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友之は光一郎や修司が「異様に」女性にモテる事はよくよく理解しているので、彼らといてどこからか黄色い声が聞こえてきた場合は、必ずその2人のうちどちらかに誰かが好奇の目を向けてきているとすぐに気づける。 だから普段なら周囲の過剰な騒ぎ声や視線が怖いと思うのに、友之は「そういう類」のものに関してだけは、「自分に向けられている注意ではなく、兄たちへのものだから」と安心して、逆に冷静にその人たちの様子を観察したりする。 1時間と少し。修司がすいすいと運転してきた車は喧騒とした街中を離れ、山間の深い高速道へと入って行った。その「いつもの」歓声は、休憩を挟もうと途中で立ち寄ったパーキングエリアで聞こえてきたものだ。 「やばいやばいよっ。ねえねえ見た!?」 「見た見たッ! 何あのひとー! すっごい、カッコイイ!」 「ねーっ。ね、あの人に似てない? モデルのさぁ、ほら、あの化粧品のCMに出てる! 何て名前だっけ!?」 「ねえねえ、写真撮っちゃおうか!? や、いっそ撮らせて下さいって話しかける!?」 「あっはっは! 逆ナンかよ!」 「やー、でもマジ、声掛けたいよね! どこ行くところなのかなぁ!?」 行楽地にでも行く途中なのか、5月初旬にしては随分と涼し気な格好をした学生風の女性数人が相当なハイテンションで大きな声を上げている。この時修司は煙草を吸ってくると車を離れており、友之はその修司から「何でも好きなもん買ってきな」と小遣いを貰って、休憩所の中にある比較的大きな土産物屋をぶらつき、飲み物を買って車に戻ろうとしているところだった。 はしゃぐ女性たちの視線の先には、当然のように修司がいた。 友之たちが寄ったパーキングエリアには大きな建物の中にレストランと土産物屋、そこと隣接して別棟に男女それぞれのこれまた大きめのトイレがあり、更にそれら建物の横には乱雑に植えられた芝生とちょっとしたベンチが幾つか点在していて、各々が好きに休憩を取れるようになっていた。芝生は薄汚れていたが、そこからはこれまで上ってきた山間の道路とひょうたん形の湖が一望出来、大分東京から離れてきたこと、また随分と高度のある場所に来た事を感じさせた。パーキングエリアの中央に掲げられた大きな看板には、そこから見える湖の特徴や周囲に生息している植物などの紹介も詳しく載っている。もしかすると割と有名な観光スポットなのかもしれないと、友之も興味深くそれを眺めた。 ただしそれは数分前までの話だ。今ひたすら気になるのは、修司に注目を集めている女性たちの姿だ。既に逸った1人が携帯を持ち出し、トイレ棟の陰から修司を隠し撮り出来ないかと躍起になっている。修司は芝生の休憩所で湖を見下ろしながら1人淡々とした様子で煙草を吸っており、友之のいる位置からはバレバレの女性の動きにもまるで頓着無い。少し距離があるせいか、はたまた修司にとってはそういった人間から注目される事は最早慣れっこになっているのか、とにかく全く動じた風もなく、静かに遠くを眺めている。 ねえ声を掛けようよ、いやでも、きっとあんなカッコイイ人だよ、彼女といるに決まっているよと逡巡している彼女たちは、ピンクの口紅や派手なアイシャドウをつけてとても煌びやかで、友之にしてみたら殆ど異世界の住人という感覚だった。 そして、少しだけ「怖い」と感じた。 身近にいる女性と言ったら裕子も美人さんだ綺麗だと何かと持て囃され、特に中原野球チームの間では絶大な人気を誇っているが、昔馴染みで慣れているせいもあって彼女が友之にとって「怖い」存在とは成り得ない。また、どぎついメイクと言ったら一昔前の由真もそうだが、彼女は彼女で友之を無駄に怯えさせるような雰囲気はハナから持っていなかった。