―21―



  友之は自分自身を可愛いと思った事はない。それどころか陰氣で鼻につく嫌な顔、周りの人間をイライラさせるオーラを全身に纏っている、「近づきたくない奴」だと思っている。
  他人の容姿には関心がないし、美醜に対する感覚自体鈍い方だけれど、こと自分の事となると友之はこれでもかという程の低評価で自分自身を見てしまう。おまけに1番身近に寄り添っていたはずの家族でさえ、「そんな事ないよ」と否定してくれる者がいなかった。父親は基本的に友之に無関心だし、母親は夕実の世話で手一杯。長兄の光一郎も当時は己を守る事に全力を傾けていたし、それは夕実も同じ事だ。
  そしてその夕実に縛られていた友之には、友と呼べる者が1人もいなかった。せいぜい一緒に遊んだのは幼馴染の裕子だが、彼女も夕実がいた頃は今ほど友之を構いまくったりしなかった。

「トモはすっごく可愛い。食べちゃいたいくらい」

  だから友之という人間の価値を、確かにそこに必要なのだと大袈裟過ぎるほどに誇張し、認めてくれた者は修司だけだ。
  気紛れだし、いつもどこか冗談めいていて、心底から友之を想って言っていたわけではないかもしれない。それでも、友之が落ち込んでいる時に変わらぬ笑顔で「トモに会いたかった」、「トモといると安心するな」と、欲しい言葉を惜しげもなくくれたのは修司なのだ。―…だからあの頃の友之が光一郎ではなく、修司に真っ先に心を開き、修司にだけはきちんと口を開いて話をしていたのは当然の事と言える。友之がとことんまで自分を大嫌いになって己を見捨てる事をしなかったのは、修司の甘過ぎるほどに甘い囁きがあったお陰だ。

「わーお。こりゃ酷い顔だな」

  そんな修司が今朝方、顔を合わせた直後に言った台詞がそれだった。
  「デートしよう」、そう言って一方的に今日の約束を取り付けていた修司は、約束の時間に5分ほど遅れてしまった友之を見ると、開口一番そう言って笑った。
  その笑顔は人によっては意地の悪いものに見えたかもしれない。
  けれど友之は底抜けに明るい修司の表情を見て、少しだけ身体の中の毒が抜けた思いだった。

「折角元がいいんだからさ。トモは自分の顔に無頓着過ぎるんだよ。もっとお肌の手入れにも気を遣って、お洒落とかもすればいいのに。磨けば今よりもっともっと可愛くなるから、そのうちだあれもお前のことを放っておかなくなるよ? ―…まぁ、これ以上それをされると、俺がブルーになっちゃうけどな」
  いつもの軽口を叩きながら修司がその話の続きをしたのは、県立の大きな中央図書館の一角だ。着いた席では横向けに身体を預け、そこにもたれかかるようなだらしない格好で修司は頬杖をついていた。
  友之たちの実家からほど近いここには、幼い頃に友之も何度か来た事がある。もっとも、小学校時代は夕実が「早く家に帰らないと駄目」と言っていたから、せいぜいが夏休みの宿題で課題図書を探すのに足を運んだ程度だったが、本を読む事自体嫌いではないのだ。特に友之は世界の七不思議だの心霊写真集だのの、いわゆる「怖い話」が大好きで、昔は夕実の隙をついては、そういった類の本を図書館でも本屋でもよく探していた。
  だからここにも、本当はもっと頻繁に訪れたいと思っていた。
  光一郎もいつもここにいて帰りが遅いという事を知っていたし。
「土曜日なのに席が空いててラッキーだったな」
  周囲の迷惑にならない程度の声で修司が囁き、ふっといつもの秀麗な笑みを浮かべる。
  友之はちらとそんな「兄」の顔を見ながら黙って頷き、気の乗らないままに再び手元のノートに視線を落とした。
  数日前に約束した修司との「デート」だったが、友之が図書館の自習スペースでこなしているのは数学の問題集だった。今週はあまりに色々な事があり過ぎて殆ど学校の授業を受けられていない。火曜日は橋本が所属する女子バレー部とのいざこざで作った怪我を理由に休んだし、木曜は湧井に連れられて船の見える港で「サボった」から無断欠席。極めつけは具合が悪くなって生徒会室で休んでしまった昨日だ。学校の教師は担任も含めて誰も何も言わないけれど、元々学習に遅れのある友之が授業を1回でも休めば、後で困る事になるのは明白なのだ。…だからというのもあるだろう、光一郎はわざわざ沢海から今週の授業内容を聞き出して、自分で友之用の課題を作り、「これを夕方までに終わらせてこい」と言ったのだった。

