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友之が慌てた思いで外へ出ると、そのすぐ目の前に光一郎はいた。 「おはよう」 「お…おはよう…」 淡々とした光一郎の態度にどもりながら何とか挨拶を返し、友之はどっと身体から力を抜いた。何せ、目を覚ますと狭いコテージの中、どこを見回しても2人の姿が見えない。時計の針はまだ6時も差していなかったし、未だ早過ぎるから起こされなかっただけというのは明白なのだけれど、見知らぬ土地で急に1人きりを実感してしまうとやはり心細い気持ちになった。 昨夜は散々いじけて、しきりと謝る修司にもロクに返事もしなかったくせに。 「腹減ったか?」 光一郎はコテージを出たすぐ傍、ここへ来た時にもすぐ目についた大きな岩の上に腰を下ろして煙草を吸っていた。普段アパートにいる時は滅多に吸わない。本人も「大して好きでもない」と言っている。 それでもふとした時、こうして友之のいない所で喫煙をする事が光一郎にはままあった。 「ううん…」 平気だと首を振りながら友之は木造りの小さなステップを下り、砂利道を隔てた向かいにいる光一郎の傍へ寄って行った。未だ眠った時のTシャツ、スウェットパンツ姿の友之とは違い、光一郎は既に着替えていて髪の毛にも寝癖などの乱れは一切ない。 それでもどこか気怠げに見えるのは、昨夜随分と遅くまで修司と飲み明かしていたせいだろう。それで煙草など吸って余計気持ち悪くならないのだろうかと、友之としては単純に不思議だった。 「今あんまり近づくなよ。煙草と酒の匂い、凄いだろ?」 友之が寄ってきた時点で煙草の火を消した光一郎は、しかしまさかこんなに早い時間から友之が起き出してくるとは思っていなかったのだろう、どこかばつの悪い顔をしながら周りの空気を掃うように片手を振った。 友之はそんな光一郎にまた緩く首を動かした。 「全然大丈夫。それに煙草…、修兄ので慣れてるから」 「慣れるなよ」 正人が怒るぞと笑ってから、光一郎はすっと目の前に続く通りの道へ目をやった。 このコテージに至るまでの道沿いには、同じような木造りの建物がぽつぽつと並んでいたが、両脇を大木に囲まれたこの辺りにだけは人の気配がない。ただ静かで、朝のヒヤリと澄んだ空気だけが肌に触れてきて心地良い。だから友之には光一郎が言うような不快な匂いは一切感じられなかった。 「お前が煙草やめてくれって頼めば、あいつもちょっとは控えそうなのにな」 完全にやめるって事はしないだろうけどと付け足し、それから光一郎は再び目線を自らの目前で突っ立っている友之へと向け、小さく笑った。 「昨日は笑ったな」 「何が…?」 「お前が修司を怒るなんてさ。そんな事もあるんだな…。いや、お前が怒るのは当たり前なんだけど」 「怒ってないよ」 「ん…? もう修司のこと、許してやるのか?」 光一郎が瞳の色を和らげてそう訊くのを、友之は何故かからかわれているように取って眉を寄せた。 昨夜も2人はさんざっぱら、いじけて不貞寝する友之を酒の肴に盛り上がっていた。むしろその事の方に友之はむっとしてしまって、後半は修司を「怒った」というよりは、2人に対して不機嫌になったところもある。 大体、修司を心底から「怒る」などと、出来るわけがない。 ただ堪らなく不安になったのだ。あんな風に言うから。 「元々怒ってない…っ。修兄が、ちょっと意地悪、言ったから」 「だから怒ったんだろ?」 「怒ってない!」 ムキになって声を大きくすると光一郎が意表をつかれたように目を見開き、口を噤んだ。 それによって友之は自らもハッとして黙りこんだのだが、そうなると途端、ついさっきまで落ち着くと思っていた辺りの静寂が気になった。 友之は焦った風に視線を左右へと彷徨わせた。 「しゅ…修兄、は…?」 だから先刻から思っていた事をようやく口にした。光一郎はその発言で再び何やら可笑しい気持ちがしたようで、くっと喉の奥で笑みを含むと「さあな」と答えにもならないような答えを言った。 「え…?」 「『ちょっと、気持ち悪い』とか何とか、訳の分からない事だけ呟いてどこか行ったよ。