―29―



  特攻だの玉砕覚悟だの、そんな言葉は大嫌いだと数馬は言った。
「現代のワカモノが使っているああいうのはさ、結局ホンモノの覚悟なんかじゃないし。実際命だって懸けてないわけじゃない。それなのにカミカゼがどうの、上等だか下等だか、何だかよく分かんない意気込みをわざわざ身体に刻んだりサ。そういうのってホントどうなの?ってボクは思うね」
「…ふうん」
  数馬が何故突然そんな話題を振ってきたのか、友之には分からなかった。河川敷沿いにある灰色のコンクリート壁にそういったラクガキが記されていたからか、それともふと思いついただけなのか。
  とにかく数馬は「特攻精神ってどう思う?」などと訊いた後、友之が途惑ってまごまごしている間にさっさと自分の考えを述べた。そしてその話題は、とりあえずそれきり終わってしまった。

  今日「も」―…と言えば、きっと正人は渋面を作るに違いないのだが、事実として今日「も」見事に完敗を喫した《常勝》中原野球チームのメンバーは、試合後当然のようにバッティングセンター・アラキへ、反省会と称した昼食会へと向かっていった。
  ただ、試合にも遅れて到着し、ずっとベンチウォーマーだった数馬だけは例外だった。みんながさっさと歩いて行ってしまう中、珍しく独りしんと気配を断ち、アラキへも行こうという様子がない。
  だから友之は後から行く事を正人に告げた後、自らも河川敷の草原で微動だにしない数馬の傍に残る事にしたのだ。

  数馬は不機嫌ではないまでも、「今日は元気がないんだ」と、友之を仰天させるような事を呟き、虚ろな目で空を仰いだ。特攻うんぬんの事をぽつりと呟いたのはその直後だ。

  2人が座った河川敷の草原は、夏に向けて勢いを増してきた雑草の伸びが著しく、場所によっては小柄な友之など腰の部分まで覆い隠されてしまうほどだった。毎年有志のボランティアが川沿いの一帯を除草するが、今年はまだ一度も行われていないらしい。
  眼下のグラウンドでは友之たちの試合が終わるのを待ちかねていたように、次の草野球チームの面々が練習試合の準備を着々と進めている。今日は天気も良く、暇潰しに集まったギャラリーも比較的多い。
「トモ君、お腹空いてるんじゃない? 物憂げなボクの事は気にしなくてもいいから、中原先輩やキモイオジサン達がいる所でご飯食べてきていいよ?」
  辺りにきょろきょろと目をやっていた友之を鬱陶しそうな目で数馬が見た。
  友之は慌ててそんな数馬を見返し、途惑ったように訊いた。
「数馬は行かないの」
  今日は独りでいたかったのかもしれない。そうも思ったが、もう遅い。
「行かない」
「……じゃ…じゃあ、お、俺も…、いる」
「ふうん?」
「駄目?」
「……ふっ。別に、いいけど?」
  そう、確かに不機嫌ではないらしい。その言葉と笑顔を貰って、友之は少しほっとした。
  口では「元気がない」と言いつつも、数馬の態度は相変わらず実に平静とし、ひょうひょうとしたものだった。いつものふざけたような口調で友之にも皮肉な笑みを浮かべ、とりあえず隣にいる事も許してくれた。そうして数馬は両腕をぐんと天に伸ばすと、だっとそのままの勢いでその場に仰向けになり、目を瞑った。とても気持ち良さそうな顔。数馬はいつでも一時一時をとても楽しんでいるようだ。友之はそんな“友人”をいつでもとても凄いという尊敬の念で見つめてしまう。
「数馬」
  そんな数馬に友之が声を掛けたのは、どれくらい時が経ってからだろうか。
「何」
  それでも数馬はすぐに反応した。閉じていた目をぱちりと開け、友之を挑み返すように真っ直ぐな視線を向けてくる。
  友之はその眼差しに一瞬は怯んだものの、今日は会ったら言おうと思っていた事なのだからと、ごくりと唾を飲み込み、口を開いた。
「あの…。明日、暇?」
「何で」
「みんなで…遊園地行くんだ。あの、N市にある、ドリームパーク」
「みんなって誰」
「あっ…。えっと」
「遅いな。もういいよ、知ってるから」
「えっ」
  矢継ぎ早に声を出していた数馬がむっとしたようになりながら身体を起こした。それから大して乱れてもいない頭髪をがしがしと乱暴に撫で付けてから、小さな子どものように頬を膨らませて見せる。それがいつもの冗談なのか、それとも本当に怒っている上での表情なのかは、その時の友之には判断がつかなかった。
  数馬が言った。
「みんなって言うのは、拡クンと由真さんでしょ。あと、拡クンの友達の大塚クンって人」
「え……」
「それから、橋本さん」
「…うん」
  友之が驚きながらも頷くと、数馬はその人数を数えるように一つ一つ指を折るような所作を見せ、その後すうと怪しく目を細めた。
「光次君も誘ったけど、部活の試合があるから行けないって連絡があった。光次君としてはそれって物凄く悔しいから本当は部活をサボりたかったんだけど、全国かかった大切な試合だから抜けられるわけがない。でも、何して遊んだのかは今度詳しく報告してねって念を押されてる」
「うん…」
「当たりでしょ?」
「何で分かったの?」
「光次クンの言動なんて、誰に聞かなくても分かるっての」
  相変わらずバカだね君はと言った後、数馬はさっと膝を抱えてグラウンドの方向へ目をやった。
  身体を屈めた数馬の前髪を涼やかな風がさらりと攫う。
  いつの間にか試合が始まっていた。
「数馬も行ける?」
  一時の間の後、友之は数馬に訊いた。

