―4―



「どうして謝るの」
  修司が静かな声で訊いてきた。
  友之はしきりと目を瞬かせながら口をぱくぱくと開けた。言葉を継ぎたかったが声にならない。そんな自分がもどかしかった。
「ねえ。友之」
  修司はそんな友之に目を細めると溜息にも似た吐息を落とし、身体を深く沈めると友之のすぐ間近にまで己を近づけた。恐ろしく陰に篭もった暗い瞳が友之を押し潰すように捉えてくる。
「いつもさ。どんな風にキスするの」
「う……」
「お前のコウ兄ちゃんと」
「あっ!」
  突然の事に友之は思わず声をあげた。
  修司と目を逸らしてはいけないと思ってグラグラする視界を必死に保っていたのに、手の拘束を解かれたと思った瞬間、いきなり光を奪われた。
「修…ッ」
  修司は顔を寄せながら友之の両目を自身の掌で隠してしまったのだ。まるで自分を見る事は酷い禁忌だとでも言うように。
「なあトモ。前に約束したよな」
  そして修司は先刻発したような低い声で友之に囁いた。
「トモの学校の前でさ。覚えてる?」
「修兄…!」
  修司の顔を見れないのが嫌だ。
  目隠しされた事でより一層不安な気持ちになり、友之は問われた事に構えず、自由になった手で何とか修司を引き離そうと躍起になった。修司の腕をぐいぐいと押す。押して動かないから引っ張ってもみる。
  けれど修司はびくとも動かなかった。無力だ。自分の手は本当に何も出来ない。役立たずだと思った。
「修に…」
  それでも、嫌だった。真っ暗で。いつもの修司ではない、けれど「本当の」修司がすぐ傍にいて自分を見ている。だから自分も修司を見なければいけないのに。
「修兄ッ」
「約束覚えてる?」
  けれど暴れる友之に修司は全く頓着しなかった。それどころか戯れのように友之の耳朶に唇を擦り付け、いきなり甘噛みをする。友之がそれに驚き小さな悲鳴を上げても知らぬ存ぜぬ。むしろ答えない友之が悪いとでも言うように、更に同じ場所へキスを繰り返しながら「覚えてないの」と責めるように言う。
「帰ったらキスしようって言ったよな」
「……ッ」
「勿論、あいつには内緒だよ」
「コ…」
  光一郎を呼ぼうとして、友之はけれど咄嗟に口を噤んだ。修司が「光一郎の名を出したら怒るから」と言った事を瞬間的に思い出したからだ。
「ふ…ぅ…」
  無駄な抵抗ながらもしきりと身体を捩じらせているせいか、友之は早くも息を荒く上げた。元々持久力のない方だ、修司の体重が上に折り重なってきている事もあり、圧迫感で痛みすら感じる。
  それに何より、修司にキスされている片方の耳だけがいやにじんじんと熱い。
  修司が怖かった。
「トモはどういう風に溺れるの? どんな風に喘いでさ……どんな顔するの? 俺にも見せてよ。―…あいつはどういう風にお前を抱くの」
「や…っ」
「どんな風にトモに触るの?」
  光一郎の事を口にするなと言いながら、それを想起させる事ばかり言うのは修司だ。修司は依然として友之の目を隠したまま、空いたもう片方の手を友之の服の中へ潜り込ませ、ひやりとしたその体温で素肌に触れてきた。細くしなやかな指が胸の突起をカリと引っ掻いてきた事で、友之はびくりと背中を仰け反らした。
「ひっ…」
  冷たくてゾワリと全身が粟立って。友之はまた喉の奥から悲鳴を漏らした。それが修司の手だと分かっていても嫌だったし、不安だった。修司の顔が見たい。きちんとこんなのは嫌だと、やめてとお願いしたい。―…けれど、出来ない。ただ力なく足をばたつかせ、修司の腕を掴む事しか出来ない。
  じわりと涙が滲んでくるのが分かった。
「修に…っ。修、兄…」
「……可愛い声だね。でも、放してやらないよ」
「どうし…っ。お…お願…」
「嫌だね」
「……っ」
