―18―



  友之が学校に着いたのは1時間目が終わろうとしているあたりで、当然の事ながら教室に入った時はクラスメイトが奇異の目で視線を集めてきたし、前方に座る沢海も心配そうに振り返り、「大丈夫か」と声を掛けてきた。
「……うん」
  沢海がそう訊いてきたのは友之が遅刻した事は勿論、誰が見ても蒼白な顔色をしていたからだろう。友之も自身で身体から血の気が引いている事は何となく分かったから、努めて友人に心配を掛けまいと思って何とか必死に頷いた。
  ただ、もうとにかく座りたい。
「……っ」
  小さく嘆息した後、友之は半ばよろけるように席に着き、そのままぐったりとして項垂れた。鞄から教科書を出す事すら億劫だった。幸か不幸か、その時の担当教諭が友之を腫れ物のように扱う人間だったから特別それを責められる事もなかったが、明らかに様子のおかしいその態度に、沢海だけでなく後ろの女子生徒たちすら「具合でも悪いの?」と声を掛けてきた。
「何でも…っ」
  それでも、後ろを振り返って返事をするのもままならない。特に今は女子の声を聞くのが辛かった。先刻出会った夕実の顔がちらつく。ドキドキとした心臓の鼓動は、今でこそゆっくりとしたものに変わっているが、きゅっと拳を握っただけでもすぐにまた嫌な汗が噴き出してきそうで、友之はただ緩く首を振ってそのままそこに突っ伏した。
「友之。保健室行くか?」
  授業が終わって教室がざわつき始めると沢海が真っ先にそう訊いてきた。そっと触れるその手が遠慮がちに髪の毛をまさぐってきたのが分かり、友之もそれでようやく顔を上げられた。ただ、気分はまだ悪い。大丈夫だと示したいのに、思うように声が出なかった。
「顔が真っ青だ…。何かあったのか? 具合悪いのに無理して出てきたとか…」
「……っ」
  平気だと答えたかったのに声が出なかった。沢海の気遣う様子に申し訳なさが立ち、友之は何度か首を振って、ようやく鞄から教科書を出す気になった。
「………」
  気だるそうにしつつも次の授業を受ける姿勢を見せた友之を沢海は複雑そうな顔で見守っていた。―…が、不意に黙って立ち上がると、沢海は友之の鞄を持ち、「大塚」と親しい友人の名を呼んだ。
「うん」
  呼ばれた相手の方も友之の尋常でない様子は遠目で窺って分かっていたのだろう。勝手知ったるように頷くと、「行けよ」という風に顎をしゃくった。まるでそれが合図であるかのように沢海も頷き、友之の腕を掴むと有無を言わせず友之を席から立たせた。
「ひろ…」
「大丈夫。すぐだから」
  沢海は途惑う友之にそれだけ答えるとさっさと教室の出口に向かって歩き出した。友之はそれに引っ張られるようにしてただ機械的に足を動かした。何人かのクラスメイトがじっとこちらを見ているのが気配だけでも分かったけれど、特に声を掛けてくる者はいない。それは湧井も同様だった。彼女が自席から物言いた気な様子で友之を見ていた事には気づいたけれど、一瞬目が合っただけで言葉が交わされる事はなかった。
「休みたいけど、保健室は嫌なんだろ」
  廊下を出たところで沢海が言った。友之を掴んだ手はまだ離されない。
「大丈夫。先生にはうまく言っておいてやるから」
「拡…?」
「大丈夫」
  2回も窘めるように言って、沢海は少しだけ笑って見せた。友之はそんな友人の顔を途惑いの中でも不思議そうに見上げた。やっぱり沢海はこういうところが光一郎に似ていると思う。何も言わなくても何でも察しているという風に、友之が苦しんでいるとすかさずこんな風に手を差し伸べてくれるのだ。
「ほら。いいだろ、ここ」
  その沢海が友之を連れてきたのは「生徒会室」というプレートが掲げられた所で、午前中の早い時間なせいか、中には誰もいなかった。
「座って」
