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「うっわ、最悪…。あの最後の大問、全滅だ……」 いつもの焼きそばパンを手にしながらも大塚の目は、先ほどからひたすら膝上のノートと教科書を忙しなく行き来している。 昼休みだけに学食の周辺では多くの学生が食事を楽しみつつ、それぞれ思い思いの時を過ごしているが、その中には大塚のように午前中のテストについて悶々としている者も少なくない。 そう、今は中間テストの真っ最中なのだ。 「もう終わった事だろ。いい加減諦めろよ」 一方で沢海は相変わらず余裕の体だ。いつまでもうじうじと「あの問題の答え何て書いた?」、「明日の化学のヤマ教えてくれ!」等々、立て続けに捲し立てては焦っている友人に対し、呆れた態度を隠さない。手にした弁当に集中しながら、沢海は大塚からの真剣な質問にもその大半を適当に受け流していた。 「今さら答え知ったところで手遅れだし」 「はいはい、毎回学年トップの人はいいよな、苦労知らずで! けど俺は今回マジでやばいの! 下手したら部活出られねェ。顧問からも釘刺されてっし」 「だから先週大丈夫なのかって聞いてやっただろ」 「先週は先週! 今は今! 問題はさっきの数学と、明日の化学なの!」 はあぁと大袈裟な溜息をついて、大塚はその背丈の割に駄々っ子のような仕草を見せ、いじけたようにそっぽを向いた。 そんな中、友之はというと、2人の遣り取りを眺めては手にしたおにぎりを口に頬張り、また2人を眺めては…という動作を繰り返していた。 長いようで短かった連休が終わってからは、時の流れがとても早い。休み明けからすぐさま中間テストの対策を取ったりと慌しかったせいもあるが、気づけば5月ももう終わりだ。友之もこうして沢海と大塚の3人で昼食を囲む生活に大分慣れた。 「友之」 ぼうとしていると沢海が視線を向けてきて穏やかな笑みを向けた。 「今日も図書室で勉強していくだろ? 部活もないし、苦手な教科あれば手伝うからさ」 「化学!」 「お前には訊いてない」 すかさず横槍を入れてきた大塚には冷たく言い捨て、沢海は再度友之を優しげな顔で見つめた。 学級委員であり、既に生徒会でも中心人物のように有名人となった沢海は、ますます多忙を極めているはずなのだが、こうして友之に気を配る事は忘れない。前半休みがちになったせいで今回の中間テストは友之も心底自信がなかったが、沢海のサポートのお陰でどうにかこうにか、現時点で赤点と思しきものは取っていない…はずだ。 ありがとうと小さく礼を言って笑うと、沢海も嬉しそうに笑い返してくれた。横で大塚が依然として俺も俺もと騒いでいたが、友之はそれに余計安らかな気持ちがして、ふっと辺りを見回した。 昼時の学食周りはいつでも人が多い。購買部の行列など見るだけで眩暈を感じるくらいだが、最近では友之も割と冷静にそういった群れを観察出来るようになっていた。以前だったら誰とも目を合わせたくないし、下手にまじまじとした視線を向けて気味悪がられても嫌だから、努めて下ばかり向いていたのに。 「あ…」 その時、視界の片隅に湧井の姿を見つけて友之は小さな声を漏らした。 今日は弁当を用意していなかったのか、気難しいクラスメイトは混雑している購買のレジ付近で、品薄になってきたショーウインドウの中をじっと見つめていた。 湧井は5月も終わろうというこの時期になっても未だ浮いていて、常に沢海が傍にいる友之とは違い、クラスの誰とも話をしている様子がない。彼女自身、「誰とも馴れ合う気はない」と言い切っていたから今後もそのつもりなのかもしれないが、友之は湧井が独りでいる所を見ると、いつでもとても気になってしまった。 「友之、どうした?」 自分たちからは遠く離れた方向を見ている友之に沢海が訊いた。 