―27―



  緩やかな傾斜を上っていくとそこかしこに色鮮やかな野生花の群生を見る事が出来たが、どちらかというと観光用に人が手を加えて作った花畑の方が人口密度が高く、友之はそれらを遠巻きに不思議な思いで眺めた。
「あのピンクの花、何か分かるか」
  気づくと背後に光一郎が立っていて、ぼうとしている友之に訊ねてきた。友之が困ったように首を振ると、「サクラソウだよ」と光一郎は答え、「お母さんが好きな花だ」と付け加えた。
「お母さんが…?」
「まぁあの人、花なら何でも好きだったけど。ただ、4月の桜で花見をするより、サクラソウの群生地で食事出来たら嬉しいのにっていうのはよく言ってたな…。覚えてないか?」
「……っ」
  途惑いながら友之は再び小さく首を振った。母が庭木の手入れに余念がなく、室内の観葉植物にもよく目を配っていたのはぼんやりとだが覚えている。…けれど母がこの目の前に咲き広がる薄紅色の花が好きだと言った事や、光一郎が言うようにそこで食事をしたいと言っていたなど、正直まるで覚えのない事だった。
  母があの家族の前で己の希望を述べた事などあっただろうか。
「…綺麗だね」
  何と言って良いのか分からず、友之は思った事をそのままぽつりと口にした。4月はじめに商店街の通りを彩った桜や、河川敷沿いを賑わせていた芝桜も見事だったけれど、こうして都会の喧騒を離れた場所で風にそよぐ小さな花も、妙な郷愁をそそられるというか、どこか懐かしい感じがした。
「………」
  そう、懐かしい、のだ。子どもの頃よく遊んだ水源地に咲いていたわけでもない、地元でよく見る花でもないのに。
「行くか?」
  サクラソウを凝視したままなかなか足を進めようとしない友之に光一郎が声を掛けた。先刻は光一郎の方が先導して修司や友之よりも大分前を歩いていたはずだが、今はそれが逆転している。いつの間にか修司が2人を置いて随分と先へ行ってしまい、今はその姿が見えない。光一郎はちらりと親友が向かったであろう方向を眺め、再度友之に「行こう」と先を促した。
「……うん」
  それでも何故か友之はなかなかその場を離れる事が出来ず、名残惜しいとばかりに何度も薄桃色の花々に目をやった。
  確かに綺麗で、可愛らしい。友之以外にもサクラソウの群生に目を見張り、手にしたカメラのシャッターを切る人が何人もいる。
  けれどそういった意味からでない何かが、友之をその場に引きとめていた。何かが引っかかって仕方がなかった。
「気に入ったのなら、後で修司に写真撮ってもらえばいい」
  歩いている途中で光一郎が友之に言った。
「あいつ、カメラ持ってきたんだろ?」
「あ…うん」
  足を速めて光一郎の背中に追いついた友之は、言われてすぐに頷いた。
  それでもあのボストンバッグから修司の愛機が取り出された形跡は未だない。
「修兄…写真、やめてないよね?」
「は? 何で?」
  友之の心配を理解出来ないという風に光一郎が振り返った。友之はそんな光一郎に自分こそが不審そうに眉をひそめ、「だって…」と口許で言い淀んだ。
「今日だって…まだ1枚も撮って、ないし…」
「……あぁ。そういえば、それでトモはあいつにキレたんだっけ」
  見たかったなと、どこかからかうように言って笑った後、光一郎は再び前を向いて黙々と歩き出した。
  それから友之の方を見ないまま続ける。
「お前が望めばやめたりしないよ。撮って欲しいって頼めばいい」
「撮るけど…っ。前みたいのは、もう撮らないって」
「ん…?」
「もう、必要ないからって」
  必死になって前日修司から言われた事を発すると、光一郎は今度こそしっかりと友之の方を振り返ってから、しかし足は止めないまま笑って見せた。
  そして言った。
「気にするな。それは単にいじけてるだけだ」
「え……?」
「お前が変わった事をあいつは喜んでる。…でも、心のどこかではそれを寂しいとも思ってる。だからそういう風に言うんだよ」
「何…?」
「分からないなら修司に訊けよ。ちゃんと訊けばあいつは答える」
  それからふっと前方に目をやった光一郎は「いたぞ」と言って長い腕を伸ばし、すっとその先を指し示した。友之が流されるようにそちらへ目をやると、数十メートル先の砂利道を上がった先に修司が立ち尽くしている後ろ姿が見えた。何かを眺めているのか、微動だにしていない。そのすっと伸ばされた背筋と遠くを眺める孤高の様子に友之は妙に胸が高鳴った。写真を撮ってくれればいいのにと思った。