  中間テストが終わると学校はその後1週間、採点と成績処理期間という事で特別な時間割が組まれる。いつもより早く帰れるし宿題も出ないから、テスト明けの生徒たちにとっては“パラダイス週間”だった。夏大会のある部活に所属している生徒は練習が入るからあまり関係ないらしいが、友之のような帰宅部は必然的に自由な時間が増える。6月に入って何日かは雨やどんよりとした曇り空が続いていたけれど、「天気予報では晴れの確率100%だから」と、今度の日曜に遊園地へ行こうと誘ってきたのは橋本だった。

  橋本はあんなに一生懸命打ち込んでいたバレー部を辞めた。
  だから日曜日はとてつもなく暇なのだと、彼女は屈託なく笑った。

「悪いけど、忙しいね」
  はっとして顔を上げると、数馬が友之に一瞥をくれながらそう言っていた。友之が慌ててぼんやりとしていた目をぱちぱちさせていると、数馬は膝に埋めていた顔を上げて、ハアと大きな溜息を漏らし、「仕方がないな」と言うように首を横に振った。
「トモ君にはいつでもボクがついててあげなくちゃ駄目なのにね。最近、全然構ってあげられなくてごめんねー」
「…忙しいの?」
「そうだね。忙しいね。別に望んでいるわけじゃないけど、でも、はっきり断らなかったのもボクの意思だから。しょーがないね」
「家の用事?」
  橋本から遊園地へ行こうと言う誘いがあった時、その場に居合わせていた沢海や大塚が「その日は部活もないし、自分たちも行く」と言い出し、話はとても大きくなった。だったらもっと大勢誘おうとなって、橋本は由真に声を掛けたし、友之は光次に声を掛けた。
  そして数馬には予備校が同じである沢海が「渋々」誘いを掛ける事になったのだが、その数馬だけが今日までどうにも捕まらなかった。沢海が言うには、予備校も何の連絡もなく欠席していて、携帯に電話やメールをしてみても何の反応もないという。完全に音信不通状態だったのだ。
「どこか行くの?」
  返事を貰えないまま次の質問をすると、数馬は曖昧に首をかしげた。
「んー…うん。そうかな?」
「家族で?」
「そうかも」
「………」
「ふっ…そんないじけなくてもいいじゃない」
  無意識のうちに憮然としていたのだろう、友之の顔を覗きこむようにして数馬がここで初めてゆったりとした笑みを浮かべた。皮肉な笑みや、底抜けに明るくふざけたような笑いも数馬の魅力ではあるけれど、こんな風に静かに笑むとおよそ高校生らしからぬ大人な雰囲気が漂う。数馬はいつでも友之の一歩も二歩も先を行く男だった。友之が少し前進したかと思うと、気付けばもう先を歩いている。友之の想像もつかない場所にまで歩いて行って、振り返ってはくれるけれど、基本的には彼は独りで先を行く。
  だから数馬のその笑顔を見た時、友之は無性に急くような焦燥とした想いを抱いた。
「別に隠すつもりはないよ。ただ俺もよく分かんないの。……ちょっと、うちの会社見に行く事になっちゃってね。兄貴と一緒に」
「お兄さんと?」
「そ。先に親父さんが行ってるから、向こうでは3人になるのかなー。あ、でも妹の和衛さんが自分も行きたいって殆ど半泣き状態で騒いだから、結局母上様も後から一緒について行く事になったっぽく。何だかんだ、現地で家族全員揃う事になりそう」
「現地って…何処か、遠く?」
「考えようによっちゃ遠いかもね。アメリカだから」
「えっ」
  友之が思わず大きな声を出すと、数馬はそんな友之のリアクションにこそ驚いたようで、一瞬大きく目を見開いた後は思い切り破顔した。
「トモ君でもそんな声が出るんだねえ」
「アメリカ…行くの?」
「うん」
「いつ帰ってくるの?」
「さあ?」
  視線を逸らして不敵な目で遠くを見つめる数馬の横顔に、友之はどきりとした。
  数馬が帰ってこないなどという事はありえない。そうは分かっているけれど、それでも不安になった。
「ふ」
  それがもろに顔に出ていたのだろう、数馬はしてやったりというようにニヤリと笑い、それから再びごろんと仰向けに身体を倒した。そうして両手を頭の下へ持っていき、「あーあ」と言いながら目を瞑る。
「めんどくさいなぁ。ボクだってトモ君と遊園地行く方がいいよ。たとえ邪魔なのがいっぱいいるとしてもさ」
「…無理矢理なの?」
「さっきも言ったでショ。最終的に行く事を選んだのはボク。誰に強制されたんでもない、だから分かってるんだ。こんな風に今さら憂鬱になったって仕方ないってね」
「数馬が憂鬱になるなんて……」
