―22―



  以前、率先して「コウ兄ちゃんには内緒にしてような」と言ったのは修司だったはずなのに、夕刻前の、しかも天下の往来(更に言うなら自宅アパート前)でキスをした事をあっさりバラしたのは、その修司本人だった。
「さっきトモとちゅーしちゃった」
  光一郎がアルバイト先から貰ってきたというケーキの箱を居間のテーブルに置いた直後、その台詞は放たれた。
  その時友之は台所で飲み物の準備をしており、ちょうど冷蔵庫から兄たちのビール缶を取り出したところだったのだが、修司のその「告白」によって思い切りたじろぎ、それらを足元にガラガラと落としてしまった。
「あらら。トモ、大丈夫か? 一気に運ぼうとしなくていいんだよ?」
  一方の修司は既に食卓に整っている夕食を前に、先刻までつけていたエプロンも外して壁に寄り掛かった体勢でいる。慌てふためきながら転がるビール缶を追う友之を楽しそうな目で追い、己の目の前に立ち尽くす光一郎には「トモってああいうドジっ子なところがまた可愛いよな?」などと同意を求めた。
「いつ」
「は?」
  しかし光一郎は修司にちらとも笑顔を見せない。当たり前と言えばそうだけれど。
  至極真面目な顔をしたまま、光一郎は厳しく修司を睨み据えた。
「いつ、どこでしたんだ」
「何、トモとちゅーしたこと? んー、数時間前かなあ。場所はアパートの敷地内で」
「外で…!?」
  このバカはとんでもない事をしてくれたとでも言わんばかりの顔で光一郎は珍しく眼を剥き、それから心底腹立たしそうな顔をしてそのまま足取り荒く洗面所へ歩いて行ってしまった。友之はたどたどしくもようやく胸に抱え直したビール缶を手に、そんな光一郎の背中を焦ったように目で追ったのだが、修司の方は何ほどの事もないという風にフッと口許だけで哂っていた。
「面白いほど予想通りの反応だな」
「しゅ、修兄…」
「ん? ―あぁ、大丈夫大丈夫。トモが怒られるような事には絶対ならないから。そんな泣きそうな顔するなよー? 素で落ち込むぜ? 俺とちゅーするのがトモはそんなに嫌だったのかって」
「そんなんじゃ…」
  言い淀む友之に修司は逆に「お」と目を見開き、ますます可笑しそうに瞳を燻らせてから、だらりと伸ばしていた片膝を曲げた。
「嫌じゃなかった? それなら嬉しいけど。ご飯作ってる間もトモずっと神妙な顔してるし。無理矢理したから、やっぱり俺のこと嫌いになっちゃったのかなって心配だったんだよ」
「嫌いじゃない」
  それだけは間違いがなかったのですかさず言ったが、修司はそんな友之を軽く受け流して笑顔のままふいと横を向いた。
  外はもう大分暗い。窓の方へ視線をやっても、2階のアパートから眺められる景色は薄ぼんやりとした各地の外灯の明かりだけで、際立って目に映るものはない。
  それでも修司は友之から視線を逸らしたまま後はもう何も言おうとしなかった。ビール缶を胸に抱えたまま、友之は所在なく先刻光一郎が立ち尽くしていた場所で自らもじっと佇んでいた。
「お前はどうしてそう非常識な真似が出来るんだ?」
  顔でも洗ってきたのだろうか、少しだけ前髪を濡らしたような光一郎が再びツカツカと戻ってきて開口一番修司に向かってそう言った。珍しく臨戦態勢だ。憮然とした表情は悪ふざけをする修司の前ではいつもと同じだが、今日は珍しく本気で怒っているように感じられた。
「非常識?」
  けれど修司は修司で動じない。立てた片膝に両手を組んだ格好で、修司はくるりと室内に顔を戻すと、挑み返すような目で光一郎を見つめやった。
「別に常識ってヤツから逸れてるつもりはないけど。俺はいつだってそういうのには忠実にしてるつもりだし」
「何だそれ、厭味か? そういう台詞使って俺の事皮肉って、お前はいつだってそうやって俺を嘲笑ってるんだろ」
「ははっ!」
