―26―



「なんだあ。その湧井ってコは、トモの事が好きなわけじゃないのかぁ」
  光一郎が冷蔵庫にあった野菜や肉を何でも豪快に放り込んで作った鉄板焼きそばは、友之の学校生活の話をしているうちにどんどんとなくなった。
  いちいち皿に盛るのも面倒だと思ったのか、光一郎はフライパンごと2人の待ち構えるテーブルの上にそれをどんと置き、その後は自分一人、再びビールの缶を開け始めた。修司と友之はコーラだ。そもそもこの2人の「二度目の起床」が遅かったせいで昼食を取るのが遅くなったのだが、てきぱきと働く光一郎に対し、友之たちは完全なる「お客様」状態だった。
「最初は、トモを苛める不埒な輩は修兄ちゃんが懲らしめてやんなきゃって思ってたけど。それって結構可愛いよな。要はヤキモチなわけだ」
「ヤキモチ?」
  友之が皿に焼きそばを盛るのが異様に遅いせいか、その役目を担っているのは光一郎だった。友之が少し食べると、いつの間にかまた適度な量がのせられている。肉も野菜もバランスよく食べろとは亡き母の教訓だが、光一郎はそれを忠実に守って友之にそうした食事を取らせる事に余念がない。その上、修司が興味津々という風に学校の話を訊いてくるものだから、お陰で友之は休む間がなく、珍しく忙しい食事となった。
  この頃は光一郎もバイトや大学の勉強で忙しく、アパートにいる時の友之は大抵独りで食事をする。そうすると自然、テレビでやっている野球中継をつけっ放しにしたまま意味もなくだらだらとのんびり食べるのが常になる。
  だから今のこの状況は確かに「大変」なのだけれど、こうして2人の兄に囲まれ食べる食事は、いつもより美味しかった。
「ヤキモチだろ」
  必死に箸を動かす友之に修司は笑った。
「湧井サンはヒロム君の事が好きなんだろ? けど、当のそのヒロム君はトモの事ばっか心配して、トモばっかり構うわけだ。そりゃあ恋する女子としては面白くないだろうよ。だからトモに色々八つ当たりしたり、ちょっかい掛けてきたりするんだよ」
「別に八つ当たりなんかされてないよ」
「えぇ? お前、そんな色々言われてて、そう言う?」
  友之のやんわりとした抗議に修司が唇の端を皮肉気に上げて呆れた顔をした。
  それでも友之は図書室で真っ赤な顔をして去って行った同級生の姿を思い浮かべ、動かしていた箸を持つ手を止めた。
「拡のこと好きなんでしょ、なんて……言わない方が良かった」
「何で?」
「恥ずかしがってたし…」
「んなの、バレバレだっての。ま、俺も一瞬、もしかしてそのコはトモの事を好きなのかも? と思ったけど」
「それ、お前目線で見過ぎ」
  大して会話に入っていなかった光一郎がここで初めて横槍を入れた。
  友之にはどんどん食べろと言って皿に盛ってくるくせに、自分はもっぱらビールのつまみとしてほんの少し手を出す程度だ。昨夜から光一郎の酒量は明らかに度を越しているが、まだまだ治まる気配がない。そのくせケロリとして、顔色にも全く変化が見られないから不思議だった。よく飲むと言えば正人や修司、それに裕子などもそうなのだが、飲み過ぎれば正人は大抵顔に出るし、修司は頭が痛いと翌日になってからぼやいたりする。恐らく幼馴染面子の中で1番アルコールに強いのは裕子と思われるが、そんな彼女でさえ、気分にムラがある時飲み過ぎると、泣き上戸になったり愚痴を零して周りを辟易させる事がままある。
  けれど光一郎はこんな時でさえ平然として、結局昼過ぎまで惰眠を貪った2人の為に昼食の支度までしてしまう。相変わらず完璧なのだった。
「この後どうする」
  粗方食事が済んだ頃になって、光一郎が自らの空けたビール缶を潰しながら訊いた。友之も片付けを手伝おうと皿を重ねてキッチンへ向かう。
「勿論出るよ」
  そんな中、1人悠々と食後の一服を始めた修司は、だらりとした格好のまま手狭なキッチンで洗い物を始めた2人に当然という風に答えた。
「ちょっと寝過ぎちゃったからさ。まずはあそこに直行ね」
「そんなに行きたい場所か?」
「コウ君だって行きたいでしょうが?」
「別に…」
「何処行くの?」