「あのねぇ、ボクを何だと思ってるの? フツーの人間ですよ? スーパーマンじゃないんだから」
「でも…」
  それでも、憂鬱な数馬は数馬ではない。似合わないと思ってしまう。友之の中で数馬は確かに「対等」でありたい友人だけれど、それでも心のどこかでいつも思っている。数馬は凄くてカッコ良くって、何でも出来る無敵の高校生だと。
「前、兄貴と喧嘩したって言ったでしょ」
  数馬が言った。
「実際、互いにあれが喧嘩だなんて思ってないわけだけど。けど、俺はむかついちゃったわけだ。だからかな……ちょっと嫌がらせしてやろうと思ってさ」
「……嫌がらせ?」
「そう。……ボク、ガキだからねー」
  ぱちりと目を開いて悪戯っぽく笑った数馬は、けれどその「嫌がらせ」をちっとも楽しもうとしている風ではなかった。
  それで友之が途惑いながらも何か言おうか思案していると、数馬はそれを察知したのか、「やめてよ」と片手を振ってウンザリしたように再び目を閉じた。
「自分の事で精一杯なトモ君にどうにかしてもらおうなんて思ってませんから。自分の事は自分でやるしね。とにかく、今はオウチの事でごたごたしてるんで、呑気なキミたちとは遊べないって結論です。オーケー?」
「……いつ帰ってくるの」
「だから分からないって」
  身体を揺らして笑ってから数馬は再び目を開くと、友之を探るようにじっと見つめやった。
「何、俺がいないと寂しい?」
「うん」
「お、返事早い。あ、そ! でもなぁ、友之って浮気モンだからな、ホントに香坂数馬一筋かはアヤシイもんだ」
「え?」
「なーに、告白されてんだよ。しかも朝の教室で? テスト前だったんだって?」
  その言葉に友之が微かに目を開くと、数馬は寝転んだ姿勢のままでごそごそとズボンの尻ポケットから携帯を取り出し、それを自分の目の前に持っていきながらつまらなそうに言った。
「便利な世の中だけど、つまらなくもあるよね。何でもかんでもすぐ分かっちゃうから」
「あ…拡から聞いた?」
「えー? んーん、ボクは橋本さん本人から聞いたよ。メールで。『今朝、北川君に告白しました。テスト前だったので返事は後でいいとダッシュしたけど、とにかくしました! ………ざまあみろッ!』…だってサ。もう何なのこの人? 前からイヤ〜な感じはしてたけど。いざとなったら拡クンなんかより全然怖いなって。……ふっ、けど、その時の場面想像したらちょっと笑っちゃった。拡クン、驚いてたでしょ?」
「うん……怒ってた」
「そうでしょうとも」
  あの人はねえ、結構イイ人だよね!と、数馬は本心なのか冗談なのか分からないような軽やかなリズムでそう発し、「それで」と携帯を閉じてからわざとじろりと大袈裟な目つきで友之を睨んだ。
「何て返事したんだよ。まさか今日まで放置のわけないでしょ? 遊園地に行く計画になってるとすると、橋本さんにとっても満更イヤな断られ方でもなかったわけだ?」
  数馬の言い方に友之は僅か首をかしげ、暫し言い淀んだ。
  数馬は橋本が「断られる」事は前提として、それでも友之が彼女の告白に対してどう返事をしたのかが気になるらしい。
  ただ、友之としては数馬がそれを気にしてきた事自体が何となく不思議だった。
「数馬、気になるの?」
「はぁ? ……やっぱりイヤな子だね。気になるに決まってんでしょうが。『何で?』とか言ったら蹴り飛ばすよ?」
「い…言わない、よ」
「ん?」
  友之がたどたどしくもそう答えた事で、数馬はふと怪訝な表情を見せ、それから身体を起こした。目線が同じになり、2人は互いに向かい合うような格好になる。それに多少の居心地の悪さを感じたものの、友之は躊躇いながらも口を開いた。
「そういうの……これからは、なるべく…、やめようと、思ってるから」
「……そういうのって?」
「何で、とか。あ、あと…別に、とか。他の、色んな事もそうなんだけど…。ぼ…お、俺もうちょっと……よく考えて話をしようって」
「何でそういう風に思ったの?」
  数馬は何を考えているのかよく分からない、淡々とした口調と表情でそう訊いた。
「え……っ」
  友之はそれを怒られたのかと取ってびくりと肩を震わせたのだが、つい先日決めたばかりの事だったので、ここは負けじと唇を開いた。
  ―…これを光一郎に言ってみた時、いつでも完璧で大好きな兄は、実に複雑そうな、何とも言えないような表情をして黙りこくっていたのだけれど。
  友之は数馬に言った。

