―19―



「そこ、あんまり良くないよ」
  淡々とした声なのにどこか責めているようにも感じられて、友之は思わず息を呑んだ。
  別に何かを相談しようなどとは思わなかった。そもそも隆は正人の後輩で同じ草野球チームの一員というだけで、特別親しく話した事もないし、見た目から言っても気安く話しかけられる存在ではない。隆は隆で、村さんやマスターのように「大人の気遣い」で友之に話し掛けてくるような性格でもないから、2人で友之の「込み入った事情」を話し合う必要性などどこにもなかった。
  だから、偶々だった。
  偶々、友之は隆との会話の中で、何となく夕実から貰った名刺に手を伸ばし、それを見つめたのだ。
「俺、その店知ってる」
  すると隆は友之からさっとその名刺を奪い、表と裏、素早く目をやった後にそう言った。手にした名刺は慌てる友之にすぐ返して寄越したが、表情は険しい。どうしてこんな店の名刺を持っているのと、どこか怖い声で訊いてきたものだから、友之としても嘘をついたり誤魔化したりは出来なかった。素直に「姉の仕事先」と答え、「今日の夕方、会うんです」とも付け加えた。
  そこで隆から発せられたのが先の台詞だ。
「あんまり良くない」
  隆はしつこく繰り返してから、ちらとだけトラックの方に目をやった。いつまでも油を売っているわけにもいかないのだろう、すくっと立ち上がって帽子を被り直した隆は、「早くしろ」とせっつく同僚に「あと1分」と嘯いてから、改めて友之を見下ろした。立ち上がった隆から突き刺すような視線を落とされた事で友之はすっかり萎縮したが、隆の台詞が気になったから目を逸らすわけにもいかなかった。
「お姉さんがいたんだ?」
「え?」
  その言葉に友之が怪訝そうな顔をすると、隆は少しだけ肩を竦めて皮肉な笑みを浮かべた。
「先輩って、人んちの事そんな話さないし。トモ君の事は前からよく気にしてたけど、俺も何であんな過保護なのかなぁとは思いながら、あんま訊こうとは思わなかった。どうでもいい事だしね。でも、やっぱ何かあるんじゃないの?とは思ってたんだ。普通はおかしいじゃない? トモ君にはあんなカッコイイお兄さんいるし、みんなに可愛がられて、何不自由ない生活してる、そんな感じなのにさ。何で先輩は“あんな”なのかって」
「あんな…?」
「それに、何でトモ君は“こんな”になってんのかって」
「こんな…」
  バカみたいに言われた台詞の端っこだけを繰り返す友之に、隆はどこか冷たく笑った。
「人のこと“凄く怖い”って顔して、そのくせ人に懐きたいって顔してる」
  何とも答えられずに友之が言い淀むと、隆はどこか探るような目を向けた後、ふいと視線を横へずらした。何だろうと思って友之も流されるように同じ方向を見ると、そこにはぶるぶると拳を奮わせながらもその場に立ち尽くしている湧井の姿があった。
「あ…」
「何してるんですかっ!」
  友之が声を出しかける前に湧井はヒステリックな声をあげた。顔は蒼白、けれど眉間には皺が寄っていて、相手を威嚇するように鋭い睨みを利かせている。
  そう、湧井は隆の事を真っ直ぐに見据えていた。
「何って?」
  当然の質問を隆はした。ちらと友之を見やって、知り合いだろうと当たりはつけたようだが、それでも自分が責められる理由が分からない。隆が小首をかしげると、湧井の方はそれで自分がバカにされたと思ったのだろう、震える声をますます大きくして言った。
「そ、そんな小さい奴、からかったって仕方ないでしょ! 見るからにお金だってないんだし! こ、こんな陰に引っ張り込んで、でも上からなら見えるんだから!」
「……はぁ」
「こいつの事、脅してたでしょ! せ、せせ、先生呼ぶよっ!」
  湧井は隆の風貌と友之の蒼白な様子を見て完全に勘違いをしていた。
  確かに一見するとおかしな組み合わせである。隆は真面目な勤労青年には違いないが、見た目ははっきり言って「ヤンキー」を抜け出せていないところがあるし、友之は夕実の事も相俟って絶不調。誰がどう見ても不幸満載な根暗な顔で、今にも倒れそうな感じなのだ。だから事情を何も知らない者からしたら、隆が弱っちそうな学生をこっそり捕まえて裏へ引きずりこみ、金銭の要求でもしていると疑われても……甚だ失礼な話ではあるが、致し方ないと言えない事もない。
