―epilogue―



  珍しくバイトが早くに終わったので夕刻前にアパートへ帰り着くと、ポストに大きな茶封筒がはみ出ながら入れられていたので、光一郎は首をかしげた。何気なくそれを取ると宛名は「北川友之様」だ。珍しい、友之宛ての手紙など滅多に届く事はないのにと何気なくひっくり返して差出人を見ようとしたが、そこで計ったように階段の上から声が掛かった。見上げた先には正人がいた。彼は「よう」と咥え煙草のまま挨拶をしてきた。
「来てたのか。鍵は?」
「ねえ。裕子に取られた」
「え? 何で?」
「嫌がらせだろ。そしてあいつは、今買い物中だ」
「珍しいな、うちに来るなんて」
  最近ではめっきり足が遠のいていたはずなのにと思いながら鍵を開けると、正人は我先にと言わんばかりの勢いで部屋へ上がりこみ、開口一番「ビール!」と声を張り上げた。
「何だよ急に」
  その荒々しいテンションがどうにもいつもと違ったので訝しむと、そんな光一郎を前に正人はぐるんと振り返り、近年ではめっきり見せていなかった不穏な眼差しで睨みつけてきた。
「いいだろ、いつ来たって。修司や夕実の奴はいつ来てもいいのに、俺や裕子は駄目だってのか?」
「はぁ…?」
「いいからビール! すぐ出せ! つまみも!」
「俺は今帰ってきたばかりだろうが。裕子が何か買ってくるんだろ? 少しくらい待ってろよ」
「もう十分待ってたんだよ!」
  大体あの女は俺と2人っきりになるのが嫌で買い物へ行ったんだと、正人は今さら玄関先を指差して不満そうに口を尖らせた。なるほど正人が指し示した場所には、もう裕子が既にすっかり買い出しをした証、スーパーの袋が2つもどかんと居座っていた。
  これ以上また何か買ってこられても冷蔵庫が満杯になる。げっそりとしている光一郎をよそに、正人は再び新しい煙草を取り出してそれに火をつけた。
「遊園地だってな」
「え?」
「トモだよトモ。高校のオトモダチと。楽しそうだなあ、おい」
「……お前何怒ってんだよ」
「怒ってねーよ!」
  フンとそっぽを向く正人は、しかし明らかにへそを曲げていた。先月のはじめも光一郎たちが修司も交えた3人で旅行すると知って「どういう事だ!」と理不尽な怒りをぶつけてきたが、要は自分が除け者にされた事を面白く思っていないのだ。やっぱりこいつって可愛いところがある、少し面倒臭いけど―…などと思いながら、それでも光一郎はここは大人しく引き下がる事にして、冷蔵庫から買いだめしておいた缶ビールを投げてやった。
「今度はお前が連れてってやれば?」
  それから半ば真面目な気持ちでそう提案すると、正人はそんな光一郎に実に胡散臭そうな顔を向け、「あぁ?」と柄の悪い声を上げた。
「何だよそれは」
「トモだよ。遊園地。本当は前からずっと行ってみたかったんだと」
「……ならお前が連れてってやりゃいいじゃねーか」
  微か面食らったような空気が伝わってきて、光一郎は思わず笑った。羨ましいと思っているくせに、そういう事は全く考えていなかったのかと少し意外な気持ちもする。
「俺はあいつに“金なし貧乏学生”と思われてるから、何もねだられないんだよ。今日だって小遣いやるって言ってんのに、前から貯めたのがあるからいいってさ。お前知ってたか? あいつ、お前が正月にくれたお年玉とか未だに持ってるんだぞ」
「マジか」
「凄いだろ」
  はっと鼻先で笑った光一郎は、しかし内心では己の甲斐性のなさに相当落ち込んでいた。仕方がないと言えばそうなのだろうけれど、普段の生活で経済的に困窮している様子など、友之には決して感じさせていないつもりだったのに。
  昨夜その弟が自分もアルバイトをしてみたいと遠慮がちに言ってきた時、光一郎は殆ど反射的に反対の意を唱えてしまった。
「バイトだ!? 駄目だ駄目だ、トモなんかに! まだ早いっ。コウ、てめえ、勿論駄目だっつったんだろうなぁ、あぁ!?」
  自分と同じ感想を聞きたくて正人にもそれを告げると、案の定予想通りの…否、それ以上の反応が得られたので、光一郎はとりあえず溜飲が下がった。
  そこで自分もビール缶片手に正人の傍に寄って胡坐をかく。加えて、ずっと手にしていた茶封筒を乱雑にテーブルの上に置いた。
「何だよ、それ」
「何だろうな」
「見ていいか?」
「トモ宛てだぞ」
  光一郎の言葉に「うっ」と呻くように手を止めたものの、しかし正人は裏に書いてあった差出人の名前を見るとたちまち先刻の勢いを取り戻し、それをびりびりと破いて問答無用に中を開けた。
「お前、凄い勝手だなぁ」
「うるせ。お前だって俺が開けるの期待してたんだろうが」
「まあな」
「……あのバカ野郎、今度は何処をうろついてやがるんだ」
  中に入っている物をガサガサと漁る正人を尻目に、光一郎はもう興味を失ったような声で「さあな」と応え、ビールを煽った。
  あの勝手な親友の事はどうでもいい。別に心配もしていないけれど、ただ最近では光一郎自身、その親友の嘆きともつかない鬱屈を少しは理解出来ると感じていた。
  友之がどんどん大人になろうとしている様を見るのがこんなに辛いものだとは、正直思ってもみなかった。
「……ち。相変わらずキザなもん、撮りやがって」
  ばさりとテーブルに置かれたのは幾枚かの写真。どうしたことか、今回は圧倒的に多い風景写真に混ざって、そこに住む地元民だろうか、様々な表情を湛えた人間の画もあった。前から「人は撮らない」と言っていたのに、どういった心境の変化だろうか。
  どのみち、これを見た時の友之の表情は想像に難くない。
「トモ、喜ぶだろうな」
「……隠しちまうか?」
  正人の真剣な声色に光一郎は思わず噴き出した。
「お前がそれ出来るなら俺は止めないけど」
「うっ…。お前…俺1人だけ悪者かよ…」
  あ、それなら裕子も共犯にしてやるかなどと正人はその後もぶつぶつ生産性のない作戦を練り始めた。
  光一郎はそんな友人から視線を外し、ふいと窓の外へと目を移す。今日は1日中とても天気が良かったから、きっとローカルな遊園地と言えども、その人の入りの多さに友之は圧倒された事だろう。
  けれどそれでも、とても楽しかったと眩しく笑うに違いない。
「正人」
「あん…?」
  ぼんやりとした顔をしながら声を出した光一郎に、正人がふと自分の世界から戻ってきて怪訝な声を上げた。
「何だよ」
  光一郎は自分に視線が向いた親友に「それ」を言うべきか一瞬悩んだ末、しかし思い切って言ってみた。
「お前、トモに携帯買ってやるのどう思う?」