  手を引かれて中に入り、すぐさま促されたのは革張りの細長いソファがある一角だった。友之にとっては無縁の場所だから入るのは初めてだが、教室よりやや狭い空間ながら明らかに他と違うそこは、生徒たちが会議をする長方形のテーブルや椅子も真新しい物だったし、周囲に配置されている本棚には図書室とはまた違った書籍がぎっしりと並べられていた。あとは文房具などが納められているだろうサイドボードに、何故かワンボックス式の冷蔵庫と、窓際に配置された、友之が座るよう示されたソファ。これは明らかに誰かが持ち込んだ仮眠用家具だろう。少し古ぼけてはいるけれど、腰をおろすとその柔らかさで身体が沈み、心地良い感触が全身を襲った。
「生徒会の奴らって時々ここでサボってるんだって。ずるいだろ?」
「え…?」
  沢海はソファに座らず、友之の目の前に屈むようにして視線を合わせると、悪戯っぽい目をしてにこりと笑った。ただ何故か友之への拘束は解かない。むしろ沢海は改めて友之の両手を取ると、きゅっと軽く握りこむようにしてから「ここで休めよ」と言い含めるような声で告げた。
「何かあったんだろ? ここで少し休めばいいよ」
「でも…」
「大丈夫。午後までは誰も来られないようにしておくから。みんなその辺は弁えてるからさ。順番って言うか。自分の時も一人になりたいから、そういうのは聞いてくれる」
「……拡もここで休んだ事あるの?」
「俺はまだないけど―…」
  沢海は言いかけた後何故か止めて、ふっと肩を竦めてみせた。
「そのうち利用しようとは思ってたよ? 面倒臭いもん押し付けられるんだから、それくらいは特権があってもいいよな。この事、生徒会の奴らとその他少数の人間しか知らないみたいだし」
「………」
  それなら尚更部外者である自分はここにいてはいけないのではないだろうか。友之は困ったように沢海を見つめ、「やっぱりいいよ」と腰を浮かそうとした。
  生徒会に所属する生徒らがこの場所を所謂「サボりの場」として使用している事自体を責める気はない。それは何とも思わない。むしろ沢海の言うとおり、誰もが嫌がる仕事をしている選ばれた人たちなのだから、それくらいはいいのかなとも思ってしまう。ただ、もし本当に「順番」でここを使用する権利が生徒会の人間にだけあるのなら、折角のその1回を沢海が自分の為に使ってしまうのは悪いと思う。沢海とてサボりたい時があるかもしれない。その時にその権利を使えなくなったら申し訳ない。
「友之、余計な事考えてる?」
  友之が立ち上がろうとしたのが分かったのだろう。沢海は「いいから」と言いながら更に強く友之の手を握りこむと、困ったように首をかしげて見せた。
「変な気、回さなくていいって。まだ顔色悪いんだからここで休めよ。な?」
「でも…」
「保健室は嫌なんだろ?」
  先刻も訊かれた事を再度問われて友之はぐっと詰まり、それでも正直に頷いた。
  保険医の白石が嫌いというわけではないけれど、何かを勘繰られるのが怖かった。否、彼女が望もうとしなくとも、自分から夕実の事を喋りそうで、それが嫌だった。
  いつだって夕実の事を人に言うのは躊躇われる。夕実と交わした会話は自分と夕実2人だけのものだ。他の人間が入る余地はない。―それも友之の確固としたルールだから。
「休み時間終わるから、俺行くな」
  黙りこくる友之に沢海が言った。どこか惜しそうにするりと離される手に友之がハッとして顔を上げると、沢海はもう立ち上がって出口に向かって歩き出していた。
  沢海は友之に何かあった事を察しているようだから、どうして遅刻したのかは訊きたいに違いない。そもそも昨日とて休んだのだ(それは湧井のせいとも言えるが)。それでも余計な事は問おうとしない、それがとてつもなくありがたかった。沢海はいつでも友之の事を心配して、気遣ってくれる。周りがそれにからかいの目や言葉を投げ掛けてきても動じない。いつでも友之の傍らにいて守ってくれるのだ。