  光一郎の間髪入れずの抗議に修司は途端笑い出した。けれど、その笑顔も瞳の奥は笑っていないと友之には分かった。もしかすると修司の方も怒っているのかもしれない。嫌な予感がした。
  けれど2人の言い合いはそんな友之の不安をよそにどんどんと加速する。
「そんなねえ、俺がコウ君をバカにしてるみたいに。んな事あるわけないでしょうが。勝手に負い目感じて、いつも人の言動悪い方に取っちゃうんだから。そういう癖、止めた方がいいよ?」
「……何だ、負い目って」
「前半、トモの子守を俺に押し付けた負い目」
「ふざけんな!」
  怒鳴られた修司ではなく、友之の方がびくりとして身体を震わす。拍子、またしても折角運んできたビール缶が胸元からストンと落ちた。カーペットの上に落ちたから今度は派手な音はしなかったが、そのうちの1つがもろに友之の足の上に落ちた為、それに気づいた「兄」2人共がそれに過剰な反応を示した。
「トモ!」
「トモ、大丈夫か? あーあ、コウ兄ちゃんのせいだぜ」
「煩ェな…!」
  およそ友之と2人きりの時には決して出ない、光一郎から放たれる乱暴な口調。…それでも自分が取り乱す事によって友之の精神状態が目に見えて不安定になる事は光一郎とて理解している。努めて気持ちを落ち着けようと露骨な溜息をついた後、光一郎はボー然として未だ立ち尽くしたままの友之の代わりに、自分が床に転がったままのビール缶をひょいと拾った。
「1つはコウ君のだよ」
  光一郎の手からもぎ取るようにして缶ビールを奪った修司は、しかしもう一方の方は顎でしゃくるような所作で「お前が飲め」と暗に示した後、再び友之に優しい目を向けて「トモも座りな」と続けた。
「………」
  友之もそれでようやくその場に腰を落ち着ける気になり、ちろりと光一郎を見上げながらも大人しく言う事を聞いた。
「……ったく」
  すると光一郎も仕方がないという風にそんな友之の隣にどっかりと胡坐をかき、実に彼らしくもない荒っぽい動作で手に取っていたビール缶のプルトップを開けた。
  そうしてそのまま、まるで自棄酒のように一気に煽る。
「おぉー、いいねえ」
  修司がそれに嬉しそうな顔をし、自分も一口煽る。友之はそんな2人の様子を眺めながら自分は目の前の食事も何も手につかず、ただ所在無さ気に正座をしたまま両手を膝に置いていた。いつもなら2人に囲まれた食事は嬉しくて大好きで、ずっとその時間が続けばいいと思うくらいに幸せなのに。
  修司の妙にハイテンションな様子も気になるし、また、それ以上に光一郎が自分たちの事を許せないくらいに怒っていないか。それが心配で堪らなかった。
  光一郎以外の人間とキスをしてはいけなかったのに。たとえそれが修司であっても。
「トモさぁ、今日はちゃんとお前の言う宿題全部やったんだぜ?」
  石のようになっている友之をちらと眺めた後、修司が光一郎に言った。
「あんなアホみたいな量与えやがって、お前は鬼かよ? まあ、トモは出来がいいから、すぐに終わっちゃったけどな」
「お前、変に手伝ってないだろうな」
「変って」
「すぐ答え教えたりとか」
  相変わらず鋭い。友之は光一郎のその指摘にあからさまびくりと肩を震わせたが、当の修司はひょうひょうと嘘をついて、それをまた友之にも振った。
「俺は何も手なんか出してねーよ。せいぜいトモがちょっとつまずいた所にヒントやったくらい。なぁトモ?」
「……っ」
「トモ? ……あのなぁ、お前。そこはソッコーで頷いておかなきゃ」
「トモに嘘つかせるな」
  ぴしゃりと言って光一郎は修司を再び睨み倒し、それからさっと立ち上がると台所から友之の為の飲み物を出してきた。友之が自分たちに挟まれてどうにも窮屈そうな様子に少しだけ同情の念が宿ったのかもしれない。確かに光一郎は怒っているが、修司の言う通り、それが友之の方へ向けられる事はなさそうだった。
「トモ、飯食えよ」
「あ…」
  そうして光一郎がグラスに注いだ牛乳をテーブルに置きながら優しくそう言ってくれた事で、友之もようやく身体から力を抜いた。初めて光一郎の顔をまともに見上げる事も出来た。