「コウ兄ちゃんはとことん俺にむかついてるらしい」

  駅でその事を告げた友之に、修司は思い切り笑って、それでも未だ笑いが収まらないという風な顔をしながら楽しそうにそう言った。
  約束通り友之の為に弁当までこしらえてきたという修司は、「今日は何処へ遊びに行こうか?」と友之に訊きはしたものの、恐らくは自分なりのプランも用意していたはずだった。
  それなのにそれを台無しにしてきた光一郎を怒るでもなく、ただ可笑しくて堪らないという風な顔で、修司は「それなら」と友之を自分たちの地元である図書館へ連れて行ってくれたのだ。
  おまけに修司は友之がてこずる問題にぶつかると、きちんとそれを解く手伝いもしてくれた。
「トモって全然バカじゃないじゃん。いっつもバカだバカだ言って、これだけ出来るんだから何も心配ないよ」
  友之が難問に困ってぴたりと手を止めると、修司は見守っている間こそ用意した本を前にだらりとした姿勢でいるものの、すかさず気づいてフォローの手を入れてくる。それは「教える」というよりは、どちらかといえば殆ど答えを言ってしまっているようなものだったが、友之には「楽」だった。友之にじっくり考えさせ、順序立てて答えを導き出させるような光一郎のいつものやり方とはまるで違っていたが、正直今はとても勉強しようという気持ちになれないし、良くないとは思いつつ、修司のお手軽なヘルプは友之にとって素直にありがたかった。
「修兄は何で分かるの?」
「ん? 何が? これ?」
「うん」
  スラスラと解き明かされていく数学の問題を前に友之が不思議そうな顔で訊ねると、修司はそれこそ、何故そんな事を疑問に思うのか分からないという風に首をかしげた。
「解き方、そこに書いてあるじゃん。それ見て言っただけ」
「見ても分かんないよ…」
「分かってるじゃん。トモは賢いから」
「修兄が殆ど答えを教えてくれるからだよ」
  どうでもいいと思いつつムキになってそう言い返すと、修司はとても面白いものを見たという風に目を見開き、それから途端破顔して、友之の髪の毛を片手でぐしゃりとまさぐった。
「トモってホントに可愛いね」
「可愛くない」
「トモ自身がどう思うかなんて関係ないよ。俺が可愛いと思ってるからそう言っただけ。悪い?」
「別に……」
  でも…、と友之はしかし言い淀み、暫し考えこむようにして口を閉じた。
  可愛くなんかない。現に今だって修司が親切でやってくれる事を楽だからいいとか、でもやっぱり良くないのにと思いながら、殆ど八つ当たりの体でむくれた態度を取っている。こんな自分は本当に最低だ。折角修司が誘ってくれたのに、ぶすっとした顔でノートを睨み、分からないと修司に教えてもらってそれを当たり前のようにしている。誉めてくれる修司に「違う」と否定だけする。
  けれどだからこそ、そんな自分は「可愛くない」のだ。
  それに、「ウソツキ」だ。
「……っ」
  思わずはぁと小さく溜息をついてしまうと、横から修司が「トモ」と呼んだ。その小さな囁きに逆にどきりとして顔を向けると、修司は再び机に肘をついて頬杖をついたまま、「あのさ」と言った。
「昨日コウ兄ちゃんと喧嘩した理由、後で教えてくれるんだよね?」
「えっ…」
  別に喧嘩したなどとは一言も言っていない。確かに夕実との事で気まずかったけれど、会ってから話した事は光一郎から出された課題の件だけだ。
  どうして修司は何もかも分かったような顔をしてそんな事を言うのだろう。
「別に喧嘩してないよ」
「コウ兄ちゃんもそう言ってた」
「え…」
  友之が驚いて声をあげると、修司は少しだけ体勢を起こしてから肩を竦めてみせた。
「朝、駅でトモを待ってる間に電話したの。そしたらすっげー不機嫌な声でさぁ、あの人最近本当に情緒不安定な? それでも今日はそれに輪をかけてあんまりギスギスした声出すもんだから、『トモと喧嘩したの? もしかして俺がデートに誘ったのがいけなかった?』って気を遣って訊いてあげたわけ。そしたら、『喧嘩なんかしてない、お前の事もどうでもいい』だって。つれないよねえ」
「………」
「でもトモの暗い顔見たら、何もないなんて嘘でしょって思うし。何があったか教えてくれるんだよね?」
「……ううん」
「えっ、何で」
  友之が嫌だと思うとは予想しなかったのだろう、修司は驚いた顔をした後、初めて周囲の存在を忘れて声を張り上げた。席を確保は出来ているが、土曜日は人の入りも多い。館内係の人間が咎めるような顔で近づいてきた事で修司は途端立ち上がり、「ちょっと出よう」と友之の腕を取った。