  2人が勝手知ったるような顔をして続ける会話に、友之は隙をついて言葉を挟んだ。光一郎が洗った皿を受け取りながら渡された布巾でそれを拭いていく…それが現状友之に与えられた仕事だったが、一度何かが気になるとどうしても働かしていた手はぴたりと止まってしまった。
「修司に訊け」
  けれど直接訊ねた光一郎は素っ気無い返事で、友之に何処へ行くのかは教えようとしない。友之は不審に思って今度は振り返りざまこちらを見ていた修司に目をやり、「何処行くの?」ともう一度同じ質問を繰り返した。
「んー。トモ、釣り行きたい?」
「釣りに行くの?」
  そう返した友之に、修司は少しだけ申し訳ないような顔をして苦く笑った。
「ううん、それも今日行くつもりだったんだけどさ。もうこんな中途半端な時間だし、大体早朝か夕方じゃないとあんまり良くないから、釣りは延期。嫌?」
「嫌じゃないけど…。でも、まだお昼だよ。夕方なら…」
  友之が言いかけると、しかし修司はそこで大きくかぶりを振った。
「あー、うん。夕方にねぇ、見に行きたい所があるの。今から車走らせてちょっと歩いたら、もうその位の時間だから。でもこの時期、すっごい綺麗な花が咲いてるし、景色もいいから癒されるぞー? いじめっ子の多い、つまらん学校生活の事なんか全部忘れられるから!」
「別に、いじめられてないよ」
「ふっ…、んな、ムキになって即答するなって」
「だっていじめられてない」
「トモ、皿」
「あ…っ」
  修司と友之の遣り取りを完全に無視して、光一郎はマイペースに皿を洗い終え、今は最後のフライパンに取り掛かっている。友之はいつの間にか数を増やしてしまった水切りカゴの中の皿を慌てて取り上げ、それを丁寧に布巾で拭きながら、それでもまた修司を振り返って不服そうな顔を向けた。
「いじめられてない」
  すると修司は煙草の白煙を笑いでふっと噴き出してから軽く咳き込んだ。
「ははっ、しつっけぇな! 分かった分かった、トモは苛められてないよ。トモは学校でもモテモテだもんなー? そのヒロ…何だっけ、ヒロム君…とか?」
「修司。お前、煩い」
「おぉ、遂にコウ兄ちゃんまでが。分かった、分かりました。もう黙りますよーだ」
  ふざけたように修司は言って、持っていた煙草を灰皿にぐりぐりと押し付けた。
  それから依然として恨めしそうな視線だけを送っている友之を尻目に「さてと」と立ち上がり、ぐんと両腕を上げて伸びをする。友之がそんな修司をじっと見つめていると、修司の方もそれに気づいてニコリと害のない笑みを向けてきた。スラリと背の高い修司がそうした真っ直ぐの視線を向けてくると、友之はいつでもほんの僅か、途惑う気持ちが胸の底でくすぶった。
  自分もいつか修司くらい身長が伸びたら良いのにと思う。
「しっかし、トモの抱き枕は最高だったなぁ。無茶苦茶久しぶりに熟睡したし。今夜も一緒に寝ようなー、トモ?」
「え…でも…」
「え、何? もしかして俺がぎゅうぎゅう抱きしめ過ぎて、トモは眠れなかったとかあった?」
「ない、けど」
「けど?」
「…………」
  ちろりと横に立つ光一郎を見上げるも、友之のその視線は見事に素通りされた。光一郎は2人の会話にはやはり全く知らぬフリで、今は流しの掃除に取り掛かっている。1度の食事が終わる毎にそこまで綺麗にするものだから、裕子などは友之たちのアパートに来る度「やりにくい」と文句を言っていた。
「何なに? トモはコウ君に遠慮してんの?」
  黙る友之に修司がすかさず意地の悪い声で言った。ニヤリと笑うそれもどこぞの悪戯小僧のようで、こういう時の修司は本当に楽しそうだが、友之はどぎまぎしてしまう。
「いっつもこんな可愛いトモ独り占めしてるくせに、我がままな兄ちゃんだなー。けど、 そんならトモの片っぽはそこの兄ちゃんに譲ってやるからさ。もう片っぽは俺にちょうだい?」
「片っぽ…?」
「そ。3人で仲良く寝ればいいじゃん?」
「修司。お前、いい加減にしないと蹴り飛ばすぞ」
  友之が何かを答える前にようやく光一郎が声を上げた。全ての片づけを終え、水道の蛇口から流れ出ていた水の音もなくなっている。友之は未だ全ての皿を拭き終えておらず、再び焦って止めていた手を動かし始めた。光一郎がどんな顔をしているのか気になったが、この時は何故だか顔を上げられなかった。
