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  数馬が友之の学校へ遊びに来る時は、何を臆する風もなく堂々と校舎の中へ入ってくるが、それは彼が「香坂数馬」という人間だからであって、誰もがそれを出来るかというと決してそんな事はない。
  普通は周りの目が気になるし、そこの学校の教師から「部外者は入ってくるな」と叱責される事を心配する。実際、校門の入口付近にも大きな看板があって、《学校関係者以外立ち入り禁止》、《御用の方は窓口で受付をお済ませ下さい》などと書かれてある。
  だから「彼女」が友之の学校の制服を着こんで校舎内に「潜入」してきた事は、ある意味正しく、ある意味では大いに間違っていると言えた。
「だってあたしは数馬と違って後ろめたい気持ちがあるからね」
  図書室の自習スペースで必死に課題をこなす友之の前で由真は偉そうにそう言い放ち、身体は横を向けながらも顔だけは広いテーブルの上に頬杖をついて、大袈裟に溜息をついてみせた。
  進藤由真は、ひょんな事から修司を通じて知り合った、友之よりも一つ年上の女子高生だ。以前はド派手な髪色にド派手なメイク、日焼けサロン通いで強引に焼いた真っ黒な肌、加えて短いスカートにだぶだぶのルーズソックスを履いた、いわゆる“コギャル女子高生”だった。
  それが今ではその様子もすっかりナリを潜め、友之の価値観からして見ると大分「普通の状態」でいる。真面目に続けている写真屋のアルバイトがかなり忙しく、これまで付き合ってきた仲間と疎遠になったというのもあるが、彼女は彼女なりに「荒城修司にフラれた」事が未だかなりの精神的ダメージになっているようだった。―何か色々飽きてきちゃってね―…。そう、どこか20代も半ばを過ぎた女性のような物言いをし、一方で「友之に会う為に」と言って、由真は友之の通う高校の制服に身を包んでそこにいた。
「顔の広いはずの由真さんが、何故かここの学校の知り合い探すのには骨折ってさぁ。卒業生でようやく1人見つけたんだけど。ちょっとこのスカートはね、ないよね。ウエスト合わなくてゆっるゆる! まぁその人がデブとは言わないけど、あたしの方が痩せてるのは間違いないね!」
  フフンと勝ち誇ったように言う由真は、しかしやはり当初知り合った時のような勢いはあまり感じられなかった。最近では駅前でも顔を合わせなかったからというのもあるが、由真はやはりどこか大人しく、大胆な事をしている割にはどこか「常識人」のような雰囲気が滲み出ていた。
「今日はどうしたの?」
  あまりに突然目の前に現れたので、驚きでなかなか訊けなかった事を友之はようやく口にした。
  今日は連休前最後の学校という事もあり、また先週の遅れを取り戻すべく、友之は光一郎に事前に断った上で、「今日は下校時間まで図書室で勉強していく」と決めていた。前日から既にアパートに泊まりにきている修司は、勿論そんなクソ真面目発言をする友之をやんわりと責めて「早く帰ってこいよー」と言ったけれど、逆に光一郎はむしろ是非残れ、絶対勉強してこいといった風だったので、友之にも迷いはなかった。
  それに、修司たちとは明日から一緒に旅行するのだから、今日くらいはきちんと勉強していたい。
  そんな放課後、唐突にやって来たのが由真だ。
「友達付き合いってものが分かってない友之にはピンとこないだろうけどさ」
  すると由真は遠慮がちに質問を投げ掛けてきた友之に呆れたような目を向けた。今ではその目元に白いアイラインが引かれる事はない。
「友達同士ならね。特に用なんかなくても、約束もしてなくても。ふらっと会いに来たくなっちゃうもんなのよ」
「そう…なの?」
  由真の何気ない言葉に友之の胸は訳もなくドキンとして揺れた。
  そもそも友之は「友達」という言葉に弱い。憧れて憧れて、本当はとても欲しいものだったのに自分などには到底手に入らないものだと思って諦めていた。光一郎や正人たちが学校のグラウンドを利用して放課後野球を楽しむ事も、夕実が裕子と浴衣を着て夏祭りへ行って花火を見る事も。