夕実の事もあってか、友之は特に女性に対して酷い苦手意識を持っているところがある…が、だからと言って決して興味がないわけではない。むしろこうして遠目から観察する分には幾らでもしていたいというか、「怖い」は怖いのだけれど、彼女たちがどういう事に対して喜び、また怒るのかという点については、友之は或いは一般の男子高校生よりも熱心に探ろうとしている節があった。……もっともそんな友之だからこそ、湧井のような同級生とも何だかんだと結局うまくやれてしまうのだろう。 「きゃっ! こっち見た!」 「キャー! ホント! 横顔もいいけど、正面もイイ男!」 その時、不意に友之の傍にいた女性たちが一際興奮したようにざわめき立った。 はっとして我に返ると、湖を見ていたはずの修司がふいと視線をパーキングエリア内に戻してきて、女性たちのいる方に顔を向けていた。 「トモ」 しかし勿論、修司が見たのは彼女たちではない。彼女たちの傍に突っ立っていた友之だ。 「トモ、おいで」 然程大きな声ではなかったけれど、修司のそれは実によく響いてすんなりと友之の耳に入りこんできた。修司は姿形だけでなく、声まで綺麗だ。しかしそうなるとそれは友之以外の人間―彼女たちにも当然聞こえたという事で、先刻まで修司に向いていたそれら女性陣の視線が一斉に自分に集まった事で友之は忽ち動揺し、参ってしまった。 「あっぶない。足、もつれてんぞ」 顔を伏せながら逃げるように修司の元へ駆け寄った友之に、修司が可笑しそうに注意した。 「何慌ててんだよ? いやー、しかしちょっと呼んだだけでワンコロみたいにすぐ来るもんな、トモは。そういう素直なトコが、また可愛い」 友之の焦りなど我関せずといった風だ。修司は呑気な調子でそんな事を言い、そうして自分から呼んだくせに後はまた知らぬフリで、ふうと煙草の煙を吐き出しながら再び湖の方を向いてしまった。 友之はそんな修司を見上げるようにして横に立ち、所在ない風にたどたどしく訊いた。 「あの…まだ、車戻らないの?」 「えー? うん。だって今来たばかりじゃん。何? つまんない?」 「あ…そんな事、ないけど…」 オロオロしながらちらりと後ろを振り返れば、彼女たちはまだじいっと露骨な視線をこちらへ向けて何やら興奮したようなお喋りを続けている。ただ先刻までは近いと感じていたが、実際はこの位置からそんな彼女たちの会話の内容までは分からない。これなら修司も気づいていなかったかなと思っていると、「それ何」と不意に声を掛けられた。 「え?」 慌てて再び顔を上げると、修司はにこにことしたまま友之の手の中にあるものを示した。 「コーヒー?」 「あ、うん」 「トモの分?」 「あ…修兄、も」 慌ててそれを差し出すと、修司は煙草を指に挟みながらも素直にそれを受け取り、そのまま一口くいと煽った。 それから今さらのように不思議そうな顔をする。 「トモの分、ないじゃん。あ、本当はやっぱりこれトモの分?」 「あ、うん。でも、修兄も飲むかもって思ってそれにした」 自販機で何を買おうかと迷った挙句、いつも外にいる時にだけ選ぶコーラを押さず無糖の缶コーヒーを選んだのは修司を想ったが故だ。友之自身は無糖のコーヒーなど滅多に飲まないが、これなら修司も喜ぶだろうと思ったし、飲まないなら飲まないで、このくらいの小さな缶なら自分一人でも何とか飲みきれるだろうときちんと計算していた。 元々友之は何を買うにも、非常に熟考した上で手を出す主義だ。光一郎から小遣いを貰って出掛ける時などもそれは同じで、これなら光一郎も食べるかもしれないとか、こういう用途に使えなくてもいざとなったら違う手で使えるとか、極力お金が無駄にならないように心掛けて買い物をする。いつからそういう風になったのかは分からないけれど、昔からいつでも欲しい物が手に入るような生活をしていたわけではなかったから(むしろ望む殆どの物が夕実の懐へ入った)、自然とそういう風になったのかもしれない。 