車に乗って行ったから、駅前のコンビニにでも行ったんじゃないか」 「車の運転なんか……大丈夫なの」 一度夜明け近くに何となく目が覚めた時、光一郎たちは依然として酒盛りをしていた。さすがに友之が起きていた時のような笑声の混じった話し声はなかったけれど、ぽつりぽつりと続いているような会話は淀むところがなく、永遠に終わらないのではと思わせた。猛烈な眠気に勝てなくて2人の会話の内容までは分からなかったけれど、薄ぼんやりとした意識の中で、2人は本当に仲が良いのだなと思ったものだ。 友之にはあんな風に夜通し語り続けられる友人はいない。数馬や沢海、それに橋本あたりは基本が話し上手だから、無口な友之相手でもうまく時間をやり過ごす方法を知っているだろうし、もしも友之が「徹夜で語り通してみたい」などと持ちかけたら、彼らはきっと喜んでそれに付き合ってくれるに違いない。 けれどきっと、それは光一郎と修司が自然と醸し出しているような無理のない空気とはまた違うものになるのではないか。 「大丈夫だろ。あいつが飲んだのは最初の一杯だけだし」 「え…?」 ハッと我に返って顔を上げると、光一郎はもうとうに友之の方を見ていた。 「俺くらい飲んでたら車の運転なんかさせるわけないだろ? ……ああいうのは、いつもの事だ」 「ああいうのって…」 「素面のくせに『気持ち悪い』って悪酔いすること」 友之の反応を待たずに光一郎は更に続けた。もう視線は何処でもない遠くへと向けられている。 「どこまで本当なんだかな。俺も時々分からなくなるけど……まぁ、基本神経質な奴だから、ああいう時は酒が入らなくても素が出るのかも」 「………」 ああいう時というのは、つまり光一郎と2人でいる時、という意味だろうか。 ぼんやりとそんな事を考えながら友之は早々に煙草の吸殻を携帯灰皿に捨て、後はそ知らぬ風の光一郎をまじまじと見つめやった。 本当に何気ない発言だったけれど、光一郎はやはり修司の事をよくよく分かっているのだと思った。修司が「神経質」な人間だなんて、普段彼と接している殆どの人間にとっては俄かに頷き難い発言だ。ここ数日、修司の気分が激しく浮き沈みしているのを目の当たりにした友之だからこそ、素直に「分かる気がする」と黙っていたが、もしあれらの事がなかったら、修司が神経質だなんてと首をかしげたのは間違いない。 「修兄って……コウは、どんな人だと思う?」 「はぁ? 何だよ、急に」 「教えて」 その突然の問いに光一郎は当然釈然としない顔を見せたものの、頑固に急かすような眼差しを向ける友之には素早く何かを感じ取ったようだ、暫し考え込んだ後、「まあ…」と濁すように呟いてからさらりと答えた。 「フラフラした奴だけど、しっかりしてるところもあるよな。無謀なようでいて意外に慎重だったり。トモはどう思うんだ?」 「慎重…かな? 昨日、高速で凄く飛ばしてた、けど」 「本当か? 普段はそんな事ないはずなんだけどな。あいつ、バイクであっちこっち走り回ってる割には、事故とか違反も全くないだろ? …昨日のそれは、きっと正人への嫌がらせだ」 「え?」 友之が怪訝な顔をすると、光一郎は昨日の2人飲みで聞いたのだろう、正人がさんざん出かける前の修司の所へ連絡を入れてきて、「絶対に飛ばすな」、「事故なんか起こしたら承知しない」、「さっさと帰れ」等々、どこの神経質な父親だというくらいの勢いで説教まがいの注意事項を吐き捨てて行ったらしいと話して聞かせた。日曜日の時も随分と機嫌が悪かったから、正人としては本心から「3人で旅行」が許せないのだろう。 友之は「アラキ」を出る前の正人の仏頂面を思い浮かべながら、ようやく足を動かして自分も光一郎がいる岩の隙間に腰をおろした。光一郎も友之が座ろうとするのを見て、自分のいる位置をさっとずらした。 「正兄も来られたら良かったのにね」 「4人で? ……凄い事になりそうだぞ」 嫌だとは言わないけれど、大変なのは自分だとでも言わんばかりに光一郎は苦笑した。 友之はそんな光一郎の顔をまじまじと見やりながら「コウは」と何気なく訊いた。 「修兄と正兄だと、どっちが1番の親友なの?」 「はぁ…?」 「どっちがいっぱい話してる…?」 