  所詮、友之は修司に隠し事など出来ない。
  それで結局、昨日の出来事も話さざるを得なくなった。

「嫌になっちゃうね」
  図書館をすぐ出た先―、1階の円形に象られた広い休憩スペースには、各所に休憩用のソファが置いてある。そこの一角に腰を下ろして、修司は壁に背を寄り掛からせた格好で呆れたようにそう言った。
「結局、コウの奴もトモも。あの女の呪縛から逃れられない」
「呪縛?」
「そうだよ。呪いを掛けられてんの。恐ろしい魔法をね」
  だから俺はあの女が嫌いなんだと毒づいた後、修司は上から見下ろすような目線で珍しく友之を責めるような声を出した。
「でもさ、トモ。幾ら俺が夕実に何かしそうだからって、もうちょっと頼ってくれてもいいんじゃない?」
「え…」
「さっきだって、俺に話したくなかったのって、夕実の話だからだろ」
「………」
  友之が一瞬黙り込むと、修司は少しだけバカにするように唇の端を上げた。
「確かに、俺はあいつの話になると不機嫌になるし。トモを困らせてたのは認めるけど……でもさ」
  ふっと一旦息を吐いてから修司は立て続けにまくしたてた。
「だからって、どうしていつもそういう時の助っ人は数馬になっちゃうの?」
「数馬…?」
「そうだよ。最近いつもそう。トモを助ける役目は決まって数馬じゃん。いつも颯爽と現れてトモのピンチを救ってくれる。無敵の高校生…だっけ? 嫌になっちゃうね」
  2度同じ台詞を聞いて、友之は「あれ」と思った。最初にその言葉を聞いた時は、夕実との事でその言葉を放ったのかと思った。いつまでも夕実に惑わされ、振り回される友之と、結果的にそれに引きずられる形を取っている光一郎。その事を「嫌だ」と言っているのかと思ったのに。
  もしかすると修司の指す「嫌」は、数馬の事だったのだろうか。
「前だったらその役目は俺だったね」
  考えこむ友之を前に修司が言った。
「トモが困った時にすかさずやって来ていたのは俺。俺しかいなかったでしょ。トモはとても可愛いけど、周りがそれに気づこうとしない。トモ自身も隠しちゃうしね。光一郎はテメエの事で必死だったし、だから今…ははっ、その負い目で、俺にも数馬にも甘いところがあるけどさ? とにかく、トモに真っ直ぐ手を差し伸べていたのは俺だけだったのに」
  横に座る友之に片手を差し出して、修司はちょいちょいと誘うようにそれを動かした。
  友之が促されるようにその手に少しだけ触れると、修司は魚が網に掛かったとでも言うようにすかさずその手を掴み、ぎゅっと強く握り締めた。
「…っ」
  じんとした痛みが友之の掌から腕へと伝わっていく。途惑って修司を見ると、修司も挑み返すような目をしてニヤリと笑ってきた。
「妬けるね」
  そうして修司はあっさりとそんな事を言うと、「トモはさ」と後を続けた。
「トモは、数馬のこと好き?」
「え……」
「コウ兄ちゃんとどっちが好き?」
「……そんなの」
「待てよ。今のは簡単過ぎる質問だな。じゃあやっぱりストレートにこっちを訊こう。―…トモは俺と数馬と、どっちが好き?」
「……っ」
  そんなのは分からない。
  咄嗟にそう思ったのにすぐにそう言えなくて、友之はびくりとして反射的に身体を仰け反らせようとした。それでも修司に掴まれた手は離されない。逃げ場を失ったようになり、友之は焦った風に修司を改めてまじまじと見つめた。
「どうしてそんな事訊くの」
「普通に知りたいじゃん」
「どうして…」
「どうして? それこそ、どうして?」
  ははと軽く笑ってから、しかし修司はいよいよ瞳を怪しく閃かせてにゅっと友之に顔を近づけてきた。綺麗な瞳に吸い込まれそうになって本能が「怖い」と訴えたけれど、友之は動けなかった。修司に顔を近づけられて目線は咄嗟に逸らしたものの、修司を避ける事も出来ず、背中にじわりと冷たい汗が滲むのを感じた。
  修司は優しいけれど、時々こうなる。
  時々、どうしようもなく怖く見える。
「トモの事が好きだから訊くんだよ」
  修司はいつもと変わらぬ平静とした声色でそう告げた。
「今日デートに誘ったのも、おとなしく退屈な勉強に付き合うのも。夕実の奴を殺してやりたいって思うのも。トモが好きだからでしょう。だからトモと近い存在にいる奴の事は気になるし、ヤキモチも妬く。普通の事だよ。トモは分からない?」
「ゆ、夕実は…っ」
  夕実の名前を出されて友之は思わず顔を上げたが、修司もそれは失敗だと思ったのだろう、すぐに表情を緩めて「ごめん」と謝った後、空いている方の片手で友之の汗に滲む額をさらりと撫でた。
「トモはあのどうしようもない姉貴が好きなんだもんな。物騒な事言ったのは悪い。…でも、じゃあその事は置いておいてさ…最初の質問。数馬との事はどうなの? 好き? 友之はあいつを好き?」
「す…好きだよ…? だって、友達だもん…」
「友達? ……はは、向こうはそう思ってるの?」
「数馬は……」
  友達だなんて思っていないとは、何度も言われている事だ。そして修司と同じように数馬も言ってくれる。友之の事を好きで、だから放っておけないんだ、と。冷たくて意地の悪い言い方もたくさんするけれど、いつだって友之を理解ようとしてくれて、肝心な時は傍にいてくれる。安心な存在だ。
  数馬を修司のように「怖い」と思った事は1度もない。