「トモは苦いコーヒーなんて嫌だろ?」 しかしこの時は案の定、修司が呆れたように笑いながらそう指摘してきた。 「好きなもん買えって言ったじゃん。俺の事考えてくれたのは嬉しいけど、それならこれはこれ、トモはトモで、もう1本好きなの買えば良かったのに」 「うん。でも、もし修兄が要らなかったら、それが無駄になっちゃうから」 「別にならないよ。めちゃめちゃ温くして、後でコウ君にあげればいいじゃん」 「えっ…そんなの…」 「はっ…。うん、それはまあ、冗談なんだけどな?」 自分の軽口を本気に取った友之の頭をわしわしと片手で強引に掻き混ぜ、修司は形の良い唇を曲げると一瞬だけ意地の悪い目を閃かせた。 「しっかし、そんな事いちいち考えるなんて、トモって意外にあれな? 慎重派っての? 良く言えば。悪く言えば、ケチ?」 「ケチ…?」 友之がぽかんとしてその言葉を反芻すると、修司は肩を竦めて、未だじりじりとくすぶっている煙草を口につけ、すかさず豪快に白い煙を吐き出した。 「んな、100円、200円の差なんてちまちま考えてねーで、分かんなかったんなら、ちゃっちゃと2本買っちまえばいいってこと。大体、2人で1本を分け合って飲もうって考えがそもそもせせこましいね」 「……それ、修兄が飲むなら、僕いいよ」 責められているのかと友之が一歩下がり遠慮した風に答えると、修司はそんな友之の反応も十分見越していたのか、「あーあー」と大袈裟に首を振った後、「ごめんごめん」とすぐに謝った。 依然としてどこか悪戯っぽい瞳はそのままだったのだけれど。 「嘘だよトモ。これはね、絶対一緒に飲みなさい。コーラも後でちゃんと買ってやるから。あのなぁ……なあトモ。本当は、“これ”が1番嬉しいに決まってんだろ? トモと間接ちゅーできるしさ、トモがこういう事してくれんのは、俺としては最高に嬉しいね」 「駄目じゃなかった…?」 友之のほっとしたような空気に修司も笑った。 「うん、全然ダメじゃない。自分の飲みたい物我慢して、俺の事を優先しちゃうトモは相変わらず優しい。悲しいくらい」 「え?」 「でもそういうトモだから、こんなにも愛しい」 持っていた小さな携帯灰皿に吸っていた煙草をぽんと突っ込むと、修司は薄い笑いを浮かべながら後はもう何も言わなかった。ただ、依然としてトイレ棟の横できゃあきゃあと騒いでいる女性陣には、視線を向けないままぼそりと呟く。 「うるっせえな、全く」 「え?」 「嫌になるって話。なあトモ」 友之にちらりと視線を向けて修司は哂った。 「ああいう人たち。絶対、どうにかなるわけねーじゃん? こういうシチュエーションから恋が芽生えたりする? ありえないだろ、あるのは俺の底に燻る嫌悪感だけ」 「修兄……見られてるの、やっぱり分かってた…?」 予想通りという気持ち半分、それでもやっぱり意外だという驚きの気持ち半分。友之は目を見開いてどこか投げ遣りな修司を凝視した。修司が彼女たちの視線を心底嫌がっているという事にも途惑いがあった。元々、修司は人から「見られる」事に慣れている。写真に関しても、無論撮る方がプロ級だと友之は思っているが、反対に撮られる側としての依頼が多い事も知っている。だから今のあの女性陣に対しても、気づいているにしろいないにしろ、別段どうという事もないかと思っていた。それどころか、普段から他人にも愛想が良い方だから、こういう場合も相手が求めれば笑顔も惜しみなくやり、手とて振ってくれそうなものなのに。 それを正直に伝えると、修司はぶっと噴き出して大袈裟に仰け反ってみせた。 「そんな、見知らぬ人に笑いかけたりしないよ。それって変な人じゃん。第一俺は、人見知り激しいんだから」 「嘘だよ」 「何その即答。何で嘘よ?」 「修兄、誰とでも仲良く話せる。