「コウ君は、3人はダメ?」
「駄目だね」
  意外にも光一郎は即答した。
  友之は光一郎のその反応には単純に驚いて思わず顔を上げた。
  実際は「意外」でも何でもないのかもしれない。けれど咄嗟に友之はそういう思いに駆られ、驚きで胸がドキンと高鳴った。
  そう、しかし本来は別段驚く事ではないのだろう。先週も光一郎は修司が友之にキスをしようとした時怒ったし、それに対して咄嗟に目を瞑った友之の事も叱った。仲の良い2人を見て「ヤキモチを妬いた」と、夜になってから突然友之を激しく求めもした。
  今朝とて、修司に対する「好き」は、友之に向けているそれとは違う感情なのだと、光一郎は友之に向けはっきりと言っていた。
  それなのに、それでもまだ。友之は未だにどこかでそれを「本当かな」と思っている。自分などより光一郎には修司、修司には光一郎が傍にいて1番ぴったりだと感じている。
「お前、前は晴れてる時しか来なかったのに、最近トモに甘え過ぎ」
  色々な考えで頭を混乱させている友之をよそに、光一郎が溜息交じりにそう言った。
「お前にとってはいい傾向なんだろうけど、トモには毒だろ。あまり混乱させんなよ」
  静かな言い様だったが、どこか言い含めるようなその光一郎の雰囲気に、修司も一瞬は黙りこくった。
  けれど不敵な笑みは湛えたままで。
「そうね…。けど、曇りでも雨でも嵐の俺でも、さ。見せていいみたいだから。どの俺でも、それはちゃんと俺なんだって。当のトモがそう言ってくれたもん」
「トモが…?」
  今度は光一郎がちらりとした視線を向けてきた。けれど友之は2人の謎掛けのような言葉の応戦に翻弄されて、それに気づく事が出来なかった。
  修司が続ける。
「凄いだろ、トモって。俺らが思ってるより全然オトナ。成長したよなぁ、それはそれで、やっぱりちょっと寂しいと思うけどさ。いや、けどトモって前からそんなコだったんだよな。俺らが知らなかっただけ、知ろうとしてなかっただけでさ。しっかり者だよ、ホント。まあそうでなきゃ、あんな女と何年もずっと2人の世界でいられないか」
「………だからトモの前であいつの話はするなって」
「あー、はいはい。ごめんごめん」
  全く反省している風もなく修司はぞんざいに謝って肩を竦めた。
  それから今やぽかんとしている友之をよそに、「支度してくる」と洗面台の方へと歩いて行く。
「……………」
  2人その場に残されて、友之はそこでようやく金縛りが解けたように光一郎をぎこちなく見上げた。
「今の話、何?」
「ん…。別に」
「よく分からなかった。3人は駄目で……修兄は甘えて、るの?」
  友之が台詞の端々を取ってそう訊ねると、光一郎はすっと眉をひそめて心底分からないという風な顔を見せた。
「お前、3人でいたいの」
「え…。3……うん。コウが、いいなら」
  友之がどう答えたものかと思いながらもそう答えると、光一郎はそう言われる事はとうに予測済みとでも言わんばかりの顔をしていたが、加えて不快な態度も隠そうとせず、わざと乱暴に友之の頭をぐりぐりと撫でた。
  そしてはっきりと言った。
「じゃあ駄目。俺が嫌だから」
「え」
  別段怒っているようではない。けれど光一郎は諦めとも脱力とも言うべき様子で、どこか憮然とした顔で軽く肩を竦めた。
「いつもの俺なら、『お前がいいならいい』って言うところだけどな。駄目なものは駄目だ。お前な…、いや、お前が素でやってるのは分かってるけど。だから別に…まぁ仕方ないんだけどな? けど、あまりあいつを調子づかせるのはよせよ」
「………」
「俺の言っている意味、分かるか?」
「修兄……調子づいてるの?」
「はぁ? …ああ…今はピーカンみたいだな」

  それがまたいつ雨になるか雷を伴うかは知らないけど、と。

  光一郎はほとほと疲れ果てたようにそう言い捨てた後は、椅子に掛けていたエプロンを何気なく手に取り―…それを再びバンと乱暴に投げつけて、自らも洗面所の方へ行ってしまった。