「いっぱいって…」 思わず噴き出すように光一郎はふっと笑い、身体を揺らした。友之自身は別段冗談を言っているわけでも何でもなかったから何故笑われたのかと不思議だったが、その意も込めてじっとした視線を送り続けていると、光一郎の方もやがて笑みを引っ込め、一度だけ間を取るように咳き込んだ。 「トモ。いっぱい話してるかどうかは、あんまり関係ないんじゃないか」 「そう…なの? でも、仲がいいからたくさん話せるんだろうし…」 気まずい関係だったら会話など長くは続かない。無論、ずっと話し続けていなくてはならないわけもないだろうが、「共にいて楽だから」と、一緒にいる時間の多い相手は、それだけ「親友」というものに近い存在な気がした。 その点で言うと、光一郎は修司とも正人とも同じくらい一緒にいるが、どちらかと言えば、話している時間が長いのは修司の方に思える。 「コウは修兄といる時の方がよく喋るよね」 「そう見えるか? …あいつ煩いからな。つい言い返したくなるんだよ」 皮肉気に唇の端を上げた光一郎は、しかし満更悪い気もしていないようだった。 それでもすぐに友之の方を見ると、「でもな」と言って先を続ける。 「確かに昨日みたいに一緒に飲む時、俺がよく話すのは修司の方かもな。けど、だからって正人が修司より親友じゃないかって言われたら、それは違うんだろうし。正人といる時は余計な事話さなくていいんだよ。あいつは修司と違って『何で何で』って訊いてこないから。だから話さないだけ。そういう意味では楽だな」 「楽…?」 「それにあいつ、分かりやすいだろ?」 これは内緒だけど、あいつって結構可愛いよなと光一郎は笑い、おもむろに友之の頭を撫でた。 友之には今イチよく意味が分からなかったのだが、光一郎から撫でてもらえた事は単純に嬉しく、ぽっと胸の奥が温かくなった。 そして、そうなると調子に乗ってどんどん訊いてみたくなる。修司が光一郎に子どものように何でと訊ねまくるなど初耳だが、友之としても光一郎には常にどうしてと訊きたくなった。きっと光一郎が全ての答えを持っている気がするからだろう。 「それじゃ、修兄といる時は楽じゃないの?」 「お前なぁ…そういう意味じゃないだろ。楽じゃない奴とこんな風に旅行するか? 第一、嫌いな奴と朝まで飲まないよ、俺は。楽しいから飲むんだろ?」 「昨日楽しかった?」 「いじけて不貞寝したお前には悪かったけど、その話が一番ウケたよな。それで修司が落ちてるところを見るのも面白かったし……あ、これは意地悪とかじゃないからな、お前何でもそのまま受け取るから―」 「修兄……落ち込んでたの?」 光一郎の言葉を遮って友之は思わず口走った。咄嗟に「嘘だ」と思ったし、第一心底から落ち込んだのは自分の方だったのだから。 だからこそ、2人が能天気に笑いながらその話をしていた事にもむっとしたのだ。 「トモ」 すると光一郎は勝手知ったるような様子で再度友之の名前を真面目に呼び、それから酷く優しい表情のまま友之の掌を軽く叩いた。 「当たり前だろ? 1番好きなお前に無視されたら、そりゃあいつだって堪えるに決まってる」 「………1番」 「何だよ?」 「1番じゃ、ないよ」 「……それ、修司には言うなよ?」 やや引きつったような顔をして光一郎はたしなめるように言った。 けれど友之は友之で何とも納得出来ず、ついまたムキになって聞き返した。 「コウは修兄のこと、好き?」 立て続けに発せられた会話の中で何故突然そんな事を口にしたのか、友之は自分でもよく分からなかった。 それでも気づいた時にはそれを訊いていて、その問いに対する光一郎の答えが一体どんなものなのか、気になって心配で胸がドキドキした。逸る気持ちのせいか、気持ちと裏腹に唇はどんどんと動いたのだけれど。 「修兄はコウの事が好きだよ。2人は違うって言うけど……そうだよ」 「……そうか」 これに似た遣り取りはつい数日前にもあったし、友之が「それ」にこだわっているのは光一郎も既によくよく知っている事だから、今さら驚いた顔は見せなかった。ただ「まだそんな事を言っているのか」というような呆れたような、困ったような顔はちらりとだけ見せた。