「結局優しいんだよね、コウ君は」
  それにバカにしたような合いの手を入れたのは修司だ。光一郎は完全にそれを無視したが、それでも「友之の勉強の邪魔をした修司」は看過出来ないのか、一度ビールに口をつけた後、光一郎は再度修司に向かって攻撃の口火を切った。
「お前の間違った優しさよりはマシだろ」
「そう? 俺のは間違ってる?」
「ただ甘やかしてるだけだろ。前はそれでも……それもありだと思ってた。それを感謝してた部分もある。けど今のは明らかにやり過ぎだし、お前のは一貫性がないから、今のトモには良くない」
「なるほど。保護者としてはそう思うわけか」
「…いちいちむかつくんだよ」
  修司の挑発するような言い方にまんまと乗って、光一郎はむっと形の良い眉を寄せた。
  普段から光一郎はどちらかといえば表情の乏しい人間だ。友之同様、幼い頃からあらゆる感情を抑えつけて我慢し生きてきたせいだろう。不器用な弟同様、光一郎も自己表現は決してうまくないし、周囲に溶け込み「人格者」としてうまく立ち回っているのも、彼が幼少期より培ってきた一角の「技術」を屈指しているに過ぎない。辛くとも顔には出さず、大して心の動かない相手でも縋られればあっさり手を差し伸べて助けようとする―。そんな道徳のお手本みたいな真似を光一郎は淡々とこなし、一方で内に信じ難い鬱屈を抱えながら尚、能面を維持し続ける。
  だがそんな光一郎でも、昔から修司の前でだけは表情が豊かになった。それは昔2人に対して一定の距離を取っていた友之でさえ感じていた事で、こうして露骨に怒った顔をする事もあれば、先だって夜の公園で見せたように心からの笑顔を浮かべる事もある。
  その時の事を思い出して、友之は仄かにツキンと胸を痛めた。
「分かってんだろ。わざとむかつかせてやってんだよ」
  その時、修司が思い切り毒のある声で言った。ぎくりとして友之が顔を上げると、修司のその視線は最早光一郎にしか向いていなかった。
  そしてその眼は、友之が時々感じる「とても怖い」と思えるもので。
「あのバカ女が部屋の前に突っ立ってたぞ」
「バカ女?」
  光一郎が反復するのを修司は不快な顔で小さく舌打ちし、すぐさま答えた。
「お前のクソカスな妹のことだよ」
「………」
  修司の言葉に光一郎がぴたりと押し黙った。友之は咄嗟に光一郎を見た。本当は光一郎の反応が怖くて目を逸らしていたかったはずなのに、気づけば真っ先にその顔を窺っていた。
  何を考えているのか分からない、光一郎は全く無の表情を湛えていた。
「もう縁切ったんじゃねえの? 何でいつまでも纏わりつかれてんだよ。今日は偶々俺がいたから良かったようなものの、トモが独りの時にあの女が来たらどうする」
「……何か言われたのか」
「トモに訊けよ」
  ハッと哂って修司は再び壁に背を寄り掛からせ、知らぬフリをした。
「トモ」
  だから光一郎もすぐさま友之を向いて、どこか翳のある様子で訊いた。
「夕実、お前に何か悪い事でも言ったのか」
「言ってないよ」
  夕実のことを悪く思われたくない。その想いが先行して友之はすぐさま答えた。夕実を悪く思わせない為になら幾らでも、何の躊躇もなく声が出る。夕実当人の前でだと硬くなって何も言えなくなるのだけれど、今、光一郎の前で話をするのは平気だった。
「昨日会えなかったからって差し入れ持ってきてくれただけ。あ……でもその袋は……修兄が返しちゃったけど」
「当たり前だ。受け取るな、あんなもん」
  それだけは友之を叱るように言い、修司は再び背中を浮かせてテーブルの上に両肘を乗せ、光一郎の方へ迫るように体を向けた。
「よく持ってくんの。差し入れってやつ」
「最近はなかった。寄越してくるとしても郵送だったし」
「急にトモを思い出して、恋しくなったわけだ」
  勝手だなと修司が毒づくと、今度は光一郎がちらりと皮肉な顔をした。