  修司が運転する車で30分ほど行った先には、その地元の観光名所なのだろう、大きな立て看板にAからEまでのアルファベットで記された様々なハイキングコースの案内表示が出ていて、それを見る為に足を止める人の姿もたくさん見られた。ハイキングコースはその選択によって見られる景色や植物の種類が違うらしく、入口の脇にはそれらの看板だけでなく、色とりどりの写真やポスターなどの掲示もあった。
  ここへ来るまでは大した渋滞もなかったのに、やはり連休中なだけはある。有料駐車場の周辺には何人かの男性スタッフが車の誘導や交通整理を行っており、その両脇には即席の屋台や土産物屋が色とりどりののぼりと共に大勢の観光客を迎え入れていた。
  そんな中、修司は涼しい顔ですいと混雑しているパーキングエリアの一角に車を停める事に成功した。
「コウ君、着いたよ。起きて」
「……もうかよ」
  後部座席で今頃酔いが回ってきたような光一郎は、明らかに気だるそうだった。それでもテンションの高い修司と、この先に何が見られるのかと内心でわくわくしている友之を前に、「自分はここに残る」とも言いづらいらしい。仕方がなさそうに身体を起こすとゆっくり車を降り、大きな溜息と共によく晴れ渡った青空を見上げて眩しそうに目を細める。友之も車を降りてからそんな兄に倣って空を仰ぎ、改めて快晴な外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「あ…修兄、カメラ…!」
  けれど先を歩き出した修司にハッとして、友之は思わず声を上げた。
  修司は如何にも身軽な格好で、明らかにいつものカメラを手にしてはいない。酔っ払いの光一郎に「頂上で食べるから持って」と、食料の入っているらしい小さなザックを投げて寄越したが、自分は尻ポケットに財布を入れている程度なのだ。
  友之は車のトランクと修司とを交互に見やりながら、躊躇いつつも「持って行かないの?」と訊いた。
  昨日の「些細な」いざこざをわざわざ掘り返したくはない。決して怒ったつもりはないけれど、修司から「もうお前に俺の写真は必要ないだろ」と言われたせいで、昨夜は本当に不安定になったし、修司の事も無駄に困らせてしまった。だから今日はもう写真の件であまりしつこくしたくはなかった。
「撮れる時でいいから…」
  それでもどうしても忘れたフリは出来なくて、友之は俯きながらも口を切った。今度は修司が怒るかもしれない、そうなったらどうしよう…。そうも思ったが、出してしまった言葉はもう取り消せない。第一、怖いのは間違いないけれど、訊いた事それ自体を後悔はしていない。
  むしろそうしなくては、何かとんでもない事が起きるような気もしたのだ。
「ああ…。そうだったな。うん、持って行くよ」
  けれど予想に反して修司はあっさりそう答え、さっと戻ってくるとトランクを開けていつものボストンバッグを取り出した。それは修司がいつも気に入りのカメラや手入れ用の細々とした道具を入れている馴染みのバッグで、見たところ普段と変わったところもなく、すんなりと修司の元に納まった。その姿を見て、先刻の不安をあっという間に散らした友之は心からホッとして微笑んだ。
「トモって分かりやすいな」
  すると修司はバッグを肩に掛けながらふっと笑んで首をかしげた。
「そんな、あからさまに安心した顔しちゃって。本当可愛いよ。食べちゃいたい」
「食べんなよ」
「うおっ、コウ君!? 先行ったのかと思ってたら」
  突然後ろから背後霊のように現れて言葉を挟んだ光一郎に、修司が大袈裟、仰け反ったようになりながら苦笑した。友之自身、光一郎は先に行ったものとばかり思っていたから、突然自分たちが立つ反対方向、車の陰から姿を見せた事にはぎょっとした。
  けれど。
「コウ君、意外にかなり邪魔だねえ」
  毒を吐きながらもやはりどこか嬉しそうな顔をする修司に、友之は「本当に邪魔なのは自分なのではないか」と、また余計な考えを巡らせてしまった。
  それでも、何にしても修司がカメラを持ってくれて良かった。
「トモ、どうした? 早くおいで」
「! うん…っ」
  友之はいつの間にか先頭を切って歩いている光一郎と、次いでその後を追う修司が振り返ってそう呼んできた事で、慌てて後を追って小走りに駆け出した。その上空には幾つかのパラグライダーが軽やかに空を舞っており、走る友之に色鮮やかな背景を与えた。





