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「喧嘩…?」 数馬の思いがけない話から、友之は一時的にでも現在置かれている不安な状況を忘れる事が出来た。 「喧嘩ってほどの事じゃないけどね。お互いあんまりムキになるタイプでもないし」 数馬は数馬で、それが友之のために意図してのものなのか、単に自分の話がしたかっただけなのか。普段は入れないというシロップを注文したアイスコーヒーに落としこみながら面白くなさそうにその話題を続ける。 「しかもたぶん、さ。今回はボクが一方的にむっとして無視してるだけ。うん、だから、やっぱりこれってきっと喧嘩ではないんだろうな。でもむかつく」 「お兄さんのことを…?」 友之も数馬に促されて同じアイスコーヒーを頼んでみたが、元々そんなに好きではない。全く手をつけず、騒然とするファストフード店の中、数馬と向き合って、ただ数馬だけを見つめる。 2人は駅近くにあるハンバーガーショップに入り、取りとめのない話を既に30分は続けていた。 夕実が働いているという店に行く為、友之は数馬と共に一度も来た事がない街の駅に降り立ったが、その目的―夕実に会う―をすぐに達成させる事は出来なかった。 「北川夕実? そんな奴いないけど」 駅からすぐだと言われたその名刺が指し示していた店は、確かに然程歩く事なく見つける事が出来た。数馬がいてくれたお陰だ。友之はただ数馬の後をついて行くだけで良かった。その駅前通りは煌びやかな繁華街が辺りに開けていて、大型バスが停まれるロータリーやタクシー乗り場を通りぬけると、大型電化店やファストフード店、有名ドーナッツ店、それに携帯ショップなど、様々な店舗が国道を挟んだ両脇に所狭しと並んでいた。 数馬は何度か人に道を尋ねていたものの、割と迷う事なくすいすいと大通りを抜けて、古びた鉄筋ビルの間に幾つか点在している細い裏道を抜けながら目的の店をすぐに見つけてくれた。 そこは世間に疎い友之でさえ、すぐに「回れ右」をしたくなるような不穏な空気に満ちていた。居酒屋やブランドショップという看板が軒を連ねる中、明らかにどぎつい原色のランプを灯している、いかがわしい写真や文字が掲げられている店。その前ではスーツを着て、派手な色合いの髪を長く伸ばした若い男性がちらほらと立ち尽くし、通りゆくサラリーマンや若い女性たちに気さくな感じで声を掛けている。「30分3000円ぽっきり!」という大きな看板を背負った中年の男性は、無精髭をだらしなく伸ばした疲れきった顔でぼんやりとその場に佇む。また、そのすぐ脇ではどぎつい化粧をして女性物の着物を身につけた男性が、酷くドスの利いた声で自分の横にいる人間を頭から怒鳴りつける光景も見られた。 怖い。すぐにそう思って、友之は無意識のうちに数馬のすぐ背後にぴたりと寄り添った。 「お姉さん。水商売のバイトでもしてるのかな」 そんな友之をちらりと眺めた数馬は、遠慮する風もなくずけずけとそう言った後、ようやっと見つけた「クラブプラム」という看板の店の前で呼び込みをしている男性に全く臆する風もなく声をかけた。ここに北川夕実って人が働いていると思うんですけど、と。 けれど、その数馬と背後にいる友之へジロジロとした不躾な視線を投げつけた男は、酷く胡散臭そうな顔をした後、あっさりと言ってのけたのだ。「そんな奴いないけど」と。 「留守電には入れたんでしょ」 ちろちろと外の様子を気にする友之に数馬が言った。友之がすぐに頷くと、「それならここで待ってるしかないよ」と言って、再び口にしていたアイスコーヒーに手を伸ばす。 友之は何ともなしにそれに頷いてから、はっと小さく息を吐いた。