  それでも。

「数馬がそう思ってなくても……僕には、友達だから」
  それは揺るぎのない1本の柱。友之の中で確固として根付いている絶対のものだ。数馬は友之にとってとても大切な友達で、初めて対等でいたいと願った同年代の男なのだ。
「……そうか」
  友之が発した言葉の後、きゅっと握られていた手はするりと離された。
  けれど友之がそれにほっとした瞬間、すかさずその声は降ってきた。
「じゃあ俺はトモの何?」
「え」
  どくんと心臓が跳ね上がって、友之はその弾かれた衝動のまま修司を見上げた。
  修司はとても静かで優しい顔をしていたけれど、やっぱり早々に逃がしてくれるようには見えなかった。
「俺はトモの友達じゃないでしょう。何? やっぱり“お兄ちゃん”? トモの優しいお兄ちゃん、かな」
「……うん」
  修司が先にその答えを言ったので友之も素直に頷いた。そう言って良いのだろうかという疑問が全くないわけでもなかったのだけれど、そうとしか答えられなかった。
  修司はいつだって友之にとってもう1人の大事な大切な兄だった。
「……修兄は、嫌……?」
  それでも気になって友之は割とすぐに訊いた。もし嫌だと言われたらどうしよう、咄嗟に猛烈な不安に襲われたが、それでも問わずにはおれなかった。
「そう思われるの、嫌…?」
  だから急いでもう一度訊いた。
「ううん」
  けれど修司の方もこれにはすぐに首を振り、それから周囲を通る人の存在など何ほどの事もないという風に、友之をおもむろに抱きしめてそっと答えた。
「全然嫌じゃないよ。俺も昔からそうだったらいいのにって思ってトモと接してた。トモは光一郎の弟でさ、最初は“そういう”興味だけだったけど。あいつへのあてつけの気持ちも半分くらいはあったけど。―あぁ、ごめんな? でもさ、今はもう違うから。今は完全に、本当にトモが可愛いと思っているから傍にいる。それは本当なんだよ?」
「修兄…っ。いた…」
「……だから今はちょっと物足りなくなってきてるだけ」
「修兄っ…」
  圧死するのじゃないかと思うほどきつく抱きしめられて、友之には修司の最後の言葉は聞こえなかった。ただ必死に抗って何とかその抱擁から脱出しようとすると、修司はようやく「ごめんごめん」と言って腕を離してくれた。ぷはあっと大きく息を吐き出して少しだけ恨めしそうに修司を見やると、修司はもうにこにこしていて、しらばっくれた風にふいと横を向いた。
「そんな可愛い顔して睨んでも怖くないよ? 逆に余計襲いたくなるかもな?」
「可愛くないよ」
「可愛いんだって。あのなぁ、トモ。あんまり言うと厭味になるから気をつけろよ? …そういやあ、お前のお兄ちゃんもそういうとこがあんだよなぁ」
「そういうとこって…?」
  未だ両腕が抱きしめられた後でじんじんとしていたが、気になって訊いた。すると修司は辺りを見回しながらどこか懐かしむような顔で答えた。
「俺もお前の兄ちゃんも、昔は家にあんまりいたくなかったからここへよく来たんだ。俺は単にそこらへんの本片っ端から読む方だったんだけど、兄ちゃんはどっちかってーと勉強ばっかしてたな。―でさ、そんなガリ勉兄ちゃんをわざわざ眺めに、近隣の女子高生やら女子大生やらが、そりゃもうこぞってここへ通いに来たわけよ。お前の兄ちゃん、すげーカッコイイもんな?」
  にこりと笑って友之を見るその瞳に、もう友之が先刻思った「怖さ」は存在していなかった。
「けど、あいつは“そういうの”を絶対認めなかったね。それも結構素で答えるから性質が悪ィよ。あいつは本当に自分の価値が分かってない。その点はそっくりだよ、お前ら兄弟は」
  そんなところがまた好きなんだけどなと言って修司は笑った。
  友之はそう言ってどこか嬉しそうな顔をする修司を見て、少しだけ寂しい気持ちがした。
  自分もその頃の2人の様子が見たかったと強く思った。





