか熱に浮かされたような顔をして汗を零していた。こんな表情の光一郎はこうしてセックスをしている時にしか見られない。珍しいからずっと見ていたいけれど、友之自身いっぱいいっぱいなのでなかなか思いは叶わない。
「コウ兄…」
「ん…」
  それでも、今夜の行為の中でこの時初めて目があった。互いに絡み合って一つに繋がっているので酷くきつい体勢ではあるけれど、友之は光一郎の首に縋りついた格好で、光一郎をそっと呼んでみた。貫かれている下半身はじくじくと熱い。今にもまた泣き声をあげたい程だけれど、それでもこの時だけは快感も痛みも全部忘れた。
「コウ兄……怒って、た……?」
「………」
  光一郎は光一郎でそんな友之の事をじっと見つめやっていた。何も言わない。その瞳は爛々としてどこか厳しさを伴ういつもの光だ。
「ふぅ…っ」
  それが怖くて、友之は思わずじわりと瞳を潤ませると、唇を戦慄かせながら思い切って再度訊ねた。
「ぼ…僕の、こと……き、きら…嫌いに、なった……?」
「………」
「もう……っ。あっ…うぅ……い、嫌…?」
「お前は」
「あっ!」
  すると光一郎はわざと腰を一度揺らして友之の奥を掻き混ぜた。友之がそれで小さな悲鳴をあげるのも構わず、それからすかさず唇を重ねて友之の言葉を奪ってしまう。
「ふ…ん、んぅ…」
「……友之」
  友之がその口づけだけで酷く溺れて意識を朦朧とさせるのを光一郎は見ていた。逸早く自分だけが意識を保って友之だけを翻弄させて、光一郎は友之に今度は自分からの質問を投げ掛けた。
「俺がそれにそうだ、嫌いだと答えたらお前はどうする気なんだ…。ああそうですかって頷いて、納得して終わりか…?」
「やあぁっ! コウにっ…あぁ、あっ、あっ!」
  腕を解かれてだらりと身体がベッドに沈む。そのまま足だけを捕まえられた格好で、友之は更に激しく光一郎に蕾の奥を突かれ始めた。それはとても気持ちの良い刺激でもっともっとと本能は欲している。けれど、発せられた言葉はあまりにも悲しかったから、友之はぼろぼろと泣き出しながら光一郎に「ごめんなさい」と謝った。
  やっぱり怒っていたんだとその時初めて分かったから。
「やっ、やだ…! コウにっ、やぁ、あぁッ!」
「何が嫌なんだ…? 俺にこうされる事がか…?」
「ちがっ…。嫌…嫌われても…っ。ひぁっ…そ、傍に、いる…っ」
「………」
「コウ兄の傍にいる…! いた…っ、いたい…お願…っ」
「……ッ。トモ…!」
  光一郎がふっと腰を引く所作を示した。友之は咄嗟にハッとし、「嫌っ」ともう一度小さく声を上げて、きゅっとシーツを掴んでぶるぶると首を振った。
「な、中…っ。中に…!」
  光一郎がみるみる驚きに目を見開くのが気配だけでも分かった。恥ずかしくてこの熱さのせいだけではない理由で顔が赤くなる。けれどそれで頭がボーッとなって、却って余計な事を考えずに済むのが良かった。
「コウ兄の…コウ兄の、欲し…。行かな……」
  光一郎はいつも大抵友之の身体を気遣って中出しをしない。本当に稀に酷く思い詰めている時などに勢い余って己の精をその欲求のまま吐き出す事はあっても、その直後は大抵後悔するのか、友之の身体を異常に気遣って「ごめんな」と謝った。友之にはそれがいつでも不思議だった。そんな風に申し訳ない顔をしなくてもいいのに、自分とて光一郎の前で何度もみっともない射精をしているし、光一郎の口淫に酔ってその中に放ってしまった事とてある。
  だから光一郎とて、自分の身体を好きに使ってくれればいいと思う。
「好き…っ」
  こんな気持ちを抱いた事はなかった。光一郎がいなければ一生分からない感情だった。周りの親切な人たちみんな大切で大好きだけれど、こんな風に身体を晒しても大丈夫なのはきっと光一郎だけだと思う。
  もっとキスしてもらいたい。もっと深く繋がりたい。
  そうして絶対に離れたくない。
  少なくとも自分から離れる事は決して出来ないだろうと思う。

――逃げたいとは、思わないの?