「あ…」 友之はそんな沢海の優しげな表情に視線を戻すと、どうしようかと悩んだ挙句、思い切って言ってみた。 「あの…勉強、湧井さんも誘っていい…?」 「え?」 「げ」 沢海と大塚の反応はそれぞれだったが、それはほぼ同時に出た。沢海は友之からの提案に意表を突かれたようになり、大塚は露骨に嫌な顔をした。 「駄目かな…」 「俺は別にいいけど…」 「俺はやだ! あいつ、こえーもん! 何かいっつもトゲトゲしてるし、何かっつーと無駄にガンつけてくっしよ。俺が何したんだって感じ。あの女はねーわ」 大塚は友之以外の人間になら幾らでも辛辣な言葉を吐いて良いと思っているらしい。実に正直な感想を述べた後、「あいつって何が楽しくて生きてんだろうなあ」と心底分からないという風に眉をひそめた。 「……っ」 友之はそんな大塚に何とか湧井を弁護したくて口を開きかけたが、思うような言葉が出てこず、結局は黙りこんでしまった。 あの図書室で拡の事を口にして以来、友之は湧井から露骨に無視され続けている。要は一言も言葉を交わしてはいなかった。 休み時間にちらちらと振り返ったり、放課後、湧井が独り何事かを考えているようにじっと窓の外を見やっている時も、友之は何度か声を掛けようと試みた…が、どうにもうまくいかない。あの日、湧井に余計な話をした事を何とか謝りたいのだが、気持ちだけが急いて足も口も動かないのだ。 「友之が誘いたかったら誘っていいよ」 友之がじっと考え込んでいると沢海が言った。 「あいつが来るとは思えないけど。友之が誘えるなら誘っていいよ? ……俺からは誘わないけど」 「え」 驚いて顔を上げると、沢海は別段害のある顔はしておらず、至って淡々としていた。 ただ、そのどこか冷たく突き放すような言い方が気になって友之が後の言葉を待っていると、沢海はそれを察して困ったように少しだけ笑んで見せた。 「大塚は言い過ぎだけど、俺もあいつの事はそんなに好きじゃないんだ。だから友之が何か考えてそういう事しようとしているなら、ちょっと前振り」 「………?」 「何の前振りだ?」 途惑った友之同様、大塚も訳が分からないというような顔をして首をかしげたのだが、沢海はそれ以上の事は言おうとせず、途端に表情もコロリと変えて大塚と部活の話を始めてしまった。 「………」 友之は暫くそんな友人の顔を見つめていたが、敢えて知らぬフリをしているような沢海のその態度にようやくその意図を察して息を呑んだ。 恐らく…否、ほぼ間違いなく、沢海は湧井の気持ちに気づいている。それを知っているからこそ、彼女の気持ちを受け入れる気はないと暗に示したのだ。別段、友之は湧井を勉強会に誘ってそこで沢海と彼女をくっつけようとか、そんな事まで考えていたわけではないのだが、けれどそれでも沢海にとっては同じ事で、そしてそれはどちらかというととても迷惑な事なのだと分かった。 「拡…」 「お。見ろよ、拡!」 けれど友之がそれで沢海に話しかけようと口を開きかけた瞬間、ほぼ同時に大塚が興味津々と言った声を上げて自分たちがいる所から少し離れたテラスに立つグループを指差した。 「超有名カップル発見」 大塚がからかうように言ったそこには、以前にもこの場所から見た事のある、橋本と馬場の姿が見えた。…ただ、今回はその2人だけではない、いつだったか友之に激しく詰め寄った女子生徒らの姿もちらほらと見える。どうやら橋本はバレー部の仲間で昼食を取りに来たようだった。 「俺さあ、前はお前と橋本が付き合ってんのかと思ってた」 「お前、その話しつこい」 大塚の話を沢海はどうでもいいという風な態度で横を向いた。それからちらりと友之の方も見たが、特には何も言わなかった。 そんな友人の態度に気がつかないのは大塚だ。 「や、マジだって。ほら、一説では橋本って北川にべったりだったし、自分でも北川凄ェ好きみたいに公言してたから、結局どっちなんだとは思ってたけど。