「何だぁ、トモ。遅い遅い」

  一度も立ち止まらずに一気に駆け上ったのに、まるで随分と前から待っていたかのような偉そうな態度で修司は両手を腰に当てて見せた。つい先刻までは修司こそが散々疲れただのバテただのと駄々をこねて休憩を挟んでいたのに、今ではそれがまるで演技だったかのように清々としている。そうして修司は立ち止まって2人を待っていた位置から再度視線を先ほど向けていた場所へ移して、それを友之たちにも見るように促した。
「見てあれ。いいね」
「あぁ……確かに」
  これには光一郎もすぐに同意して頷いた。修司が指し示したそこには、先刻休憩場所で見たような山間の稜線が臨めるだけではなく、細い川やその周囲を取り囲んでいるような木々やヤマツツジの紅、それにぽつぽつと点在している家屋の姿までが一望出来、大層贅沢な絶景を拝む事が出来た。
「秋じゃなくても赤い山って見られるんだな」
  光一郎の感心したような言葉に、しかし修司はバカにしたように笑った。
「コウ君の感動ポイントってそこ? どう考えても凄いのはここから見られる空でしょ」
「空? 空なんて何処でも見られるじゃないか」
「バカ、全然違うだろ。もっとちゃんと見ろっつの」
「はぁ…? …俺はお前と違ってそういう方面の造詣は深くないんだよ。大体、そんな事くらいでキレんなよ、山の天気かお前は…」
  光一郎は先ほどの修司の機嫌の上下を見ていないはずなのに、些細な遣り取りだけでその変化に気づいたようだ。それによって修司も落ち着いたのか我に返った苦笑いをしてそれ以上何も言わなかったが、再び目前の景色を堪能するように顔を上げてると、実に何でもない事のように言った。
「死ぬなら今日みたいな日がいいな」
  友之は修司のその台詞をまんまと真に受けてぎょっとしたが、対して光一郎の方は呆れたように冷たい視線を投げただけだった。恐らく修司の「そういうノリ」に慣れているのだろう。
  けれど友之の方は途端オロオロとして、意味もなく視線を左右に動かし、身体を揺らした。自分でも驚くくらいに修司の何気ない一言に衝撃を受け、動揺していた。
「トモが挙動不審になったぞ」
  見かねて光一郎がそれを修司に伝えたが、それでも修司は我関せずといった風に笑うだけで友之には特に何も言わなかった。
  それから3人は修司が用意し、光一郎が運んできた「ピクニックセット」で少し遅い「3時のおやつ」を取る事にしたのだが、その間も友之はそわそわとして落ち着かなかった。折角大好きな兄たちに囲まれて食べているお菓子なのに、修司の発した台詞が気になってロクに喉を通らないのだ。先ほど2人でいた時に修司の不安定さを感じたばかりだったから、余計に心配だったのかもしれない。
「修司。別に死ぬ気はないって言ってやれよ」
  暫くしてから再び光一郎が嘆息しながら修司に言った。
「んー?」
  修司はしらばっくれた様子でその場に敷かれたビニールシートの上、だらりと足を伸ばした格好で煙草を吸っていたが、友之がずっと自分を見つめやっている事にはっと笑い、「分かったよ」と降参したように首を振った。
「トモ、お前は一体何の心配しているの?」
  友之が答える前に修司は続けた。
「俺は『死ぬなら今日みたいな日がいいな』って言っただけで、何も『今日死にたい』とは言ってないでしょ? そんな不安そうな顔しないでよ」
「死なない…?」
「うん、死なない」
  変な事訊くなよと言ってからぶはっと噴き出した修司は、持っていた煙草を携帯灰皿にぽんと投げ入れると、ちらと光一郎に目をやった。
「トモってホントいいよな」
「なら苛めるな」
「時々ならいいだろ?」
  可愛い子ってどうしたって弄りたくなるんだよなと修司は悪びれもせずに言い、それから再度友之に目をやった。
「トモ、少なくとも今日の夕方までは死なない。見たいもんがあるの」
「見たいもの?」
「うん、だからここに来たし。トモはここに来て、何も思わなかった? 何か気づいた事ない?」
「…気づいた、こと…」
「そう」
  うんうんと頷いて修司は笑った。光一郎は修司との不毛な遣り取りに飽きたのと、元々二日酔いで気怠かったのか、ごろりとその場に横になって目を瞑ってしまった。
  修司はそんな光一郎をまたバカにするように笑って見てから、改めて友之を見つめた。
「俺がどうしてここに来たかったか、分かる?」
「……ここ。来た事、あるの?」
  確信はなかったけれど、先ほど見たサクラソウの群生を思い出しながら友之は恐る恐る訊いた。光一郎も修司がここへ来たいと言った時に何か含むような顔をしていたし、不思議そうな顔をする友之にも「修司に訊け」と言うだけで自分からは何も言おうとしないのが引っかかってはいた。