  自分には絶対に、一生縁のないものだと思っていたから。
「友達なら…?」
  今でこそ、友之は数馬や沢海や、それに橋本の事をとても大切な友人だと思っているし、そんな存在が出来た事を誇りに思ってもいる。そのお陰で、少しだけ今の自分を好きになる事もできている。
  けれど本当は今の「この」状態が、関係が、果たして周囲も認めるまっとうな友人関係なのかと訊かれると、とても自信がない…という事も知っている。現に友人だと思っている数馬からは「キミなんか友達じゃない」とはっきり言われてしまっているし、同じ学校の沢海や橋本は絶対的に友之に優しく、何でもしてくれようとして、逆に友之が彼らに出来ている事が何もない…、と感じている。
  つまり対等ではない、と。
  そこで知り合って1年そこそこの、この進藤由真はどうかと言うと……やはり、友之にとって最初の取っ掛かりが「修司」だったし、由真も修司との橋渡し的存在として友之に接近してきた経緯があるだけに、今こうして仲良くしていても、それを「友達」としていいのか疑問に思う。それに彼女はたった1つだけれど、年上だ。由真は年の差なんてと笑うかもしれないけれど、友之にしてみれば、高校2年と3年は全然違う。少なくとも同じ学校の上級生を友達という風には見られない。とても大人な存在に感じられる。
  だから。
  由真が友之の事を「友達なら」と言って、本当に理由もなく会いに来てくれたというのならば、それはとても嬉しくて堪らない事のように思えた。
  それに彼女は友之にとって、初めて「人を好きになるということ」を意識させてくれた大切な存在だ。
「なあに? 友之はさぁ、あたしの事を友達と思ってなかったわけ? それってちょっとショックなんですけど」
「あ…」
  嬉しさでついつい自分の考えに耽っていた友之に、キンとした由真の声が響いた。慌てて顔を上げると、しかし台詞に反して由真は大して怒っていない顔(むしろ勝手知ったる顔)で、ニヤニヤとしながら、再びテーブルの上でどっかと頬杖をついた。
「まあさ、いいんだけどね。友之がそーゆーキャラだって事、あたしだってもういい加減分かってきてるし。慣れたし?」
「あ、あの…」
「それにさ。何か今のあたしには友之みたいな人の方が楽だよ。特に気ィ遣わなくていいし? やっぱさ、お喋りな男は駄目だね。必死に自分凄ェ!ってアピッてくる奴とか? もうさぁ、本っ当、あたしの周りにはロクな男がいないんだ。由真さん、モテモテだからしょっちゅう色んな奴から言い寄られるんだけど、もうどいつもこいつもうざくって。―で。今日は久しぶりに友之の顔でも愛でたいなあって思ってね」
「めで……」
「あと!」
  本当はこっちが本題なんだけどねと悪びれもせず由真は言い、周囲に人がいないのを良い事に突然腰を浮かして目前の友之にびっと人差し指を突き出すと、初めて責めるような目をして睨みを利かせてきた。
「友之。あんた、由真さんに隠し事してるね? そーゆーの許されると思ってるわけ?  あたしたち、親友だったんじゃないのお?」
「え」
  友達から急に親友にまで格上げされ、途惑う友之をよそに由真はズンズンと続けた。
「きーたよ、もう。数馬からソッコーメール入ってきたし? 何なのぉ、明日から荒城さんと旅行すんだって? カッコイイお兄さんも一緒にさ。3人で!」
「………」
「あ、ちょっと! あんた今、『結局それの為に来たのか』って軽蔑したりしたでしょ? 違う? まあ、ぶっちゃけて言えばさっきも白状したとーり、それが目的ではあるんだけどね? でもいいでしょ、そーゆーの、包み隠さず正直に言っちゃうところがあたしの良いところってか、憎めないところでもあるってかだし。だから、そんな事はどうでもいいのよ。問題なのは友之が超〜ッ! 羨ましいってことよッ! え!? どうなの、こら!?」
「どうって……」