「拡…ありがと…っ」
  カラカラに乾いた声で何とかそれだけ言えた。いつでも沢海に対しては言葉が足りないと友之は思っている。光一郎のように言わなくても察してくれるから、数馬のように「きちんと話しな」と急かされる事もないから、つい甘えてしまうというせいもある。
  でも、本当はそれではいけないと思う。沢海とは数馬と同じ、対等な友人関係でありたいのだから。彼にも自分のやりたい事をきちんとやってもらいたい。自分に煩わされる事なく。
「……あのさ、友之」
  すると沢海は友之のその謝意を受けてぴたりと立ち止まると、背中を向けたまま急にくぐもった声を出した。
「何?」
  友之がそれに「あれ」となってすぐに問い返すと、沢海はちらと視線だけを向けて、どこか気まずそうに声を零した。
「この前、大塚に余計な事言われただろ。……あれ、嘘だから」
「え…?」
  余計な事。何だろう。急いで過去の記憶を紐解いたが、何の話だか分からない。友之が途惑ったように沢海を見返すと、沢海の方はすぐに通じていないと分かったようだ、友之よりも困ったような顔をして「だから」と焦れたように言葉を継いだ。
「俺がこの間休んだの…桜乃森の子とデートしてたとかそういう話。―付き合うとか何とか、そういう話」
「……あ」
「そんなの嘘だから」
「嘘、なの?」
  きょとんとして聞き返すと、沢海はいよいよ焦った風になり、ぐるんと身体全体を友之の方に向けると「そうだよ」とどこか自棄気味のように声を荒げた。
「告白されたのは本当だけど。……会ってたのも本当だけど、別に付き合う気もなかったし。どうしても会ってくれって言われたから、学校休むのは嫌だったけど、断るなら早い方がいいと思ったし…。それで、仕方なく」
「仕方、なく…」
「そうだよ!」
  何となく復唱した友之に沢海はいよいよむっとしたように唇を尖らせ、つかつかと戻ると再び友之の前に屈みこんだ。
「友之」
  そうしてどこか怒ったように友之の膝に両手を置くと、沢海は真っ直ぐな眼差しで友之を見上げた。
「俺…言っておくけど、光一郎さん以外の奴なら認めないから」
「え…」
「他の奴らが出張るなら、俺だって黙ってないから」
「拡…?」
  そのどこか陰のある声と表情に友之が途端不安そうな目を向けると、沢海はすぐに「ごめん」と謝り、さっとその色を潜めて焦った風に俯いた。
  それでも沢海は友之を見ないまま続けた。
「俺は…今の俺じゃ、まだ光一郎さんには敵わないと思ってるから。だから…けど、他の奴が出てくるなら絶対嫌だ。数馬とか…本当、冗談じゃないから」
「数馬…?」
  突然出てきたその名前に友之が露骨に反応を返すと、沢海はまるでつい先日の修司のようにあからさま不機嫌そうな顔を見せた。
「友之って数馬の名前にはすぐ反応する」
「え」
「俺、あいつだけは…いや、とにかく他の人も全部だよ! 何か知らないけど、友之に弁当作ってやってる人とかも!」
「拡…?」
「とにかく…っ」
  じりじりとした想いを断ち切るように、沢海は再び立ち上がると踵を返した。自身でも言い過ぎたと後悔しているところがあるのかもしれない。仄かに耳も赤くして友之から顔を隠すと、沢海は素早く出口へ向かいながらも言い捨てるように声を発した。
「とにかくそういう事だからっ。じゃあ、ちゃんと休めよっ!」
「ひろ…」
  呼びかけたその声に沢海が応える事はなかった。荒っぽく扉が閉められ、忽ちしんとした静寂が辺りを包む。友之は沢海の滅多に見ない焦った様子にポカンとしてしまったのだが、逆にそのお陰でその一時だけは気分の悪さもどこかへ消えてなくなってしまった。…沢海が一体何に対してイラ着いていたのかは、今イチよく分からなかったのだけれど。
  また数馬と何か喧嘩でもしたのだろうか。
「数馬…」