  きっと何かがあった場所だ。そう一度思うと、友之もあの妙に「懐かしい」と感じた胸の高まりを蘇らせて僅かに頬を紅潮させた。
「来た事あるよ」
  すると修司があっさりとその答えを示した。友之は驚いて目を見開いた。
「3人で?」
「ううん。3人でこんな遠くまで来たのは初めて。俺は1人で来た事あるの。トモたちは家族で来た事あるの」
「家族で…?」
「そう。ちょっと前になっちゃうけどさ。一緒に行こうって言ったじゃん」
「………」
「やっと実現」
  修司は笑ってからふいと視線を逸らし、遠くの山々へ目をやった。
  友之はそんな修司の横顔を黙って見てから、その後自分も同じ方向へ顔を向けて、「ああそうか」と得心した。
  ここは唯一、家族で旅行をした思い出のある場所だ。友之の薄れがちな記憶の箱にもそれはきちんと残っていて、幾つかの映像ならすぐにでも呼び出す事が出来た。
  あの時は母が健在で、父もぶっきらぼうではあったけれど、友之と一緒にこの小高い丘陵を一緒に登ってくれた。そうしてその頂きから眼下の景色を見下ろしたのだ。ちょうど夕暮れ時だった事もあって、見渡すもの全てが幻想的で素晴らしかった。けれど一方で、もう帰らなければならない寂しさも胸を過ぎって、どことなく切ない気持ちが父の朧げな残像と共に今も心内で燻っている。
  そう、そして去年だったかその事を思い出した友之に、修司は「また行こう」と誘ってくれていたのだ。多忙な光一郎があまり乗り気ではなかったし、年明け修司も旅に出てしまったから、何となくそのまま有耶無耶になっていたのだけれど。
「どうトモ? この辺りとか、見た記憶ある?」
  修司が改めて訊ねてきて、友之はハッとし目を瞬かせた。
「あ…うん。さっきの、サクラソウのところ……」
「ああ、あそこな。湿原に割とよく見るやつだけど、最近は減ったもんな。あれだけ咲いているのを見られるのは珍しいよ。俺も好き、あの花」
「修兄、花に詳しいの?」
「詳しいって程の事もないけど、やっぱりしょっちゅう色んなもん撮ってたから、自然に覚えちゃうものも多いな。特に気に入ったのは調べたりもするし。あの花ってさ、外国では、葬式に使う花なんだぜ」
「え」
「俺の中でも“慎ましやかな死”って感じかな。カッコイイだろ?」
「………」
  友之は「死」という言葉が好きではない。亡くなった母を連想させるし、夕実からその言葉を吐かれながら川に突き落とされた過去もある。そもそも早々軽く口にして良い言葉でもないと思う。だからこそ、先日学校で湧井や、心ない中傷メモからそれらの言葉を投げ掛けられた時、友之はより一層陰鬱な気持ちを抱いたし、悲しくもなったのだ。
  それに修司も。「死ぬには今日みたいな―」などと言うし。
「そのくせ、“先を切り拓く”って意味もあるよ」
  友之の顔を覗きこみながら修司が言った。友之が黙って修司を見返すと、修司は薄い笑いを浮かべながら「大丈夫だよ」とさらりと言った。
「俺は死なないから。そんな心配しないでいいよ?」
「じゃあ何でそんな話するの」
「偶々だよ。そんな怒るなって。トモに怒られると真面目に凹むからさ。……けど、そうだったんだな。簡単だったんだな」
「何が?」
  友之が不思議そうに首をかしげると、修司は修司で涼やかな目元を更に細めて答えた。
「俺もだけどさ。トモを怒らせる事。案外簡単なんだなって。トモって怒らない人かと思ってたから」
「……怒ってないよ」
「けど明らかに俺にむっとしてるし」
「してないよ」
「ハッ……いいんだよ」
  俺はそれが嬉しいんだからと修司は言い、片手を振った。そうして傍に置いていたカメラの入ったボストンバッグをさらりと撫でる。友之がそれにぎくりとして身体の動きを止めると、修司はまた笑ってゆっくりと首を振った。
「でもごめん。やっぱり今日は撮れそうもない」
「……修兄」
「折角3人で来たのにな。何だか思っていたより、普通だったんだよな」
  刻々と日が傾き、薄っすらと赤く染まり始めた空を見上げながら修司は言った。未だ目的である丘の頂きまでは先があるけれど、ここからも十分に綺麗な景色は楽しめる。修司はその場に胡坐をかくと傍にあったペットボトルに入っていたお茶をぐいと飲み干した。
「………」
  友之はそんな修司の姿を見つめて、やはり何故だか泣きたくなった。折角一緒に来たのに、一緒ではない―…そんな気がしてしまった。修司が独りで何かを考えているのが堪らなく嫌だった。
  修司の世界を干渉する権利など自分にはないはずなのに。嫌だった。