北川はカモフラで、本命はお前って噂も根強かったからなぁ…って、イテ!」 沢海にべしりと頭を叩かれて大塚は始めこそ抗議の声をあげたが、直後すぐに自分の失言に気づいたようだ。慌ててあたふたと友之に謝ってきたが、友之はそれに自分こそが焦って「別にいいよ」と大きくかぶりを振り、助けを求めるように沢海を見つめた。 それで沢海も出し掛けていた怒りを引っ込め、溜息をついた。 「別に俺も友之もあいつとは普通に仲良かっただけだよ。最近はあの馬場って奴としょっちゅう一緒だし、全然話してないけど。あいつら結局付き合ってるんだろ? よく知らないけど」 「みたいだな。つか、仲良かったお前らが知らないのかよ? まあ最近あんまり喋ってないみたいだけど」 「あいつが無視してんだよ」 沢海がどこか不機嫌そうに声を荒げ、それから心配そうに友之を見やった。 友之はそんな沢海に気を遣わせたくなくて努めて平静でいようと思ったのだが、やはりここ最近の橋本の「露骨な避けっぷり」を思い返すに、気持ちはどうしても落ち込んでしまい、それを誤魔化すようにおにぎりを口に運んだ。 そう、何故か橋本は友之たちを避けている。廊下で擦れ違っても焦ったように逃げ出されるか、困ったように俯かれて素通りされてしまうのだ。 沢海はそれを「幾ら彼氏が出来たからってあれはないだろ」と単純に仲の良かった友人として立腹しているのだけれど、友之は橋本を怒る気はせず、かと言って以前とはまるで違うあの態度にはどうしても気持ちが下がってしまって、きっと自分が何か気に障る事をしてしまったのだろうけれど、このまま疎遠になっていくのはあまりに寂しいと思った。 それでもどうする事も出来ないのだけれど。 考え込んでいる間に湧井の姿は学食から消え、橋本たちも注文したメニューを抱えて場所を移動したのか、友之の前からはいなくなっていた。 ぐるぐるとまた余計な考えが巡りに巡って、結局その日、友之は午後いっぱい無駄に落ち込んだ。そのせいで放課後の勉強会も、遂に湧井に声を掛ける事は叶わなかった。 3人の旅行から帰ってきてすぐに、修司はまた何処かへ旅立ったらしく、ぷっつりとその姿を消してしまった。 今回は予告もなく、電話で「行ってきます」の挨拶もなかった。それを友之はとても寂しく思ったけれど、光一郎が「あいつも決まり悪かったんだろ」と言って全く心配そうな顔を見せなかったので、友之も「きっとまたフラリと帰ってきてくれるに違いない」と思い直し、努めて不安な気持ちをかき消した。 修司は結局あの旅行でただの1枚も写真を撮ってはくれなかったが、帰り際、友之が「やめないよね」とまたしつこく訊いてしまった時には、はっきりと頷いた。 そして笑って言ったのだ。「うん、やめないよ」…と。 それは「これまでの」写真をやめないという意味かと訊きたかったけれど、何故かその時の修司の穏やかな表情を見たら、友之ももうそれ以上の追及は出来なかった。 それに旅行から帰るとすぐに正人や裕子や、それに今回の事を「後から」「数馬から」知らされたという光次が何やかやと騒ぎ立て、ずるい、何なの、お土産は!?と激しく迫ってきた上、「今後は二度とこういった事がないように」と何故か無理矢理指きりまでさせられたものだから、友之としても何やらドタバタとして修司のいない寂しさにしんみりする暇をなくした。 そして、学校では中間テストという大きな関門が待っていたから。 友之はその日常をこなす事で精一杯となった。あの夕暮れの丘やサクラソウの群生地、それに山間にひっそりと佇む小さなコテージが酷く遠い所へ行ってしまう。毎日学校へ行って勉強をして。少しだけ家の手伝いをし、光一郎に喜んでもらう。それが出来た時は、顔にこそうまく出せないまでも嬉しくて堪らなくなった。 そして日曜日には野球をしに河川敷へ行く。 大変な事もあるけれど、そんな毎日に幸せも感じる。