「お前だってそうだろ」
「あぁ?」
「思い出した時に戻ってきてトモを構うだろうが」
「ふっ…! そりゃそうだけど。けど、俺はあそこまで面の皮厚くねえし、お前に俺があの女と一緒みたいに言われたくない」
「自分でも似てるって前に言ってただろ」
「テメエで認める分にはいいの。けど、お前からそう言われるのは嫌」
  意地悪しないでくれる?とふざけたように言った後、けれど修司は見た目にも明らかに不機嫌になってふっと黙りこくった。するとそれに併せるようにして光一郎もむすっとして口を閉ざした。
  テレビをつけていなかったから、2人が揃って沈黙すると部屋の中は妙な沈黙に支配される。友之は光一郎から差し出された牛乳にも一口も手を出さず、ただ2人の兄を交互に窺い見ながら全身蒼白な気持ちで固まっていた。
  別段、あからさまな「喧嘩」をしている風ではない。こんな事はつい先日もあった事だし、慣れているといえばそうだ。それに投げ合っている言葉同士は決して柔らかくはないけれど、友之には計り知れぬ、2人にしか分からない部分での遣り取りが内に込められている事も十分考えられる。だからこの状況も、もしかすると友之が感じるほど「険悪」なものではないかもしれない。
「……………」
  けれど、友之が覚えている光一郎と修司の関係は、少なくとも「昔」は「こう」ではなかった気がする。
  いつからか、自分がこの2人の間に入り込むようになってから。
  そうなってから、2人のこんな棘の感じられるギリギリの攻防が始まった気がするのだ。
「……喧嘩してるの?」
  だから堪えきれなくなり、友之はようやく絞り出すような声を出した。
「2人……今、喧嘩してる?」
「えぇ?」
  最初に反応を示したのは修司だ。驚き目を見張る光一郎をよそに、修司はたちまち困ったような苦い笑いを浮かべながら「トモ、トモ」と仔犬を呼ぶような甘い響きの伴った声で友之を呼んだ。
「別に喧嘩なんかしてないよー? 何、トモ? もしかして泣きそうなの? 俺たちが喧嘩してるかもと思って困っちゃった?」
  そういうところも可愛いけどなと修司はへらへらとした笑いを浮かべた。
  一方の光一郎はそんな親友を極めて冷めた目で見やっていたが、自分も友之が落ち込んだ風でいる事自体は見過ごせないのだろう。修司から数歩遅れて自らも「トモ」と呼ぶと、光一郎は友之が自分の方を見上げるのを待ってからきっぱりと言った。
「修司が悪いだけだから、お前は何も気にしなくていい」
「何だよそれ」
  修司の不満気な声も光一郎は軽く素通りした。
「喧嘩とかじゃないし。お前だっていつも見てて分かるだろ? こいつは俺をイラつかせるのがうまいんだ。だから……釣られちまう俺も悪いけど、こんな言い合いはいつもの事だろ? 気にしなくていいんだよ。何で気にしてんだ?」
「……夕実の事も」
「あいつの事も、こいつには関係ないだろ。こいつが何言おうがお前は気にしなくていい。お前が夕実から……差し入れ貰いたければ貰えばいいんだし。嫌なら断ればいい」
「そんな事トモができると思ってんの?」
  すかさず横槍を入れる修司に、いよいよ光一郎が唇を尖らせる。
「お前は、黙れよ」
「嫌だね」
 しかし修司も負けてはいない。それどころか急にムキになったように自らも怒ったように息を大きく吐くと、溜めていたものを一気に吐き出すようにまくしたてた。
「お前も重症だけど、トモはそれの比じゃないんだぜ? なあ、知ってるかよ? トモはあのクソ女が好きなんだと。どうしても嫌いになれなくて、お前や俺が好きでも、あの女はそれ以上に別……特別なんだってよ。あのさあ…コウ。お前さ、そんな事言われてていいのかよ? お前、全然負けてるぜ?」
「お前だってそうだろうが!」
「ああ、そうだよ。だからむかついてんだろ? あの女より、それこそお前より、トモを見てきたのは俺だ。―…トモと一緒に、あの暗い所にいたのは俺だけだったのによ」