  夕飯は今日もバイトで不在の光一郎の為に、家で支度して待っていようと修司が提案し、2人はスーパーで買い物をした後は割に早い帰宅をした。結局殆ど半日以上を図書館で過ごし、修司の作ってくれた弁当もそこで食べた。修司は最初こそ数馬との事を訊いたり突然抱きしめてきたりと友之を途惑わせたけれど、後は至って普通の態度だったし、友之もそんな修司と過ごす事で、いつしか内に込めていた鬱屈を紛らわせる事ができた。
  だから本当に驚いた。
  自分たちの部屋を見上げるように、夕実がぼうと立ち尽くしているのを目にした時は。
「………トモちゃん」
  アパートの敷地へ入る直前、最初に夕実の存在に気づいたのは友之だったが、足を止めてすっかり固まってしまったところへ声を掛けてきたのは夕実だった。隣に修司がいた事には露骨に嫌な顔をしてみせたが、大嫌いな喧嘩馴染みは「見えない存在」として扱おうと決めたようだ。つかつかと早歩きで友之の前に近づいてきた夕実は、手にしていた紙袋をさっと突き出すと、やや強張った顔でぼそぼそとはっきりしない声を出した。
「昨日会えなかったね…。だから昨日渡そうと思っていたもの、持ってきたんだ。擦れ違いにならなくて良かった。コウちゃんもいないみたいだし」
「………」
  夕実の前だとどうしてこう喉の奥が突っ張ったようになって何も言えなくなるのだろう。友之にはそれが心底不思議だった。「兄」の修司には何でも話せるのに、これまでの半生を共に過ごしてきた「姉」の夕実には何も言えない。
「それね…。大した物じゃないけど、差し入れ。前みたいに送っても良かったんだけど、最近全然会えてなかったから直接渡したいなって思ってたの。でも昨日…トモちゃん、来てくれなかったし」
「え…」
  初めて掠れながらも声を出せたが、夕実はそんな友之には無反応だった。昨日よりも更に厚くなった化粧にどぎつい色のロングスカートを履いた彼女は、一見してもどこか異様だ。以前は季節にあった明るい色の服を好んで着たり、ファッション雑誌もよく見てとてもお洒落な姉だったのに。
  裕子が「夕実は本当にセンスがいい。絵を描くのも得意だし、デザインの道に進めばいいのに」と言っていた事をふと思い出した。
「トモちゃん」
  現実逃避故か、遠い過去を思い出している友之を前に夕実は淡々として続けた。
「前は約束破るような事絶対なかったのに…、変わったね。トモちゃん、凄く変わっちゃったよ。でも、私にはしてもいいけど、新しく出来たお友達にはそういう事しちゃ駄目だよ? 折角出来たお友達、なくしたくないでしょ?」
「あ…」
  口をぱくぱく開くものの声が出ない。本当はきちんと会いに行ったよ、夕実だってそれを知っていてメモを置いていったじゃないかと言いたいのに…言えない。どうしようと焦れば焦るほど声は失われる。
  けれどこの時は隣に修司がいた。
「消えろ」