「トモ君。とにかく、その店に1人で行くのはやめな」
  隆が湧井を無視して言った。
「お姉さんがどんな人かは知らないけどさ。夕方なんて危ないし、姉ちゃんにうまく会えないで店の近くウロウロするのも良くない。オススメしないよ。……もし俺が姉ちゃんの立場だったら、あんな所に弟を独りで来させる真似はしないね。ちょっと無用心過ぎるか、トモ君の事何も考えてないか、どっちかじゃない?」
「そ、そんな事ない…!」
  夕実を批難されて友之は咄嗟に腰を浮かして言い返した。隆はそんな友之の態度にここで初めて驚いたような顔を見せたものの、横で未だ喚いている湧井の事も耳障りだったのか、「じゃあ、もう行くよ」と踵を返した。
「あ…」
  幾ら夕実の事を貶されたからと言って、仮にも先輩に対して失礼な事をしてしまっただろうか。上下関係に煩い正人の顔がふっと浮かんで、友之は慌てて謝ろうと一歩を前に踏み出した……が、隆はもう友之の事は振り返りもせず、狭い道を通り過ぎる刹那、湧井の耳元にそっと唇を寄せて何事か囁いた。
「な…っ」
  湧井はそれにバッと身体ごと飛び退って囁かれた耳を押さえながら忽ち赤面したが、隆はそれにさも可笑しそうな顔をした後、「やっぱ女子高生はいいわ」と言いながらトラックへ戻って行った。
「な、何なの、あの人!」
  湧井はトラックが発車して隆の姿が完全にその車ごといなくなるのを確認するまではフリーズしていたが、その後は再び堰き止めていたものを放出するかのような怒声を上げた。
「訳分かんない! これだから不良は嫌なのよ! 何あのチャラ男! もう最低!」
「あの…」
  カリカリしている湧井に友之は改めて視線を向けた。そもそも湧井は何をしにここへ来たのだろう。先刻の介入を見るに、どうやら隆に絡まれていたように見えた友之を救出しに来てくれたような感じだが…。
「何見てんのよ…!」
  友之の視線が痛かったのか、湧井は決まりが悪そうに無駄な威嚇を掛けた後、ふっと息を吐いた。どうやらかなり緊張していたようだ。そわそわと首筋に手をやったり視線を移したりした後、それでも何か言わない限り友之のじっとした視線が外れない事を悟ったのか、彼女は諦めたように自棄気味の声を上げた。
「私…不良って本当に苦手なの」
「え?」
「苦手って言うか…怖いのよ!」
  悪い?と怒ったように問いかけながら、しかし湧井はフンと鼻を鳴らした後、偉そうに腕を組んだ。
「あいつらって意味もなく何の関係もない人間にまで因縁つけて迷惑な事してくるし。ヤンキーも嫌だし、ギャル系の女も大っ嫌い。常に意味もなく人の事品定めするみたいにじろじろ見るじゃない。あの視線も大っ嫌い! 電車とかでもああいうのが群れてるの見るだけで吐き気するし…」
「そう…なの?」
「そうよ」
「でもクラスでは…」
  友之の背後に座るクラスメイトの女子2名は、とりわけそう言った類の「ギャル」に見えるが、いつだったか湧井は自分から率先して彼女らに喧嘩を売っていたように思う。
  指摘されようとした内容を汲んだのだろう、湧井は軽く肩を竦めた。
「びびったら負けだから。意識して負けまいって思うと余計にバカな事しちゃうの。暴走しちゃうのよ、私」
「………」
  何だろう、湧井がまるで違う人に見える。
  友之はとても不思議な気持ちで目の前のクラスメイトを見つめた。何かと言うと友之に無駄に突っかかり、意地の悪い事を言ってきていた子だ。湧井自身、友之のような人間は嫌いだと言っていた。
  それなのに今は、勘違いとは言え隆という「不良」から友之を救おうとし、けれど自分はその「不良」が怖いのだと、自ら己の弱点を晒してきている。
「勘違いしないでよね」
  友之のちらりと過ぎった心の声が聞こえたのだろうか。途端これまでの「冷たい声と目線」を投げつけながら、湧井は組んでいた腕を解いて友之に向き直った。
「別にあんたが恐喝されようが何されようが、私には関係ないし。どうでも良かったんだからっ。…けど、授業終わった後、沢海はすぐどっか行って消えちゃって、あんたの事保健室にでも迎えに行ったのかと思ったら、当のあんたはここにいて不良に絡まれてるし。…っていうか、さっきの知り合いだったの? 意味分かんない、私の事、『今度遊ばない?』とかって適当なナンパし掛けてきて、何なの!? 趣味じゃないってのよ、あんな男!」