  元々、友之と橋本がN市の遊園地に行きたいと言ったのには理由があった。

「ホント最悪。何来てんの? 嫌がらせ?」
「ほらほら、お客さん相手にそんな仏頂面していいのう? もっとスマイル見せなきゃ! スマイルくださーい!」
「うっさい! マジむかつく橋本!」
  からかうようにふざけた物言いをした橋本に、湧井は心底迷惑だと言う風にきっとした目を向けたが、立場が立場なだけに大声は出せないらしい。ぐっとそれ以上の言葉は飲み込み、恨めしそうにテーブル席の中央にいる友之をねめつける。
「よくも私のバイト先をバラしたね」
「あの……ごめん」
「北川君は悪くないよ。私があんたと北川君の会話を聞いてたんだからね。2人だけで話せていると思ったら大間違いだよ。学校はね、壁に耳あり、障子に目あり、だよ。ねえ、沢海君?」
「何で俺に振るんだよ…」
  むっとして沢海はふいとそっぽを向いたけれど、どこか思い当たる事はあるらしい。隣に座る大塚もそれは同じのようで、注文した大きなチョコレートパフェを口に頬張りながら、「こいつは北川に関しての情報を得る為なら手段は選ばないからなあ」などとバカな事をばらしてしまう。それで沢海から軽く叩かれていた。