  紙袋を友之から奪い去り、そのまま突き返すようにして夕実にそれを押し付けた修司は、友之と接している時とはまるで真逆の、氷のように冷たい声で言い放った。
「お前から捨てたんだろ? もう光一郎にも友之にも近づくな。何かあんなら、テメエの親父に縋れよ。こいつらには何も出来ない」
「……何であんたがいるの」
「いいから、消えろ」
  修司の取り付く島もない態度に夕実はすっかり諦めたように嘆息した。元々友之以外の人間には当たりも弱い。子どもの頃こそ、正人とは激しい言い合いをしていた夕実だが、年を重ねるにつれ、自分の周りには味方がいないどころか、敵ばかりだと感じるようになったせいかもしれない。
  恨みがましい眼の光はそのままにしつつも、夕実はそれをさっと伏せて俯いた。
「正人も酷いけど、あんたが1番。あんたが1番意地悪で、最低で。1番会いたくない人だよ。昔から全然変わってないね」
  ただ、修司の辛口は夕実には慣れっこのようらしい。ふうともう一度憂鬱そうな溜息をついた後、夕実は押し付けられた紙袋を素直に受け取り、ぎゅっと握り直した。
  それから再び友之を見つめ、「今日は帰る」と小さく言う。
「トモちゃん。私を恨んでもいいし、コウちゃんに甘えるのだって好きにしていいよ。でも、嘘だけはつかないで。私、嘘つきは本当に嫌いだから」
「……っ」
「バイバイ。もう来ないよ。もう会わない。私はいない方がいいんでしょ。…この世にだって。その方がいいみたいだし」
「夕実―」
  ぎくりとして振り返ったものの、夕実はだっと走り出してあっという間に敷地の外へ消えていった。咄嗟に追いかけようとして駆け出した友之を、しかし修司がぎゅっと掴んで引きとめた。
「修…っ」
「あいつの手だろ。落ち着け」
「夕実、死んじゃうかも…!」
「死なないよ。ああいうのは絶対死なない。全部逆に言ってるだけだ」
  焦る友之に対し修司は冷たくそう切り捨てて、決してその手を離さない。どこか据わった目をして殺気立った顔をしている。そうして夕実が去った方向を見ながら淡々と後を継いだ。
「友達との約束は破ってもいいけど、私とは破るな。私を優先しろ。私を恨むな、コウに甘えるな。ウソツキは私です、いつだってあんた達に会いたい―…。あいつは、そう言ってるだけだから」
「修兄?」
「俺はあのむかつく女の事は、お前たちよりよっぽど分かってるんだから」
  だからもう気にするなと言い、修司は嫌な気を振り払うように大きくかぶりを振った。
  そうして「まったく…」と呟いたきり、後は何も言おうとしなかった。
「………」
  友之はそんな修司を見つめながら、未だ早鐘を打つ心臓を意識しながら、ただ夕実の寂しそうな顔を思い浮かべて瞳を潤ませた。夕実に胸をかきむしられる。いつまで経ってもそれは変わらず、不安定な気持ちはいつだって夕実によって起きるものだという事を自覚させられた。
  だからこそ、分からない。
  それでもどうしてこんなにも夕実が愛しいのか。