「……それで、どうして来たの?」
「はぁ!? …ホント、むかつくね。だから、助けに来てあげたんでしょ!」
「………」
  たった今、別に友之がどうなろうが関係ないと言ったばかりだと言うのに。何だかよく分からないと思いながら友之が不思議そうに首をかしげると、湧井はまたまた決まり悪そうになってフンとそっぽを向いた。
「北川の事助けたら、沢海に恩売れるかなって思っただけ。少しでもあいつの優位に立つには、あんたを利用するのが一番みたいだし」
「………」
「な…何よっ」
  自分の発言に対し友之が何も言わない事が気になったのだろうか、湧井はそう発した後は暫く途惑ったように沈黙していたものの、やがて再び強気に言った。
「文句ある? 私はあんたとは違ってちゃんと目的持って生きてるし! 沢海を負かす為だったら何だってするんだから!」
  文句などありようはずもない。別に湧井がどんな理由を持っているにせよ、もしも友之が困っていると思って助けに入ろうとしてくれたのなら、それは湧井の親切だ。友之はそう思った。
「あ…」
「ばかっ!!」
  だからありがとうと、きちんと礼を言おうと思ったのに、けれど湧井は友之の言葉を待たず、そのままだっと駆け出して校舎の中へ戻って行ってしまった。
「……………」
  あっという間に取り残されて友之は唖然としたが、嵐のような湧井のお陰でほんの一瞬でも夕実を忘れられたのは本当だった。
「似てる…」
  それに湧井のあんな所は、友之が意図して覚えている夕実の愛すべき部分と通じるものがあった。
  いつも夕実に怒られまいか、詰られるのでは、叩かれるのではとびくびくしていた日々の中にあって、彼女を大切な姉としてとても慕っていた思い出もある。夕実は機嫌の良い時は友之にとても優しかったし、今日の湧井のように無茶苦茶な事を口走って一人で焦っては、あたふたとして最後には困ったように誤魔化し笑いを見せる時があった。
  そんな時、友之は夕実を凄く守りたいと思ったし、純粋に愛しいと感じていた。
  そう、夕実は周りが言うほど、酷い人間じゃない。
  また友之が怯えるほど、怖い人間でもない。―…そのはずだ。
「………」
  改めて手に握ったままの名刺を持ち上げて、友之は意を決したようにごくりと唾を飲み込んだ。夕実に会うのは怖い。やっぱりとても怖いし、独りで行くのは本当に勇気の要る事だ。
  けれど隆が言った言葉に逆らいたい気持ちは逆に強くなっていた。

  トモ君の事何も考えてない……

  そんな事ない。
  夕実は自分に会いたいと思って駅に居てくれた。待っていてくれた。
  今度は自分が待つ番だ。
  腹を決めると途端気持ちも前向きになり、友之はようやく身体に血の気が戻ってくるのを感じた。学校が終わったら、この店に行ってみよう。夕実に会いに行ってみようと、俄然気持ちが昂ぶった。





  沢海に今日の礼を言って友之が校舎を出たのは、学校の時計で見ると17時になる少し前だった。その日はフルで授業があった上、帰りのショートホームルームで担任による諸連絡が少し長引いたせいで校舎を出るのが遅れたのだ。
  それ故、友之の気持ちは酷く急いていた。
  夕実との約束「夕方」が実際何時を指すかは詳しく訊かなかった。それどころではなかったからだが、もしそれが「17時」を指すのならばえらい事だ―…。今さらそんな事に気づき、けれど一方で夕実もそこまで厳密には考えていないだろう等々安直に考えたりと、足早に校舎を出る中でも友之の気持ちは激しく揺れていた。
「あ!」
  だから本当にギリギリまで気づかなかった。
  校門を出た所―、そう、そもそも学校の敷地から完全に出ないとその姿を捉える事は難しい位置だったのだけれど、その人物は明らかに友之を待っていた様子で、そして誰の目にも分かるような不機嫌な様子で、驚く友之にギロリとした視線を寄越した。その長身を持て余すように石門にべったりとつけていた背中もゆらりと浮かし、驚く友之の前に巨大な塔のように立ちはだかる。目の前に立たれた事で見事に自分の頭ごと暗い影が覆うようになって、友之は思わずぽかんと口を開けたまま相手を見上げた。