  思わない。光一郎と一緒ならば思わない。友之はずっと光一郎の傍にいたい。
  光一郎がどう思っていようとも。
「コウ兄…」
「バカ…!」
  不意に遠くの方で光一郎がそう言って友之に声を上げたような気がした。ああ何だか分からないけれどまた叱られてしまった。それで嫌われたりしなければいいけれどと思った刹那、けれど身体の中に熱いものが注がれたのが分かって友之はキーンとした耳鳴りを意識しながら自分自身も勢いよく精を外へ発した。その開放感に泣きたくなった。
「―……ッ」
  ぱちぱちと近くで火花が散らされたような感覚。
「コウにぃ…」
  友之は光一郎の名前を呼びながら掴んでいたシーツを自ら離し、ゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
  視界には光一郎の熱っぽい顔があって、こちらを見つめているのも分かったのだけれど、唇を開いただけでそれは言葉にならなかった。
  折角もう一度謝ろうと思ったのに眠くて仕方がない。目が覚めたらもう一度きちんと言おうと決めて、友之はそのまま意識を閉ざしてしまった。





  翌朝は例によって身体のだるかった友之だが、当たり前のように「学校に行く」と言った事に対し、光一郎はいつものように「駄目だ」とも「休め」とも言わなかった。
  ただ「分かった」と返して、少しだけ困ったような顔を見せた。
「携帯持ったか」
「うん」
  玄関先で見送る光一郎からそう訊かれて、友之は慌てたように鞄の中を探った。
  それは昨日突然帰ってしまった修司からの借り物だったが、光一郎は早く修司に返さなければと言った友之に「いいから、催促されるまではお前のもんにしとけ」としか言わなかった。
「弁当」
  そうして何故かぶっきらぼうに、光一郎はここ2日間修司がやってくれた時と同じように、綺麗な大きめのハンカチで包まれた弁当箱を差し出した。
「言っておくけど、俺はアンパンマンなんか出来ないんだからな」
「……? うん」
  憮然とする光一郎の言わんとする意味を図りかねて、友之は少しだけ首をかしげた。けれどそれよりも、光一郎とてこの後すぐに出掛けなければならないのに、わざわざ早起きをして自分の為に弁当を作ってくれた事を思うと、その事が申し訳ないやら嬉しいやらで、どういう風に答えて良いか分からなかった。昨夜のように謝ったらまた怒られるような気もするし、かと言って「ありがとう」だけでは足りない。絶対的に。
「あの…」
「……分かってるから」
「え?」
  けれど口ごもる友之に光一郎はすかさずそう言い、ぽんと友之の頭を撫でるとやっぱり困ったように小さく笑った。
「もういいから行け。遅刻するぞ」
「うん…」
  でも、まだ何も言えていない。
  オロオロとしたように顔を上げたが、しかしその瞬間すかさず唇をあわせられて友之は絶句した。いつの間にか身体を屈めてきた光一郎に頬をさらりと撫でられて、あっという間にキスされていた。出掛けにこんな風にしてもらえる事は初めてではないけれど、今朝は何だかそのいつもより気恥ずかしい気持ちがして、友之は途端赤面し、その場に固まってしまった。
「トモ」
  けれどそれによって光一郎の方は惑いが消えたのだろうか。どこか相手を落ち着かせるような静かな笑みを湛えると、再び友之の髪の毛をまさぐって、「今夜も一緒に夕飯作るか?」と訊いてきた。
「え?」
「何とか今日も早く帰れるようにするから。待ってろよ」
「……夕飯?」
「そう」
「…うんっ」
  嬉しくてこれには勢いよく頷くと、光一郎もまた嬉しそうに笑った。ぽっと仄かに光が灯ったような気がして友之は自然笑顔になったが、いつまでも時間は待ってくれない。とても惜しい気持ちがしたが、光一郎に見送られて友之は渋々家を出た。単純に光一郎から離れたくなくて、今日は学校に行きたい気分ではなくなっていた。
  それでも、光一郎の機嫌が治った事が素直に嬉しい。