友之はそんな光一郎にますますどうして良いか分からずに思わず下を向いたのだが、先刻軽く叩かれた掌が今さらじんと何かを訴えてきたような気がして、それだけぴくりと動かした。 「俺も修司の事は好きだよ」 光一郎が言った。 友之が弾かれたように顔を上げると、光一郎は「ほらみろ」と言わんばかりの様子で友之の頬をさらりと撫でた。 「お前が訊いてきたくせに、そんな泣きそうな顔するなよ」 「し、してない…」 「自分じゃ見えないだろ。してるんだよ。“そんなの嫌だ”って顔してるよ」 「してないっ」 「あのなぁ、トモ」 光一郎はここでは完全に友之を子ども扱いだった。しきりと友之の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜながら、宥めるように言い含めるようにゆっくりと言葉を出す。 「あいつ、とんでもない奴だけどな。時々、そのせいで物凄い迷惑被る事あるし。―あぁけど、それは正人も一緒でさ。今でこそすっかり落ち着いて、お前の親父代わりみたいな面してるけど、高校の時はそりゃ酷かったよ。正人のせいで、俺まで何度変な奴らに因縁つけられたか知れないし」 「そう、なの…?」 「そう。だから、むかついた事も何度もあったし。いい加減にしろってキレて喧嘩した事もある。修司も正人も、どっちとも」 友之がじっと黙って話を聞いているのが分かっているのだろう、光一郎は淀む事なく流れるように言葉を紡いだ。 「けど、それは向こうにしても同じ事で、修司なんか特に俺には何度もキレてるよ。単なる言い掛かりだって思う事もあれば、あいつがキレるのももっともだって認める時もあった。……要は、切れたり戻ったり、その繰り返しなんだ。ずっとは一緒にいられないな」 「ずっと……」 「けど、そういうのも全部ひっくるめて、あいつらは俺に必要な奴らだと思うよ。修司も正人も。そういう意味での“好き”だよ。分かるか?」 「………」 「お前への気持ちとは違うって事だ」 「でも修兄は…」 友之が咄嗟に言い返そうとするのを、しかし光一郎はかぶりを振って止めた。 「トモ、お前考えた事あるか? ……まぁ俺のせいで考える間なんてなかっただろうけど。けど普通はな、どんなに息が合った親友だって、互いが必要だ、大切だって凄く想い合っていたとしても、だ。普通は、俺とお前がしているような事をしたいと思うような関係にはならないよ。ああいうのは……普通とは違う。普通じゃないんだ」 「普通じゃない…?」 どきんとした。 “俺とお前がしているようなこと”―即ち、光一郎と時々交わす、身体を繋げる行為―…セックス。 それが「普通」の事だとは、友之とて思ってはいない。初めての時などは特に訳が分からなかったし、そのくせやたらと感じた己の身体を異常と思い、酷く悩んだ。そのせいで光一郎に嫌われるのではないかと怖くて怖くて仕方がなかった。 行為を重ねるようになってからとて、それは変わらない。いつもどこかでどうしよう、恥ずかしいと感じていた。光一郎とする事は嫌いではない、むしろその時だけは絶対にずっと一緒だという確信が得られて泣きたくなるほど嬉しい。けれど。 「普通」というものには昔から常に憧れていた。 普通の家庭、普通の生活、普通の……自分。 けれどどこか生き難い毎日の中で、もう大分前から薄々勘付いてはいた。分かっていた。自分は「普通」ではないし、自分の家族も周りとは少し「違う」。家族なのに他人のようによそよそしくて、母が死んでしまったらあっという間に、それこそ本当に簡単に、みんながみんな、バラバラになった。家族が家族でなくなった。 そして拠り所をなくした友之は、その全部を光一郎1人の身体に求めて、光一郎に父の役も兄の役も、それに自分一人をひたむきに愛してくれる恋人の役までもを望んだ。自分がここにいてもいいのだという絶対の安心を得る為に、いつでも光一郎からのキスや愛撫や、己の体内を侵食される事を強く求める。 そう、そんな自分は明らかに「普通」とは違う。光一郎との関係も「普通」の兄弟ではありえない。ずっとずっと欲しかった、「みんなと同じ」ものとは違う。 