そう、悩む事もあるけれど、贅沢を言ってはいけないのだと思う。友之は自分を幸せだと思った。 図書室で沢海と大塚とで明日のテスト勉強をした後、友之はゆっくりとした足取りで独り下校していた。 今日も光一郎はいない。アルバイトで遅くなるから夕飯は用意してあるおかずで適当に済ませておくようにと言われていた。その為、自然と帰る足取りも遅くなり、薄暗い駅のプラットホームから改札へ向かう階段も下を向いてとぼとぼと歩いた。 今日は正人も仕事で来られないと言っていたし、裕子も相変わらずデートで忙しいらしい。裕子は友之たちが3人で旅行すると知った時だけは、以前と変わらぬテンションでどこか悔しそうに心配そうにやたらと連絡をしてきたが、それも数日経つとぱったりなりを潜め、また以前のように北川兄弟から距離を取る生活へ移行していった。だから結局、裕子の新しい彼氏とやらの事も、友之はまるで知らないでいる。 夕実とも音信不通のままだ。 光一郎にそれとなく聞いた時も、別に連絡はないと素っ気無い返事だった。あんな風に別れてあれっきりで、本当は心配で堪らないのに、友之はどうとも出来ないでいる。光一郎を介して夕実の様子をこっそり探るくらいしか術を見出せない。自分だけが幸せで満たされていて、光一郎に守られている。夕実は今頃独りぼっちで泣いているかもしれないのに。友之の事を恨んで、大嫌いだと思っているかもしれないのに。……そういう事を突き詰めて考えていくと頭がおかしくなりそうになるから、わざと頭を大きく振って、自分は幸せなのだからと何度も言い聞かせる。幸せなのだから、夕実からどんな風に思われて憎まれても、それは仕方がないのだと。 呪文のように繰り返す。 「ねえ」 鬱々としながら駅の改札を出たところで、友之は背後からぶっきらぼうに声を掛けられ、振り返った。そこには湧井が立っていた。 「後つけたの」 全く悪びれもせずに湧井はそう言い、きょろきょろと辺りを見回した後、「沢海とは何で一緒に帰らなかったの」と訊いてきた。 「あ…何か、お母さんから買い物を頼まれてるって」 「ふうん」 ちょうどサラリーマンの帰宅ラッシュとも被っているせいで駅周辺は結構な人の入りだ。その流れの邪魔にならないよう、切符売り場の端へ移動しながら、友之は黙って後をついてくる湧井を改めて見やった。 後をついてきたという事は、彼女も自分たちが図書室にいた時からどこか近くに座っていたのだろうかと思う。 「ねえ、沢海から化学のヤマ聞いた?」 「え…」 何が入っているのか、パンパンに膨れ上がっている学生鞄から小さなメモ帳とボールペンを取り出して、湧井は真剣な顔で友之に問い質した。 「どこらへんが出るって言ってた? あいつのヤマってかなり当たるでしょ」 「うん…。いつも凄く当たるよ」 それは沢海が常に隙なく勉強している事と、教師のさり気なく呟いた事まで事細かにノートに記しているだからだろうが、それはともかく、友之は目の前の湧井が真面目な顔をしてその情報をどうにか手に入れようとしている姿を不思議そうに見つめた。 「……何よ」 すると湧井は不意に友之の態度に気付いたのか、あからさま憮然としたような顔を見せた。 「何か言いたそうね?」 「凄く久しぶりに喋ったね」 「は…? …別に、話さなくていいもんなら話したくないけどね。あんた、いっつもちらちらこっち見てきて気持ち悪いし。けど、今はそんな事言ってる場合じゃないから」 「テスト、うまくいってる…?」 「そんなの北川に関係ないでしょ。大体、いってたら、こんなみっともない真似してないよ!」 「みっともない?」 「みっともないよっ」 自分で言っておいて決まり悪そうな顔をし、湧井は自棄のように荒っぽく言って唾を飛ばした。 「ライバルからの情報をこんな姑息な手段で得ようとしてるんだよ。プライドがあったらとても出来ないよね。自分でもそんな自分がむかつくけど…。