「お…男らしく、なりたいから」

  河川敷グラウンドで始まった第2試合は序盤から接戦で盛り上がっているのか、激しい掛け声や応援の歓声が心地良く上方にいるこの場所にまで響き渡ってくる。
  それを何となく耳に留めながら、友之は数馬の呆気に取られ声を失ったような顔を不安な気持ちで見つめやった。
  けれどそれも恐らくはほんの一瞬のものだったろう。
「ぷっ……あはははははッ! 何それ〜!? 何言ってんの、トモ君!?」
「え……」
「それさぁ、何の決意!? あははは、もう最っ高! トモ君、やっぱキミ凄いね! そう、男らしくなりたいの!? 素敵だねえ、その決意!」
「な…そんっ…そんな、バカに……」
  友之が珍しくむっとして顔を赤くすると、数馬は未だ心底可笑しそうに笑いながら、それでも「ごめんごめん」と謝って片手で顔を覆うと、そのままもう一方の腕を伸ばしてそのまま友之をがっつりと抱きしめた。
「か…っ」
  友之がそれに驚いて目をぱちくりさせると、数馬は依然として身体をやや震わせながらも、今度は両腕でもって友之を抱きしめ、ぎゅうとその拘束を強くして言った。
「ごめんごめん。こんな笑うつもりなかった。でも、びっくりしたんだ。いや、何を言うつもりなのかと思ったしさ…。でも、やっぱりキミはキミなんだ。うん、安心した」
「何…?」
「あれ、そういう風に訊くのやめるんでしょ?」
  がばりと身体を離し、両手を友之の肩に置いたままの数馬はたしなめるように言った後、それでも笑いの含んだ目を向けた。けれどそこにもう悪意のあるからかいの色はなく、数馬のその眼差しはとても優しい色をしていた。
  それに、その唇から出た声も。
「ねえトモ君。好きだよ」
  触れるだけの一瞬の口づけをした後、数馬はそう告げた。そうして、「返事は帰ってきてからでいいよ?」と、これは冗談めかした口調で言った。