  思い出すと、何となくその頼りがいのある友人の顔が浮かんできて、友之は思わずその名前を呟いた。
  自身では別段意識しているつもりはないのだけれど、周りから見ると友之は数馬を特別視しているところがあるようだ。無論、友之は数馬をとても大切な友人と思っている。そしてそんな友人の数馬を「凄い」と思う一方で、「対等」でありたいと願ってもいる。そういう「背伸び」が周囲の人間たちには「意識しまくり」だと言う事になるのだろうが、友之にその自覚はない。数馬に敵わないくせに同じ立場・同じ視線でありたいと思う事を図々しいとは感じるけれど。
  友之が恐らく数馬という同年代を取り立てて意識し始めたのは、一際夕実に恐れを抱いていたあの時、平静として傍にいてくれた事があったからだ。
  そうして一度しか会っていない彼女の事を的確に言い当てた。それがあったから。
「夕実…」
  きゅっと手を握りしめてそれを胸に当てると、やっぱり心臓の鼓動はドクドクと早鐘を打ち始めていた。夕実の事を考えるといつでもそうなる。いつでも落ち着かなくなって緊張して、全身から力が奪われて身動きが取れなくなる。夕実はいつだって友之にとって絶対の存在で、とても大切で愛しい存在だ。それは変わらない。
  けれども、とても怖い存在である事も否めない。友之にどうしようもない悲しみを与える人でもある。光一郎との生活で少しずつ癒え始めていた心が、夕実と出会った、あのたったの数分間で見事に脆くなるのが分かる。崩れそうになる。
  夕実においでと手を伸ばされたら、恐らく友之はそのまま彼女の手を取るに違いない。
「……はぁっ」
  わざと大きく息を吐いて、友之はぎゅっと目を瞑った。沢海の好意に甘えてそのままソファに身体を預けながら横になる。誰かが持ってきたであろう小さな羊の形をしたクッションに頭を乗せると少しだけほっとした。
  だからそのまま、友之は制服のポケットにそっと手を差し入れて四角い紙片を指でなぞった。
  それは朝方、夕実が友之に渡してきた名刺だった。





「長く話していたいけど、これから行かなくちゃならない所があるの。トモちゃんも学校だもんね?」
  堅い石のように何も発しない、ぴくりとも動かない友之に夕実は早口で言った。
  混雑した駅の中で夕実の声は注意深く聞こうとしなければはっきりとは聞き取れない。しかしそれが却ってありがたかった。じんじんガンガンとする頭痛を感じながら友之がぼうと夕実の顔を見つめていると、随分と化粧の濃くなった彼女は「弟」のその目線に居心地の悪そうな顔をしながら唇の端をひくつかせ、窮屈そうな笑顔を閃かせた。
「あのね。本当は待っちゃいけなかったんだ。私、トモちゃんの事をこんな風に待っちゃいけなかったの。コウちゃんからも止められてるし、こんな事が分かったら私はまたコウちゃんに酷く叱られる。だから言わないでね? 内緒にしてね? でもね、私は、それでも私は、トモちゃんに凄く会いたかったんだ」
  以前よりも物凄く早口だ。およそ考えて喋っているとは思えないその唇は、友之がじっと見守る中忙しなく動き続けた。
「他の人はどうでもいいの。トモちゃんだけに会いたかった。あのアパートに行くとコウちゃんだけじゃなくて他の人もたくさんいるし、トモちゃんの友達も来てるし、私は居場所がないよ。そんな気まずいのは私は嫌だし、それにもし正人や修司に会ったら、私それこそ酷い目に遭わされるでしょ? あいつら、私がトモちゃんの事苛めてるとか勘違いしてるし、自分たちだって私の事を散々苛めてきたくせに凄く勝手だから。だからあいつらとは会いたくないんだ。それでトモちゃんと話せる所と言ったら、こんな所しか思い浮かばなくて。私も仕事に行く途中にこの駅には寄るし」
