―3―



  中傷メモを机に投げられた翌日は少し頭が痛い程度だったけれど、そのまた次の日も知らない間に机の中に同じ内容のメモが入れられていたから、友之はいよいよ学校に行くのが辛くなった。
  少しどんよりとした曇り空の今日は、カーテンを開いても明るい日差しが差し込んでこない。頭痛だけでなく腹痛まで起こる。制服には着替えられたものの、玄関まで行って靴を履くのが億劫だった。
  光一郎は昨夜も帰ってきていない。
  時間がないから事務所で着替えてそのまま大学へ行くという連絡はあった。ただ、「夕飯は裕子に頼んであるから」という事だったのに、夕刻スーパーの袋を携えてアパートへやって来たのは裕子の母で、彼女は「うちのバカは友達と遊び呆けていて、夕べも帰ってきてないの。トモ君のご飯作りまで放棄するなんて…」と、台所で延々と我が子の悪口を言っていた。
  もう気のせいではない。地元にいる事を、言い換えれば自分たち兄弟を避けるように過ごしている幼馴染の行動を、友之は酷く重たい気持ちで受け留めた。
  けれど「だから」―…と言ったら、きっと裕子は困るだろうけれど、友之にしてみれば、だからこそ、きちんと学校には行きたいと思った。
  きちんとした自分でいて、光一郎にも安心して好きな事をしてもらって。
  誰にも迷惑をかけず、「ちゃんとしているよ」と示したい。それが結果的には裕子をも喜ばす事になる気がした。

  ……それなのに。「誰か」からの悪意は止まらない。

  新しいクラスでは沢海の目もあるせいか、特別あからさまな何かをされるという事はないけれど、その分、単発的に行われるさり気ない攻撃は陰湿でしつこかった。
  最初のメモは授業中に後ろから投げられたもの。
  次は知らない間に机の中に入れられており、文面は1通目と同様。
  そうして、酷い頭痛と腹痛を抑えて登校してきた今日は、下駄箱に納まっていた上履きの中に3通目が放り込まれていた。
「………」
  嫌だなと思ったけれど、友之は小さく折りたたまれたノートの切れ端をそっと広げた。

  “キモイ! ホモは学校に来るな!”