  冷たく言い放たれて友之は息を呑んだ。やっぱり怒っている。謝ったけれど、やはり駄目なのだ。夕実の言う通り、「元からいらない存在」がそんな事をしても意味などない。相手を余計に苛立たせるだけ。
  全部自分が悪いからこういう目に遭う。
  光一郎や周りの人たちに優しくされてばかりで、自分は何も返してこなかった。だから罰を受ける。
  大好きな修司からこういう責め苦を受けるのも、だから当然。
「……トモ」
  散々成されていた抵抗が止んだせいだろうか。逆に修司が動きを止めた。直後、真っ暗だった視界が少しだけ開けて、修司がそっと掌を除けてきたのが分かった。
  それにあわせて友之もゆっくりと閉じていた目を開けた。涙のせいで視界はぼやけてはいるが、修司の存在はよく分かる。すぐ間近にその整い過ぎている綺麗な顔はあって、感情の見えない瞳で友之の事を見下ろしている。
  だから友之も黙ってそんな修司を見つめ返した。
「友之」
  修司が呼んだ。友之は反射的に唇を開いたが、やはりまた声にはならなかった。そういう自分が許せずさっと眉をひそめると、修司は黙ってそんな友之に近づき、有無を言わせぬ口づけをしてきた。
「んっ…」
  修司とキスするのは初めてではない。以前にもあった。以前も修司はこんな風に暗く何かを秘めた顔をしていて、どこかに殺気すら漂わせていて。
  そうして友之に強引なキスをした。あの時も身動きが取れなかったけれど、今もそうだ。修司に何もかも飲み込まれていくような気になる。何もかもを奪い取られるような恐怖に襲われる。
「ふ…ッ」
  けれど一方で、修司がどんどん小さくなっていくような気もする。何度となく重ねられるキスがどこか切なくて、哀しみが感じられて。修司が儚く消えていってしまうような、そんな危さも感じるのだ。
「…ぃ…っ」
  咄嗟に駄目だと思った。修司にされるがまま、修司の闇にそのまま飲み込まれてはいけない。何が何だか分からないけれど、でも今の修司が「良くない」状態にある事だけは確かで。
  それが自分のせいだとしても、何とかしたい。何処にも行って欲しくない。
「ふ、うぅ…!」
  だから。
「んんっ」
  喰われるような激しい口づけをされているのに、友之はそれに挑み返すように両腕をがばりと修司の背に回し、辿るようにそれを這わせて、最後には修司の首筋にぎゅっと縋りついた。
「……!」
  修司が敏感な反応を返した。冷たい瞳が驚愕のそれに変わり、しつこい程に繰り返していたキスを止める。友之の舌まで舐り取っていた唇が細波のように引いていく。
「何、これ?」
  そして修司は友之の行為を咎めるようにキツイ声を落とした。
「俺とこうするの、イイの? トモ、嫌じゃないの?」
「い……」
「何?」
  まくしたてるように修司が続ける。その迫力に反射的にびくりと身体が震えたが、それでも友之は修司から目を離さなかった。力み過ぎていたせいで拍子涙がだっと流れたものの、それすら構わず、半ば意地のように修司をじいと見つめやる。
  そうしてやっと声を出せた。
「嫌だよ」
「………」
  きっぱりと言った友之に修司は何も言わなかった。何を考えているのかも分からない、能面のような平坦な表情だった。
  友之はそんな修司にまた泣きそうになりながらも、ごくりと唾を飲み込んだ後、更に続けた。
「修兄が……どっか……行くのが、嫌だ……」
「……何?」
  友之の言葉に修司がすっと眉をひそめた。言われた意味が分からなかったらしい。実際、その言葉を発した友之自身、自分が何を口走ったのかあまり自覚していなかったのだけれど、殆ど本能と言っても良い修司への直感が、「今、離したら駄目なんだ」と、それだけ訴えていた。
「約束……忘れて、ない」
「………」
「き、綺麗な…写真、撮ってきてくれるって、言った……。そ、そ、そしたら……」