友達いっぱいいるし」 「ええ…? そう思うか?」 「うん」 幼少の頃から、確かに修司は独りでいる事も多かった。けれど、他人とうまいコミュニケーションが取れずに独りでいる友之とは、明らかにその質が違っていた。それは友之の目から見てとても明らかなものだった。 友之は好き好んで独りでいたわけではない。けれど修司は自ら独りになっていた。実際は彼と話したがっている、仲良くなりたがっている人間はたくさんいたのに。 「まぁ、とにかく俺は普通の感覚しか持ってないからさ。ああいうのは嫌いって話」 再び友之の頭をよしよしと意味もなく撫でて修司はそう言った。 「あ…」 すると友之としても修司が嫌だと思っているならと、ふと先刻の事を思い出してそのまま告げる。 「あの中の人で…修兄の写真撮ろうとしてる人、いたよ…?」 「んー?」 「嫌…?」 「……まぁ、そりゃ嫌だけどな」 友之が段々と過剰に心配し始めた事に修司も気づいたのだろう、ここまでちらりと見せていた陰鬱な部分をさっと隠すと、修司は「いいよいいよ」と大袈裟に手を振って友之に持っていた缶コーヒーを渡した。友之は何ともなしにそれを素直に受け取った。 「まぁ、どうしても撮りたいんなら別にいいよ。勝手にしてくれって感じ? もう二度と会う事もないんだろうし」 「……でも修兄、見られるの嫌だって」 「そりゃ嫌だよ。全然こっちが知らない人からじろじろ見られたら怖いじゃん? トモだってそういうの好きじゃないだろ? けど、しょーがねえよ。嫌な事全部避けて通れる人生なんてあるわけないもんな?」 だからトモはそんなどうしようって顔しないで、と。 修司はいよいよ困った風になると、ジーンズのポケットから車のキーを出し、「そろそろ行くか」と言って先を歩き出した。 友之はその修司の先導に慌てて後を追ったのだが、どうにも気持ちは煮え切らないままだった。 彼女たちの黄色い声は驚くべきしつこさで、2人が車を出してパーキングエリアから外に出るまで、ずっと聞こえていた。 行かないなら俺1人で行くと友之に告げた修司は、それ以降度々家を抜け出しては、数日間帰ってこないという事を繰り返した。修司の放浪癖は元々高校を卒業する以前から既に何度もあった事だ。 だからその謎の「失踪」は北川家の食卓でも何度か話題に上った。光一郎の親友であり、少なからず夕実や友之も関わっている少年の事だ。友之たちの母である涼子も、近所から「また修司ちゃんがいなくなった」という噂を聞き出してきては、「今度は何処へ行っちゃったんだろうね」と心配そうにその話を皆に振った。 「どうでもいいよ、あんな奴」 けれどその度夕実はお決まりのそんな台詞を吐いたし、光一郎でさえ「そのうち帰ってくるし」と素っ気無かった。父親に至ってはそれは誰だという勢いで無言、友之はそんな家族の反応を黙って窺うだけだった。 ただ、「修兄は凄いな」とは、いつも思っていた。 どうしてそんな風に1人で何処かへ行くなどという事が出来るのか。友之にとって修司の行動は想像の範疇をいつも軽く超えていた。家族が心配するかもしれないとか、親や先生から怒られる事が怖くないのだろうかとか、当時の頭で考えうる限りの「要は家出なんてしない方がいい」理由が友之の思考からはぽんぽんと出てきた。 それでも心の片隅ではそんな修司を「羨ましい」と思い、「どうしてそんな事が出来るのか」と不思議で、尊敬で、カッコイイと感じていた。そう、修司はいつでも友之にとって「カッコイイお兄ちゃん」だったのだ。皆から慕われて遊びの誘いもよく受けるのに、あっさりとそれを断って1人きりで本を読んだりする。上級生・同級生・下級生…、年など関係なくたくさんの女の子たちからモテているのに、それをハナにかけるでもなく涼やかに笑ってその誰からの好意もさらりと受け取り、そして受け流す。