「数馬」
  そうしてその友人の名前を呼ぶと、呼ばれた方の相手―無敵の高校生・香坂数馬―は、特に声では応えず目だけで僅かそれに対する反応を示し、開口一番「何で」と言った。
「え?」
  それに友之が当然の如く聞き返すと、数馬は再度、今度ははっきりとした声で言った。
「何でボクがここに来ないといけないわけ」
「ここに…?」
「本当に。もう、いい加減にしてくれない?」
「な…に、が?」
  どうやら数馬はすこぶる機嫌が悪いようだが、一体何に怒っているのかは友之には理解出来ない。
「あの」
  けれどその原因がどうやら自分にあるということ、それはさすがに友之にも分かった。気持ちは早く駅へと急いでいたが、友人を無碍にする事も出来なくて、友之は困ったように背の高い相手を見上げ続けた。
  そして訊いた。
「数馬…誰かに言われたの。ここに来てぼ…俺に、会うようにって」
「…珍しく察しがいいね。その通りだよ。誰だと思う?」
「えっと…それは…」
「隆クンだよ、隆クン。それも分かるでしょ? だって今日学校で会ったんでしょ?」
「うん…」
  もう少し考える時間をくれればきちんと自分自身で答えを出す事が出来たのに。
  そんな仕様もない恨めしい気持ちを抱きながら、けれど友之は促されるように素直に頷いた。
  昼前に会った正人の後輩である隆は、夕実の働き口が書いてある名刺を見て「良くない。独りでは行くな」と言った。だから、きっとそれで数馬を呼んだのだろうと思った。
「あ…あの。ごめん」
  イライラとしている数馬は、きっと何か用事があったのだろうと咄嗟に感じた。隆の心配は心配としてありがたいものの、それで数馬が呼ばれるというのは確かに変だ。無論、隆としても、もしかしたら一番には正人に報せたかったのかもしれないし、光一郎に言わねばと思ったかもしれない。
  ただ、もしもこの兄二人に連絡が繋がらなかったとしたら…彼が次に白羽の矢を立てるのは、確かにこの数馬であろうと思う。
  何故なら、友之に何かあった時の大抵の「助っ人」は、ここにいる数馬であるとは、友之だけでなく、あのチームの大人たちも皆知っている事だから。
「その…りゅ…隆、先、輩。僕の事、心配してくれて」
「それで何でボクが呼びつけられるのかって訊いてんの」
「うん…」
「うん、じゃないよ」
  あのさあと、数馬は珍しくぶちぶちとしつこく、当たっても仕方がないと分かっている友之相手にまだ忙しなく口を動かした。
「本当にさ、いつもの事とは言え。あぁ分かってるよ、キミに何かあったらボクが何とかしなくちゃいけないって事は。でもさ、光一郎さんや中原先輩だけでなくって、何で隆クンなんて、今まで全然関係なかったような脇キャラにまで使われなくちゃいけないわけ? ボクってキミの何なの? そもそも、何であの人がキミの何かを知ってるわけ?」
「あ、あの…今日…会って…」
「だから。会ったからって、何でキミは今日お姉さんに会うなんて私的な事まで彼に言っちゃってるわけ。何? 相談でもしたの?」
「し、してない」
  数馬がおかしい。
  そんな事はとうに分かっている事だけれど、いつも以上に長いその「説教」に友之もさすがに面食らい、そわそわし始めた。数馬が怒るのは分かる。以前にも光一郎と喧嘩のようなものをした時、「1人で外に飛び出した友之が心配だから」と様子を見てくるように光一郎から頼まれたのは数馬だった。あの時もいきなり友之たちの自宅近くにまで呼びつけられてさぞ迷惑だったろうに、数馬は文句を言いつつも友之を見つけ、そして支えてくれた。
  何かあった時の数馬頼み…ではないけれど、確かに数馬に縋っているところは多い。
  そしてその際、数馬の都合は常に無視される。
  数馬とて以前言っていたのに。「いつだって友之中心ではいられない、自分にだって自分の生活があるのだから」と。
「あの…数馬、ごめん」
  ただ、数馬を呼びつけているのは友之ではない。だから別段友之が謝る必要はないのかもしれない。…けれど、友之はむっとしている数馬に対し、ただ頭を下げる事しか出来なかった。本当言うと、これから夕実の所へ赴こうとしている矢先、校門を出てすぐに数馬の姿があったのはとても嬉しかった。数馬がいてくれてぱっと気持ちも明るくなったし、安心もした。それが例え不機嫌な数馬であろうとも。