「何してんの」
  暗闇の中ですっと通った明るい声が降ってきて、友之ははたと意識を現実に戻した。
「修兄…っ」
  それから、随分と前から待ち遠しかったその人の名を呼び、慌てて立ち上がろうと腰を浮かす―…が、一日の殆どをこの薄暗い部屋の中で過ごしている友之の身体は石のようで、いざ俊敏な動きを取ろうとしてもなかなか言う事を聞いてくれない。
  ふらりとよろけるように身体を傾けると、修司は「いいから」と自分がすぐさまその場に屈み込み、友之の肩先を優しく掴んだ。
「何してたのって訊いてんの。もう夕方だよ? 電気くらいつけなさいね。カーテンは……今日はちゃんと開けたみたいだけど、窓は開けた? ちっとはいい空気も入れないとな」
「うん…大丈夫…」
「何が大丈夫なんだよ、この不登校児が」
  こつんと額に軽いげんこつが当たり、友之は少しだけ笑ってみせた。頬の筋肉も固まっているせいでうまくは笑えなかったが、ここ最近は随分とマシだ。一度光一郎が家に帰ってきてくれた時、友之の酷い有様を見て「修司を呼ぶか」と言ってくれた。それ以前からも修司は気が向けば顔を出してくれたが、こう定期的に来てくれるようになったのは明らかに光一郎からの請願があったからだろう。
  けれど、何だっていい。修司が来てくれるのなら、友之にとって彼がここへ来る理由などは本当にどうでも良かった。
「修兄がくれた写真……ア…アルバムに、入れた」
  日の落ちかけた夕暮れ時。その茜色の薄ぼんやりとした明かりだけを頼りに室内で独り黙々と写真整理に打ち込む友之の姿は、傍目から見れば少々異様に映ったかもしれない。何せ友之はもう何日も家に引きこもったままで、部屋の外ですら、夜中父親が寝静まった後でないと出て行かない。お陰で身体は酷く痩せ細ってしまったし、顔色もとんでもなく悪い。睡眠もまばらなせいで目の下は薄っすらと黒くなり、ロクに水分も摂っていないので唇も色を失って青白かった。昔からの習慣で、ベッドから起きるときちんと寝巻きから普段着に着替える癖はついていたが、何処にも出かけないくせにそれだけはする友之は見る者が見ればいっそ痛々しいくらいだった。
「ふうん? そんな丁寧に仕舞わなくてもいいのに」
  それでも修司は友之に対して至って平静とした態度でいてくれる。父親のように眉間に皺を寄せて黙殺するでもない、光一郎のように何を考えているのか分からない、重い沈黙と無表情を見せる事もない。
  いつでも笑顔と優しい声をくれる。
「これ、今回行ってきた所の写真。トモにあげる」
「あ、ありがとう…っ」
  何でもない物のように茶封筒に入った写真をドサリと落とす修司。友之はそれを飛びつかんばかりの勢いで手に取ると急いでお礼を言った。
  そう、修司は優しいだけではない。友之の知らない外の世界もこうして切り取って持ってきてくれる。友之が完全に現実の世界から離れないように。
「あれっ。これって昔のアルバムとごっちゃじゃん。トモんち、家族の写真なんかあったんだ?」
「……うん。お母さんの、部屋に……あった」
  修司は自分の写真が収まったアルバムをぺらぺらと興味もなさそうにめくっていたが、やがて最後のページに行き着いてぴたりと手を止めた。
  そこには日常ではとんと見た事のない、5人勢揃いの北川家の面子がそれぞれの表情をして佇んでいた。修司の写真はもっぱら風景写真ばかりで人の姿の入ったものは殆どないから、その最終ページにだけ人間の絵が入ったそのアルバムはどこか異質に見え、暗く静かな室内では余計に嘘もののように見えた。
「トモは自分の家族、好き?」
  何気なくその写真の表面を撫でてから修司が訊いた。友之はその問いに一瞬だけぴくりと身体を震わせたが、やがてゆっくりと頷いた。修司が意地悪く「こいつも好き?」と夕実の顔を指差すと、より一層それは強く繰り返され、修司の失笑を買った。
「そうなの。じゃあ、この他人みたいな―」
  そうして修司が次に差した光一郎の顔を友之はじっと見つめやった。殆ど話す機会もなく、顔を合わせる事も滅多にない兄。けれど、昔からいつの間にか目で追っていた、「あの時」手を引いてくれた絶対の存在。