  夕実の声を聞いているうちに眩暈がしてきて、友之は何とか両足を地面に踏ん張らせてその場に居続ける努力をした。こんな所で倒れては騒ぎになるし、何より夕実に迷惑が掛かる。夕実は弱い自分を詰るかもしれない、責めるかもしれない。だから倒れるわけには絶対にいかないから、余計に夕実の話を頭に入れる事は後回しになって、友之は彼女の話にまともな反応を返す事が出来なかった。
「夕方会える?」
  夕実が言った。
  それだけは耳がピンと張り詰めたようになってはっきりと聞き取る事が出来た。
「夕方なら私も少しは時間出来ると思う。お店の近くに着いたら電話してくれたら出て来られるし、無理だったら悪いけどちょっと待たせちゃうかもしれないけど、近くに休めるお店いっぱいあるし。マックとかで待っててくれたら必ず行く。あ、トモちゃん、携帯ある?」
「………」
「トモちゃん!」
「……っ」
  慌てて首を振った。咄嗟に嘘をついてしまった。自分の携帯はないけれど、今は修司から借りた物がある。今もこの学校鞄の中に入っているのに。
  けれど夕実は友之のその嘘を素直に信じたようだった。
「ならやっぱり、もし電話に出られなかったら何処かで待ってて。留守電に入れておいてくれたらそこへ行くし」
  夕実はバッグから名刺のような物を取り出すとさらさらとその裏に自分の携帯番号を書き添え、友之に押し付けた。友之は反射的にそれを受け取り、何気なくその並べられた数字を見つめ、それからくるりとその名刺の表にも目をやった。
  聞いた事もない名前。何かの店なのだろうけれど、電話番号と住所があってもそれが何処にあるのかは分からない。困ったように見上げると、夕実は勝手知ったるような様子で「ここから3駅行った先のK駅だよ」と答え、「東口出たらすぐに分かるから」と言った。
  そうしてここで初めて携帯で時計を確認し、「もう行かなくちゃ」と急いたように顔を上げた。電車の時刻を知らせる電光掲示板を見たのだと分かった。
「仕事…?」
  自分から意識が削がれた事で、友之はようやく隙が出来たかのように声を出す事が出来た。夕実はあの家にいた頃から殆ど高校には行っていなかったし、幾つかバイトも掛け持ちしていたようだけれど、いずれも長く続いた試しがなかった。気づくといつも働き口は変わっていて、大抵「あんな職場クソだよ」と、汚い言葉で悪口を言い、もうあんな所は思い出したくもないという風に目を吊り上げてふいと部屋に閉じこもった。
  その後も光一郎がぽつりと「あいつは本当に長続きしないな」と呟いていたのを聞いた事がある。
  今の職場は長く続けられているのだろうか。
「午前中は仕事じゃないの」
  友之の質問が嬉しかったのか、夕実は少しだけ柔らかい表情をして笑って見せた。忙しなく携帯を鞄に仕舞いながら、それでもまたそれを取り出して落ち着かない所作でそれを目に落とし、また鞄に仕舞おうとしてはやっぱりと躊躇ってまた手に取る。どうにもその行動は奇異だったけれど、それでも発せられた声は落ち着いていた。
「ちょっと、病院」
「どこか悪いの…?」
  その答えに驚いて友之がすぐに聞き返すと、夕実はますます嬉しそうな顔をしてから「ううん」と首を振った。
「全然。大した事じゃないから大丈夫。ありがとう、トモちゃん。心配してくれて」
「……本当に大丈夫?」
「うん。あ、じゃあ本当にもう行かなくちゃ。―今日、必ず来てね」
「あ…」
「それじゃ」
  友之が返事をする前に夕実は先に立ち去った。友之が夕実の誘いを断るなどあるはずがないのに、殊によると夕実はそれを…友之が「行かない」と答えるのではないかと恐れたのかもしれなかった。
「………」
  無論、友之は夕実と会うのは怖い。2人きりなら尚更だ。
「夕実」
  それでも断れるわけがない。久しぶりに見た姉の、どこか痩せてやつれたような様子も純粋に心配だった。自分は光一郎の元でのうのうと生活出来ているけれど、夕実はどうなのか。それが全く気にならないわけでは勿論なかったから、きちんとそれも聞かなければ―…。