「トモ、もうお前がこれ持ってていい」
  げんなりとした様子で光一郎が言ったのは、友之目当てに光一郎の携帯に電話を掛けてきたのが1人や2人ではなかったからだ。
  夕暮れ時の丘の景色を見た後、3人はあっさりと下山してそのまま車でコテージに帰った。
  修司は友之に言った通り、結局1枚も写真を撮らなかった。「今のトモにいい」という写真すら撮ってくれなかった。友之はその事に自分でも思った以上に落ち込んでしまい、なるべくそれを顔に出さないようにしようと決めたのに、結局あからさまがっくりとしていたようで、車を降りた時には光一郎が修司を「割と本気」で足蹴にしたりしていた。
「コウ…修兄は…?」
  友之は携帯電話を切った後、すぐ光一郎に訊いた。今の電話の相手は裕子。その前は正人だった。実は1番最初に掛けてきたのは沢海で、その直後は数馬だ。だから裕子は4番目の会話相手だった。
「ん…いないか? それより、電話はもういいのか」
「うん…」
  皆いずれも「そちらはどうか」、「いつ帰ってくるのか」から始まって、何故か「大丈夫?」という台詞が一番多かったのだが、友之はそれらの言葉に一つ一つ丁寧に「大丈夫」、「楽しいよ」と答えた。―…もっとも、やはりどこか上の空なのは電話の向こうの相手も敏感に感じ取ったようで、何だか無駄に心配させただけのようだった。友之はそれをとても申し訳ないと思ったが、それでも今はいつの間にか姿を消してしまった修司の事で頭がいっぱいだった。
「修兄いない…」
「外で煙草でも吸ってんじゃないか? もうすぐ飯だからって言ってきてくれるか」
「うん」
  友之は光一郎に夕飯の支度を手伝うと言ったのだが、露骨に意気消沈している弟を憐れに思ったのか、「お前は好きな事してろ」と逆に放置されてしまった。
  好きな事と言われても、手放しされると余計に何をして良いか分からなくなる友之だ。電話が来なかったら余計手持ち無沙汰になっていたのは間違いない。ただ、要は光一郎としてもどこかぎくしゃくとしている修司との仲を修復するのが優先だと言いたいのだろう。修司の代わりにてきぱきと夕飯の支度をしながら、光一郎は所在なげな友之をもう振り返りもしなかった。
「修兄」
  外へ出て辺りを見回し呼んでもみたが、修司からの返答はなかった。
  仕方なく友之はのろのろとした動作で木造りのステップを下り、ぐるりと一周コテージの周りを巡ってみた…が、やはり兄の姿はない。自販機のある下へ行ったか、或いは上方…この先はもうコテージもなく、雑草の生い茂る野原が広がっているだけと言っていたが、そちらへ散歩にでも行ったか。友之は暫し迷った末、上へ行ってみる事にした。
  別段、修司と喧嘩しているわけではない。それは友之自身何度も頭で繰り返し思い、確信もしている事だった。前日、修司から「もうトモに俺の写真は必要ないだろ」と言われた時は不貞腐れたしムキにもなったが、昼時共に眠った事でその気まずさも解消された。一緒にハイキングコースを歩いている時とて、ほんの少し修司の機嫌が下降する事もあったが、言動自体は至って普通だったし、陰的なものも感じられなかった。
  修司が「やっぱり今日は撮れない」と言ってバッグを撫でていたあの時は、確かに友之も失望してしょぼくれた顔をしてしまったけれど―…それに対しても、修司は別段気分を害するでも申し訳ない顔をするでもなく、至ってひょうひょうとしていたのだ。
  だから別に何もない。何も問題はないはずなのだ、けれど。
「修兄」
  坂を上がりきって本当に何もない草原に出て、友之はもう一度兄の名を呼んだ。一見してその姿はない。二択だったけれど勘が外れたらしい。こういう時はいつでもそうだと溜息をついて、友之は暫しその場に佇み、すっかり暗くなってしまったその場所で冷たい風に身体を冷やした。
  どうして修司があの場所に3人で行きたがったのか、よく分からない。
  確かに友之も家族との思い出の場所だったし、以前に写真を見せてもらった時はまた行ってみたいとは思った。修司が行こうかと言ってくれた時も単純に「嬉しい」と思った。
  けれどだからといって、実際行ってみてもどうという事はない。嬉しくもあり、悲しくもあり。ただそれだけの事だ。
  それなのに、修司があそこで独り丘陵の先に佇み、遠くを眺めていた事、「死ぬなら今日のような日がいいな」と漏らした事。光一郎が「母さんの好きな花だ」と教えてくれたのに、そんな事すら覚えていなかった自分の事など。…それらを思うと苦しくなったし、「やっぱり今日は撮れない」と言って笑った修司を切なく思った。
「…っ」
  もう一度無意識のうちに深いため息を零した後、友之はようやっと顔を上げて踵を返した。とにかく修司を探して、そして一刻も早く光一郎が待つ場所へ戻ろう。そうしなければ何だかこの胸のモヤモヤはいつまで経っても解消されないような、そんな気がした。