けど、私はどうしてもトップを取らなくちゃいけないから」 「うん。留学、したいんだもんね」 「……そうだよ。だから教えて。聞いたこと」 「拡に直接訊かないの?」 「……っ。そんなの、訊けるわけないでしょっ」 湧井はむっとした後、「教える気がないならいいよ!」とメモをバンと勢いよく閉じた。 友之はそれですっかり焦って「教えるよ」と言った後、沢海がわざわざルーズリーフに各科目の勉強ポイントとして箇条書きしてくれたものを取り出し、それをそのまま見せた。 「…何これ。至れり尽くせりだね。さすがホモカップル」 湧井は手にしたルーズリーフを一読した後、思い切り毒のある言葉を吐き、「そこでコピーさせて」と言って、その紙を持ったまま近くのコンビニへ走って行った。 友之は黙ってその後ろ姿を見送っていたが、湧井は思いのほか早く戻ってきて、「はい」と偉そうな態度で掴んでいたその紙をずいと返してきた。強く握り締められたそれはくしゃくしゃに皺が入っていた。 「これお礼」 そうして湧井は友之がルーズリーフをしまった後、コンビニで買ってきたのだろう、グレープ味のグミを友之に押し付けた。 「沢海には言わないでよね。私が北川に頼んだ事」 「うん」 「……あと、変な勘繰りはやめて。私、別にあんな奴の事好きとかじゃないんだから」 「そ…そう、なの…?」 たどたどしく問い返す友之に湧井は「そうだよ!」とムキになった後、努めて声のトーンを落とすと呆れたように後を続けた。 「それに…何考えてるのか知らないけど、変な同情もやめてよ。沢海だって可哀想じゃん。あんたと仲良く勉強出来ると思ってたのに、何が悲しくて私なんかを誘わなくちゃいけないのよ。何考えてんの? だ、大体、私だってそういうの、ホント迷惑なんだから!」 「え……」 「沢海が言ってきたの。『友之がお前と一緒に勉強したがってるから来ないか』って。何なのそれ。失礼しちゃう。誰があんたらの中になんか入るかっていうのよ。私はあの橋本とは違うんだから」 「橋本さん…?」 全く予想だにしないところで橋本の名前が出たものだから、友之はそちらに驚いて目を見開いた。無論、「俺は誘わない」と言っていた沢海が湧井に声を掛けていた事にも驚いたのだけれど、彼の優しい性格を考えればそれも然程不思議な事ではない。 だからこの時はそれよりも湧井が橋本の名を出した事に意識が向かった。 「あの女、男作ったくせに北川に未練たらたらだね」 湧井は重そうな鞄を肩に担ぎ直した後、どことなくバカにしたような笑いを見せた。 「あいつに何やかや言われるのが面倒だから北川とも話さないようにしてたんだけど。北川が最近私の事ばっかり見るから、こっちが避けてても向こうが勝手に勘繰ってくるし。凄い迷惑よ、はっきり言って。一度ちゃんと話した方がいいんじゃない?」 「橋本さん…。湧井さんに、何か言ったの…?」 「何か? 言ってるも言ってる。教えてあげようか? あの女、私が北川と図書室とか校舎の外で話した事も知っててさ、だからいちいち突っかかってくるんだけど。『あんたは北川君のいいところが全然分かってないくせに、北川君の優しさに甘えてるでしょ。いい加減な気持ちなら北川君に近づかないで』…だって。凄くない? はっ…私、初めてだよ。勘違いとはいえ、あんな風に恋敵みたいな目ぇされて詰め寄られたの」 「……何で」 「そんなの私が訊きたいよ」 けれど基本的に湧井の興味は明日もまだ続く中間テストに向けられているようだ。「どうでもいいけど」と付け足した後、湧井は再び改札の中へ入って行こうと歩きかけて―…ふっと友之を振り返り見ると、怒ったように口を開いた。 そして言った。 「ありがとう」 「え…」 「ルーズリーフ見せてくれて」 「あ……うん」 途惑いながらも頷くと、湧井は何故かまくしたてるような早口で続けた。 「北川もテスト頑張んなよ。折角沢海みたいな凄い奴が手伝ってくれてるんだし」 「……うん。