  橋本から告白された時、友之は一瞬何を言われているのかよく分からなかった。
「な、何言ってんだよお前…!?」
  それも割と早い段階で我に返れたのは、いきなり席を立ち、怒ったような顔を見せた沢海の表情を見たからだ。その途惑いと責めるような口調は真っ直ぐ橋本に向けられていて、友之は咄嗟に「どうしよう」と思った。橋本はただ真っ赤になって目を瞑ったままフリーズしているし、教室中は大騒ぎだし。湧井もヒステリックに怒鳴っているし。
  ただ、橋本を助けなければ―…と、そうは思った。
「は、橋本、さん…」
  だから友之は殆ど反射的に、石のように固まった橋本の手にそっと触れてみた。
「ひゃ…」
  するとたったそれだけの所作で橋本はあっという間に、それこそ悪い魔法から開放されたかのような勢いで石化を解いた。
「ひゃあっ!」
  そうして友之に触れられた手を油にでも当てられたかのように振り回し、後退し、後はあわあわと唇を戦慄かせながら「後で! 後でね!」と裏返った声を出しながらそのまま教室を飛び出て行ってしまった。
「…………………」
  さすがにその異様なリアクションには周りのクラスメイトたちも唖然というか、拍子抜けしたようにぽかんとして、やがて静かなさざ波のように微かな笑みを零し始めた。
「何なんだ、あれ」
「いやぁ今ので覚えた化学式、全部忘れたわ…」
「でも真貴スゴイよ。あたし、尊敬した!」
  それぞれが思い思いの感想を述べているところに、何を騒いでいるのかと訝しむような顔をして担任教諭が教室へやって来た。それによってクラスはあっという間に当面の問題であるテストへ意識を向けてしまい、誰も友之に何かを言ったりからかいの声を掛けてくる事はなかった。無論、そういった干渉は沢海によってきつく禁じられているからというのもあるだろうが―…その当の沢海でさえ、取り乱したように立っていた席に再びストンと腰を落ち着けると、その日は放課後になるまで友之にも一切口を開こうとしなかった。

  橋本に「好き」と言われて、友之の頭の中はとても混乱した。

  けれど大きな驚きの隅っこには、それをとても嬉しいと思う気持ちも確かに存在していた。橋本に嫌われていなかった。橋本は友之を忘れ去ろうとしていたわけではなかった。その事が単純に嬉しかった。友之にとって橋本は沢海と同じ、大切な友人なのだ。橋本のお陰で高校1年の生活を恙無く過ごす事が出来た。時々は心から「楽しい」と思える事も増えた。まだまだ人に慣れないし、怖い、大変だと感じる事も多いけれど、それでも友之は橋本の底抜けに明るい姿に何度も救われていたのだ。
  ここ数日、あからさまに無視されていて本当に辛かった。
(好き……)
  それでも、橋本の真剣な気持ちに自分が応えられない事も友之はもう知っていた。
  橋本の「好き」は、自分が橋本に対して抱いているような、友人に対する「好き」とは違う。それは友之が光一郎に対して抱いている、特別な「好き」だ。幾ら鈍い友之でも、さすがにそれくらいは分かる。
  放課後、橋本のクラスへ行って橋本を探したが、彼女はテストが終わると同時に帰ってしまったという。バレー部の女子たち何人かが今朝の騒動を知って大騒ぎしていたから、北川君も早く帰った方がいいよとは、橋本のクラスメイトが率先して教えてくれた。
  言われた通りに昇降口へ向かうと、いつぞや友之がバレー部との騒動に巻き込まれた時、保健室へ運んでくれた馬場敏郎が立っていた。橋本の事が好きで、2人はもう付き合っていると噂の立っていた男子生徒だ。
「よう」
  馬場は友之の事を待っていたようで、友之の姿を認めると少しだけ笑ってみせた後、「早く帰りな」と優しい声で言った。
「うちの女バレの連中って、みんな血気盛んって言うのかな。とにかく気ィ強いんだ。男バレの俺らはそれでいつもタジタジ。仲間内は、だから『彼女にするなら、バレーする女だけはありえない!』なんて悪口言うんだけど。俺はさ、強い女が好きなんだ。男のくせにって思うかもしれないけど、頼れる女って良くない?」
「あ……」
  友之が立ち尽くしたまま微動だにしない中、馬場は自分一人喋りながら、さっさと友之の下駄箱から友之の靴を取り出してそれを下に置いた。
  途惑う友之にもそ知らぬ顔だ。
「で、強い女の中でも真貴はダントツ! いっちばん強いし、1番カッコイイしさ! 俺ぇ、今までは結構年上の女が好みだったんだけど、真貴はいいよな。も、最高。特に今朝のあれはやばいね」
「あの……」
「俺、真貴にちゃんと告白した事、1度もないんだ」
  友之に話させずに馬場は言った。
「1回メールでなら告った事あるけど、そんなもん告白のうちには入らないって真貴本人からも言われた。確かに文章もストレートじゃなかったしさ。最初に真貴の事好きだって言うのも、バレー部の奴らに間接的に伝えてもらって。で、何となーく一緒にいるようにして、周りも協力してくれて。そうやって“何となく”付き合ってるようにしちゃえば、後はそこから形出来てくるって。みんなに助けてもらって、それで俺もそんなもんかな、そうできるなら楽でいいなあって。バカじゃねえ? そんなん、全然男らしくねえ」
「………」
「真貴の方がよっぽど男らしいよ。もしかしたら、あいつは俺がちゃんと告白するの、待っててくれたかもしれないのに」
  友之が何も発しない事を馬場はまるで気にしていないようだった。1人で話して1人で結論づけると、馬場は橋本が持っていたのと同じ、部活グッズが入っているだろうボストンバッグを肩に担いでから、清々とした顔を見せた。
「女バレの奴らは俺がちゃんと押さえておくから、北川は心配しなくていいよ。出来たら真貴にもそのこと……あぁ、いいや。今度は俺がちゃんと伝える。あいつ、部活辞めるって言ってるから今は無理かもしれないけど、落ち着いたら……、俺が絶対ちゃんと伝えるからさ」
「橋本さん、部活辞め…」
「大丈夫。辞めさせないから」
  焦る友之に馬場は力強くそう言うと、じゃあなと言って去って行った。
「………」
  友之は馬場が暫くの間は用意してくれた靴もはけず、その場に立ち尽くしたまま彼の歩いて行った方向をただ見つめ続けた。
  馬場自身は別段望んでいなかったかもしれない、けれど何故一言も声を出す事が出来なかったのだろう、そんな想いが脳裏を過ぎった。実際何を言えばいいかなど分からない。今も答えが見つからない。
  それでも、馬場が言った言葉の一つ一つが友之にとっては何だかとても痛かった。
  男らしくないのは自分の方だと思ったから。