「トモ」

  しかしその時、すっと辺りを切り裂くような鋭い声が耳に入ってきて、友之は驚いて振り返った。
  暗闇のせいで分からなかったのか、それともほんの僅かな死角に隠れて偶々見えなかっただけなのか―…見ると、先刻まではいないと認識していたはずの場所に修司が立っていて、友之を振り返り見るような格好で笑っていた。
「修兄…?」
「迎えに来てくれたの?」
  うんと応えようとして、けれど友之はどきりとして息を呑んだ。
  そう、修司は笑っているようだし、取り立てていつもと変わった素振りは見られない。視界の定まらないこんな夜でも、修司のいつもの穏やかな空気はきちんと伝わってくる。
  それなのに。

  死ぬなら今日のような日が―。

「修兄…っ」
  どうしてか修司の何という事もなく発せられた言葉が忘れられなくて友之は恐怖した。修司が立つその先がどうなっているのかはよく分からないが、行き止まりなのは間違いないから、ちょっとした崖のようになっているかもしれない。
  崖?
  ならばほんの少しでも足を踏み外してしまったならば、そのまま真っ逆さまに落ちてしまうのではないか。
「や…」
  咄嗟にそんなろくでもない想像が働き、友之は気がついた時にはもう走っていた。
  嫌だ、何処にも行ってもらいたくないのに。修司はいつだって友之の知らない間に遠くへ行って、消えてしまう。これまではふとした時には戻ってきてくれたけれど、でもこの先もそうとは限らない。むしろその可能性は酷く低くなったように思える。