  そしたらまたキスしようと修司は言った。悪戯っぽく笑って、光一郎には内緒にしていようなとも言っていたけれど。
「は…」
  修司がバカにしたように唇を歪め、小さく息を漏らした。すうと友之の素肌に触れていた手を戻し、それから微か肩を震わせて友之の首筋に顔を埋める。
「はは……」
  そうして修司は今度こそ小さな笑いを零した。
「修……」
  友之がそんな修司に途惑いながら声を掛けると、修司はやがてもっと分かりやすくクッと低い笑いを零した後、実に自然な所作で友之の腕を振り解き、上体を起こした。
「ふ……言ったよ。言ったな、そういえば」
「……修兄」
「トモとちゅーするのは、俺が綺麗な写真撮ってきたら、だったよな。そりゃあ、こんなの反則、だよな」
「………」
「元々正攻法で行こうなんて思っちゃいなかったけど」
  友之の反応を待たずに修司はそう言っていよいよ友之から距離を取った。立ち上がって窓の傍へ寄り、何を見るでもなく外の景色へ視線を向ける。その横顔は自嘲に満ちていて、やはり友之を不安にさせた。
「修兄…」
  乱れたシャツを元に戻しながら友之も身体を起こして同じ方向を見た。呼びかけに修司は答えてくれない。別に予想していた事だったからショックはなかったけれど、いつの間にか随分と煩く騒ぎ立てていた台所のヤカンには、その時になって初めて気がついた。
「止めてきな。煩い」
  修司もそうだったのだろうか、友之がちらと背後を見た瞬間、命令するようにそう言った。友之はそれに頷いてから慌てて立ち上がり、台所で「どれだけ待たせるのか」と怒っているような赤いヤカンに近づいて、ガスの火をパチリと消した。
「……っ」
  ほっとして息を吐くも、同時に一気にしんとなった静寂に友之は再び冷や汗が落ちる思いがした。空気が重くて居た堪れない。今のほんの数分の出来事が何か悪い事の前触れのように感じて落ちつかなった。修司が心配だった。
  ちらりと部屋の方を振り返ると、微動だにしていない修司が窓の外へ目をやっているのが見えた。あの時確かに一瞬修司が小さくなって消えていってしまう錯覚に囚われて怖かった。今はそんな風ではないけれど、それでも己を卑下するように笑い、自分から離れた修司の顔が脳裏に焼きついて離れない。
「あの…修兄」
  それでも友之は何とか気持ちを切り替えようと修司に近づき、オドオドとしながらも口を開いた。
「あの…カップラーメン、食べる…?」
「………」
「あの…」
「食べない」
  はっきり拒絶されるように言われて友之はまた身体をびくんと動かした。バカな事を言ってしまった。確かに、今の今でそれはなかったと思う。それでもどうして良いか分からなかったから―。
「食べるならトモがいいなぁ」
  焦り、半ばパニックになりかけた友之に修司がすっとぼけた声で言った。え、と思ってハッと我に返ると、修司は面白いものでも見るような顔で友之の事を見下ろしていた。
「さっきの続きしてくれない? 中途半端過ぎてさ、欲求不満で死にそうになる」
「あ……」
「誰も俺の相手してくれないし。トモなら優しいから慰めてくれるでしょ? ……さっきみたいに」
「さっき…」
「うん。俺のこと、ぎゅってしてくれたじゃん」
「………」
「でも、ホントはあんな事したら駄目だよ。コウ兄ちゃんに言いつけちゃうぜ。トモはとんだ浮気もんだ、ってさ」
  友之の反応を一つも見逃さないとばかりに修司は探るような目を向けてきた……が、自分の度重なる「冗談」にも友之がただ固まって泣きそうな顔をしているのに辟易したのだろう。
「……終わり」
  修司ははっと肩を竦めてから友之の頭をぽんぽんと叩き、それから何事もなかったかのようにその横を通り過ぎた。
「修…っ」