  N市の遊園地内にあるレストランで、湧井はホールのアルバイトをしていた。日によってカウンターでバーガーを売ったり、中でキッチンの仕事をする事もあるらしいが、今日は夕刻になってから外のテーブル席に料理を運ぶ役を任されたらしい。だからちょうど休憩しようという友之たちとうまい具合に顔を合わせる事が出来た。
  もっとも、湧井がここでアルバイトをしていると知った友之が、遊園地の話を受けて「ここへ行きたい」と言ったのが始まりだから、そこのところは橋本あたりが注意して会えるように取り計らったのかもしれない。
「まあ、いいわ。折角来たんだから、いっぱい食べて行きなよ。儲かれば私の時給も上がるかもしれないしね」
「何でこんな遠くでバイトすんの。もっと学校の近くとかでやればいいのに」
  食事そっちのけで鏡と睨めっこしている由真が何気なく訊いた。今日の面子の中で唯一の高校3年生である由真は、「あたしが1番のお姉さんなんだから、みんなで崇めたてまつってよね」などと言っていたが、大塚あたりはそんな彼女にまんまと乗せられて「姉さん」と呼び、すっかり懐いている。
  一方で、橋本と沢海は友之の隣を取りあう事に一生懸命だった。
「学校の連中に会いたくないからに決まってんでしょ」
  年上相手でも全く物怖じしない湧井はふんとあからさま悪い態度を取って、その後なくなりかけていた友之のグラスに持っていたポッドで水を注いだ。友之がそれに礼を言うと、「でも」と彼女は突如としてニヤリと笑い、どこか含んだ物言いをした。
「北川にはちょっとだけ感謝してるから。中間テスト、そこの沢海には負けちゃったけど、点数が僅差だったお陰で今回の奨学生の話が来たんだもん。沢海が辞退しても繰り上がり当選なんてなかったはずなのにね。あの9点差が物を言ったね」
「何でそれが……?」
  自分のお陰なのかと訊こうとすると、橋本が身を乗り出して手を挙げた。
「ちょっと、それならそれって私のお陰じゃないの? 私があの化学のテスト前に沢海君を動揺させたお陰で、そういう結果になったわけでしょう!? あたしのお陰じゃん! ここ、奢りにしてよ!」
「お前な…」
  黙っていた沢海がやや頬を引きつらせながら橋本を睨みつける。真っ向からそれについての異議は唱えないから、彼女の発言自体は間違いではないらしいが。
「何言ってんのよ、あれは私も相当集中力欠いたんだからね! 教室一気に煩くなるし、激しく迷惑だったんだから!」
 一方の湧井も沢海の表情には構う事なく、橋本との舌戦を続ける。ぐいと前傾視線になって顔を近づけると、湧井はふっと厭味全開な顔をして唇の端を上げた。
「大体あんた、あんな堂々とした告白して玉砕したくせにさぁ。フラれた後もよくもまあ、そんな堂々と北川をデートに誘えるよね」
「はぁ!? 余計なお世話だよっ。大体、フラれてなんかないもん! ねえ、北川君!?」
「え…あの…」
  突然自分の方を向かれた事で友之は驚いて顔を上げた。いつの間にか彼女たちの会話をBGMに、友之はテーブルの上に並べられたチョコレートパフェに夢中になっていたのだ。沢海が「自分はそんなに甘い物は好きじゃないから」と少し食べただけで大きなバナナやチョコレート菓子も乗せてくれたから、自分の器だけ余計豪華になっている。それもまた嬉しかった。
「ごめ…今何の話…」
「友之〜、だから言ったっしょ? 真貴ちゃんて結構怖いんだから。妄想乙女だから思い込みも激しいしさ。嫌なら嫌って、はっきり言った方がいいのに」
「そうだぞ友之、こんな奴、はっきりと引導を渡してやったほうがいい!」
  しかし友之の惑いをよそに、周りの人間たちはマイペースに話題を続けていく。由真は面白そうに橋本をからかい、沢海は半ば真剣に「引導」うんぬん発言をする。
  友之はすっかり困ってしまって助けを求めるように湧井を見上げたが、彼女も我関せずという風にふいとそっぽを向いてしまった。