カメラの腕は一流で、バイクに乗って全国を旅して、色々な土地に知り合いがいる。友達を作るのが本当にうまい。 そして何より、修司は光一郎から絶対的な信頼を得ている。 凄い。修兄は凄い。修兄に出来ない事なんてきっとない。 「こんな暗闇にずっと潜んでたら、そのうち目なんて要らなくなるな」 母を亡くし、光一郎や夕実にも去られ、父からは無視されていた時。友之のあの不登校をしていた中学時代、誰もが友之への触れ方について迷いを抱いていた。 けれど修司は躊躇う事なく友之の傍に寄って行って、遠慮も何もなくそう言った。 そのうち目なんて要らなくなるな。 「ほらトモ。これやるよ。偶には外の景色もいいもんだろ」 そのくせ自分が旅してきた土地の風景写真を持ってきては、修司は膝を抱える友之に「これでも見てな」と、その役立たずの目玉を使うよう促してきた。 あの時、修司がいたから、友之は独りにならずに済んだ。あそこから救い出してくれたのは光一郎だけれど。修司を呼んでくれたのもまた光一郎なのだけれど。 けれど最初にあの闇に光を照らしてくれたのは修司だから。 「修兄は凄いな…」 だから友之から修司への絶対的な憧憬の念は決して消える事はない。修司には逆らえない、そう言った友之の言葉に嘘偽りは全くなく、もしも本当に修司が友之に何かを求めてきたならば、それが何であろうと友之はそれを決して払いのける事は出来ない。 それくらいの絶対の存在感が修司にはあった。友之にとって修司は確かに大切で必要な人なのだ。 「コウ君ね、もう新幹線乗ったって。遅くとも20時にはこっち着くんじゃないかな」 大きなキャベツを丸々1個まな板に乗せ、その青々とした葉を豪快にべりべりと剥いていきながら修司が言った。 服装は家を出て来た時のままだが、それらの上に持参してきたエプロンを身に着けて、今や修司はすっかり今晩の「夕食請負人」だった。 高速を降りてから更に数時間くねくねと折り曲がった山道を上り下りし、修司が友之を連れてきたのは、緑の深い山里にあるログハウスだった。過疎化の進んでいるその土地は空き家となった木造りの田舎家を改造して、そこをアウトドア等を楽しみにきた若者に低料金で丸々貸し出してくれるそうだ。「物凄く安い!」―修司が嬉々として言う反面、その見返りとして食事は当然の事ながら自炊、周囲には殆ど何もないのでそこに来る前に駅周辺のスーパーなどで大量に食材を買い込んでおかないと後で面倒な事になる。 ただ修司はこういう所を利用するのが初めてではないのか慣れたもので、「だからこいつが便利なの」と言って、周りに誰も停めていない空き地のような場所に乗ってきた車を停め、そこから数メートル離れたそのコテージに友之を押し込むと、「さあ今日は飲むぞー!」と気合の入った声を上げた。 友之は修司の夕飯の支度を手伝いながら、落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回した。 旅行、というから漠然とどこかの旅館やホテルに泊まるのかと思っていたから、何だか意外な気持ちがした。 けれど、こちらの方が断然良い。気兼ねをしなくて良いし、家の中もエアコンで除湿等せずともヒンヤリとしたすっきりした空気が外から流れこんでくる。そして何より外の景色が興味深い。道路はきちんと舗装されている割に周囲は青々とした森が広がり、少し離れた所には地元の農家が管理しているのだろう、りんご畑が延々と続いている。その周辺にあった自家菜園の野菜直売所も物珍しくてもっと見ていたいと思ったし、石段を登った先にあるという神社にも関心がいった。 とにかく、何もかもが楽しそうだ。 自然に囲まれたのどかな風景を眺めつつ修司や光一郎と一緒に過ごせるなんて考えただけでわくわくする。修司は、明日はこの近くで出来る渓流釣りに挑戦しようと言っていた。