  何故なら修司は友之に、「今のお前にもう俺の写真は必要ないだろう」ときっぱり言ったのだから。

「修―…」
  修司は独りでも大丈夫かもしれない。でも、自分は?
  無理だ。そんなのは、絶対駄目なのに。
「修兄ッ」
  修司がいなくなってしまったらどうして良いか分からない。欠けていたものをいつでも埋めてくれていた、その存在を失うのはこんなにも怖い。
「修兄、嫌だ、危ない…!」
「えっ…」
  無我夢中の友之の叫び声に反して、修司のそれは思い切り途惑いの含んだものだった。むしろ力任せに走ってきたところをタックルまでされて却って危険だ。不意を突かれた事もあってよろりと一歩後退した修司は、それでも自分にどんと向かってきた友之を両腕でしっかと受け留めると、「どうした?」と笑いを引きつらせながら覗き込むようにしてそう訊いた。
  そのいやにのんびりとした問いかけが、友之の頭の隅をちりりと痛めた。
「どっ…どう、して…!? こんな所に、いるの…っ」
「え? いや…この先は何があるのかなあと思って…」
「落ちちゃうよ! 危ないよ!」
  友之の珍しい絶叫に修司は思い切り面食らっていた。
「ええ…? ああ、まぁ…。けどそれを言うなら、今トモにどつかれたのが一番危険だったけど」
  修司は苦笑しながらそう呟いて友之の頭を撫でた。それでも友之がぎゅうとしがみついたまま離れないので、修司は困ったようになりながらしきりと友之の頭を撫で、それからゆっくりとその場に座りこんだ。
「……………」
  だから友之もそのまま促されるように修司にもたれかかりつつ、短い雑草の上にしゃがみこんだ。
「トモ、俺がこっから飛び降りるとでも思ったの?」
  修司の質問に友之はすぐに答える事が出来なかった。
  修司は哂った。
「確かにちょっとした斜面になってるし。岩もごつごつしてるから落ちたら痛そうだな。けど、草木もいっぱい生えてるから、あちこちぶつかって骨折くらいで死なないかもよ? 飛び降りるならもっと潔い場所で飛ぶって」
「駄目だよそんなの!」
「ああ、そうそう。分かってる分かってる。元々飛び降りる気持ち自体ないって」
  怒るなよーとふざけたように言ってから、修司はまた友之の髪の毛をまさぐるように撫でて、大丈夫だからとでも言うようにおもむろ友之の額に唇を当てた。
  それで友之もようやく落ち着いた気持ちになれた。
「家族にはなれないな、俺たち」
  すると唐突に修司がそんな事を言った。
「トモの事もコウ君の事も、俺は好きだからさ。だからあそこへ一緒に行けば家族になれるかもしれないって思ったんだ。単純だろ? お前たちの最初の家族は崩壊しちまったけど、俺はそれを喜んでた。むしろ元になんか戻らなくていいって本気で思った。今も思ってる。…けどだからって、俺がお前らの家族になれるかと言ったら―…、それはまた別の話だろ。そんな当たり前の事にも気づかなかった」
「……修兄?」
「俺は夕実の事が羨ましいんだな、きっと」
  顔を上げると修司が優しい目をして友之を見つめていた。黙ってその目を見返していると、ゆっくりと修司に顔を寄せられて、友之は口づけされた。