「うん……」
  だから素直に頷くと、修司は僅かの間黙っていたものの、やがて「そう」と先刻と同じ反応を示してから、笑った。
「また写真持ってくるな。そしたら新しいアルバム作りな?」
「うん」
  優しく言ってもらえて嬉しくて、友之はすぐに頷いた。他の誰ともうまくは喋れないけれど、何故か修司を前にするとよく口が動いた。単純に修司が友之のどんな態度も鷹揚に受け入れて、そして笑ってくれるからだろう事は間違いない。
  けれど、もう一つ。
  修司はいつでも、誰もが気を遣って話そうとしない友之の家族の事を訊いてきた。
  恐らく友之にはそれがとても痛くてけれど……とても嬉しかったのだ。





「修兄、疲れたの?」
  数あるコースの中で1番傾斜の激しいとされる道を小1時間ほど歩いた3人は、小さな休憩所のついた平地にたどり着いたところで休憩を挟む事にした。
  恐らく一番最初にバテるだろうと目されていた友之は驚くほどピンピンとしていて息も大して上がっていない。普段大した運動もしていないのに何故と2人の兄は訝しんだけれど、よくよく考えれば友之は週に1度とはいえ社会人で構成された草野球チームで汗を流しているし、そこのキャプテンである正人からもそれなりの練習メニューを与えられている「現役選手」だ。それに比べて2人の兄は、それなりに動いているとは言っても行動範囲は限られているし、何より今日の光一郎は「酔っ払い」である。放浪人の修司に至ってはいつでもバイクという足があるのだから、運動も何もない。また、友之という小さな弟を見くびっていたところもあるだろう。真っ先に音を上げたのも修司だった。
「疲れたよー。トモ、ここに座って」
  休憩所近くにあるベンチではなく、少し離れた先に広がる草地の中、一番眼下を見下ろせる場所に腰を下ろして、修司は両足を伸ばした格好で友之に隣に来るよう促した。友之がおとなしくそこへ座りこむと、修司は前方に見える山々の峰を指差しながら「凄く深い蒼だろう」と自慢気に言った。
「日本ってさぁ、まだこんなに綺麗な自然があるんだもんな。時々忘れるけど」
「うん。でも修兄はしょっちゅう見に行ってるでしょ?」
  意味もなく草地に生える雑草に触れてから、友之は天気のお陰でカサカサに乾いた土を幾つか摘んで握り締めた。思えば幼い頃は地元の水源地という遊び場があってしょっちゅう森やら川やらを見ていたけれど、最近はもうずっと舗装されたコンクリートの道しか歩いていない。
  とても懐かしい感じがした。
「普段はどうやって行く場所決めてるの?」
  悠々と風に当たる修司に視線を戻して友之は訊いた。
  いつでも修司が何処かへ行く時、「今度は何処へ行くの」と訊ねていたが、まともな回答が返ってきた事はなかった。写真を貰っても、それが何という町のどこでといった詳しい話もめったにされない。修司はいつでも「忘れた」とか、「どっか」とか適当な言い方をして誤魔化すのだ。本当に忘れたのかもしれないけれど、大部分の理由としては「話したくない」か「面倒くさい」かのどちらかだろうと思った。
「別に特に決めてないよ」
  だから今回の答えもいつもと同じだった。
「何処へ行くかなんて最初から決めて出たら面白くないじゃん。風の向くまま、気の向くままだよ」
「もう日本中全部旅した?」
「はっ…なぁに言ってんの、全然だよ。日本って案外広いんだぜ? そんなんやろうと思ったら、一生かかるんじゃねえ?」
「一生旅して回るの?」
  友之の矢継ぎ早な質問を耳に入れて何気なく頷きながらも、修司は目を細めたまま山間の色合いを楽しむ事も止めなかった。傍に無造作に置かれたボストンバッグもそのままだ。
「一生か。よく分かんないな。一生何して生きる、なんて考えた事もないし。トモは?」
「え…」
「一生かけてやりたいもんとか、ある?」
「い……な、ない、けど」
「でもなりたい職業はあったよな? 前、福祉の仕事したいって言ってなかった?」
「うん」
「それ、一生かけてやりたいって思ってるの?」
「……分からない」