  色々な考えが頭を占めていて胸がいっぱいになっていたからかもしれない。
「トモちゃん」
  帰路についたアパートの前に姉の夕実が待っていても、友之はさして驚かなかった。
  また来ちゃった、ごめんねと軽く謝った夕実は、しかし先日よりはどこか落ち着いていて、もう二度と現れない、自分など死んだ方が清々するだろうと吐き捨てこの場を去って行ったあの時の勢いもなりを潜めていた。
「ここに来たらまたコウちゃんに怒られる。修司もいるかもしれないし、煩い正人だっていないとは限らないよね。あいつの仕事って、昼間に休みの時もあるでしょ」
「うん」
「そうでしょ。裕ちゃんも、まだここにはよく来る?」
「最近は…あんまり」
「そうなんだ」
  驚くほどスムースに会話が続くのを友之は他人事のように受け留めていた。それはもしかするとこの目の前の夕実もそうだったかもしれない。ワインレッドのフェルト帽を目深に被り、首から腰近くにまで掛かった薄手の白いニットストールを巻いたパンツ姿の夕実は大人っぽく見えたが、どことなく寒そうだった。これから夏に向かおうというのに、肩に提げたショルダーバッグを強く握りしめ、顔色も悪く唇も仄かに青白い。
  友之がそんな姉をまじまじと見やっていると、夕実は心配されているのを察したのだろう、小さく首を振ると少しだけ笑ってみせた。
「大丈夫。具合悪いわけじゃないよ。薬を飲んだばかりだから気持ちも落ち着いているし、今はちょっと眠いだけ」
「薬……?」
「病院に通っているの。心の病院」
  思わずさっと眉をひそめた友之に、夕実は自嘲するような笑みを浮かべた。
「『病院に行け、お前は頭がおかしいから』って1番最初に私に言ったのは1番最初の彼氏だけど、実際に俺も一緒について行ってやるからって言ってくれたのは今の彼氏が初めてだよ。…だから行く気にもなったんだ。時々むかつくけどね」
「夕実…?」
「だって私は、別にどこもおかしくなんかないから」
  きっぱりと言って、けれど夕実はそこでくしゃりと相貌を崩すと、どこか泣き笑いのような目で友之を見やった。
「家族の誰も、お母さんもトモちゃんも……、コウちゃんも。今まで私をそんな風に言った事ないじゃない。私はあの頃と何も変わっていないのに、家族以外の他人は私がおかしいって言う。これって周りがおかしいのか、それともトモちゃんたち家族が嘘つきだったのか、どっちなのかな」
「………夕実」
「本当はお母さんに一番訊きたいのに、お母さんはもういない」
「………」
「それでこの間、コウちゃんに電話でそれを訊いたら、何て言ったと思う? ふ…コウちゃんって本当に酷いよ。私の質問には答えないで、『それ、友之には絶対言うなよ』だって。何それ?」
「コウが…」
  友之が微かに声を出すと夕実は頷いた。
「それにコウちゃんは先生と同じ事を言うんだ。今の私はトモちゃんには会わない方がいいんだって。だからこうやってアパートの前で待ち伏せしたり、電話を掛けたり、手紙も書かない方がいいって。全部の恨み事を、私のここに詰まってる悪いものを、私はいつでもトモちゃんばっかりにぶつけるからって。それで私も……傷つくって」
  自分の胸をごつごつと拳で叩きながら夕実は言った。それからハアハアとどこか苦しそうに息を吐き、白いニットショールを誤魔化すように指に絡める。
  友之がじっと黙ってその姿を見詰めていると、夕実は笑った。
「それを言われた時は本当に頭にきた。みんな、私とトモちゃんの事何も知らずに偉そうな事ばっかり言うから。コウちゃんだって、今まではトモちゃんの事放っておいたくせに。……でも、私はお医者さんにもコウちゃんにも……あの、お……親とも呼べない……あの男、にも。本当に強くは出られない。私、あの人たちが怖いから」