「トモの事大好き」
  友之が大人しくしているとにこりと笑って修司は言った。
「けど、どんどんオトナになるトモは嫌だな。置いていかれる気持ちがするんだ。俺がガキだからさ。とっくにオトナになってるコウ君にも時々猛烈にむかつくし、だからトモにはもっとずっと小さい子でいて欲しかったのに。それは無理な話なんだなぁ」
「修兄は……大人じゃ、ないの?」
  友之が訊くと修司は思い切り破顔した。
「ぜーんぜん。俺はどうしようもないクソガキですよ。だからすぐキレるし堪え性ないし。トモにもこうやって甘えるし」
「いつも甘えてるの…僕だよ…?」
「そんな事ないよ」
  修司は笑ってから友之の額にもう一度今度は軽いキスをして、それから再び髪の毛をまさぐった。
「でも俺はたぶん、これからもこんな俺のままだ。それが嫌いでもどうしようもない。それ以外の生き方しようとすると苦しくてしょうがないんだよ。だから、さ。お前らがうざいと思った時にはどっか行ってるし。でも、寂しくなったら帰ってくる。勝手だろ? 捨てたくなった?」
「………」
  まくしたてるようにそんな事を言う修司が不思議だった。
  友之は暫し黙ったままそんな修司を見上げ、不意に泣き出したくなる気持ちを必死に抑えて、ただ頭にのぼった考えを口にした。
  それを口にして良い事はもう知っていた。ここにいる修司や、光一郎が、それを教えてくれていたから。
「捨てるのは…」
「ん?」
「修兄じゃなくて?」
「………」
「そ…」
  友之は座り込んでいた身体をすっと伸ばして膝で立ち、修司よりもほんの少し目線を高くするとごくりと唾を飲み込んだ。
「そう、思ってた…。修兄がどっか行っちゃうかと思って…それが不安だった」
「トモ」
「修兄はちっとも勝手じゃないよ…。いつも優しいよ。でも、優しくなくてもいいよ。僕が駄目な時は嫌いって言って。でも……でも、勝手に何処かへ行かれるのは…嫌だ」
  修司は友之の腕に触れ続けていたが、何も返してはくれなかった。それが友之を余計に焦らせたが、今さら後には引けなかった。
  身体から冷たい汗が吹き出るのが分かった。でも、言おうと思った。
「修兄のことも、修兄の写真も凄く…凄く、必要、だから。……家族じゃないけど、でも、修兄は修兄、だから」
  恐る恐る伸ばしたその手を修司は払いのけなかった。
  友之はそれに心から安堵し、たった今修司がしてくれたように、今度は自分が修司の頭をそっと撫でた。最初は遠慮がちに、でも慣れてきたらしっかりと。そのさらりとした髪の毛を己の指に絡ませた。
「トモ……お前ってやっぱり凄いわ。ちょっとバカだけどな」
  すると修司がやっとそう声を出した。
  そうして友之の腰に両腕を回すと、修司はぎゅっと強く抱きしめてきた。ちょうど友之の腹の辺りに修司の顔がきて、まるで友之の方が背が高く、修司を上から抱きしめているような格好になる。友之の胸はドキドキした。修司にいつも甘えてばかりだから、この時だけは何だか自分の方が兄のような気持ちすらして。