「トモ」 やや青褪めている友之の表情から、何を考えているのかは容易に分かるのだろう。光一郎がゆっくりとした落ち着いた口調で呼んできて、暗に自分の方を見るよう促してきた。 「…ぁ…っ」 友之がそれに誘われるように顔を向けると光一郎はどこか困ったように優しく笑って見せてから、しなやかな指先で少し伸びてきた友之の前髪に触れた。 「あのな…、うまく言えなくて悪い。お前が普通じゃないって言ってるわけじゃない。それは違うんだからな。……俺がおかしいんだ。だからお前は何も悪くないし、余計な事を考える必要もない」 「でも…っ」 「俺がおかしいだけだから」 光一郎の言葉に友之はくしゃりと表情を崩した。何故かは分からないけれど、光一郎は時々酷く自虐的になる。いつでも悪いのは自分だけで、友之は悪くない。そういうスタンスを崩さない。そんなわけはないのに、光一郎はいつでも友之を守る為に自分だけを悪者にしようとする。 けれどそれも、結局の原因は弱くて堪え性のない自分にあるのかと思うと、友之はこういう時いつも居た堪れない気持ちになった。 「ああ、悪い悪い。何でこんな話になっちまったんだろうな?」 友之が泣きそうな顔をして光一郎はますます参ったという風に苦笑した。 そうして誤魔化すように友之の身体を背中から大袈裟に抱いて自分の元へと引き寄せ、わしわしと髪の毛をまさぐる。 「コウ兄…っ」 友之はそんな珍しく豪快な所作を取る光一郎に翻弄されて焦った声を上げたが、離れたいわけでもなかったから逆らいはしなかった。光一郎の胸元に顔を寄せ、無理に引き寄せられたそれにも却って安心を覚えた。決して離れたくないと思う。光一郎の呼吸をもっと近くで感じていたいと思った。 「もし普通だったら……」 「ん?」 だからつい何気なく呟いた事だったのだが、光一郎はすかさず友之の声に気づいて顔を向けてきた。 「どうした?」 だから友之もさっと顔を上げ、途惑いながらもぽっと頭に出て来たその結論を口にした。 「本当は…あの、本当は、前からずっと普通になりたいって……思ってた。けど、でもそうじゃなくて良かった。ふ…普通、だったら……コウとこうして、一緒にいられなかったんでしょ?」 「トモ―…」 「普通の家じゃなくて、良かった。僕も―」 「……バカ。お前はおかしくないって言っただろ」 友之の言い掛けた言葉を掻き消して光一郎は再び強く友之の身体を引き寄せた。そのせいで光一郎の顔はもう見えなかったけれど、どこか声を詰まらせたような口調が気になって、友之は必死に顔を上げようとその胸の中でもがいた。 光一郎はその時の自分の顔を決して友之に見せてはくれなかったけれど。 光一郎と友之は2人で朝食の支度をして食べずに待っていたのに、修司は戻ってくるなり「気持ち悪い、吐きそう」と言ってその場で突っ伏して動かなくなってしまった。 「修兄…大丈夫かな…?」 「単なる寝不足だろ。昨夜だけじゃなくて最近そんな寝てなかったみたいだし」 友之は隣室で「うー」とか「あー」とか苦しそうな息を漏らす修司が心配で堪らなかったが、光一郎はあくまでも冷淡だった。「折角待っててやったのに。無理矢理口に詰めてやろうか?」などと普段は決して吐かないような毒まで投げつけて、自分一人しれっとした顔でトーストを齧り始める。 友之は修司の事が気に掛かって朝食どころではない。楽しみにしていた渓流釣りの事もすっぽりと頭から消し去り、自分に出来ることはないかと無駄にオロオロした後、とりあえずはと水の入ったペットボトルだけを持って修司の元へ向かった。もしかして修司がこうなってしまったのは、早朝光一郎が言っていたように、自分が素っ気無い態度を取り続けたせいかもしれない。修司が本当に「落ちてしまった」のだとしたら、今の修司のこの苦しみは全部自分のせいだと思った。 きちんと謝らなければ。考えてみれば、修司ももう二度と写真を撮らないと言ったわけではない。あんな言い方をされて傷ついたし怖くなったけれど、きちんと聞き直せばまた違った答え方をしてくれていたかもしれない。それをせずただ悪い態度だけを取ってロクに口もきかなかった事は明らかに間違っていた。 「修兄」 水を持ってそろそろと修司が突っ伏している場所へ近づく。