  けれど数馬が迷惑だというのなら、それは勿論仕方がない。ここまで来てもらって悪いけれど、自分の事は気にせずに帰ってくれとお願いしたい。
「バカじゃないの」
  けれど友之の「ごめん」にそう言った意味が含まれている事を、当然数馬は素早く全て理解していた。
  そうして「バカ」という単語を口の中でもう一度繰り返すと、ちらと校舎の方向を見てから溜息をついた。
「今日のボクは御機嫌ナナメだからね。さすがにクラスにまで行って煩い拡クンの相手は出来ないと思ってここで待ってた。まったく、勘弁して欲しいよ。結局ボクって人がイイからさ、どんなに理不尽な要求だったとしても、こうしてキミのピンチにはサッと駆けつける事を止められないし、キミに謝られるとあっという間に全部許しちゃおうって気になっちゃう。あぁ…そんな自分が情けない。嫌いでもないけど」
「う、うん…?」
「だけどさぁ」
  ぐいと身体を屈めて友之の目の前に己の顔を近づけると、数馬は今はもうわざとらしいとしか言えない怒りの顔を作ってから、大袈裟なくらい呆れたような声を出した。
「何なの一体、キミって人は。隆クンと何話したの?」
「何って事もないよ。あの…持っていた名刺を見られたから。夕実が働いている店で、今日会う約束してるって話しただけ」
「ふうん?」
「そしたら…ここ、あんまり良くないって」
  制服のポケットから既に握りしめ過ぎてぐしゃぐしゃになっている名刺を見せる。数馬は眉をひそめてすぐにそれを受け取ると、隆と全く同じように表と裏をさっと一瞥した。
  そうしてそれを当然のように自分のポケットにしまってしまう。
「あ!」
「ボクが持ってるよ。どうせキミはここの詳しい場所なんて分かんないでしょ」
「でも!」
「あのさ。それで、キミはお姉さんには会いたいの? 会おうと思ってたわけ?」
「え…」
  今日は沢海や橋本からガーガーと「また学校にまで来て」と文句を言われるのが本当に億劫なのだろう。ちらちらと校舎の方を気にしてから、数馬はさっと踵を返すと先に駅へ向かって歩き始めた。
  友之は数馬に取られた名刺を気にしながら慌てて後を追った。
「前は全然駄目だったじゃん。会わなきゃって言ってる割には、お姉さんを前にして全然駄目。固まってどうしようもなかった。……今なら会えるの? 喋れるの?」
「……分からない、けど」
  少なくとも今朝は何とか平気だった。人ごみの多い駅の構内だったからというのもあるし、殆どフェイントみたいな形で面と向かって、それもあっという間に終わったからというのもある。
  それでも友之は夕実と対面出来たし、会話だって交わせた。以前とは違う、そう思いたい。
  それに夕実に会いたいと思う気持ちに偽りはない。
「夕実…ちょっと痩せてて。心配だったし」
  さくさくと歩く数馬の背中を見つめながら友之は言った。
「仕事は午後からみたいだけど、午前中は病院に行くって言ってた。今朝は急いでるみたいであんまり話せなかったけど…。夕実も、話したいって。それで……名刺、くれたし」
「独りで行く気だったの?」
「え」
「お姉さんの所。誰にも言わないで独りで行く気だったの? 光一郎さんにも言わずに?」
「あ…コウには、言わない」
「何で」
  ちらと目だけ振り返り見た数馬に友之は慌てた。光一郎の事を問われて咄嗟に答えたその「解答」に、自分自身で驚いたからというのもある。
「夕実に会うって言ったら……、きっと心配するから」
「止めると思う?」
「え」
「光一郎さん。行くなって止めると思う?」
「あ……止めないと思う、けど」
「けど?」
「もし行くなら…自分もついて行くって…言う、かも」
「止められないならいいじゃん。ついてってもらえばいいじゃん。兄弟でしょ、あんたら」
「でも……」
「あのさあ」
  ぴたりと足を止めて数馬はくるりと再度友之に向き直った。機械的に足を動かしていた友之はそのままの勢いで数馬にぶつかりそうになったが、こんなシーンも一度や二度ではない。さすがに反射的ぴたりと止まり、友之は恐る恐る数馬を見上げた。