「……ったく。正人じゃなくても腹立つな、これは……」

  そんな体勢がどれだけ続いたのだろうか。
「トモ。お前、飯出来たから修司呼んでこいって言って、何やってんだ」
「コウ兄…」
「……邪魔者がきた」
「え」
  ぼそりと下方で声がして友之が咄嗟に身体を離そうとすると、修司はそれを良しとせずに更にぎゅうと友之を拘束した後、ツカツカと傍に寄ってくる光一郎に不敵な笑みを向けた。
「お兄さん、見て分からないわけ? 今、俺とトモはラブラブ中なの。邪魔しないでくれます?」
「見てるから止めようとしてんだろう、このバカが!」
「いって!」
  横腹を容赦なく光一郎に蹴り飛ばされた修司は、その勢いであっさりと友之を解放した。友之は光一郎の突然のその暴力に唖然としてその場でフリーズしてしまったのだが、その蹴られた箇所を大袈裟な所作で押さえた修司の方は案外すぐに復活していた。
  文句だけはしっかりと述べていたが。
「何すんだよ。マジ蹴りすんなって」
「真面目にやってたらここから突き落としてる」
「おま…怖いなぁ、もう。お前、トモの前でそういう素を見せてもいいわけ? 隠してたんじゃないの?」
  鎌をかけるようにそんな事を言う修司に、しかし光一郎は全く動じなかった。どうやら本当にむっとしているらしい。
「別に隠してねえよ。お前が隠していたから、出す必要がなかっただけだ」
「俺、何か隠してた?」
「トモ」
  完全にふざけたようになっている修司を無視し、光一郎は未だ固まったままの友之を厳しく見据えた。そこには「お人好しもいい加減にしろ」と言わんばかりの呆れた色がありありと滲み出ていた。
「こいつが家族? 冗談じゃない、俺はもう手一杯だ、これ以上手のかかる家族なんて要らないんだよ」
「コウ君、どこから聞いてたわけ」
「言っただろう、トモ。こいつ、本当に夕実に似てるだろ?」
「あー、またそれ言ったー。それに完全無視だし。マジでむかつくー」
  いつもなら夕実の話をされると本気で不機嫌になる修司なのに、この時はどうにもにこにこが引っ込まないようで、修司はおどけたようにそんな台詞を吐いた。
  反して光一郎は依然としてむっとした様子で更にげしりと修司を蹴ってからようやっと友之の腕を取り、半ば強引に自分の背後に隠してしまった。友之は光一郎に掴まれた手首の痛みによって我に返り、慌ててその背の高い兄の後ろ姿を見上げた。
  光一郎からは修司とキスをしては駄目だと言われていたのに、またしてしまった。
  本気で怒っていたらどうしようと今さら焦った気持ちがして、友之は今度は途端オロオロとしてその決してこちらを見ない兄の姿を必死に見つめやった。
「修司」
  すると光一郎がそんな友之には構わず親友の方に声を掛けた。
「俺たちが家族じゃないなんて当たり前だろ。そういうの、本当は一番苦手なくせに、何バカ言ってんだ」
「……そうだよな」
「そんなのなくても」
  ハアと大きな溜息をつき、光一郎は友之を捕まえたままぼそりと告げた。
「お前はいつだって好きな時にうちに入り浸ればいいだろ。…下らない事言うな」
「うん」
  光一郎の顔は見えなかったが、返事をする修司の顔は友之にも見えた。

  暗闇でもはっきりと分かる、それはとても嬉しそうな、幸せそうな顔だった。

「コウ兄…」
  それで友之も、光一郎が本気で修司や自分を怒っているのではないという事が分かって安心した。…すると今度はそのあからさま安堵したような友之の空気に修司が更に笑い、ごろりとその場で寝転ぶと「ははっ」と軽快な笑みを零した。
「2人とも大好き!」
  そうして修司は呆れたような光一郎をよそに、一切の照れもなくそう言った。
  2人を大好きだと、そう言ったのだ。
「僕も……」
  だから友之も小さな声でそっと呟いた。
  丁度びゅんとした強風が吹いたせいでその小声は掻き消され夜の闇へと吸い込まれたが、友之は光一郎に掴まれた手に確かな安心と喜びを感じ、心からほっとして目を閉じた。



To be continued…




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