  中間テストの学年1位は不動の沢海拡だったのだけれど、夏の特別奨学生としてカナダへ行く事になったのは湧井だった。

  理由は1位になった沢海が「バスケットの大会を優先するから」と名誉ある特待生枠を何の躊躇いもなく辞退したからだが、自動的に2位の湧井にそのお鉢が回ってきたのは、彼女が言った通り、その1位と2位の総合点が実に僅差だったからだ。学校としても第1回からの試みで奨学生を出さずに留学を敢行するのは得策でないと考えたのだろう。
  いずれにしろ、今湧井は向こうでの軍資金をためる為にこうしてアルバイトに精を出す日々だ。友之は彼女に倣って自分もバイトをしてみたいと光一郎に相談してみたが、どうした事か無碍に突っぱねられて、「もう少し勉強を頑張ったらな」と言われてしまった。
  だから今年の夏休みは少し勉強に熱を入れようと思っている。外国へ行く湧井にも馬鹿にされないくらい一生懸命。
「あー! ねえねえ、最後に観覧車乗りたい! 北川君と2人きりで!」
  橋本が不意に思い出したというように大きな声をあげた。友之はその勢いに押されて思わず首を縦に振ったのだが、それとほぼ同時に沢海と由真が抗議の声をあげ、大塚がそれに促されるように「みんなで乗ろうぜ」と言ったので、その提案は却下となってしまった。

  橋本は「返事は後でいい」と言ったっきり、結局友之が何かを口にしようとする度に「ストップ」と言ってその先を制した。
  そうして、この遊園地に誘う前にも言ったのだ。
「答えは分かってる。でもその答えを聞いても、私は今後も北川君と友達をやっていけるけど、北川君はどうかな? もし何かが変わっちゃうなら、その返事はまだ聞きたくない。せめて高校卒業するまでは言わないで。勝手言ってるって分かってるけど」
  それを聞いた時、友之はいつだったか修司が由真を振る前に言った台詞を思い出した。
  フラれた後も良い友達でいようなんてそんな関係、俺は基本的に信じていない、と。友之自身は覚えがないけれど、もしかすると橋本にそんな話をした事があったのかもしれない。もしくは、いつからか仲良くなっていた由真がそんな話をしたのかもしれない。
  だから橋本は「もし友之もその修司という人と同じ考えだったら―…」と、危惧したのかもしれない。
  友之は橋本の気持ちを受け入れられない。けれど橋本さえ良いのならば、これからもこうして一緒にいたい―…。その気持ちに偽りはなくて、せめてそれだけは伝えたいのだけれど、どうした事か橋本はそれすら聞いてくれようとしない。
  ただ一緒にいて、と。そう言って笑うのみだ。
  だから友之は今日もこうして橋本の隣で笑う事を許されている。皆と一緒に楽しむ事がとても嬉しい。
  幸せ、だ。

「あ……ライト……」
「うわあ、本当だあ! 綺麗だねえ!」
  橋本が友之の声に呼応して席を立った。見ると橋本が乗りたいと言っていた観覧車から始まり、辺りの乗り物に次々と色取り取りの電気が点灯し始めた。
「うん」
「いいねえ」
  次いで沢海と由真も同じ方向を見つめ、嬉しそうに目を細める。
「俺、今度は彼女と来たいなあ!」
「お前彼女いないだろ」
「湧井! てめえ、きついぞ!」
  大塚と湧井が何やら言い合いを始めて、友之はついクスリと小さな笑みを零してしまった。そう、幸せだ。こんな風に楽しいなんて。こんな風に心穏やかに大切な人たちと大切な時間を過ごせるなんて。

  帰ったら光一郎に何て言おう? 今日の出来事をどう話そう?

「綺麗……」
  修司がいたら、この風景をどう撮ってくれるだろう?
  家路に帰りついた時、光一郎や正人や裕子、それに修司の大好きな写真が待ってくれている事も知らずに、友之は静かに穏やかに笑った。



Fin…





最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
恒例のあとがきなども書いております。自分的メモのような感じで。