  段々熱っぽくなってきた由真に、カウンターの所から中年の司書教諭がジロリとした目を向けてきて、友之はそちらに焦ってしまった。何しろ由真はこの学校の生徒ではない。数馬と違って下手に変装などしてきている分、バレたら余計面倒な事になりはしないかと、それがとても気になった。
「友之〜。ちょっと、聞いてるのー?」
  しかし由真のテンションは変わる事がない。相変わらずぶちぶちと不満を言い、どうしようもない事と分かっているくせに、友之はいいなあ、羨ましいなあ、どうして荒城さんはあたしじゃ駄目だったのかなあ…と。「もうとっくに諦めた」とは、以前にも何度も聞かされた事であるのに、彼女の嘆きは一向に止む気配がなかった。結局、見た目が多少「落ち着いた」ものになっても、素の部分でその性質が変化する事はないらしい。
「ちょっと、煩いんですけど」
「あん…?」
  その時、友之たちがいるテーブル席にツカツカと近づいてきて、湧井が心底腹が立っているという風な目をして話し掛けてきた。
「話してるだけなら外行ってくれませんか。凄い迷惑です」
「……あぁ、ごめんね?」
  由真は湧井の攻撃的な態度に明らかカチンときたようだったが、ここは素直に謝った。そこは潔いというか、確かに由真の良いところである。
  しかし問題は、今日の相手が湧井だったという事で。
「貴女って、うちの学校の生徒ですか?」
「はぁ?」
「何か話聞いてると前から北川と親しそうですけど、うちの学校で話しているの見た事ないし」
「あぁ? …それってさぁ、あんたに関係ある事?」
  ふんぞり返るように椅子の背に身体をもたげかけ、由真はゆっくりと腕を組んだ。
  しかし横柄なそんな相手にも、勿論湧井は動じる事がない。
「関係はないけど、邪魔である事は間違いないから。部外者ならさっさと出てって欲しいし。何なら先生呼んでもいいし」
「はぁっ?」
  何コイツ、と、由真は多少面食らったように身体を揺らして思い切り苦笑いを浮かべたが、傍で友之があたふたオロオロとしている様が新鮮で興味深かったようだ。それに気づいてすぐさま臨戦態勢を解くと、由真は友之と湧井とを交互に見比べた後、改めてくるりと身体を湧井の方へと向けて、今度は足を組んだ。
「何? あんたは友之のダチ?」
「ただのクラスメイト」
「ふうん? でもさぁ、どうよ友之は? すっごい、イイ奴っしょ? ダチのあたしが言うのも何だけどさ。ホント、最近じゃあんまない物件っていうか。ピュアの権化っての?  だからほら、ここのマキちゃんも友之にゾッコンじゃん? それ分かるわーって思うんだけど、だからこそライバルも多いからさ。あんた、そんなギスギスしてたら望みないよ? もっとソフトにいっとかなきゃ」
「……何言ってんの」
  意味分かんないと湧井は心底侮蔑した風に呟き、それから矛先を友之に向けて剣呑な目で見下ろした。
「北川。この人、うちの学校の人じゃないでしょ?」
「あ……」
「友之責めないでよ。あたしが勝手に来てる事だから勘弁して? もう出て行くしさ、それでいいでしょ?」
「……出て行くなら、早く出てって」
「分かった分かった」
  由真は自分を「好戦的」と言う事があるけれど、無駄な争いは極力避けるタイプである。今とて例え自分が不利としても、湧井の必要以上に悪意ある態度には頭にきて良さそうなものなのに、ひょうひょうとしている。友之を気遣った事もあるだろうが、元々人を見る目のある彼女だけに、湧井の刺々しい態度を過剰な自己防衛とすかさず読み取り、逆に憐れんだのかもしれない。
  素直に立ち上がった由真は、去り際友之に大袈裟懇願するように言った。
「友之、もしさ。もし、でいいんだけどっ。荒城さんが写真撮ったら、それ焼き増ししてあたしにも頂戴! そしたら今度何か奢るし!」
「きっと撮るよ」
「そうかなぁ? そうだといいな。でも、何か最近全然やってないって聞くし」
「え」
  友之が驚いて声を失うと、由真は何という事もない風に「あたしの情報網侮らないでよ」と得意気に言い、最後に湧井を一瞥した。
「あ、あとさ。あたし好きな人いるし。友之の事も好きだけど、完全にダチだから、あんたは心配しなくていいよ? むしろマキちゃんとか他の人警戒した方がいいんじゃん?」