  いつも同じ内容で飽きたのだろうか、3通目は前2通とは違う言い回しになっていたが、殴り書きのような乱雑なそれはやはり悪意に満ちていた。友之は思わず溜息をつき、それをそのまま制服のポケットにしまった。二度と見たくはないメモだけれど、そのまま傍にあるゴミ箱に捨てる事も出来ない。自分に向けられた誰かの暗い感情を受け留める勇気もないが、投げ捨てて知らぬフリをするだけの強気さもまた、友之は持ち合わせていなかったのだ。
「友之、どうした? 顔色悪い」
  教室に入ると沢海が真っ先にそう訊いてきた。
「最近ずっと具合悪そうだし。熱、あるんじゃないのか?」
「…ううん」
  もう少し大きな声で返事をしたかったのに、声が掠れて首を振るので精一杯だった。友之は鞄を机の上に置きながら沢海が酷く心配そうにしている表情を視界の隅に留めて、とても申し訳ない気持ちに襲われた。
  迷惑を掛けたくないと思っているのに、これだけで既に十分手間をかけている。
「北川クン、風邪なんじゃない。保健室に行く?」
「うちらが連れてってあげようか?」
  その時、背後にいてお喋りをしていた女子2名が、にこにこしながらそう友之に声をかけてきた。びくりとして振り返ると、2人は相変わらずの笑顔で友之を見上げ、「具合悪いのに授業受けても仕方ないじゃん?」と探るような目を向けてきた。
「あ…」
  「いいよ」と、「ありがとう、大丈夫」と言おうと思ったのに、声が出なくて友之は立ったままその場で固まった。2人の女子生徒の目はくるくるとしたとても大きなもので、綺麗に巻いた髪の毛は赤茶けて派手な色をしている。比較的校則の緩い友之たちの学校では、朝からばっちりメイクを決めて登校してくる女子が大半だけれど、この2人はそれに輪をかけて更に煌びやかな感じがした。
  それでも、2人の存在を見知ったのは今日が初めてで、当然名前も知らない。
  向こうは友之の名を知っているのに。
「友之、保健室行くか?」
  沢海はもう立ち上がっていた。もし友之が頷くのなら自分が連れて行くつもりなのだろう。
「あははは!」
  すると友之の後ろの席に座るその2人は予測していたような笑顔を閃かせると、キャラキャラと騒がしい笑声を立てて「出たよ出た!」とからかうように声を大きくした。
「まったくもー、沢海クンってさぁ、本当スゴイねぇ! マジウケルー!」
「お兄ちゃんだね! はは、あっち系のオニイチャン?」
「何だよ、あっち系って」
  沢海は露骨に不快な顔をして声を低くしたけれど、彼女たちは挑むような目を向けながらバンバンと机を叩いた。
「あんまり過保護にしてると、チビちゃん、ちゃんと育たないよ?」
「それがいいんだよね? こういうのが好みなんでしょ?」
「お前らいい加減に―」
  けれど沢海が本格的にむっとした声をあげようとしたその時、更に背後から「お前ら、うざいんだよ」と荒っぽい声が上がった。
  友之が視界をそろりとそちらに移すと、笑っていた女子2名の更に後ろの席に座っていた女子生徒が、剣呑な目をしてこちらを見ていた。
  ただし、その暴言は先の女子2名に向けられたもののようだ。
「煩いし、何その顔。ブサイク過ぎる奴が口開いてんじゃねえよ」
「はぁ? 何それ。喧嘩売ってんの?」
  1人があからさまに表情を変え、物騒な声になってダンッと足で後ろの机を蹴った。もう1人も薄ら笑いを浮かべながら、「どっちがブサイクだよ」とバカにしたような顔になる。
「煩いものは煩い。前から最悪だと思ってた、あんた達」
  それでも声を出した女子生徒はまるで怯まなかった。2人とは違い、黒い髪を短く切りそろえた小さな頭。黒縁眼鏡を掛け、そばかすが鼻の周りに散っている一見地味な風貌だけれど、細身の割に意思の頑強そうな雰囲気を漂わせている。
「保健室になら、あたしが連れて行くから。沢海はこいつらを黙らせておいてよ」
「え?」
  さっと立ち上がって友之の腕を取った彼女は、そう言ったきりもう沢海を含めた女子生徒2名の事も見ていなかった。殆ど呆気に取られていた沢海は「ああ…」と後から答えたものの、残りの2名は友之たちが教室を出るまで散々ぎゃあぎゃあと騒いでいた。なるほど、確かにこんな状況なら、沢海が教室に残って周囲の状況を抑えた方が有効かもしれない。
「……あの」
  それでも、友之の方としては訳が分からない。彼女の事も、先の2名同様まるで知らない人だし、そもそも保健室になど行く気はないのだ。
「あんたさ、もう学校来るのやめれば」
  すると友之を引っ張るようにして歩いていた彼女が、長い廊下を通過して階段まで来た所でそう言った。そうして、「自分こそあんたなんか捕まえていたくなかった」というような迷惑そうな顔をして、掴んでいた腕を盛大に解き放つ。
「何の為に来てんの? つまんないでしょ、ずっと下向いてばっかりでさ。あんな事されても全然反応ないし。今も言われっ放し。それとも何? やっぱり噂通り、沢海に守られるのが快感で、だからわざとそんなキャラなわけ?」
「……違う」
  意地の悪い感じがして、友之はさっと眉をひそめた。「あんな事」と言われた事にも反応していた。当然と言えば当然だけれど、後ろの席に座っていた彼女はメモの存在を知っているのだ。
  或いは、彼女自身がメモを投げた犯人かもしれない。
  友之が黙って彼女を見つめていると、友之よりもほんの少し背の高いその女子生徒はあからさまに眉を吊り上げて攻撃的な目を向けた。
「イライラする、あんたみたいな男」
  容赦なくきつい言葉が投げられる。
「っていうか、あんたって全然“男”って感じしないし。いっつも沢海に何でもしてもらって、ホント恥ずかしくないの? 死んだ方がいいんじゃない?」
「……っ」
「ホモって噂も本当なんでしょ?」
「…関係、ない」
「……はっ。否定しないんだ?」
  ばっかみたい、と呟くように言って、女子生徒は友之の胸にどんと鞄を押し付けた。いつの間に一緒に持ってきていたのかまるで気づかなかったけれど、それは友之の学校鞄だった。
「帰んなよ。今日はもう教室だってあいつら中心に騒いでるだろうし。沢海が鎮めるだろうけど…、今日は帰りな。『キタガワクンは気持ち悪くなったから帰ったよ』って言っておくし」
「………」
「それとも白石にチクる? あのおばさん、変に何でも見抜いてくるからむかつくんだよね。あんたみたいなのを助けるのが趣味みたいだし」
  白石は保健室の養護教諭で、友之も何度か世話になった事がある。基本的には授業をサボって眠りに来る学生も無碍に追い返したりしないし、サバサバとしつつどんな小さな悩みもよく聞いてくれる事から、多くの生徒たちから慕われている。
「あれもあたしの敵だわ」
  けれど彼女は吐き捨てるようにそう言うと、ふいと背後を見やった。廊下の通りには誰もいない。沢海が来ると思ったけれど、予想以上に新しいクラスは厄介なのかもしれない。
「あのクラスのギャルも嫌いだし、あんたも嫌い。敵ばっかりよ」
「敵…」
「そう」
  やっと友之が声を出した事に女子生徒は反応を返して目を剥いた。それからくるりと踵を返すと、そのまま元来た道を戻っていく。背中を向けられた際にひらりと舞ったスカートは、イマドキの女子高生が履いているものにしてはやや長い物だった。元来が真面目で、煩い雰囲気の新しいクラスに頭にきているのかもしれないし、そんな事とは抜きに少々キツイ性格なのかもしれない。
「………」
  どうしてそんな言い方をするのか、とは訊けなかった。自分が他人をイライラさせる才能がある事を、友之は彼女に強く言われる事でようやっと思い出した。