「きっと心配するからって、ボクだって心配するよ。多分、キミを好きな人たちはみんな心配するんだよ」
「数馬…?」
「詳しくは知らないよ。だって誰も教えてくれないだろ。トモ君だって教えてくれない。でも、あのお姉さんとキミの間に昔何かあったってのは分かる。きっとキミが“こんな”になっちゃったのに関係してるんだろうって事も、まあ分かるよ。……それを感じてたらさ、少なくともそれを何となく知ってる人だったらさ。こんな話を聞いたら放っておけないでしょ」
「………あの。迷惑」
「黙れバカ」
  ぴしゃりと辛辣な言葉を浴びせ、数馬はぐにゃりと友之の鼻を自分の指で潰した。友之はすぐさま慌ててそれを振り払おうと手を上げたのだが、数馬はそれに触れられる前に自分で指を放し、「フン」と偉そうに鼻を鳴らしてから横を向いた。
  そうしてぶすくれた表情のままぽつりと言う。
「まあ、ね。聞いた相手には納得しかねるけど、当然のようにボクがガードマンとして抜擢された事は良しとしようか。―…けど。何か最近むかつく事多過ぎ」
「え?」
「自分の方でもそうなんだけどね。全部が全部キミのせいじゃないけどね。でも、ボクはまだ怒ってるんだからね。何なの? 何つーか、キミの周りにいる年上群って、妙に腹立つヤツ多過ぎ」
「トシウエグン…?」
「荒城修司とかも」
  突然修司の名前を出した数馬は、自分でその名を出したくせに「あぁっ。思い出したらまた腹立ってきたっ」と1人で勝手にカッカとし、らしくもなくぐしゃりと明るい色の頭髪を掻き混ぜると、「ついてないんだよ」とぼやいてみせた。
「最近。ねえトモ君、ボクもう最近、面白くない事ばっか。それでキミに当たるってのも芸がないというか、大人げないというか。でもまあいいか、ボクまだ大人じゃないし。大体、いつもはこうやってキミの面倒ばっか見てあげてるし。多少当たるのはアリだよね。……でもさ、何かさ、それってあの荒城修司と同じじゃんとか思ったら、それはそれで居た堪れないというか」
「修兄と?」
「でもボクはあそこまで酷くはないつもりだよ」

  大体何なのあの人。この間は真面目にむかついた。

  要は数馬の苛立ちというのは、隆に突然友之の所へ行ってやれと呼びつけられた事だけではなく、先だって友之のアパートで展開された修司との遣り取りも関係しているようなのだが。
  あの時はあれほど冷静で、別段今日の今日まで引きずるような様子には見えなかったというのに、友之は数馬のむかむかとした態度を眺めながら、こういう時の数馬は自分と年が同じに感じられていいな、と思った。
  それに心配だから来てくれたという、その事実も。
「何にやついてんだよ」
  友之の表情に逸早く気づいた数馬が面白くなさそうな顔でそう訊いてきた。
「別に」
  友之は首を振りながら慌ててそう答え、たっと駆け足するとわざと数馬の横に並び、にこりと笑った。
「……ボクが『別に』って解答が嫌いなの知ってるでしょ。本当に嫌な子だね」
「嫌?」
  友之が笑いながら訊くのに数馬はいよいよ鬱陶しそうな視線を向けた。
  わざとらしく溜息もついみせる。
「ああ、嫌いだね。トモ君、むかつく」
「僕は数馬好きだよ」
「お前ね…。ああ、そう! じゃあ、今日はこんな憂鬱なイベントに付き合ってあげるんだからさ、その後はちゃんとお返しに、今度はボクにも付き合ってよね!」
「数馬に?」
「そうだよ。ちゃんと遊んでくれなくちゃ。ボクだって色んな予定潰してきてんだから」
「…うん」
  それは本当の事だろう。友之は神妙に頷いた後、それでも「申し訳ない」という気持ちよりは「ありがとう」の気持ちの方が強くて、やっぱり笑顔のまま数馬を見上げた。
  不思議だった。数馬といると卑屈にならない。数馬といると勇気が湧いてくる。
  それにもう少し自分も頑張れそうな気がしてくる。朝出来なかった事、夕実ともっと真っ直ぐ向き合って話をしようと改めて思った。
  数馬がいてくれて良かったと、友之は心の底から思った。



To be continued…




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