「はぁ…?」
  湧井の眉間に寄った皺がますます濃くなるのを、しかし由真はもう見ていなかった。「また連絡する」と後ろ手に友之に手を振った後は、彼女はしれっとして仏頂面の司書教諭にも丁寧な挨拶をして跳ねるように去って行った。由真は相変わらず嵐のような女の子だ。友之はぽかんとしたままその後ろ姿を見送り、それから未だその場で突っ立っている湧井をゆっくりと見上げた。
「あぁ…っ」
  すると暫くして湧井が素っ頓狂な声を上げた。これには傍にいた友之は勿論、やっと煩いのが去っていったとほっとしたばかりの司書教諭までが目を剥いて湧井を凝視した。
「も、もしかして今の女…! すっごい勘違いしてなかった…!?」
「勘違い?」
  友之が訳も分からずに聞き返すと、湧井はぎっとした目を向け、同時にほのか頬を赤らめながら、八つ当たりをするように友之にキンとした声を投げつけた。
「あ、あの女、まるで私があんたの事好きみたいな勘違いしてたって事よ! 私がヤキモチでも妬いてあの女追い出したみたいに思ってたでしょう!? 冗談じゃないよ、何なのあの女…! 最低っ! むかつく!」
「ちょっと、いい加減静かにしなさい」
  さすがに司書教諭がカウンターの所から戒めるように声を掛けてきた。
  湧井はそれにハッとして途端口を噤んだものの、悔しい気持ちは拭いきれないのか、わなわなとして拳を震わせながら由真が腰掛けていた場所にどっかりと座りこんだ。
「………」
  友之は数学のノートを開いたままの状態でそんな湧井をじっと見つめた。どうやら湧井は由真がした勘違いとやらを酷く気にしているらしいが、友之にはさしたる問題とは思えなかったので、平静としたまま声を掛けた。
「由真には違うって言っておくよ」
「ユマって言うの、あの女…? まぁそんな事どうでもいいけど! 当たり前よ、絶対言っておいてよ!? あの手のタイプは無駄にお喋りだし、ある事ない事触れ回って本当迷惑なんだから! 絶対うちの学校の奴じゃないと思うけど…違うんでしょ?!  でも、いつ何言われるか分からないからねっ。ちゃんと言っておいてよ、いい!?」
「言うよ。それに、そんなわけないの、分かってるし」
「は!? 何が!?」
「湧井さんが僕のこと、好きじゃないって言うの」
「当たり前でしょ!? そんなの…見てたら分かるでしょ、普通!?」
「うん、分かるよ」
  友之は当然という風に頷いた。
「湧井さん、拡のことが好きなんでしょう?」
「はぁ!?」
  友之のサラリとした何気ない言葉に、湧井は今までで一番大きな声を出し、そして目を剥き出しにした。
「ちょっと!」
  瞬間、もう我慢出来ないと言う風に司書教諭がこちらに向かって歩いてきた。湧井はそれにびくんとして肩を震わせ、その教諭を避けるように立ち上がると、そのままだっと逃げ去るように素早く廊下へ飛び出て行ってしまった。
「あっ…もう」
  教諭は勿論そんな湧井を咎めるように、立ち止まるよう片手も差し出したのだが、それは見事空振ってしまった。仕方がないという風に、教諭は代わりに友之に向かって「他にも勉強している子がいるんだから静かにしなさいね」と言って元の場所へと戻って行った。
  友之が謝る暇もなく、それは一瞬で起こり、そして一瞬で終わった。
「……湧井さん」
  湧井は由真に勘違いされたと怒った時も悔しさで顔を赤くしていたが、友之が発した台詞にはこれまでにない程首筋を赤くし、狼狽していた。けれど、もしや言ってはいけない事を言ってしまったのかと後悔しかけた矢先、彼女に言った名前の人物が現れた事で、友之は考えこもうとしていた思考を中止させた。
「友之」
  沢海は部活を終えてすぐに来たのか、真っ青なジャージ姿で図書室に駆けこんできた。
  友之が勉強して帰るという事を知って、「今日は自主練の日だから」と早々に上がってきたらしい。由真や湧井が座っていた場所に腰をおろすと、沢海は半ば呆然とした様子の友之に笑いかけながら首をかしげた。