渡された名刺にあった夕実の携帯番号は、掛けたけれどすぐに留守電に切り替わってしまって夕実と話す事は出来なかった。だから仕方なく駅前のこの店にいるからと短く伝言だけを残したのだ。機械に向かって声を出すのは照れくさいし、妙に焦る。小さな声で言ってしまったし、きちんと夕実に届くだろうか。それが無性に気になった。 それに、夕実が働いているはずの店の人間に、「そんな奴いない」と言われた事も。 「キミが色々考えても無駄なだけだよ」 数馬は素っ気無く言ってから、再びコーヒーを口にする。最初にハンバーガーでも食べる?それともファミレス?と誘ったのは数馬だ。特に食欲のなかった友之は近くに目に入ったこの店に入ると即決した。ここなら駅前からすぐだし、よく目につく場所だ。夕実もすぐに分かるだろうと思った。 「変な姉弟だね。仲がいいのか悪いのか分かんない」 そわそわとする友之に数馬は率先して口を開き、それから自分の所の話をし始めた。 このところのボクの不機嫌な理由を聞きたい?と切り出して。 「トモ君ちに行った時の荒城修司にもかなりむかついたけどさぁ。でも、通常モードだったらボクももっと違った態度が取れたかもしれないんだよなあと思うと、やっぱり元はあいつのせいだなって結論に行き着くわけだよ」 友之が不思議そうな顔をしているのを上から見下ろすように眺めてから数馬は続けた。 「元々あの人って事なかれ主義って言うかさ。努めて争いが起きないように、厄介事を回避するようにって、無難な動きしかしないんだけど。だから自己主張もめったにしないしね。でもそういうのを続ける事で、周りがいい加減イライラくるって事も覚えて欲しいよ。…周りって言っても、ボクしかいないんだけどさ、あの人が嫌いで冷たくする奴って」 「お兄さん…?」 “君んとこと違ってね。この間、兄貴と喧嘩したんだ” 唐突にそんな話を始めた数馬に、友之はとても意外な気持ちがした。数馬は家族の事を滅多に話さない。友之も夕実の事を話さないからお互い様だけれど、少なくとも「北川家」のような妙な確執はないと、数馬自身、バカにするように言っていた事はある。ただ、家族はあまり好きじゃない、家自体は金持ちだから生活に不自由がないしその点は親にも感謝していてありがたいと思っているけれど、でも「それだけだから」と。 数馬が話したくないのなら、友之も特にせがんでまで訊こうとは思わない。 その考えを貫いていたから、今日、この時に数馬が家族の話を持ち出し、あまつさえ「兄貴と喧嘩をした」という話はどうしても友之の興味をそそった。 「お兄さんと口きいてないの?」 「うん。向こうは何か話しかけてくるけど、ボクが無視してるの。それをまた妹の和衛さんが横からギャーギャー言ってくるけど、それも無視。両親は今のところ特に何も言わないかな」 「どうしてむかついたの…?」 「プライドがないから」 面白くなさそうに言ってから数馬は嘲るような笑いを唇に浮かべ、それから虚ろな目をしてふいと視線を横へやった。流されるように友之も窓の外へ目をやったが、相変わらずすっかりと暗くなった通りにギラギラとしたネオンが輝く以外、これといった変化は見られない。夕実がこちらに来る姿も見えない。 「プライドって…」 だから友之は再度数馬を見てその会話を続けた。数馬はもう校舎で会った時のようにぶすくれたような様子はなかったけれど、やはり元気がないように見えた。夕実の事で数馬の方に気を向ける余裕がなかったから今の今まで気づけなかったわけだが、いつも助けてくれる数馬の不調を素通りする自分では嫌だった。 「普通さ、自分の婚約者が『貴方の弟さんの方が良くなりました』とか言ったら頭にこない?」 「え?」 