  先日行ったばかりなのにまた『アラキ』に行ったら、マスターにいよいよ怪しまれる。
  それが分かっていたから、友之は仕方なく真っ直ぐ家に帰る事にした。本当は部屋にいたくなかったし、どこでも良いから商店街をうろつこうかとも思ったけれど、制服でこんな時間に駅前をウロウロしたら周囲からどんな目で見られるのかと考えるとそれも憂鬱で、家に帰るしか道はなかった。
「……あ!」
  ただ、こういう時に絶対に来てくれるのが修司だ。彼は超能力者のように友之が落ち込んでいる時には必ず現れ、魔法のようにあっという間に友之を元気にしてくれる。アパートに帰りついた時、ドアの前に座りこんでいるその「兄」の姿を認めた友之は、喜びのあまりらしくもなく大声を上げそうになってしまった。
「よう、トモ」
「……?」
  けれど何故だか友之は一瞬躊躇して、駆け寄ろうとしていた足をぴたりと止めた。ドアに寄りかかるようにしていた修司はいつもの柔らかい笑みは向けてくれたものの、どこか覇気もなく疲れきっているように見えたし、何よりいつもと「感じ」が違った。
「あの…」
「どうしたトモ? こんな時間にさ、まだガッコーじゃないの?」
  それなら修司の方こそ不思議だった。誰もいないと分かっているのなら、何故こんな時間から北川兄弟の部屋を訪ねてきたのか。いつもフラリと現れては、2人がいない時にこうしてドアの前に居座られて、「隣人が不審な顔をするから、ちゃんと連絡してから来い」とは、よく光一郎からも叱られている。だから修司は分かった分かったと言いながら、せいぜい友之が学校から戻る午後過ぎを見計らって、こういうスタイルを取る事が大半だった。
  けれど傍にはいつもの旅用バッグもある。帰ってきてすぐに来たのだろうなと思った。
「修兄…帰ってきたの」
「うん」
  立ち尽くしたままこちらに来ようとしない友之にすうと目を細めながら、それでも修司はいつもの綺麗過ぎる笑みで頷いた。立てた膝に気だるそうに両腕を置いた格好で、修司自身もすぐに立ち上がろうとはしない。いつもなら、「トモ、久しぶり!」とか、「トモに会いたくて死にそうだった!」とか、大袈裟過ぎるほどのアクションを取って友之を嬉しく翻弄してくれるのに。
  ただ、すぐに会えた喜びを表現出来なかった友之とて、修司にしてみれば「いつもと違う」というところではあるだろう。
「腹減ったな」
  修司がふいと思い出したようにそう言った。
「あ…」
  友之はそこではっとし、ようやく金縛りから解けたようになって修司の前にまで足を進めた。慌てたように鞄から鍵を取り出し、「今開けるから」と暗にそこからどいてと示す。
「トモが飯作ってくれんの。コウ兄ちゃんは?」
  修司が訊いた。修司はいつだって、最初に光一郎の所在を訊く。
「コウは…全然帰ってこないんだ。アルバイトが忙しくて」
「全然? いつから?」
  のろりとようやく背中を浮かして修司が立ち上がった。ただ、鈍い動作ながら友之の発言には驚いたようで、先を促すように「いつから帰ってないの」と立て続けに訊いてくる。
「えっと…3日前から」
  鍵を外してドアを開けながら友之は答えた。そうして、1日目は正人が弁当を持ってきてくれた事、2日目は家にある物で済ますように言われたけれど、食欲がなくて何も食べなかった事、昨日は裕子の母親が豪華過ぎる食事を振る舞ってくれた事を告げた。
「ふうん。3日も家を空けるなんて初めてだな」
  2日までならまだあったよなと呟くように言った修司に、友之は台所で湯を沸かしながら頷いた。
「ゼミの合宿とかであった気がする」
「ああ、そうだ。あの時は大変だったなぁ、正人君が来たり、裕子が飯作るって言って物買い過ぎたり。他にも誰か色々来てただろ」
「うん」
  修司は相変わらず薄汚れたジーンズに薄手の白い長袖Tシャツを着たラフな格好をしていた。外にいた時に羽織っていたジャケットはその辺に投げ捨てたのか、台所にいる友之の位置からは見つけられない。