「どうした? 何かボーッとしてるけど」
「あ…何でもない、よ」
「今そこで湧井と擦れ違ったんだけど、ここにいたのか? あいつ、人が話し掛けてんのに無視してさ。……友之?」
「あ…」
  もう一度何でもないという風に首を振り、友之は誤魔化すようにノートに視線を落とした。
  湧井があまりにも友之に対してズケズケと物を言うから、その波に乗るようにして自分も無神経に過ぎたのかもしれない…と、友之はようやく思い至った。彼女は表向きは突っ張ってキツイ言動を繰り返すけれど、よくよく話してみると実は夕実にとても似た「弱い」部分も持った女の子だ。それなのに、何も考えていないような友之から好きな人の事を指摘されれば焦るだろうし、良い気分のわけもない。きっと酷く居た堪れなかったのだろうとようやく気づいて、友之は湧井にとても申し訳ない気持ちがした。
  それから目の前で自分も勉強道具を取り出す沢海をちらりと見やる。
  沢海は湧井の気持ちに気づいているのだろうか。
「友之さ」
  しかし、友之のそんな疑問にはどこ吹く風で、沢海は沢海で重大な問題を抱えているところらしい。久しぶりに友之と2人で勉強できるというその事自体には喜んでいるようでも、すっかりとその支度を整えたところで、沢海は真っ先に、恐らくは今日1日ずっと訊きたかったのだろう事を口にした。
「明日から光一郎さんたちと旅行するんだって?」
「え」
「数馬からメールきた。同じ内容で、あいつ橋本にも送ってる」
「そう…なの?」
  数馬は由真にも送っているようだけれど、一体何を考えているのだろう。日曜日は正人や隆を煽って散々「邪魔してやる」などとも嘯いていた。
  実際は彼自身、連休は「家庭の事情」とやらで外せない用事があるらしい。友之は数馬がどうしても一緒に行きたいというのならば、修司や光一郎に頼んでみてもいいとすら思っていたから、これには少しだけ拍子抜けした。
  勿論、「数馬も一緒に連れて行っても良いか」などと訊いて、それに修司がいい顔をするわけはない。けれど、先日の件から彼らが何やらとても険悪になってしまった事実を友之は認めたくなかった。修司と正人が昔から仲が悪いという事ですら、自分でどうしようも出来なくても胸が痛いと思っているのに、更にまた自分にとって大切な人たちがお互いを「嫌いだ」というのはとてつもなく悲しい。どうにか仲良くして欲しいなどと思ってしまう。
  当人たちにしてみれば甚だしく「見当違いな悩みだ」と呆れられる事なのだけれど。
「自分は忙しいから無理だけど、暇な人間が極力邪魔しとけって。バカじゃないのか、あいつ」
  メールが来た時の事を思い出して腹を立てているのか、沢海はむっと唇を尖らせてから荒っぽく参考書のページを捲った。
「そんなさ…。自分だって用があるくせに、友之が旅行するのは許せないっておかしいだろ? そりゃ…その、荒城さんと3人でってのは……そりゃ、心配、だけどさ」
「心配?」
「そりゃそうだよ!」
  友之がすかさず問い質すのを、沢海もムキになってすぐに頷いた。
「あ、いや…」
  けれども自分が何かを言う筋合いでないという事も重々承知しているのか、沢海はすぐに焦って俯くと、珍しく友之とは視線を合わせずにボソボソとはっきりしない声を出した。
「ま、まあ…さ。光一郎さんいるし。3人が昔から仲良いって事は知ってるし、変に勘繰るのもあれだけど……俺も数馬に毒され過ぎてるなって気もしてるけど。橋本の奴が、あれはあれで意外に静かなのも何だか納得出来ないって言うか」
「橋本さん…?」
  そういえば最近全然姿を見ない。
  友之がその名前に敏感に反応を返すと、沢海はハッとしてから困ったように苦笑した。
「あ、あのさ。友之が昨日教えてくれた病院の精密検査の結果。あれが異常なしだったって言うのは、俺からあいつに伝えておいたよ。あいつもそれだけはずっと気になってたみたいだけど……今は友之の前に顔出し辛いんだって」
「どうして…」