  いつもそう思うばかりでいざとなると先刻のように声が出ない、そんな自分が友之は大嫌いだった。





  ほんの少しだけ生徒会室でウトウトした後、友之は昼になる前にそこを出た。沢海が迎えに来てくれるかもしれないという考えも頭を過ぎったが、その前に誰か別の人間が来る可能性もある。それが怖くて、考え始めたらいつまでも知らない場所にいる事が不安になってしまった。遅れて教室に入るのもまた皆に好奇の目を向けられるだろうから、とりあえずチャイムが鳴るまでは図書室にでもいるか、もしそこが授業で使われているようなら、別の空き教室にでも逃げ込もうと思った。
  しんとした廊下はまだ各教室が授業中である事を如実に物語っている。努めて足音を立てないようにそろそろと道の端を歩き、友之は図書室に向かって歩を進めた。
  窓の外を見ると金網越しの向こう側にあるグラウンドでは体育の授業でサッカーが行われており、その手前の昇降口前には業者用トラックや来客用スペースに乗用車が何台か停まっていて、人の入りが多い事を想像させた。
「あ」
  その時、何となく見下ろしていたその風景の中に見覚えのある姿が目に飛び込んできた。
  業者用のトラックから大きなダンボール箱を担いでいたその作業着姿の青年は、帽子を目深に被ってはいたが、校舎に入るその横顔ですぐに誰だか分かった。そういえば友之の学校に行く事もあると言っていたっけ。咄嗟にそう思いながら友之の足はもう自然に動いていて、本当はロクに話した事もない相手なのに、何故だか購買へ向かって階段を駆け下りるスピードは速まっていた。
  正人の後輩である隆は1人で1階にある購買部へ荷物の搬入作業をしていた。
「あの…」
  仕事の邪魔になるだろうかと思って声を掛けた事に「しまった」と気づいたのは、まさに声を出した直後だ。階段のすぐ横にある購買部はとても小さくて、店番をしているのはいつも気だるそうにしている年配の女性一人。彼女は隆にダンボールをカウンターの奥にある小さな倉庫に運ぶよう指示していたが、友之が急に現れた事で思い切り不審な目をして「どうしたの」と訊いてきた。
「まだ授業中じゃないの?」
「あ…」
  隆よりも先に反応を返してきたその女性に友之は途端固まり、今すぐ回れ右して逃げたいという衝動に駆られながら、今さらどうにも出来なくて立ち竦んだ。
「―…ああ」
  するとダンボールを奥に置いてから戻ってきた青年―隆は、帽子の鍔を指先でくいと上げてから顔を見せ、友之の姿を認めると人の良い顔をして笑って見せた。
「トモ君」
  そうして彼は友之と自分とを不躾な視線で交互に見つつ疑わし気な目を向ける女性に、何と言う事もない風にしれっと嘘をついた。
「俺の弟です。普段会えないから、ここへ来たら声掛けるように言っておいたんですよ」
  友之がその答えに呆気に取られていると、隆は女性に未だ清廉な様子で適当な事を話しながら、一方で友之には陰でニヤリと不敵な笑みを見せた。





「ああいうオバサンはさ、子どもの不幸な話が大好きなんだよ」
  これあげる、と、隆は車の運転席から冷えたジュースを取ってきて友之に渡した。運転席に座っていたガタイの良い男性が「早くしろよ」とせっつくのも笑顔でかわし、隆は友之をちょいちょいと誘いながら昇降口の脇にある石段に腰を下ろして友之にもそこへ座るように言った。その場所だと丁度職員室の反対側で窓からも友之たちの姿は見えないし、トラックの陰にも隠れてグラウンドにいる生徒たちの視界にも入らなかった。
「『親が離婚したせいで別々に暮らしてるから滅多に会えないんです』って言ったら、向こうも『お前、そんな適当言ってんじゃねェよ!』とか突っ込めないでしょ。ましてやトモ君みたいな真面目そうな子が困ったように立ってたら、そりゃ9割方の中年女は騙されるって」