意味が分からず友之がすぐに聞き返すと、数馬はちっと乱暴に舌を打った。友之に向けてではなく、その時の事を思い出したから出たようだ。 「うちの家ってさ、爺さんが会社大きくしたせいでお金持ちなの。それって前言った事あるよね、きっと。で、今は父親がその会社をもっと大きくしてるわけだけど、そこの跡継ぎは長男の兄貴なの。ボクは次男だからお役御免。っていうか、そんな跡継ぎとか冗談じゃないし」 「そうなの…?」 けれど数馬ほど優秀だったら、きっとそんな大役を「押し付けられ」てもきっとうまくやれる。更に更に大きな会社を作る事だって出来そうだ。友之は単純に大人になった数馬が大勢を従えて立派に会社経営をしている姿を思い浮かべて「似合うな」と思った。 「そこ。気色悪い想像しないの」 それを数馬はすかさず見抜いて責めるような言葉を吐くと、「とにかくね」と先を続けた。 「誰が何を言おうが、ボクは嫌なの。兄貴がやればいいんだよ、そんなもん。和衛さんがやったっていいんだ、本人凄くやりたそうだから。…で、ね。まあそういうデカイ会社だとさ、他の関連企業とか、政財界のお偉いさんだ何だ、海外とのパイプ持ちだ何だ、そりゃあ色んなところとの付き合いがあるわけだよ。だから、トモ君みたいな一般庶民にはさ、想像もつかないだろうけど、政略結婚だってあるんだよね、フツーに」 「政略結婚」 「そう。親同士が勝手に決めて、自分の子どもたちを結婚させる」 「そんなの…本人が嫌だって言ったら?」 「そんなの通用しないよ。個人の意思よりお金儲けの方が大事なんだからさ。…っていう言い方をしたらきっと怒られるだろうけど、でも事実だよ。子どもより会社が大事だからそういう事するんだろうし」 「そんなの」 「そう。“そんなの”なんだよ。くだらないよ。でも、別に嫌がらない子どもだっているんだよ、世の中にはさ。たとえば、うちの兄貴」 数馬はストローを指で摘んでちょいちょいと意味もなく宙に浮かしてから、再びそれをカップに沈めてはっと溜息をついた。 「誰と結婚しようが、どうでもいいんだって。それで会社がうまくいくなら、誰とでも結婚するんだって。ね、意思がないんだよ、人形みたいな人なんだよ。まあ、相手の女の人もそんな感じだったんだよ、最初は。で、さ。じゃあ似た者同士で結婚して、それでめでたしだねって思ったのにさ」 「あ……」 鈍い友之でもようやく話の糸が繋がって声をあげた。 数馬が先刻発した、「自分の婚約者が弟の方を良くなったとか言ったら―」という台詞を思い出す。 「それ……」 「参るよねえ、まったく」 数馬は眉をひそめ、端麗なその顔をさっと曇らせた。それは珍しく本当に「参った」ような数馬で、対面する友之を微か狼狽させた。 実際、数馬が本当に困る事態になどなるわけはない。本心で「参った」としても、結局はどうにか出来てしまうのだろうし、今回の事とてきっと数馬は何とかするのだろう。 けれどそういう事とは別の次元で、数馬がどこか憔悴しているように友之には見えたのだ。 「相手…どんなひと?」 沈黙が嫌で友之は何気なく訊いてみた。数馬はつまらなそうに「年上」と答えた後、途端むっとしたように唇を尖らせた。 「大体、恥ずかしくないのかね? 幾らボクがカッコ良くってイイ男だとしてもさ? ボクまだ高校2年だよ? 相手は女子大の3年って言ってたから22才?くらいかな? もうさ、何それ。年の差をああだこうだ言う気はないけど、少なくとも今のボクの許容範囲で言うと、かなりオーバーだね」 「オーバー?」 「そうだよ。ボク、付き合うなら同じ年のコがいいしさ」 友之をじいっと見つめやってから、数馬は更にニヤリとして告げた。 「そのお姉さん、身長もモデル張りに高かったんだけど。