更に少し頑張って歩けば、勾配の緩やかなハイキングコースとぶつかり、ちょっとした湿原から綺麗な草花もたくさん見られると言う。絶対にそこへも行きたい。きっと修司が撮りたいと思うような景色もたくさん見られるに違いない。いつも忙しく大変そうな光一郎だってのんびり出来るに決まっている。 「夕飯の下ごしらえだけ済ませたらさ。まだちょっと早いし、その辺散歩行こうか」 既に色々な事に想いを馳せて暫しその場から遊離しているような友之に修司が声を掛けてきた。 「散歩?」 友之はそれでぱちくりと我に返って修司に問い返したのだが、修司はそんな友之に勝手知ったるような顔で「今日が移動だけじゃ勿体ないじゃん」と笑った。 「どうせ夕飯はコウ君待つって言うだろ、トモは。駅まで迎えに行くのは携帯に連絡入ってからでいいし。それともここでのんびりしてる方がいい?」 「ううん。外がいい」 「そう言うと思った」 修司は笑いながら再び視線をまな板へ移し、ざるの中に山と盛られた新鮮な野菜を次々と切り始めた。 友之はその鮮やかな手つきに暫し微動だにせず見惚れていたが、ふと思い出したようになって顔を上げた。 「修兄、カメラは?」 「ん?」 「散歩の時、持って行く?」 「ん、今?」 「うん」 買い物袋も含めて荷物を車から下ろしここへ運びこんだ時、修司のあのいつものバッグは見当たらなかった。修司は使っているカメラも同じなら、それを収納しているボストンバッグも大抵替えていないから、それの有無は友之にもすぐに分かるのだ。 「散歩の時、撮る?」 どうしてかしつこくなってしまいながら友之が再度訊くと、修司は何という風もなく「うん」と頷いた。 「……っ」 友之はその返事に自分でも驚くほどに安堵し、思わずふわっと笑顔を零した。 「……トモ」 すると修司はそんな友之に困ったような顔を見せ、それからおもむろに包丁を置くと「参ったな」と前髪をかき上げ、そのまま額を拭うような所作を見せた。 「何か心配してんの?」 そうしてストレートに訊いてくる。友之はそんな修司にドキリとしたけれど、別に隠す事でもないだろうとそのまま告げた。 「修兄が写真撮らなくなったって」 「誰が言ったの?」 「……ある人」 「ある人って?」 「ある人」 由真の名前を言って良いか分からなかったのでそこは濁したが、友之のそんな誤魔化しは修司には勿論、誰に対しても通用しないだろう。 はっと小さな嘲りのような笑いを零して、修司は「だからね」と友之からは視線を逸らし、シンクに片手を乗せて呟いた。 「自分の知らない所で自分の事見られたり話されたりしてるのは、あんまりいい気分じゃないんだよ。仕方ないなあとも思うけどね。……そうか、俺が撮らないって、噂になってる?」 「う……わさ、かは、分からないけど」 「でも気にしてる人がいた?」 「僕が気にして…」 由真が悪い風に思われたら嫌だと思って友之は慌てた。 修司が由真をフッて以来、友之と修司の間で直接彼女の話題が上った事はない。けれど、その後も友之が彼女と友人関係を続けている事は修司も知っているだろうし、修司が現在どういう生活を送っているのかを彼女が何らかの「情報網」を通じて心得ている事も、修司自身、知っているに違いない。 それでも修司は由真の話をする事を好まない。そうはっきり言われたわけではないが、友之には分かる。きっと由真の事を持ち出したら修司は怒る。 ただ写真の事はどうしても気になったのでつい訊いてしまった。 「別にやめたわけじゃないよ」 修司が言った。 「元々始めたのだってどこが始めか分からないようなもんだ。だから終わりだって、“これが終わり”って言って終わるもんじゃない。人生と同じだよ、トモ。俺は別に写真をやめたわけじゃない。けど、始めていたわけでもない。―そういう事だ」 「どういう……こと?」 