  これが俺と正人先輩だったら誰も信じないだろうけどねと笑ってから、隆は改めてまじまじと友之の顔色を窺った。
「ありがとう、声掛けてくれて。俺も今日トモ君の学校寄るって知ってたから、会えたらいいなって思ってたんだ」
「僕に…?」
「うん。トモ君とは話してみたいって思ってたし」
  くすんだエンジ色の帽子をくるくると指で回して弄びながら隆はそう言った。帽子を取ると金色の髪の毛が日の光に照らされて妙に輝いて見える。一昔前は正人もこんな髪色をしていたけれど、不精している間に「どうでも良くなった」と言って、今は逆に真っ黒だ。
  だから隆の金髪は尚の事妙に懐かしく、以前にあった怖いという気持ちは浮かばなかった。
「正人先輩って、トモ君の事になると顔色変わるでしょ。あれが最高に面白いんだよね。あの人、前は絶対あんなじゃなかったし」
「前…?」
「うん。俺と一緒にめちゃくちゃ暴れてた時。高校の時」
  隆の言葉に友之はサッと青くなり、思わず眉をひそめた。
  正人が昔色々と「悪い」事をしていたのは友之も誰に聞くでもなく噂として知っていた。しかもそれが「百人の不良を相手に大立ち回りをして辺りを血に染めた」などという数馬の適当な創作によって話がより大きくなり、友之の中ではあまり好ましくない「伝説」となっている。隆もその伝説の1人なのかと思うと、恐怖を感じないわけにはいかなかった。
「トモ君に怖い事はしないよ? 俺が先輩に殺されるもん」
  友之の露骨な怯えで容易に想像された事が分かったのか、隆はすぐさまそう答えると、わざと視線を遠くへやって清々とした顔を見せた。
「というか、トモ君に限らず、俺、年下には優しいよ。先輩と約束したから」
「約束?」
「うん。もう無闇やたらキレるのはやめる。損するだけだし、自分が」
「………」
「自分が損するって分かると、どんなバカも大抵は大人しくなるよ。他の人の為じゃなくて、自分の為に大人しくなるの。……相手を傷つけ続ける奴ってさ。そういうのがどうしても理解出来ないんだよな。“大切な奴の為に”とかくだらない事考えてないで、自分の為に静かにすりゃいいのに」
「自分の……」
「…まぁ、そういうのの中には、自分の事が大嫌いだからバカやるってのも多いんだけどね」
「………」
「トモ君みたいに、ホントに人の事考えて…、相手の事ばっか考えて逆に身動き取れなくなっちゃう人は珍しいよ」
「え……」
  隆の探るような目が気づくとすぐ傍にあって、友之はドキリとした。何だろう、野球チームにいる時は友之と同じでめったに喋らないし、偶に周りの大人たちと談笑している時は本当にふざけた印象しか受けないのに。
「あの…」
「―…って、俺が勝手に思ってるだけ、違うの?」
「え…」
「だって正人先輩って、トモ君の真似しようとして“ああ”なわけでしょ?」
  あれ、お兄さんの方だっけ?と、隆は考えるような素振りを見せつつも、「まあどっちでもいいけど」と言ってまた笑った。
  友之は隆には何も答える事が出来ず、ただ途惑った視線を向けるだけだった。
  隆の話は友之にとってとても不思議な感じを与えた。難しくて半分も理解出来ていないのだけれど、何かが胸にひっかかかって、そしてどこか苦しくて。
  自然に夕実を思い浮かべた。

  相手を傷つけ続ける人は、“そういうの”がどうしても理解出来ない。

  絶対に来てねと言っていた夕実のどこか泣き出しそうな顔が頭から離れない。友之は制服のポケットに入っている紙片を途端に意識して、ぎゅっと唇を噛んだ。



To be continued…




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