  それでもそっと窺い見る修司はやっぱり格好良かった。気だるそうな感じではあるけれど横顔は相変わらず精悍で、最後に別れた日よりも髪は短く、色は以前より漆黒に近くなっていた。ナチュラルブラックではなく、染めた黒、という感じではあったけれど。
「修兄、カップラーメンでもいい?」
「うん。何でもいい」
  修司はすぐに答えてから、ずるりとまた壁に寄りかかってベランダの方を向いてしまった。どこか悪いのだろうか、少しだけ心配になって傍に駆け寄ると、修司はすぐにそんな友之の方を見て笑った。
「ちょう久しぶり」
「うん。あの、修兄…どこか具合悪いの」
「トモでしょ? 具合悪いのは」
「え?」
  傍に正座するようにして座り込んだ友之に、修司は微かに肩を揺らして笑った。
「だってこんな時間に帰ってくるし。平日なのに店行って親父とだべってたって言うし。何かなきゃ、そんなんならないでしょ」
「あ…」
「電話したら、鬼のような野太い声で『すぐ帰れ!』ってさ」
「マスター…?」
「まぁ。裕子からも変なメール来てたし。そろそろ帰ろうとは思ってたけど、帰りをあんな風に強制されたのは初めてだったな。やっぱトモって凄いわ」
「メール?」
  不審な顔をすると修司は「うん」と言って少しメッキの剥げた汚い携帯を取り出した。友之が「持っていたの」と驚いた顔をすると、「持ってたじゃん」と自分こそが不思議そうな顔をして返した。
「もっとも、持ったり捨てたりの繰り返しだからなぁ。トモは今の番号とか知らないっけ?」
「知らない…」
「まあいいよ、知らなくて。これも近々捨てるし」
「コウも…」
「ん?」
「知ってるの? 修兄の、電話番号」
「ううん。教えてない」
  きっぱりと言ってから、修司はまた意味もなく笑みを浮かべて、あっという間にその携帯をジーンズの尻ポケットにしまってしまった。それでも友之は暫くそこから目が離せなかったのだけれど、修司がもう携帯の話はしたくないという雰囲気を漂わせていたので、仕方なく口を開くのは止めた。
  折角帰ってきてくれた修司を怒らせたくはなかった。ましてや、修司は自分の為に帰ってきてくれたのだから。
「あの…マスター、心配してた?」
「誰の? トモの? うん、トモの心配ならしてた。トモの様子が変だったから早く帰れって。久しぶりに声聞かせてやった息子の所在については一言もなし」
「マスター…修兄のこと、心配してた」
「フリだよフリ。トモにはいい顔してたいんだ、あのオッサン」
  バカにしたようにそう言う修司にドキリとしたものの、友之は焦った風に言葉を継いだ。
「今度は何処へ行ってたの?」
  シュンシュンとヤカンが音を吹き出し始めたので、ちらりと後ろを振り返る。カップラーメンは棚の一番下の所にまだ何個か残っているはずだった。あれも出さなければ、お茶も用意しようと、頭の片隅で段取りを考える。
  けれど修司の旅の話と、それにカメラの事は気になった。
  いつものボストンバッグがどうにもいやにへこんでいるような気がして。
「今回は1枚も撮ってないの」
「え?」
  友之の視線に気づいたのだろう、修司が先取りしてそう答えた。ぺしゃんこのバッグを引き寄せて小さなポケットから潰れた煙草の箱とマッチだけを取り出し、かったるそうに1本を取り出して口に咥える。
  友之はその姿をまじまじと見やりながら、急に不安な気持ちになって心臓の鼓動を高めた。
  確信はないけれど、修司が怒っているような気がしたのだ。
「何かねえ、撮る気になれなくて。場所変えようかなと思ってたところに帰還命令でしょう? まあトモの事だから戻ってきちまったけど…相変わらず、汚い町だよな」
「汚い…?」
「うん。空気が汚くて吐き気がする。好きじゃないの、俺は。元から。ここがさ」