ボクとしてはさ、もっとこう小柄な感じの子がいいし。あんな、裕子さんを思い出しちゃうような長い髪もイヤ。短くってお坊ちゃんみたいな、それでいてくりっとした目のコがいいね」 「……それ、誰のこと」 「キミのこと」 ハハッと軽く笑い、それから数馬はちらりとだけ店内の時計に目をやった。友之も併せてそうする。店内は夕食時のせいかやたらと混雑して騒がしい。 それでも夕実が来る気配はない。 「まあねえ、とにかくねえ。そういうわけだよ。兄貴の婚約者としてうちに来てたはずのそのヒトがサ。社交辞令的にちょっと親切にしてあげた数馬さんの方を気に入っちゃって、ホント、一目惚れだったんだって。モテる男は辛いよねえ? ―…でもさ。それを、そういう事を、フラれたはずの兄貴から言われたくはないよ。“やっぱりお前は凄いからな”とか、さ。もうそれでプチッとね、久々にキレちゃったんだよね。ボクもまだまだ修行が足りないよ」 「………」 「…あれ。何? 何か言ってくれないの?」 不意に黙りこむ友之を意外に思ったのか、数馬がぴたりと動きを止めて冷めた目を向けてきた。 「キミにそんな困った顔とかされても、こっちが困るんだけど」 「……分からないけど」 「何が」 すかさず訊いてくる数馬により躊躇いを覚えながら、それでも友之は思いきって言ってみた。 「数馬が凄いのは本当だし…。お兄さん、数馬が言うように、プライドがないとか……思わ、ない」 「……何で」 数馬の眼が据わっている。ああやっぱり怒らせたとは思ったものの、友之も今さら止められなかった。 「きょ…兄弟が凄いと……凄いってこと、1番分かるの、近くにいるその兄弟だし…。だから、凄いって言うのも当たり前だし…。……でも、だからって、プライドがないわけじゃないよ。悔しいから……わざと、そういう風に言う事だってあるよ」 コウちゃんて凄いよね。何でも出来る。あたしたちじゃ敵わないよ。 だからお父さんもコウちゃんだけが可愛いの。 コウちゃんにだけ期待する。だからあたし達は気楽でいられるのよ。 「本当は…悔しかったかも。婚約者のひと、数馬に、取られて」 「別に盗ってねえし」 ハンと嘲るように鼻で笑い、乱暴に言い放ってから数馬はぎしりとソファ椅子に背中を寄り掛からせた。ふんぞり返ったその格好は如何にも偉そうだったけれど、長い足を組んでそっぽを向く数馬は明らかにいじけている。友之の言いたい事が分かったからこそ、余計に面白くないと思ったのだろう。きっと数馬とてそんな事は友之に指摘されるまでもなく分かっていた。それを改めて突きつけられたものだから、こんな顔をするのだ。 やっぱり今日の数馬は自分と同じ年みたいだ、と友之は嬉しくなった。 「数馬、その人からのプロポーズ…断ったの?」 「あのね、話を飛躍し過ぎ。大体、キミの事好きって言ってるボクがこういう話してさ、普通の顔してプロポーズがどうのこうの言わないでくれる? 今度はキミにキレるよ?」 「数馬、もう怒ってないよ」 「……むかつくなぁ」 依然として嬉しそうにする友之をじろじろと眺めた後、数馬は心底「今日は負けた」とでも言うように両肩を竦めた。 それから気を取り直したように姿勢を整え、前のめりになって友之をさっと指差す。 「そのさ。本当は悔しかった兄弟ってトモ君?」 「え?」 「トモ君も光一郎さんに勝てなくて劣等感とか抱いた事あるの? それで、コウ兄ちゃんが凄いから仕方ないって気持ちでいた事あるの?」 「ないよ」 「……ないか。そりゃそうか」 やっぱりねと嘆息してから、数馬は一瞬沈黙した後、「じゃあさ」と声色を変えた。 「じゃあそれって、お姉さん…夕実さんのこと?」 