  先週の月曜日に行った病院から精密検査の結果が出たのはちょうど一週間後の昨日だった。友之は何事もなく学校へ行ったけれど、光一郎はすぐに病院へ行って検査結果を聞いてきてくれたようで、それが異常なしだったという事は友之を心配していた何人かの人間たちにすぐさま伝えられた。
  ただ、「結果はどうだったのか」と聞きに来たその人々の中に、橋本の姿だけはなかった。
「橋本さんは何も悪くないのに」
「友之がそう言ってあげても、自分で納得出来ないんだよ。未だバレー部も色々揉めてるとこあって大変みたいだし。…けど、友之が心配してるって知ったら、あいつはそれだけで喜ぶよ。きっとあっという間に復活するだろうし、そんなに気にしなくてもいいから」
「でも…」
「いいんだよ。大体、あいつの暗い顔なんてらしくなくて本当イライラするだろ? いい加減にしろって怒ってやったよ。『あんたに何が分かる!』って逆ギレされたけど」
  ホント女って怖いよな?と沢海は冗談めかして笑ってみせた。
「……っ」
  友之はそんな悪戯っぽい笑みを見せる沢海につられて自分も少しだけ笑ったけれど、橋本を心配する気持ちはどうしても消えなかった。
  先週つけられた傷なんて、もう“あんな事”があったというそれ自体忘れているのに。
  全然、大した事ではないのに。
「でも…やっぱり、もう気にしなくていいよって言いたい」
「友之は本当に優しいな」
  じゃあさと、沢海は自分の鞄から携帯電話を取り出してそれを友之に見せた。
「メール打ってやるよ。友之がそう言ってるって伝言。それと、今友之図書室いるし、自分で何か言いたいなら来ればって打つ。いいか?」
「うん」
  すぐに頷いて、友之は咄嗟に自分の鞄の中に隠れている携帯電話に目を落とした。
  本当はこれを自分が使いこなせれば、また、これが修司の物ではなく自分の物ならば―…沢海に頼むのではなく、自分からメールを打ったり出来るのに。
  惜しい気持ちでちらちらとそれを眺めていると、沢海が「何?」と不審な声で訊いてきた。友之がそれに誘われるようにして携帯電話を取り出すと、数馬が初めてそれを見て驚いたのと同じように、否、或いはそれ以上のリアクションで、沢海はぎょっとしたように目を見開いた。
「何それ!? 友之、携帯買ったのか!? ア、アドレスは…ッ!?」
「あの…これ、自分のじゃ…」
「友之、それって既に数馬も知ってるのか!? まだ教えてないなら絶対教えるなよな! あいつ、相当しつこいぞメールとか電話とか! な、絶対教えちゃ駄目だからな!?」
「ひ、拡…?」
「ちょっともう、本当にそこ! 静かにしなさいッ!」
  煩くしているのは友之の目の前に座る人物だけなのだけれど。
  今日は一体どうした事かと、図書室の平穏を預かる司書教諭がとことん立腹したように近づいてくる。
  友之はどんよりとした気持ちでそれを迎える事となった。…当の怒られ役である沢海や、先刻の湧井に由真には、何ほどの事もないようだったけれど。
  そして結局、その日橋本が友之の所へ会いに来る事はなかった。





「だーめ、だめ! 何の為に俺が何処へ行くかお前らに内緒にしてたと思ってんだ? トモのストーカーどもに情報が行き渡らない為だろうが? それを、携番やアドレス教えちゃったら、ひとたまりもないだろー? トモは嘘つけないから、すぐに居場所教えちゃいそうだし!」
「教えなかったよ。自分のじゃないし」
「それならよし!」
  軽快に車を運転する修司の横で友之が必死に弁解するような話をする。
  昨日、沢海から持っていた携帯電話の番号を訊かれた事や、その前にも数馬から「持っているならどうして自分に教えないのか」と責められた出来事を話した流れから、その会話は始まった。
  「本当は旅行する事も知られたくなかった」という修司は、しかしいつの間にか親しい人間たちの殆どにその話が漏れている事を不服そうにぼやいた後、一方で「でもまあ、ざまあみろだな?」とも言って、ふっと意地の悪い笑いを浮かべた。
  沢海と図書室でたっぷりと勉強した翌日の水曜日。