「コウも……?」
  父親や他人である医者に対してはある程度大人しい態度を取る夕実を想像できるが、光一郎もそうだと言われて、友之は思わず声を上げた。光一郎は父親に見放された夕実の事は友之を引き取ってくれた時と同様、「絶対に見捨てられないから」と、1人密かに連絡を取る事も続けていた。夕実もそんな光一郎には唯一甘えていると思っていたのに。
「コウちゃんなんか、最近じゃあの男よりよっぽど怖いよ」
  ふっと苦く笑ったような夕実はそう毒づいた後、ついと顔を上げた。その視線が友之を通り抜けた背後に向けられていたので、友之も不審に思って流されるままそちらを振り返り見た。
「あ」
  そこには光一郎が立っていた。
「トモちゃんに会うって言ったから、きっと急いで帰ってきたんだね」
  夕実はぼそりと独り言のように呟き、それから「はい」と友之に自分が持ってきていた紙袋を手渡した。それは以前修司が突き返した時と同じ紙袋で、中身は着替えだのが入った差し入れだと夕実は答えた。
「誰にも指図されたくない」
  友之の横を通り過ぎながら、夕実はきっぱりとそう言った。
  ぎくりとして友之がその背を追うと、夕実はもう友之ではなく光一郎の方を見ていて、「コウちゃん」と光一郎の方に声を掛けた。
「コウちゃんがどう言ったって、どう邪魔しようとしたってさ。無駄だよ。コウちゃんとトモちゃんが兄弟なのと同じように、私だってトモちゃんのお姉ちゃんなんだから」
「……そんなの当たり前だろ」
  光一郎は珍しく微か息を切らせていた。恐らくは夕実が指摘した通り、駅から走って戻ってきたに違いない。そんなに自分と夕実が2人きりで接触するのが心配だったのだろうか、友之はそんな光一郎に胸が翳って自然表情を暗くした。
  夕実を怒らせ、光一郎に心配を掛ける。結局自分はまだまだ小さい存在のままなのだ。
「だったら、私だって会いたい時にトモちゃんに会うよ。別にいいでしょ」
  そんな友之をよそに、夕実はただひたすら光一郎に向かって剣呑な表情で突っかかる。
「夕実」
「ねえ、分かってる? 自分だって勝手だよ。酷い人なんだよ、コウちゃんは。本当に分かってるの?」
「……分かってるって言ったろ」
「分かってない! 最初に家族を…私たちを捨てようとしたのは、コウちゃんでしょ!」
  初めて怒気を含んだ荒い声を夕実は出した。けれどすぐにはっとしたようになって友之を振り返り見た。
  その目には確かに怒りが滲み出ていたけれど、同時に後ろめたさと哀しみといった弱々しい感情も痛い程に浮かび上がっていた。
  それで友之もようやっと足を動かす事が出来た。
「夕実…」
「トモちゃん、トモちゃんがどう言ったって無駄だよ、私は―」
「会いたい時に、来ていいよ」
「……っ」
  友之の淀みない言葉に夕実はひゅっと喉を鳴らした。そう言われるとは思っていなかったのか、驚きに見開かれた目はよく見ると酷く充血していた。
  眠れていないのかなと思った。
「僕のこと嫌いで……顔も見たくない時は、離れてて、いいから…。その…その代わり、会いたくなったら……会いに、来てよ。僕は……僕、夕実のこと、好きだよ…?」
「は……」
「友之」
  光一郎が知らぬ間に傍に寄ってきてその腕を掴んだ。びくっとして友之は顔を上げたけれど、その瞬間に知った。
  光一郎に掴まれた自分の腕は、信じられないくらいがくがくと震えていた。
「コウ…」
「夕実、今日は帰れよ」
「コウ…っ」
  そんな風に冷たく言ったら夕実が可哀想だ。咄嗟にそう思って光一郎を非難の目で見上げたけれど、光一郎はそんな友之には知らぬフリで、ただ夕実の方を見つめていた。