分からないという風に友之が眉をひそめると、修司はにこりと優しげに笑んで、あのパーキングエリアでやったように友之の頭をゆっくりと撫でた。 友之がそれにおとなしくされるがままになっていると、修司は不意にぴたりと手を止めてあっさりと言った。 「それにもう、今のトモには必要ないだろ」 「え…?」 「俺の写真。トモにはもう必要のない物じゃん?」 「何で…」 驚いて思わず声が掠れると、修司はそんな友之に途端目を細めて、それからぱっと手を離した。 「トモに必要ないなら、俺にはもっと要らない物なんだ。だから撮らなくなっただけ。んん、違うかな? 撮れなく、なっちゃったのかな」 「何で、要らないわけないよっ」 咄嗟に声が大きくなって友之は自分でも驚いた。けれど修司のその発言の方がもっと驚きだし聞き捨てならなかったからついムキになった。どうして修司がそんな事を言うのか分からない。どうして自分にはもう必要のない物だなんて言うのか、全然さっぱり分からない。 そんな事一度だって思った事がないし、勿論これからだって絶対に必要な物だ。 絶対に失いたくない。 「修兄の写真、要るよっ」 「んー、うん。だから、今回はちゃんと撮るよ。今のトモが喜びそうなもの」 「それ何? 今までと何か違うの? 今の僕がって何? 前と違うの?」 「うおっ…」 友之が矢継ぎ早に質問してきたのが珍しいのだろう。修司が圧倒されたようになり、笑いながら大袈裟に後ずさりをして見せた。「トモ、怖い、何なの?」……そうおどけたように問われて、けれどそのせいで友之はますますカッと頭に血が上った。何だか修司に酷い事を言われているような、とても悲しい事を言われてしまったような、そんな気持ちになって心が追いつかない。怒っているというよりは殆どパニックのような状態になっていた。 修司に、「もう俺はいなくても大丈夫でしょ」と軽く言われたようで。 本当に今度こそ、修司は独りでどこかへ行ってしまいそうで。 「修兄―…、修兄……バカっ!!」 修司に逆らった事など一度もない。修司は友之にとって絶対の存在で、憧れで、大好きな人。光一郎にはムキになった事がある、でも修司にはなかった。そういう機会を与えられなかったというのもある。修司はいつもふわふわとしてどこか掴み所がなかったから。 けれど今は、それが酷くもどかしい。 「何かさぁ、俺トモのこと怒らせちゃったみたい」 20時になる前に光一郎は友之たちの元へ到着した。うまい具合に特急との連絡が繋がったからと言う事だったが、そもそも修司が1人で駅に迎えに来た事、夕飯の時もむっつりとして黙りこくり、後は隣の部屋でごろりと不貞寝をしてしまった友之に、敏い光一郎でなくとも何があったかは一目瞭然というものだったから。 だから修司も、傍にゴロゴロと並べたビールを片手に、包み隠さず先刻の事を光一郎に報告していた。 「バカじゃねえ」 光一郎のぶっきらぼうな声が隣室にいる友之にも聞こえてきた。 むくりと起き上がってそちらに注意を向ける。修司はそんな親友にふざけたような笑いで返し、光一郎は光一郎で何が面白いのかやはり笑って、しきりと修司の事を「バカだ」と言ってからかっていた。 何が可笑しいのか全然分からない。 「……バカ」 もう一度、2人には聞こえないくらいの小さな声で友之は呟き、傍にあったタオルケットを引っ張ってきて身体にくるまり、小さくなった。 今さらどの顔をして2人の前に出て行けば良いか分からない。けれど、特に謝ろうという気持ちにもなれない。 珍しく意固地な気持ちを抱えたまま、友之は光一郎が「トモ、風呂入ってから寝ろ」とまた親のように煩く声を掛けてくるまで、その場に微動だにせず目を瞑り続けていた。 |
To be continued… |
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