そこは友之が昨夜眠っていた場所で、未だきちんと片付けていなかったせいで、敷布団もタオルケットもその時のままだ。修司はごちゃりと乱れたそれに構う事なく、ボコボコとして寝にくいはずであるのにタオルケットの上に無造作に身体を乗せ、死んだように目を瞑っていた。 「修兄…」 今この部屋に来たばかりなのにもう眠ってしまったのだろうか。膝をついて身体を近づけ、そっとその顔を覗きこむ。間近で見る修司の顔は相変わらずとても整っていて非の打ち所がないけれど、確かに心なしか顔色が悪いように見えた。いつも会う度喫煙する修司を思い出して、やっぱり少しは控えて欲しいとお願いしようと心に決めた。 「トモ」 「わっ…」 けれどその時、修司が突然ぱちりと目を見開いて、がっつりと友之の手首を掴んだ。 「あ…!」 「捕まえたーっ!!」 驚いて反射的に身体を退こうとしたが手遅れだった。いきなり凄い力で友之を引っ張った修司は、そのままよろける友之の身体をがっつりと受け留め、羽交い絞めするように自分の懐に抱え入れてはしゃいだ声を上げた。 「トモーっ。んー、柔らかくていい匂いー」 「しゅっ…」 「だあめ、暴れちゃ! ホントは昨日だって一緒に寝たかったのにトモ怒ってるしさ。全然近寄れねェから、仕方なくあの酔っ払い兄ちゃんに付き合って一睡もしてないんだぜ? 死ぬっつうの。なぁ、だからこれから一緒に寝ようー? 昼くらいまではこうしていよー?」 「修兄っ…具合は…?」 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて胸の辺りがきつくなり、友之は咳き込みながら必死に修司を振り返りみようともがいてみせた―…が、兄からの拘束は緩まる事を知らない。むしろ友之が逆らえば逆らうほどそれが強くなる気がして、友之はやがて観念したように大人しくなり、自分を抱きしめる修司の手の甲にそっと触れた。 「修兄、具合悪いんじゃないの…?」 「悪かったに決まってんだろ? トモにあんだけ怒られちゃ」 「僕…怒ってないよ…っ」 光一郎からも散々言われた事なので、また「違う」とムキになって唇を尖らせる。 けれど修司は修司で触れられた手の甲を動かして逆に友之の手を握り締めると、更に声を上げて大袈裟な口調を発した。 「うーそだよ。トモ、怒ったじゃん。マジでびびった、トモもあんな風に怒るんだな。ああいう顔も可愛くて好きだけど、ずっとされたらさすがにキツイよ」 「ひっ!」 後ろから項の辺りに鼻を擦り付けられていると思っていた矢先、急にそこをぺろりと舐められた事で友之は素っ頓狂な声を上げた。 すると修司はそれで余計に調子に乗ったようで、今度は吸い付くように唇をつけて友之の首にキスをし、加えて身体のあちこちをくすぐるようにまさぐっては、「トモ可愛い」だの、「もう怒ってない?」だのと甘えたように繰り返した。 「お…怒ってないよっ。最初、から! やっ、お、怒って、ない…っ」 「ホント? 修兄ちゃんのこと、嫌いになってない?」 「なるわけないっ」 きっぱりと言い切った友之に、修司は背後からふっと息を漏らして笑んだ気配を寄越した。 「そう? じゃあ、改めてお願い。お昼くらいまでは一緒に寝よ? 午後からはちゃんと出掛ける準備するから」 「午後から…出かけられるの?」 「ん?」 友之が途端心配そうな声を出した事に気づいたのだろう、修司はようやく腕を離して、代わりとでも言うように友之の肩先を押し、こちらを向くよう促した。 「………修兄」 それに素直に従い、友之はごろりと身体を反転させて修司と面と向かうような形を取ると、恐る恐るという風に相手の顔色を見やった。 「具合悪いのは、本当でしょ?」 「んん? そんなの平気、単なる寝不足で疲れてるだけだから。2、3時間寝れば復活するよ。何? 心配してくれたの?」 トモはやっぱり優しいなと嬉しそうに笑って、修司は改めて正面から友之を抱きしめると、その髪の毛に顎先を埋めてきた。 「トモ」 それから子どもをあやすように友之の背中を何度となく緩やかに撫でて、「でも良かった」と笑う。 「これは真面目な話、さ。