  何処へ行くのかと友之がぎくりとして振り返ると、修司は後ろ手にばいばいという仕草をしながら玄関へ歩いて行き、「帰るよ」と言った。
「な、何で…っ」
  友之が咄嗟に引き止めると、修司は「何で?」と胡散臭そうな顔をちらと見せてから、いよいよ困ったように苦笑した。
「今日の俺は最悪でしょ、トモ。いい加減退散する。トモ苛めはもう終わり。俺の方がもたないよ」
「苛められてないよっ」
「苛めたよ」
  少なくとも俺は意識して苛めたんだと修司は強い口調で言ってから、友之がそれでも引きとめようとするのは頑として受け付けず、そのままバタンとドアを閉めて行ってしまった。
「修兄…っ」
  友之は靴を履かずにそんな修司を追いかけようと玄関を下りてドアをすぐに開けたけれど、半ば逃げるようにカンカンとオンボロの階段を駆け下りて行く修司の姿は、もうその時には後ろ姿すら見る事が出来なかった。
「……っ」
  走っても絶対に追いつけない事が分かり、友之は扉の前で修司を追うのを止めてしまった。
  それは時間が経つにつれ大きな後悔となって友之の胸を締め付けたのだけれど。





  悶々とした時間を過ごしていた頃、沢海から大丈夫かと気遣う電話が来た。保健室へ行くはずがそのまま帰ってしまったのだ、沢海が友之を心配するのももっともだった。
  友之は自分を教室から連れ出した名前も知らないあのクラスメイトの「言動」については何も触れず、気分が悪くてそのまま帰ってしまった旨を告げ、沢海には「心配してくれてありがとう」と礼を言った。沢海はそれでもなかなか引き下がらず、何故か友之の早退は自分のせいとばかりにしきりと謝罪を繰り返して、とにかく「あのクラスは俺が何とかするから、友之は何も心配するなよ」と言った。
  心優しい級友の気遣いに申し訳ない気持ちがした。他人を苛つかせるだけでなく、大事な人まで怒らせ悲しませて、しまいにはそんなどうしようもない自分を救おうとしてくれる友達にも多大な迷惑を掛けている。そうして、そんな自分を直そうにも、どこから手をつけていいか分からないから始末に負えない。酷過ぎると思った。
  気づけば時間も21時を回っていて、修司が帰ってから何時間も経ったのだなと改めて愕然としてしまう。アラキに電話を掛けて修司がきちんと家に帰ったかを確かめたい。修司は怒るだろうけれど、もう一度きちんと謝って、こんな「弟」だけれど、これからも見捨てないで欲しいと訴えたい。
  けれど実際は身動きが取れない。
  何もする気が起きず、真っ暗な部屋で転がったまま、友之は己の身体を動かす事が出来なかった。

「トモ」

  その時、ガチャリとドアの開く音が聞こえて、すぐさま自分を呼ぶあの声が聞こえた。
  はっとし、弾けるように上体を起こして暗闇の向こうを凝視する。電気をつけていないからその気配を辿るしかないが、「間違いはなかった」。
「どうした…。電気くらいつけろよ」
  それでも相手は何かあったのかと自らそれをする事を躊躇っている。友之が電気をつける事を嫌がっていると勘繰ったのだろうか。背の高いその人物は、玄関から部屋に通じるその短過ぎる廊下から中の様子を窺っていた。手には白いビニール袋をぶら下げている。あのいつものスーパーのものだと分かり、買い物をしてから帰ってきたのだなと友之は何となく思った。
  何となく思って、それから視線を徐々に上げていき、座ったままその人物を見上げる。目が慣れてくる。否、慣れてこなくても分かる。大好きな人の気配。
「コウ…」
「ただいま」
  友之が自分を呼んだと分かると、その人物―光一郎―は、律儀にそう言って止めていた足を中へ踏み入れてきた。
  それから暗くて視界も不明瞭だろうに、確実な足取りでローテーブルに持っていた荷物をドサリと置くと、上着を脱ぎ、腕まくりをしながら「腹減ったか」と訊いた。