「夕実のこと、好きだよ」

  瞬間、口をついてそう言っていた。
  修司が何も言わないのを良い事に、友之は続けた。
「コウも修兄も数馬も……みんな好きだけど……本当に好きって言えるけど、でも夕実は別……特別、なんだ。夕実のこと……だ、大嫌いだって……そうも、思う。思っちゃう事ある。で、でも、でも……好きで……絶対嫌いになれないって思うのも本当なんだ。どうして? 修兄、分かる? ど、どうしてそういう風に…お、思うのかな…?」
「……トモ」
  修司の驚いたような顔がぼやけて見えた。知らない間に泣いてしまっていたようで、友之は焦って片手でごしごしと潤んだ目を擦った。修司が暗にそれを止めろという風に手首を掴んできたけれど、それを無理に払おうと珍しいくらいに力を出して、友之は修司からの拘束を解いた後はぱっと頭に浮かんだ事を口にした。
「修兄…こ、この前…僕のこと、好きだけど大嫌いって言った…っ。言ったでしょ? あ、あれ……あれは、同じ? 僕が夕実の事こういう風に思うのと……、同じ?」
「トモ」
「同じなら分かる? 僕の夕実への気持ち、何なのか、分かる…?」
「分かりたくねえよ……」
「しゅ…っ」
「それが一緒じゃ困るだろ……」
「修兄…」
  不意に唇を合わせられて友之は目を見開いた。拒む間もなかった。
「んっ…」
  修司からのキス。
  同時に何かがドサリと落ちた音が聞こえて、スーパーで買って来た物を修司が投げ出したのだと分かった。けれどそれに目を落とす暇はない。それどころか、腰を抱かれて無理にされた口づけにも翻弄され、身体がふらりと傾いていく。
  独りで立っていられない。
「修に…」
  修司は優しく抱き寄せてくれる。寄り掛かっていればいいと暗に示されているようだ。
  それでも、それは断らなければ。
「……っ…」
  けれど一旦は離された唇が再び近づき、間近に修司の顔を見て目が合ったら―…友之は何も言えなくなってしまった。それどころか、驚きで半分だけ開いた唇がバカみたいに修司のキスを待っているようで。
「トモ」
  そんな友之を前に修司が言った。
「お前は光一郎と……俺のことだけ、考えていればいい」
「しゅ……ん…っ」
  ちゅっと触れてきた唇はとても優しく、けれど拒絶は許さないという風な強引なものだ。
  友之は顔を背けようとしてそれを妨害され、再び何度も啄ばまれるような口づけをされた。
「ふ…っ、ん…!」
「あの女の事はもう口にするな」
  修司から離れなければ。
  そう思うのに友之は涙を零したまま修司からのキスを何度となく受け入れた。修司のそれはとても儚くて、そしてやっぱり怖かった。
  光一郎に怒られると思いながら、それでも友之はどうする事も出来ずに修司に身体を預けたまま目を瞑った。 



To be continued…




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