「……っ」
  修司の台詞の最後の部分に、友之は思わずハッとして顔を上げた。修司は友之を見ていない。相変わらず表情はどこか涼し気で、別段大した事を言ったような感じは見受けられない。
  それでも友之には、修司が今とても大切な事を言ったのが分かった。

  一緒にあの暗い所にいた。

  誰からも見捨てられてたった独りであの部屋にいた時。いつでも外からの光を運んできてくれたのは修司だった。フラリと見知らぬ土地へ出掛けて行っては、各所の風景写真を撮ってきて友之に見せてくれた修司。いつも笑って、「トモは可愛いね」と言ってくれた修司。
  その修司は確かに友之が小さくなって膝を抱えていたあの部屋にちょくちょく来てくれていたけれど、同じ「闇」にいるというよりは、その闇に沈んでいた友之を引っ張り上げてくれるような、外の新鮮な空気を与えてくれるような人だった。そうだった、はずだ。
  けれど。
「なあ」
  修司が光一郎に言った。
「お前、もうちょっと俺に感謝しても罰は当たらねえよ」
「偉そうに言うなよ」
「へえ? そう言う?」
「煩い」
  ただ、光一郎には光一郎で思うところもあるのだろう。修司のまくしたてるような言い方にも揺らぐ事なく、却って冷静にすらなって落ち着いた声色を出す。
「さも自分だけが気づいてた風に言うな。お前だって何も分かっちゃいなかっただろ」
「……かもな」
「俺だってお前には随分イラつかされてる。五分だろ。それを……これ以上、夕実の事にまで口出すなよ。特に、トモの前では二度と言うな」
「……約束は出来ないね」
  今度は修司の眼が暗くなる。「夕実」という単語で隠していた負の部分が露になったのか。折角沈静化しかけていた2人の中で、再度火が灯った瞬間だった。
「前から言ってるだろうが、俺はあの女が嫌いなんだよ。俺だって関わりたくはねーよ? けど、トモに絡んでくる限りおとなしくしてられる自信はない」
「せめて努力しろよ!」
「だったらお前も、ちょっとはその事なかれ主義やめて、あのクソ何とかしろ! 親父に振るとか何でしねえの!? ホント、変なところで大バカだかんな!」
「妹だぞ!? 見捨てられるか!」
「はっ! ……これだから、お前は……!」
「け、喧嘩…っ」
  じわりと瞳を潤ませて、友之は再度声を張り上げた。自分でも意図せぬ大声だったせいで、2人がぎょっとして一斉に黙りこむ。
  友之はそれを良しとして、微か震える身体にぎゅっと力を入れながら続けた。
「喧嘩しないで…!」
「トモ…」
  2人の視線が何故か針のようにちくちくと痛い。
  それでも友之はうまく回らない舌を一生懸命動かして喋った。
「お願いだから……、コ、コウ兄と……修兄は、前は凄く仲良かった……。高校の頃とかも……もっと前も、笑って話してるところばっかり、見てた……。そういうの、羨ましいって思ってて、僕も……そういう友達、欲し、……思ってた……。でも……」
  これ以上言うと自分がここにいてはいけない気持ちが強くなる。だから正直言いたくはなかった。
  けれどそれが事実だから言わないわけにもいかなかった。
「僕のせいで……僕と夕実のせいで、2人って……言い合い、するようになった……」
  自分がいなければ、2人はずっと仲の良い親友のままだったのに。

「………トモに救われたんだよ、俺たちは」

  その時、涙交じりの友之の声を掻き消すようにして、修司がそう言って笑った。驚いてそんな「兄」の顔を見つめると、修司は余計に困ったような苦笑を浮かべて、さっと友之に向かって腕を伸ばし、その手を握った。
「あのさぁ、トモ。そうなんだよな。お前の兄ちゃんって完璧でむかつく程人間味っての? そういうのがなくてさ。だから、前までは喧嘩なんかしようがなかった。俺もそんなの面倒臭いから別にしたくもないって考えだったから馬が合ってたし。……けどさ、お前の兄ちゃんの事好きだなあ、ああ離したくねえなあって思うようになったのはさ。トモがいたからだよ。トモがこのお兄ちゃんを変えたからだ」