「どうせまだ食ってないだろうとは思ってたけど、案の定だな。…3日で済んだからいいようなものの…お前って、あれだな。このまま放っておいたら、確実に飢え死にの道を選ぶだろ」
「………」
「……本当にどうした。何かあったのか」
「うん…」
「え?」
「飢え死にする」
「……は?」
  友之の半ばボー然とした言い様に光一郎は暗闇の中でも明らかに分かる、意表をつかれ呆気に取られたような態度を閃かせた。そうしてテーブルの向こう側に座っている友之の傍に近づくと、さっと屈み込んで「どうしたんだよ」と再度訊ねて頭を撫でる。それは優しく気遣う、完全なる兄の仕草だった。
「トモ…何だよ、急に」
「コウが帰ってこなかったら…飢え死にするよ」
「……何言ってんだ」
「………」
「大袈裟だな。正人やおばさんが来てくれたの知ってるぞ。実質1日だけだろ、1人だったのは」
「うん…」
「友之?」
  覗きこむように顔が近づいてきて、友之はぎくりとして咄嗟に身体を離した。本当は声を聞いたあの最初の時点で飛びついて抱きつきたかったのに。たかが3日と人は笑うかもしれないけれど、友之にとってはそれは気の遠くなるような時間で、だから今こうして光一郎が傍に来てくれた事が泣く程嬉しくて。
  でも、何だか怖くて触れられない。
  そんな罪深い事をしていいのかと思う。
「……何してんだ」
  それでも光一郎にとっては友之の行動は「奇怪」以外の何物でもない。恐らく自分がいない間に何かがあって、それでまた色々と悶々としていたのだろうなとは長年の付き合いで分かってはいるものの、怯えたように離れられるのは本意ではないのだろう。
「トモ」
「あ…っ」
  半ば強引にその腕を掴むとすっぽり自分の懐に入れてしまって、光一郎は焦って暴れかける友之を更に有無を言わせぬ力で抱きしめて身動きが取れないようにしてしまった。
「コウ…っ」
「いいから、動くな……」
「…ぃ…っ…」
「動くな……」
「………」
  まるで魔法のようだ。
  光一郎の静かな声は友之にとって甘美な毒のように身体中にじんわりと回っていく。駄目だと思うのに逆らえない。本当はこうして欲しかったから、どんどん自分を許してしまう。自分の良いようにしてしまう。
  光一郎は温かい。やがてぎゅうと自分から縋りついていくと、強過ぎて息もしづらかった抱擁が少しだけ緩まった。
「トモ」
  光一郎が微か笑ったのが分かった。
「バカみたいだろ? たった3日なのに、こうしたくて仕方なかった」
「え……」
「帰った早々避けるみたいな態度取るなよ、嫌な汗が出たぞ。むかついてたのか?  俺があんまり好き勝手してるから」
「違うっ」
  驚いて顔を上げると、暗闇の中でも光一郎の顔がハッキリと見えた。友之は焦った風になって何度も首を振り、光一郎の腕の中で必死に口を開いた。
「コウは…好き勝手、してない…っ。そんな…風に、思って、ない…」
「ああ…。そうだよな、お前がそんな風に思うわけないよな」
「ぼ、僕は…僕は、僕は、コウが……」
「ん……」
「コウが……ごめん、ごめんなさい…」
「ごめんって…何だよ、それ。本当にどうしたんだよ。何があったんだ」
「僕は……僕は、死んだ方が、いいから」
「は…?」
  友之が口走った言葉に光一郎の纏っていた空気が変わった。
「僕は…っ」
  それでも堰き止めていたものが急に流れ出してきた友之にはその変化に気づく事が出来ない。不意に色々な事が蘇ってきて、涙がぶわりと溢れ出してきて、今さら身体も震えてきて。
  友之は唇を戦慄かせながら必死に言葉を出していた。
「し、死んだ方がいいって…。み、み、皆……そう、思ってる。僕は、皆をイライラさせる…怒らせる…っ。笑って…それで、修……修兄も……!」