「……っ」 「本当は光一郎さんに勝てない事が悔しくて、でもそれをそのまま言えないから、口では散々誉め讃えて、でも気持ちはぐるぐるしちゃってるんだ? そりゃあねえ、あんな厭味なお兄さん持ってたら、親の期待だって全部あっち行くだろうし、子どもも屈折しちゃうかもねえ」 「そんなこと…」 「いいんじゃないの? 逆にそれがまっとうな感情なんじゃないの? むしろトモ君みたいに、素直に“コウ兄凄いっ!”なんて思って無条件に尊敬しちゃってる方が、つまりはプライドのない人間って事になるよね?」 「………数馬」 「そんな恨めしい顔したって駄目だよ」 お返しだよと意地悪く笑って見せてから、数馬はやがて「ふうん」と何事か考えるような素振りで何もない天井を仰いだ。 「そうなると、俄然興味湧いてくるけど、キミのお姉さんには。でも、きっと今日はもう来ないだろうね」 「え」 既に空になったコーヒーカップを振ってそう言う数馬に、友之は驚いたような目を向けた。数馬がそう言い切るのなら、きっとそれが正しい。夕実は来ない。けれど。 「イレギュラーがいるから現れないんだよ、きっと。トモ君だって心のどっかでは思ってたんじゃないの? ボクがいたら夕実さんは来られないかもしれないって」 「あ…」 「前の時だってそうだったじゃん。あの人……って、何? 何この音?」 「あ…っ…」 鞄の中でブルブルと震える携帯に数馬だけでなく、友之も驚いた。慌ててそれを取り出してみると、着信を告げる音が無機的に鳴っている。数馬は友之が携帯電話を持っている事自体に驚いたようで、「何それ!?」と素っ頓狂な声をあげていたが、説明をしている暇はなかったので、友之はとりあえず通話ボタンを押してそれを急いで耳に当てた。 『トモ』 電話の相手は光一郎だった。 『今、何処にいるんだ?』 「あ…」 そういえば今日は遅くなるとも何とも言っていない。おまけに、今晩も光一郎と夕飯を作る約束をしていたのに。 すっかり忘れていた。 『もう遅い。誰かと一緒にいるのか? アラキには来てないと言うし…裕子の所も…』 「あの…数馬と…」 『数馬?』 意外な名前を出されたというように光一郎は驚いたような反応を返した。友之がちらと目の前の友人を見やると、数馬は相手が誰だか分かったのだろう、「貸して」と言いながらもう友之から携帯電話を奪い取っていた。 「あ!」 「どうもー、光一郎さん。数馬クンでーす」 「ちょっ…」 軽いノリで挨拶する数馬は、もうすっかり悪戯小僧の顔だ。ニヤニヤとした笑いを浮かべながら、必死に携帯を取り戻そうとする友之を蝿でも払うかのようにぶんぶんと手を振ってかわす。 「今日ちょっと暇だったんで、トモ君をデートに誘ったんです。え、どこって? 近いですよ、オウチから30分圏内だし、大丈夫です。それよりちょっと、どうしてトモ君に携帯持たせた事教えてくれなかったんですか? ボクだって番号知りたいのに! え? 何? トモ君に代われ? え〜、どうしよっかなあ、ははは」 「数馬っ」 何だか、数馬のこの悪ふざけは「現在」の光一郎にはかなり不味いもののような気がする。友之は真剣に焦って腰を浮かし、今度はさっきよりも勢いよく腕を伸ばして携帯を掴もうとした。 「……はぁ? あぁ…、何だ、そうなんですか。え? 分かった、分かりましたよ、別に掛けたりしませんよ! だってボクもうあの人嫌いだしー」 その後も実に軽い会話が何度か交わされ、数馬は光一郎相手にも何やら呑気な笑声まで立てると、最後には和やかな調子で「それじゃあ失礼します!」と言って電話を切ってしまった。 「あっ」 自分も話したかったのに勝手に通話を切った数馬が信じられず、友之は珍しくむっとして唇を尖らせた。 