「気色悪い言い方するなよ」
  光一郎が忽ち嫌そうな顔をするのを修司は軽く笑い飛ばしたが、依然として泣き顔のままの友之には言い含めるような優しい表情になって後を続けた。
「でもそれが本当の事だよ、トモ。お前がいなかったら光一郎の奴はつまんない、とことん見るところのないクソ野郎だったろうし、俺は俺でどうしようもない奴だから、そのうちどっか違う街にでも行ってさ。何の躊躇いもなくバイバイしてたよ。けど、トモがいたからさ。俺もコウ君も人間っぽくなれてきたって言うかさ」
「俺は元から人間だっての……」
  むすっとしたまま光一郎はまだ文句を言っている。それでも修司はそれを気にも留めず、更に友之に接近して「よしよし」と頭を撫でた後、やがて「あーあ」と大袈裟に溜息をついた。
「くだらない言い合いしてたら、ご飯もすっかり冷めちゃったよ。ビールも不味ィし。飲み直そうぜ。コウ兄ちゃん、ビール新しいの持ってきて」
「命令すんな。それと、トモから離れろ」
「絶対嫌。なあ、トモ?」
「わっ…」
  急にぎゅっと抱きついてきた修司に友之は逆らう間もなく雁字搦めにされ、すりすりと頬ずりまでされてしまってあわあわと身体を揺らした。光一郎はそんな修司の態度にますます立腹したようだったが、これ以上事を荒立てて友之の心が乱れる方を懸念したのか、もう今夜は諦めたとでも言うように、修司の言う通り台所へ行ってビールを何本も運んできた。修司がそれに「こんなに飲めないよ」と言うのにも「俺が飲むんだよ」と言い返して、本当にそれを実行していた。
  修司はそんな光一郎に破顔し、更に友之を抱きしめて離さなかったが、友之は友之で明らかに穏やかになったその空気にほっとして、ついつい修司に抱きすくめられたままの状態でほっと一つ息を吐いた。
  その後、修司は来週半ばに始まる連休の予定を切々と語り始めたが、すっかりと疲れてしまった友之は光一郎の不満気な言葉以外は殆ど耳に入ってこず、あっという間に眠りの森に誘われてしまった。光一郎が「明日は練習があるのか」と訊いてきていたような気もするのに、ロクに返事をする事も出来なかった。





「はぁ!? 3人で旅行だぁ?」
  なみなみ注がれた生ビールのジョッキを片手に、正人が店中に響き渡るかのような素っ頓狂な声をあげたのは、よく晴れた日曜日の午後。
  バッティングセンター「アラキ」で恒例のミーティング兼昼食会が行われていた時、チームの1人から何気なく「トモ君はゴールデンウイーク中どこか行くの?」と訊ねられ、友之がそれに答えた瞬間、その叫び声はやってきたのだ。
「トモ…テメ、今何て言った?」
  その日も中原正人率いる「常勝」草野球チーム(予定)は、他所の平均年齢40歳の中堅チームに大敗を喫した。久しぶりの練習試合で正人だけでなく皆が張り切っており、仕事でどうしても来られないという人間が2人ほどいた以外は全員出席。珍しく大人数で盛り上がっていたのに、蓋を開けば「9回までよくもったな」という程の目を覆いたくなるスコアになってしまった。
  それでも正人の関心は最早そんな負け試合の事ではない。いつものようにカウンター席に座る自分の横に友之を「はべらせて」(数馬が言うにはそうらしい)、正人はオレンジジュースをちょびちょびとやっていた友之を恐ろしい目で睨みつけた。
「3人って……コウとお前と、誰だって……?」
「しゅっ……修兄……」
  そのあまりの迫力に友之は完全に萎縮してしまう。自分の右隣にはこれまたいつものように数馬が座っていたのだが、縋るようにそちらにばかり目をやってしまうのは何も友之だけのせいではないだろう。
「何考えてんだ、コウの奴は…!」
「別に光一郎さんの案じゃないんでしょ。荒城さんが一方的に言ってるだけでしょ? ねえマスター?」