  修司の予告通り、友之は修司が運転する車の助手席に納まって、びゅんびゅんと流れる窓からの景色にじぃっと目を凝らしていた。
  修司が飛ばす方だとは心得ていたが、連休の中日である今日がこんなに空いているとは思っていなかったから、こんな風に車が進むとは嬉しい誤算だった。「混むのはこれから」と修司は言っているけれど、そもそも友之は車に乗る事自体が苦ではない。元々子どもの頃からそういう機会が圧倒的に少なかったから、珍しさ故の喜びもある。…こうしてファミリーカーに乗り、家族で出掛ける事など滅多になかった。父は車を持っていたけれど出勤以外で使う事は殆どなかったし、母も買い物へ行く時はもっぱら徒歩か自転車で、父は自らの車を家族の為に使用する事を厭った。
  だから本当に、こんな事は何年ぶりだろうと思う。
  運転席にいる修司の涼し気で秀麗な横顔をちらりと見ながら、友之はどうしたって楽しくなる気持ちを抑えられそうになかった。
  心の片隅で夕実を思い出してしまうと、これはとても罪深い事だと思うのに。
「コウ君も夜までにはちゃんと合流してくれるといいな」
  修司が不意に口を開いた。
「ちゃんと空けておけって言ったのに、あのバカ野郎。俺が知らない土地でトモと2人っきりになっちゃってさ。何かするかもとか、心配じゃないのかねえ?」
「心配じゃないよ」
「んん…?」
  すぐに返事をする友之に修司は面白そうに唇の端を上げ、ちらとだけ視線を寄越してきた。
「心配じゃないの?」
「うん」
「何でえ? だって俺、この間みたいにトモにちゅーとかしちゃうかもしれないよ? コウ君いたらさすがに自制効くと思うけど。トモはどうなの、そんな事されちゃった時、ちゃんと逆らえるの?」
「……ううん」
「は?」
「修兄には逆らえないよ」
「お」
  意外だとでも言わんばかりに修司の瞳が揺らめく。
  その横顔から目を離せないまま、友之は続けた。
「でも……コウは心配してないって言ってた」
「……トモにそう言った?」
「うん」
  2人が出掛ける前、光一郎は何故か驚くほどに淡々としていた。先日は「あんまり仲の良過ぎたお前たちにヤキモチを妬いた」などとも言っていたのに、「どうしても出なきゃ行けない勉強会があるから」と、2人で先に行かせる今日に限って、いやに平静として呟いたのだ。
  まぁ大丈夫だろ、と。
  そんな光一郎に友之は不思議な気持ちを抱いていたのだけれど、光一郎も友之のそんな途惑いをすぐに察したのだろう、「俺も後からちゃんと行くから」とさらりと頭を撫でた後、少しだけ憮然とした様子で言ったのだ。
「あいつが行こうとしている場所が場所だから、無駄に心配する必要もないかと思っただけだよ。お前も余計な事考えずに、ちゃんと楽しんでいいぞ?」
 光一郎の話している事の意味は分からなかったけれど、「楽しんでいい」という言葉だけがすんなりと胸の奥に染み渡って友之の気持ちを軽くした。
  楽しんで、いいんだ?
「修兄」
「んー?」
  修司も友之がわくわくとした気持ちでいる事はとうに分かっているのだろう、だからか極力自分も柔らかい態度でいながら、ハンドルに手を掛けたまま友之に答える。
「どした?」
  だから友之も気安い気持ちになって言った。
「今日、写真たくさん撮る?」
「えー? んー。どうかなぁ。いちお、持ってきてはいるけどな」
「たくさん撮ってよ」
  友之が珍しくねだるように言うと、修司は暫し黙った後、笑顔は絶やさないまま静かに訊いた。
「見たいか?」
「うんっ」
  友之がそれにすぐさま力強く頷くと、修司は依然として口許に軽い笑みを湛えたまま沈黙していたが、やがて「そうか」と小さく答えた。
  そして。
「分かった。じゃあ、とびきりいい写真撮って、それをトモにやる」
「うん!」
  修司の答えが嬉しくて友之はすぐに頷いた。
  そうして、早く光一郎も自分たちに追いついて欲しいなと思った。 



To be continued…




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