  器用にマッチで火をつけて、修司は苦々しい顔で煙草を吸った。別段美味しそうには見えず、友之はますます心配になって「煙草…」と呟いた。
「ん?」
「身体に悪いよ…?」
「…えぇ? 何で急にそんな事言うの」
  修司がそう訊くのも最もだ。友之は今まで修司が煙草を吸う事に関していちいち煩く口出しをした事などない。裕子やマスターはいい加減にしろとかヤニ臭いとか色々言っていたように思うけれど、友之は修司が煙草をふかすところを見るのはいつも全く気にならなかったし、むしろ長居をしてくれる証拠のような気がして、嬉しいくらいだった。
  勿論、煙草の害については学校でも習った記憶があるし、常識としてあまり良い物ではないだろうくらいの知識はあったけれど。だから、裕子たちが言う事ももっともだとは思っていたけれど…それでも、修司がそれでいいのなら別に良いと思っていたのだ。
  今だってその気持ちに変わりはない。光一郎だって、イライラした日には時々こっそり吸っているのを知っている。
「何で急にそんな事言ったの」
  友之が答えないので修司がまた訊いてきた。友之はハッと我に返り、困ったように視線をあちこちに動かした。やっぱり修司は怒っているし、今の自分の発言でますます気分を害してしまったと思うと、どうして良いか分からなかった。
  ヤカンがそろそろ沸騰を告げる時間だ。立ち上がって火を止めて。今のはなかった事に出来ないだろうか。
  けれど友之が後ろを気にしたようになって腰を浮かしかけたところで、修司の長い腕がにゅっと伸びてきた。
「あ」
  それはまんまと友之の手首を掴み、友之にじんとした鈍い痛みを与えた。
  偶然にも、そこは朝方名前も知らない黒髪の女子生徒から強引に引っ張られた箇所と同じだった。
「修兄…」
「どうしたの、トモ。何でそんな怯えた目、してんの」
「修兄が…」
「俺、怖い? …確かに俺もあからさまだったけど。でも、やっぱりトモが凄いんだな。お前は俺の変化をすぐに見抜く」
「え…」
「だから、俺の方がよっぽど怖いんだよ。お前のこと」
  修司は言ってから煙草を空いている方の手で取ると、もう一方の手は友之を捕まえたまま、暗い眼をして強い口調で言った。
「お前の事が心配で帰ってきたのは本当だけどね。うん、俺を動かせるのはいつだってトモ、お前と、お前のバカな兄貴だけだけど? けどさ……、トモさ、何でこんな時間に帰ってくんの。何でいつもそうタイミング悪いの? まだ俺は大丈夫じゃなかったのに。お前と会える状態じゃなかったのに、何でこんな早くに俺の目の前に現れる?  結局お前ってそうなんだよな、いつも俺に不意打ち喰らわせて、いつでも俺を…むかつかせてくれる」
「修…修兄、ど…どう、ど、…どうした、の…」
  舌がもつれた。
  修司がおかしい。それは会ったその瞬間には分かっていた事だけれど、ここまで饒舌に自分を攻め立ててくる修司を友之は知らない。初めてだった。修司を怖いと思った事はあるし、修司のどこか他人を寄せ付けない負の部分がある事もどこかで感じて知ってはいた。
  けれどこんな風に「恐ろしい」と感じた事はない。
  修司の自分を見つめる眼に竦んでしまう。
「痛っ」
  怯えているのが伝わって余計に相手を怒らせてしまう。それが分かっているのに、友之にはどうしようも出来なかった。どうして。きつく手首を捕まれて、友之はただ「何故」という疑問と理不尽な痛みとで気分が悪くなった。折角修司に会えたのに、いつものあの優しい言葉がない。笑顔はあったけれど、それは修司お得意のニセモノのそれで、普段痛いほどに感じられる愛情はどこにも見当たらない。修司を怒らせた。そう、修司を怒らせたからいけないのだ。どうしてかは分からないけれど、苛立たせた。
「あ…」
  否、「分からない」なんて事はない。そう、そうだった。自分は常に「そんな存在」で、いつでも誰かを煩わせる存在で。
  「誰かの迷惑になりたくない」なんて願望は、とんでもなく高慢だった。