  行為の後、光一郎はあっさりとここ数日の自分の「良くない態度」を、「ただのヤキモチだ」と認めた。

  意識を取り戻した後、それを聞かされた友之がきょとんとして動きを止めていると、光一郎の方はますます決まりが悪くなったのか「そんなに見るなよ」と八つ当たりをした後、はあと大袈裟に溜息をついた。
  そうして、修司とあんまり仲良くする友之を見ているのが憂鬱だったのだと白状したのだ。
  おかしな話だった。友之とて、修司と仲良く談笑する光一郎の姿を見て相当に落ち込んだのだから。自分などいない方がいいと思ったし、光一郎と修司の間には絶対入れない自分を自覚してひとりぼっちな気分も味わった。
  それなのに光一郎は光一郎で、修司を必要としている友之に「ヤキモチを焼いた」などと。およそそんなものは光一郎とは無縁の感情のような気がしていたのに。
「コウ…」
  思わず呟いてしまい、友之は慌てて辺りを見回した。相変わらず朝の駅前通りは多くの人でごった返している。誰も友之の事には気を留めていないようで、その事にまずほっとし、友之は再び昨晩の光一郎を思い出して一人こっそり顔を赤らめた。
  修司の事はとても大切で一緒にいたい存在だけれど、光一郎へ抱く気持ちとは明らかに違う。その事を明日修司に会ったらきちんと話してみようと友之は思った。
  修司になら上手くは話せなくとも、きっと最後まで言う事は出来る自信もあったし。

「トモちゃん」

  そんな風に決意をした、けれどその時だった。

「トモちゃん。こっち」

  声が、した。
  ドキンと心臓の音が跳ね上がって、友之はざわついた駅の入口付近でぴたりと足を止めた。突然動きを止めたせいで、何となくその後ろを歩いていた通行人が友之にぶつかり、迷惑そうな顔で通り過ぎて行く。ただ友之にはその相手の顔色を窺う事も、突然立ち止まった事に対する謝罪を発する事も出来なかった。
  今は不意に聞こえたその声に戦慄する。
  昨日のように湧井が待ち伏せしてくれていたなら良かった。けれど彼女は友之の事を「そう」は呼ばない。あんな風に全ての感情を押し殺したような、それでいて相手にその鬱屈が容易に見て取れるような特異な声を出したりしない。
  否、その複雑な感情を読み取れるのは友之だからこそなのか。
「トモちゃん」
  何としても友之がこちらを見ないからだろうか、声は少しだけ焦れたように強めになり、早くこちらへ来いと暗に促す。四度目はない。友之はその声のする方へ油の切れたロボットのようになりながらぎこちなく首を回した。
  改札を抜けたすぐそこ、ホームへの階段横の壁に寄りかかる格好で彼女はいた。
「トモちゃん」
  友之が気づいた風に見てくれた事で相手はあからさまほっとした顔を見せた。片手を遠慮がちにあげ、小さく何度も振る。その嬉しそうな表情に悪意のあるものは全く感じられず、それは純粋に身内との再会を喜ぶ穏やかなものに見えた。
  それでも棒立ちになったまま、友之は未だその人物に近づく事が出来なかった。
  一体どれくらいぶりだろうと思う。最後に会ったのは裕子とあの思い出の水源地へ行って以来だ。それからは手紙も電話も交わしていない。光一郎を通して何をしているのかと言った事くらいは聞いていたけれど、向こうからも何の接触もなかったし、友之も自ら会いたいとは言えなかった。
  朝の忙しい時間に階段付近の通路で突っ立っている友之は間違いなく邪魔な存在だ。足早に通る人々が何度も友之に「行かないなら端へ避けろ」と言わんばかりの態度でどんどんと身体にぶつかっては何も言わずに通り過ぎて行く。友之はそれによろめきながら、ほんの少しだけ彼女との距離を縮めた。
「危ないよ。早く、こっち」
  それを見た相手は慌てたようになり、壁に寄りかからせていた身体を少しだけ浮かした。 
  友之はそれで自らもハッと我に返ったようになり、その勢いで足を動かした。
「夕実…」
  それからようやっとその名を呼ぶ。以前の自分には唯一無二の存在だった姉の名を。
「うん。久しぶりだね、トモちゃん」
  名前を呼ばれた事で彼女自身、安堵したようだった。控え目な面立ちでにこりと笑うと、夕実は懐かしげに目を細めてしみじみとした風に友之を見つめた。
「ごめんね。どうしても会いたくなっちゃって。だからここで待ってたの」
  夕実はそう言うと手持ち無沙汰のように髪の毛を撫でる所作を見せた。気持ちが昂ぶっている時にやる、それは友之のよく知る彼女の癖だった。



To be continued…




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