あの……」 「ん?」 一見とてもキツイけれど、湧井の態度はとても静かなものだった。 だから友之も思ったままを何とか口にする事が出来た。 「わ…湧井さんも、テ、テスト、頑張って…」 「………」 「留学…出来るといいね」 「するよ、絶対」 「うん」 友之が頷くと、湧井はここで初めてふっと笑ってみせた。 その笑顔は今まで見せてきた人を小ばかにするような意地の悪いものではなく、本当に心から笑んだ純粋なものに見えた。 その表情を直視した時、友之は湧井を彼女自身が言うような「ブス」だとはちっとも思わなかった。 「バイバイ」 湧井は手を振って元来た道を帰って行った。たったのあれくらいならば、もっと前、電車に乗りこむ前に声を掛ければ良かったのに―…と、そうも訝しんだけれど、結局のところ湧井も自分と同じような性格なのかもしれないと友之は思い直した。 本当は声を掛けたいのに、なかなか出来ない。不器用だから、臆病だから。誰かに近づくのはとても勇気が要る。 湧井の笑顔を思い出しながら、やっぱり今度からは自分が声を掛けようと友之は決めた。 それは、大切な友達である橋本にも。 「まだ勉強してるのか。もう寝てるかと思った」 「うん」 光一郎は終電ぎりぎりの時間に帰ってきたが、未だ煌々と明かりのついた部屋で友之がテスト勉強している姿を見ると、どこか心配そうな顔をして見せた。持っていた鞄を入口近くに放置すると、すぐさま友之が座るローテーブルの傍に寄ってきて、広げてあるノートを覗きこむ。 そうしてすかさず回答ミスを発見してそれを指摘した後、光一郎はぽんと友之の頭を優しげに叩いた。 「あんまり根詰めなくてもいいだろ。たかが中間テストくらい」 「たかがじゃないよ」 「え」 友之がすぐに反論したのが意外だったのだろう、光一郎はぴたりと手を止めて友之を驚きの篭もった目で見つめた。 だから友之もそんな光一郎を見つめ返し、どこか自慢気に後を続ける。 「2年生は…今度の中間テストで、1番取ると…、しょ、奨学生扱いで、海外の学校へ留学出来るんだって。夏休みの一ヶ月間だけだけど」 「海外……トップって……けどお前…」 友之の口からそんな単語が飛び出るとは夢にも思わなかったのだろう。珍しく光一郎は言い淀んだような様子を見せ、それから意味が分からないという風に眉をひそめた。 「何の話だ、それ?」 「うちの学校の新しい取り組みだって。アメリカ…あ、カナダだったかも。そっちの高校とテ…テイケイ、して、交換留学制度というのを作ったんだって」 「……はぁ」 感慨の全くない反応を光一郎は示したが、友之は職員室前に掲示されていた張り紙を思い出しながら、嬉しそうな顔を見せた。友之自身よくは分からなかったが、光一郎に自分の学校の新しい取り組みを話す事は訳もなくわくわくした。 自分には全く関係のない話なのに、だ。 「友達がそれを狙ってるんだ」 友之は光一郎を見つめながら、やや興奮したように話し続けた。 「いつも1位は拡だから、拡にま、負けないように、頑張るんだって。す…そ、そういうの、凄いよね。拡に勝つの、多分凄く大変だと…思うけど…」 「……あぁ。お前の話じゃないのか」 「え?」 「お前が留学したいって言うのかと思った」 「僕…?」 きょとんとして友之は光一郎をまじまじと見つめやった。 自分は留学などしたくない。全く興味がない。光一郎と離れて独りで異国の地へ行くなどとんでもない話である。 「僕は…行きたく、ないよ…?」 「そうだよな」 ほっと安堵したように息を吐いて光一郎は笑った。それから先ほど軽くのせていた掌を改めて友之の頭に置くと、今度はわしゃわしゃと乱暴に掻きまぜる。 「焦らすなよ」 そうして光一郎はそう言った後、友之の身体をぐいと引き寄せて強く抱きしめた。 「コウ兄…?」 