  “いるだけで迷惑な人がさぁ、「おとなしくしてるから」とか、「気をつけるから」なんて言ってきてもね。それ自体がもう迷惑なのよ。”

  昔、夕実が言っていた台詞の中にそんなものがあった。あれは違う方を向いている時にぶつぶつと呟いていたものだから、「自分に向けてではない」と友之もさして気にはしていなかったけれど。
  でも、本当はいつでもウジウジとして煩わしかった「駄目な弟」に向けて言っていたに違いない。

  “イライラする、あんたみたいな男。”
  “ 死んだ方がいいんじゃない。”

  女子生徒が嫌なものでも見たという風に友之に向けて発した場面は、あの日のものと酷く似ている。
  結局自分は何も変わっていないのだ。
「トモ」
  修司が呼んでぐいと引き寄せてきた事で、友之はがくりと体勢を崩した。瞬間、「ひっ」と悲鳴のような声が漏れたが、修司はそれに何の反応も示さず、友之を投げつけるようにしてその場に転がした。
  そうして仰向けにさせた状態で友之の両手を己のそれでカーペットの上に強く縫いつける。
「なあトモ」
「しゅ…修兄…」
「怖いだろ、俺のこと」
「こ、こ、怖、怖、く…」
  ない、と言おうとしたけれど唇が震えて声が出なかった。修司は友之の上に圧し掛かった状態のまま、そんな友之の怯える姿を黙って見つめた後、「怖いだろ」と酷く冷めた声で再度訊いた。
「いつもと違うだろ、トモ」
  修司が言った。
「いつもの優しい修兄ちゃんはいないよ。だったら怖いって言えばいい。怖くて怖くて堪らないって言えよ。こんな修兄ちゃんじゃ嫌いだって言ってみな。そうしたら……そう、うん。そしたら、少しは手加減してやるよ。お前は光一郎の可愛い弟で………可愛い恋人、だから」
「コ、コウ、兄……?」
「……あいつの名前なんか呼んだら、余計にキレるぜ」
「……っ」
  旅に出る前の修司は、いつも大体は友之に会いに来て、「充電してくる」とか、「ちょっと息抜き」とか言って姿を消して、戻ってきた時にはまたいつもの優しい笑顔で友之を全力で愛してくれた。「トモが大好き」と言ってくれて、友之の悩みや鬱屈を何でも受け入れて黙って傍にいてくれたり、時には抱きしめてもくれた。光一郎との関わりが薄かった時は、それこそそんな修司の存在が友之にとってはとても大きかったし、本当の兄のような気すらしていたのだ。
  けれど、修司が突然姿を消す時は大抵何か我慢出来ない事や、見られたくない自分が頭をもたげているからという事を友之も知っていて、だからこそ、修司がいなくなるのは寂しいけれど、引き止めてはいけないのだと言う事も分かっていた。
  まだ帰れる段階ではなかったのに、急に呼び戻されたから。
  結局自分のせいなんだなと思った。
「ご、ご…ごめん…ごめんなさい…」
  だから友之は素直に謝った。修司の邪魔をしてしまった自分が許せなかったから。
  修司のことは恐ろしかったけれど、大好きで大切な人だから、修司に嫌われたくはなかった。修司に愛想を尽かされてしまったら、それこそ生きていけないと思った。



To be continued…




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