昨日のあれ、マジギレだろ?」 「だから…怒ってない…っ」 「じゃあ何なの?」 再び顔を寄せてきて、修司は瞳の奥に笑みを湛えながらもじっとした視線を友之に向けてきた。 「…っ」 友之はそれにすっかり焦り、敢えて視線を合わせないように修司の胸元にだけ意識を集中させた。それから、改めて問われた事を反芻してみた。 そう、別に怒ったわけではない。だから「何なの」と訊かれても、詳しい説明など出来ない。ただ修司の言い様がとてつもなく怖くて悲しかった。友之にもう俺の写真は要らないだろうとはっきり言われて、自分でも信じられないくらいショックを受けた。酷い焦りを感じたからこそ、あんな風に取り乱してしまった。 修司が何処か遠くへ―…自分から離れて行ってしまうようで、どうしようもなくなったのだ。 「……ふうん」 それら思った事を何とかたどたどしく説明してみると、修司はまるで他人事のようにそんな反応を返し、それから何を思ったのか一度だけぎゅっと友之の事を抱きしめて、再び視線を合わせるべく顔を寄せてきた。 そして言った。 「トモってさ。奇跡みたいな子だね」 「え…?」 「少なくとも、俺やコウ君にとってはそうだわ。ふうん、そうか。じゃあトモも少しはまだ、俺の事が必要なのかな」 「……っ。当たり前だよ!」 「あー、ほら。また怒った。でも可愛いー」 「修兄っ!」 友之は自分でもこんな声が出せるのかと驚くほどの大声で修司を呼んでいた。その事に心内でまた激しく焦りながらも、それでも修司から目を離せず、抱かれつつ自身でも修司にしがみつく事を止められなかった。 修司は光一郎を好きなのだから、きっと「トモはもういいや」と1度でも思ったら、絶対に二度と振り返る事なく何処かへ行ってしまう―…そう思った。 「はは……もう、なぁ。分かった分かった」 いつの間にか修司の拘束よりも強く縋りついていたらしい。必死な友之に根負けしたのか、からかうのもいい加減にしないといけないと感じたのか。 修司は何度も「分かった」と言った後、友之の額にちゅっと音のするキスをして爽快に笑った。 「一緒にいてやる。いてやるから、そんな顔しないで? それでさ、笑って『修兄ちゃん大好き』って言ってみな?」 「そん……あっ! い、痛っ、痛い、修兄っ」 不意打ちのキスを咎める間もない。修司は自らの顎先を友之の頭のてっぺんに持っていくとぐりぐりと戯れのように擦り寄せては、一方で身体も腕から足から雁字搦めに友之の肢体に絡みつけてきた。それは一見プロレス技を仕掛けられているように見えなくもなかった―…が、修司が友之「で」遊んでいるのは明白で、そんな兄の戯れに友之はいよいよ混乱してじたばたと暴れた。 「もう修兄…っ。離し…!」 「やーだよっ」 修司の拘束からは逃れられない。そうこうしているうち、狭い布団の上で2人は意味もなくあっちへゴロゴロ、そっちへゴロゴロと絡み合いながら「じゃれあった」。 「ふ…っ」 すると段々と友之もそうしている事自体が可笑しくなってしまい、修司によるきつい抱擁も全く気にならなくなって、やがて小さな笑い声を上げて自分から転がったりもした。修司が悪戯を仕掛けるように時折脇腹をくすぐってくるのもそれを余計に助長した。 「それで」 だから友之も、そして修司も。 「お前ら、いつまでそうやっていちゃついてるつもりなんだ?」 部屋の入口から呆れたようにそれらの様子を眺めていた光一郎が、そんな氷のような声を突き刺してくる、その時まで。 2人は子どものように抱き合って離れなかった。 「一生」 そうして冗談とも本気とも取れないような返答をする修司に光一郎がぴくりと眉を動かしても、この時は友之も「まずい」と思うよりは、何だか可笑しくて、やっぱりくすりとした笑いを漏らしてしまった。 「はぁ…ったく」 その為、光一郎もそれ以上2人を責める気力を失ってしまったのか、大袈裟に過ぎる大きな溜息をついた後は、「寝るなら静かに寝ろ」と、今度は自分が不貞腐れたように唇を尖らせ、踵を返した。 |
To be continued… |
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