「……うん」
  すると夕実は夕実で光一郎のそんな容赦ない冷たい言葉に、しかし素直に頷いた。
  どうした事か、先刻まで興奮したように顔を赤らめたその様相はもうすっかりなりを潜め、最初に会った時のような青白い顔色に戻っていた。
「言われなくてもそうする」
  そうして夕実は2人の方は一切見ずにそう言うと、まるで逃げるように歩を速めてその場を去って行った。友之は一瞬追いかけようかと迷ったけれど、光一郎に強く掴まれた腕はそのままで解放してもらえず、結局その場を動く事は出来なかった。
「あんな風に言ったら」
  ややあってから光一郎が息を吐いた後に声を出した。
「あいつはまた来るぞ。お前の優しさに付け上がって、絶対甘えてくる。お前をまた苦しめる事になる」
「……そうかな」
「お前は……そう、思わない?」
  光一郎が眉をひそめて訊いた。友之の返答に納得がいかないという風だ。
  けれど友之は夕実が去って行った方からようやっと視線を外すと、「うん」と流れるように首を縦に振り、それから心から笑んで見せた。
  いつも夕実に会った後は心臓の音が恐ろしいくらいに高鳴ってそのまま死んでしまうのじゃないかと思うくらいなのに。
  どうした事か、今は酷く静かだ。心がとても凪いでいる。
「怖く、ないよ…。だって、家族、だし」
「……お人好し」
「コウだって…さっき、言ったよ? 夕実がずっと僕のお姉ちゃんなの…、当たり前だって」
「そりゃ―……」
  抵抗しかけて、しかし光一郎は分が悪いと思ったのか開きかけた口を閉じてしまった。
  それからようやく、自分が未だ友之の腕を掴んでいる事に気づいたのだろう、ぱっと手を離し、その後もう一度大きく息を吐いた。友之はそんな光一郎を不思議そうに見上げ、そしてまた、ゆっくりと笑った。
  本当は、全く怖くないと言ったら嘘になる。けれど「今日」、夕実を見ても怖くなかったのは本当だ。それが一つ一つ増えていったら、きっと今日の小さな嘘はやがて真実になる。  
  夕実を心から笑って出迎えられるような強い男になりたいと、友之は思った。
「なんか……お前、余裕だな」
  俺はこんなに焦って帰ってきたのにと呟く光一郎に友之は小さく首をかしげた。
「コウ…」
  それからそっと光一郎の手に触れてみる。今平気だったのは自分の力ではない。光一郎がいてくれたからだ。この手が自分を守ってくれると知っていたから、友之は夕実に後悔のない態度を取る事が出来た。光一郎は凄い。
  泣きたくなるほど頼りになる、唯一人の愛しい存在。
「ありがとう…」
  だから気付いたら、そんな言葉が漏れていた。
「……バカ」
  光一郎はそんな友之に少しだけ驚いた顔を見せたけれど、やがて触れられた手を逆に自分がぎゅっと強く握り返し、それから―…不意のキスを1つくれた。
「それは俺の台詞だろ」
  そうして浮かべてくれた光一郎の笑顔に、友之はとてつもなく幸せな気持ちが沸きあがるのを感じた。

  今はまだ自分がこの手を必死に取る方だけれど、いつかこの完璧な人からも自分が頼りにされる日が来るのだろうか。そうなるといいと願わずにはいられない。

「今日、試験どうだったんだ?」
  アパートの部屋へと向かう階段を上りながら、光一郎が訊いてきた。友之は手を引かれたままの状態で後に続き、その背を見つめながら晴れやかな顔で「うん」と頷くと、今日あった出来事を伝えるべく、ゆっくりと唇を開いた。




…and…


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