「どうして切ったの」 「だってもう用ないじゃん」 「だって、コウは…」 自分に電話をくれたのに、何故数馬が取って数馬が会話を締めてしまうのか。理不尽なものを感じて今度は友之がぶすくれたような顔をすると、数馬は呆れたような目をしながら投げるように携帯を返してきた。 「本当にねえ、ラブラブ過ぎて嫌になっちゃうよ。キミたち」 「コウ、何だって…?」 「俺の厭味をスルーするな」 腹立つなあと数馬は毒づいてから、しかしすっかり諦めたようになって首を振った。 「早くトモ君帰せってさ。まったく、誰のお陰であんたの弟の見えざる危機を回避出来たと思ってんだか。その上何? この携帯、荒城さんのなんだって? 何であの人、キミに自分の携帯なんか持たせるんだよ」 「持たせたっていうか…家に忘れていったから…」 「じゃあボクも今度キミとの専用携帯、あげちゃおっかな」 冗談なのか本気なのか挑むように言った後、数馬は「出ようか」と言って席を立った。 「お姉さん、来ないよ。留守電にも入れたんだし、約束は守ったからキミを怒る事もないでしょ。何せ独りで来いとは言われてなかったんだしさ。仕方ないよ、また今度会いにくればいい」 「うん…」 「でも、その時もやっぱり独りで来るのはやめておきなね?」 「え」 そのきっぱりとした言葉にどきりとして顔をあげると、数馬は至極真面目な顔をして友之を見ていた。 「今後どんな風に言われてきても、2人っきりで会うのはやめな。これ、俺の凄くよく当たる勘。……ついでに、隆先輩の勘でもある。あの人、野生の動物だから、そういう点では本当に凄いんだよ」 「………」 「あの、お客様」 その時、立ち尽くす数馬の脇から、店のアルバイトだろう、若い高校生風の女性がぺこりと頭を下げ、同じく席を立ったばかりの友之に小さく折りたたんだメモ用紙を差し出した。 「何?」 数馬がそれに素早く反応すると、女性店員はどこか途惑った風に答えた。 「先ほどお店にいらしたお客様から、これをこちらのお客様にお渡しして欲しいと頼まれたんです。あの…こちらのお客様だけがご覧になるようにと仰ってました」 「……ふうん」 「失礼します」 女性店員は数馬の端整な容姿に明らかに惹かれたようで、立ち去る瞬間もちらちらと数馬の方ばかりを見ていた。―が、勿論数馬は気にしない。同じく渡されたメモ用紙に目を落とし、どこか指先を震わせる友之にさっと片手を差し出す。 「見せて、それ」 「あ…」 友之はすぐさまメモを後ろへ隠した。まだ見ていないけれど、明らかに夕実からのメッセージだと分かった。夕実がいた。近くに来ていたのだ。 でも、会いに来てはくれなかった。 きっと怒っているから。 「何隠してんだよ。見せろっての」 数馬がそんな友之に構わず更についと手を差し出す。友之は小さく「駄目」とだけ呟いて、さっと自分が先に店を出て駅に向かって走り出した。 「ちょっと、何なんだよッ!」 腹を立てたように数馬がすいすいと追いかけてくる。申し訳ないとは思ったけれど、友之は振り返れなかった。何故だか猛烈な恐怖が全身を襲い、走っていないと、何も考えずにその場から逃げ出さないと、どうにかなってしまうという衝動に駆られた。 ホームまで一気に駆け抜けて、息が続かなくなって足が自然に止まったらこのメモを開こう。そう思った。 「友之!」 けれど数馬が先に追いついた。がっつりと友之の肩先を掴み、強引に足を止めさせてしまうと、怒ったように声を荒げる。 「きっと見てるぞ、そういう取り乱したところも! 落ち着けこのバカ!」 「……っ」 反射的にキッと数馬を睨んだが、八つ当たりである事は心を乱して入る友之自身容易に分かった。それでも落ち着かなくてどうしていいか分からなくて、けれど絶対にメモは誰にも見せたくなくて。 