「修司…?」
  光一郎が呟くようにその名を反復したので、友之はうんうんと頷いた。
「折角修兄も、心配して帰ってきてくれたのに…っ。ぼ、僕が怒らせて、怒らせちゃって…! どうしよう、コウ、僕どうしよう…! 修兄が、凄く、泣きそうだった…!」
「……泣いてるのはお前だろ。ちょっとトモ、落ち着いてちゃんと―」
「修兄は、コウの事が好きだよ…!」
  光一郎の声を掻き消すようにして友之は叫んだ。もう何が何だか分からない、ただ頭に上がった単語だけを機械的に無秩序に出しているという感じだった。
「僕は…僕の事は…、修兄、優しいから……、でも、きっと、嫌だと思う…!」
「修司がそう言ったのか?」
  光一郎の声はいやに静かに友之の耳にすうっと入ってくるから不思議だった。何の驚きもない様子。1人で取り乱しているのがバカみたいだと思うくらいに。
「言わないっ。修兄は何も言わないよっ。でも、でも、イライラさせるのっ。僕は…それは、絶対、そうで…!」
「お前に死ねって言ったのは誰だ?」
「え?」
「お前に死んだ方がいいなんて言った奴はどこのどいつだって訊いてる」
「……っ。言わない、言わない、けどっ」
「嘘つくな」
  ぐしゃりと少しだけ乱暴に前髪を掻き揚げられて、友之は強引に光一郎と目線を同じにさせられた。冷静だと思っていた瞳が酷く爛として揺れている。友之はそれでハッとなって息を呑んだ。今まで興奮していた自分が嘘のように、すうと熱が引いて寒くなってくる。
  光一郎がこちらを見つめている。怒っているのだろうか、咄嗟にそう思ってまた泣きたくなった。
「……お前に怒ってるんじゃない。泣くな」
  すると光一郎はすぐさまそれを察知してきて、一瞬見せていたその危なげな光を仕舞った。友之の頭を今度は確実に宥めるように静かに梳いて、それからそっとただ触れるだけのキスをしてくる。
「んっ…」
  友之の唇を掠め取るそれは、いつでも友之の心臓を鷲掴みにした。優しくて時に遠慮するようなそれなのに、いつでも友之の胸の鼓動を早めてくれる。
  冷えていた心がまた今度は温かくなっていく。
「トモ。俺の事ちゃんと見ろ。ちゃんと見て、ちゃんと、何があったのか話せよ」
「……っ」
「俺に隠し事はするな。……そういうのはなしって約束だよな?」
「う…ん……」
「そうだろ」
  友之が微か頷くのを、光一郎はふっと笑んで、褒美だというようにまたちゅっと軽いキスをしてきた。友之はカッと熱くなる頬を意識しながら、光一郎に縋りついたままの格好で慌てて下を向いた。
  それから、ようやく。
「コウ兄…っ」
  ずっとこうしたいと思っていた事を。縋りついて、強く抱きついて。
  本当はいけないと分かっているのに、友之は光一郎に強く強く顔を擦り付けてぎゅっと目を瞑った。
「コウ兄…っ…コウ兄……」
「ここにいる…」
「ぼ、僕は…僕…っ…」
「ごめん。ごめんな、トモ。辛かったな」
「……っ」
「本当、駄目だな俺は……」
  ぼつりと呟いた光一郎の自虐的な台詞に、友之は慌てて首を振った。違うと、そんな事はないとはっきり言いたかった。
  それでも今は動けなかった。光一郎の抱擁があまりにも嬉しくて、心地良くて。
「う、うっ、うーっ…」
  きちんと口を開きたいのにどうしてもそれが出来ない。何かを発したら今のこの幸せが逃げていくんじゃないかと怖かった。
  修司の事が心配なくせに、自分だけが光一郎に縋って助かろうとしている。そんなのはずるいと思うのに、友之は光一郎から離れる事が出来なかった。



To be continued…




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