  自然とそんな回答が漏れて友之は項垂れた。そうか、自分の質問は自分でも答えられないような類のものだったのか、修司を困らせていたのだろうかと少し落ち込む。
「トモ」
  けれど修司はすぐにそんな友之を呼んで、視線は未だ遠くへやったまま続けた。
「いいんじゃないの、それで。逆に分かってたら怖ェよ。コウ君みたいな人ならともかくさ。だって俺とトモなんて、つい最近まで迷いまくってた人じゃない。それなのに、ちょっと事態が好転したからって“イイ答え”がスパって見つかる? そんな簡単じゃないでしょ、よく分からんけど」
「コウは……決まってるのかな?」
「何? 将来? 決まってるんじゃない?」
「聞いた事ある?」
  光一郎が大学で法律の勉強をすると聞いた時は、単純に兄は将来弁護士か検事か、はたまた裁判官か。とにかく司法関係の仕事をするのだろうと何となく思って何の疑問も抱かなかった。現に光一郎は知り合いの弁護士がいる事務所でアルバイトをしていて、周囲からも「将来は優秀な弁護士先生になるだろう」と期待されている。
  だから将来の仕事とか、叶えたい夢などがあるかとか、まともに訊いた事はなかった。光一郎も自分の話は友之に殆どしない。いつも友之自身が迷惑を掛けて光一郎を煩わせているからそれどころではないのだろうが、そう、考えれば光一郎は自ら自分の先の話など友之にしてきた事は一度たりともないのだった。
  修司となら、光一郎もそういった話をしているのだろうか。
「コウ君の将来なんか決まってるじゃん。可愛いトモとずーっと一緒に、幸せに暮らせますように…ってやつ」
  修司のあっさりとした答えに友之は眉をひそめた。
「真面目に訊いたのに」
「何言ってんだ、俺だって大真面目だっての。あれ、じゃあトモはコウ君とはずっと一緒にいるつもりなかったの? オトナになって自立でもしたら、いつかバラバラになる、なんて思ってたの?」
「……っ」
  そんな事は全く思っていなかった自分に、友之は単純に途惑った。
  光一郎とずっと一緒にいたいなどという事は当たり前に思っている。思っているからこそ、あまり考えた事はなかった。考えようともしていなかったかもしれない。何となく高校を卒業したら進学したい、福祉関係の資格を取って困っている人を助けたい…そんな風には漠然と思えるようになったけれど、光一郎との今後を真剣に考えた事はなかった。
  いつでも光一郎に任せきりで、2人の関係についても友之は受身でしかない。
  何故ってとても恐ろしい。それを突き詰めて考えていく事は、自分自身や、あのバラバラになってしまった家族の事も考えなくてはならないから。
「トモに何か振ると、ホント真剣に考えちゃうから困るな」
  修司が苦笑し、おもむろ友之の身体を抱き寄せた。
「ごめん、余計な事言って。いいんじゃない、トモは余計な事考えなくて。コウ兄ちゃんからも言われてるだろ、“お前は余計な事考えなくていい”って。それがコウ君の願いでもあるんだから、トモはそのままでいればいいよ」
「そんなの…」
「何だよ?」
「考えなくていいなんて……駄目だよ」
「……だからトモは真面目過ぎるんだっての」
  少しは俺を見習えよ?と修司は軽く笑い、それから再び友之の身体を離すと唇に小さな笑みを浮かべた。
「いいんだよ。分からない事は放棄しちゃえ。かく言う俺も訳分からなくなった時はそうしてるよ? 余計な事は全部考えない。その方が結果的に良くなる事もあるし」
「悪くなる時もある?」
「おまっ…。そりゃ、あるけどな?」
  嫌な子だねえと修司は一度前のめりになってからわざと胃を押さえるような仕草を見せ、それからようやっと立ち上がって「コウ兄ちゃん、何処遊びに行った?」と誤魔化すように辺りを見回した。
「………」
  友之はそんな修司を座ったまま見上げながら、そうは言う修司が今しがたまで考えていた事は何だったのだろうと思って無意識に胸をツキンと痛めた。
  何故だか、修司の「天気」がどこか下がり気味に見えたせいもあるかもしれない。



To be continued…




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