「夕実が…っ」 意味もなく姉のその名を発した後、友之はぐっと唇を噛んで項垂れた。既に無駄な力でくしゃくしゃになってしまっている紙切れ。数馬ももうそれを寄越せとは言わなかった。 ただ黙って友之の前で立ち尽くし、友之がその紙を開くのを辛抱強く待ってくれた。 「数馬…ごめん…」 「そうやって素直に謝れるうちは、付き合ってやるよ」 友之の謝罪に、数馬はすぐにそう答えた。 「………うん」 勇気が湧いてきて、友之は手にしていたメモ用紙をそっと開いた。ばくばくとする心臓の鼓動はいきなり走ったからではない。夕実を思うといつもこうだ。結局自分は何も成長していないんだと思い知らされる。 ウソツキ! 皺だらけになったメモ用紙には、大きく乱れた字でたったそれだけが書かれていた。 「夕実には会えたのか」 家に帰ると、光一郎からは開口一番そう訊かれた。 食卓の上には光一郎が独りで作ったのだろう完璧な夕食が整然と並べられていた。 「どうして…」 ぼんやりとしたまま機械的に訊ねると、光一郎の方は既に食事を済ませたのだろう、友之の食事のスペースを半分だけ残し、自らはノートパソコンを開いて何やら忙しなくキーボードを叩きながら答えた。 「正人から電話があった。さっきお前に電話した時は事情を知らなかったから、数馬に悪い事したな。妙につっかかっちまったから」 「………」 「隆にも礼言っておかなくちゃな。正人は妙にキレてたけど」 まああいつはお前が夕実と会う事自体を面白く思ってないからなと付け加え、光一郎はここでようやく顔を上げて友之を見やった。ただ、その生気のない「弟」の表情に一瞬は眉をひそめるも、光一郎は至って冷静な調子で続けた。 「飯食えよ。さっき温め直したばかりだから」 「………」 「……夕実には会えたのか」 「……っ」 2回訊ねられて、ようやく友之はかぶりを振った。必死に何度も首を振り、それからじんわりと掌に汗を掻く。またしても動悸がして、立っているのが辛くなる。 光一郎もそんな友之の様子にいよいよ表情を曇らせて、やがて「気にするな」と言った。 「あいつが何してこようが、何を言おうが、もうあまり気にするな。会えなかったんなら、会いたくなくなったって事だろ。あいつの気紛れは今に始まった事じゃないし、お前のせいじゃないんだから。気にするな」 「気にする……」 「トモ」 「独りで行けなかったから」 ふと黙り込む光一郎を縋るように見やり、友之は堰を切ったように喋った。 「会いたいって思ったんだ、朝は。ちゃんと話も出来るって思った。でも……数馬が一緒に行ってくれるって言ったら、嬉しくて…。夕実は嫌かもしれないって分かってたのに、断れなかった」 「…トモ」 「やっぱり会えないんだ。臆病だから。ずるいから」 「ずるくない。何でそんな風に言うんだ」 自分を追い込むような友之の言葉に光一郎がおもむろに立ち上がった。友之ははっとし、後ずさって反射的に首を振った。 今、光一郎に抱きしめて慰めてもらうのは、もっとずるい。 「夕実はいつも独りなのに」 自分だけが光一郎に甘えて、安寧な場所で生きている。 きっと夕実と違ってプライドがないから。 ずるい人間だから。 「夕実に謝りたい」 友之の言葉に光一郎はあからさま怒ったような顔を見せた。 ただ言葉は投げ掛けず、拒絶する友之にも無理に近づこうとはしなかった。 光一郎は怯えたような友之を黙って見つめ、暫くはじっと立ち尽くしたままだった。 だから友之も光一郎の視線を感じながら自らもうろたえた気持ちで俯き、ひたすらその場に佇んでいた。 |
To be continued… |
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