友之は訳も分からず引き寄せられた事で、されるがまま両腕をだらりと伸ばした格好でいたのだが、光一郎の拘束はそれでより一層強くなり、ますます身動きが取れなくなってしまった。 「コウ兄…どう…したの…?」 「ん…別に…」 途惑いながら訊いた友之に、けれど光一郎は要領を得ない返事しかくれず、不意に身体を離すと顔を近づけてちゅっと触れるだけの口づけをしてきた。 「…っ」 友之が意表をついたそれにぱっと顔を赤らめると、光一郎は小さく溜息をついた後、自分こそが困ったように唇の端を上げて笑った。特に何も言いはしなかったけれど、光一郎のその表情は友之にとってとても珍しいものだった。だからますますじっと見つめていると、再び唇を塞がれて、その後も何度もキスされた。 友之は自分が何かいけない事をしてしまったのかと心配したが、光一郎は「何でもない」と言うだけで、結局立て続けに仕掛けてきたそのキスの理由を教えてはくれなかった。 翌日、気だるいながらも学校へ向かい、教室で一番の難関である化学の最終チェックをしていると、突然教室がざわりと波打って、次いで沢海の「どうしたんだよ」という声が聞こえた。 「……?」 それでゆっくりと顔をあげると、いつの間にか席のすぐ横に橋本が突っ立っていて、友之をどこか怖い顔で見下ろしていた。 「橋本さん…?」 久しぶりに間近で見たその友人が酷く切羽詰まった様子なので、友之も自然声が上擦ってしまった。何せここ数週間ずっと無視され続けていて、でも今日はテストが終わったら自分から話し掛けてみようと決意していたところだ。橋本が自ら来てくれた事はちょうど良かったといえばそうなのだろうけれど、テスト前のこんな時間に突然どうしたのだろうかという単純な疑問は残る。 「何だよ、お前。突然」 友之が思っていた当然の質問を前席にいた沢海がした。 「……………」 それでも橋本はそんな友人には一瞥もくれず、依然として友之だけを見下ろし、ズーンとした石像のような重々しい様子でその場から微動だにしない。その「不審」な様子に、さすがに他のクラスメイトも何事かとざわざわと近くの者たちと囁き合いながら視線を集めている。 いよいよ友之はどうして良いか分からなくなってしまった。 「あの…橋本さ…」 けれど堪らなくなった友之が声を出そうとした、その瞬間だ。 「……好きです」 橋本はよくよく耳をすませなければ聞こえないような小さな声で、しかし確かにそう言った。 「え……?」 友之がそれに驚いて思わず聞き返すと、橋本はびくりと震えたように身体を揺らし、それからカッと顔中から首筋まで真っ赤に染めて、ぎゅっと目を瞑りながらも今度は大声で「それ」を言った。 「北川君のこと、好きですッ!!」 「な―…」 驚きで声を失った友之の代わりに、沢海が一言漏らしてそのままガタンと椅子を蹴り、立ち上がった。…が、当の橋本はそれきり本当の石像になってしまったかのように動かない。ものの見事に石化していた。 「わっ、マジでー?」 「なになに、告白〜! すご〜!」 「そして何故に北川!?」 「北川くん、すごーい!」 「いや橋本がすげーよ。できねえ〜!!」 途端、クラス中も大騒ぎだ。一斉に歓声のような、からかいの混じった笑声のようなものが沸き立ち、友之の周りでとんでもない音の固まりが次々と耳に飛び込んできた。そのせいで友之は耳だけでなく、視界までチカチカとして身体の均衡を失った。 「うっさいよ! お前ら、静かにしろッ!」 友之がその声のシャワーに翻弄されて橋本にまともな声を発せられずにいる中、湧井のヒステリックな怒号が教室中に響き渡った。 そうしてそれによって辺りがしん、と静まり返るまで。 「………」 友之は何も言えず、橋本もまた、ぴくりともその場から動けずにいた。 |
To be continued… |
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