「えっ…何でそこで俺に振るかな」
  正人が1人のけ者にされた事でカリカリきているのは容易に分かるので、当事者の父親としてはあまりこの話に関わりたくないのだろう。この店の主である修司の父・宗司は困ったように大きく首を振り、「俺だってよく知らないよ」と狭いカウンター内で逃げるように身体を揺らした。
「知らない間に人の車使う事になってるし。そのくせ、一緒に行きたいって言った俺には駄目の一言だろ? つまりこの俺だって仲間外れなんだから、そんな俺に怒らないでくれよ? な、正人?」
「何だその言い方!? 俺はそんな事でキレてんじゃねえっての!」
「“そんな事”でキレてるのは間違いないでしょ。仲間外れは誰だって嫌です」
  仮にも先輩に対し無碍もなくそう斬り捨てたものの、しかしこれには自分も面白くないものを感じているのだろう、オドオドとしている相手を上から目線で冷たく見下ろし、数馬はどこぞのいじめっ子のように友之の頭をスパンと叩いた。
「痛っ」
「ったく、むかつくねえ、キミ」
「な…何……」
「何で、じゃないよ。キミは安直に大好きなお兄さんたちと旅行出来る〜って楽しみにしてるのかもしれないけどね? あの荒城修司って人は本当要注意だよ。何してくるか分からないよ。ねえマスター?」
「……だからそういう事を父親の俺に振るのはやめろって」
「ボクも一緒に行ってあげようか?」
「えっ」
「……なんて。あの人が許すはずないし。うーん、でも、むかつくなあ」
  何とか邪魔出来ないかなあと真剣に腕組をし、数馬は友之の更に一つ向こうにいる正人の方へ顔を向けて「先輩」と偉そうに呼んだ。
「先輩もどうするんですか。邪魔しちゃおうよ。3人で旅行なんて絶対させたくないでしょ。抜け駆けは許されないよ。ねえ?」
「煩ェんだよ、テメエは! 大体、俺は連休中も仕事だ!」
「あらら……そうなんだ」
  正人がぐびぐびとビールを煽り出すのを横目で見ながら、数馬は少しだけ憐れむような目で見た後、不意にボックス席から出て来た人物に気づいてそちらに声を掛けた。
「隆先輩」
  声を掛けられた隆―正人の高校時代の後輩だ―は、いつもは自分に不機嫌な数馬が何という風もなく呼びかけてきた事で多少驚いた顔をしたものの、手にしていたバットを脇に置くと「何」と気さくに返事をしてきた。
「トモ君がね。悪い狼に攫われそうなんです、花のゴールデンウイークに。正義の味方としてはどうにかしたいでしょ?」
「え? 攫われるの?」
  ぱちくりと瞬きをした隆は意味が分からないという風に友之を見たが、当の友之はただ力なく首を振るだけで要領を得ない。
  すると数馬はそんな友之の後頭部を再びばしりと軽く叩いてから、「この人はねえ、本当危機管理能力がゼロなんです」と言ってから、マスターを指差した。
「犯人はこの人の息子です。どうですか、隆先輩。決行は水曜日らしいんですけど、それまでに何とかその誘拐計画を邪魔してやりませんか」
「うん」
  数馬の適当な発言など鵜呑みにするわけもないだろうに、それでも隆はすぐさま頷くと、更に友之に近づいて行ってその顔を覗きこむようにして言った。
「トモ君が嫌なら助けるよ。何? 嫌な人から誘われてるの?」
「あ…ち…違います…っ。数馬が勝手に言ってるだけで…」
「はぁ? 何それえ! ボクは君の為に言ってやってるのにさぁ!」
「だって…っ。修兄は悪くないから!」
  ようやくはっきりと言えると、マスターが前方で「トモはイイコだなあ」と満足気な声を出しているのが聞こえた。それに対して正人や数馬は何やらガーガーと文句を言っていたが、それらの遣り取りを第三者的視点で見ていた隆は、やがてじっと閉じていた口をようやく開いて言った。

「要は、どいつもこいつも狼候補ってわけだ」

 因みに彼のその発言に異を唱えた者は、その場には1人もいなかった。



To be continued…




23へ