―7―



  特別酷い暴力を受けていたとかはなかったけれど、とにかく喋らない「おかしなヤツ」だったから、同年代の男子には煙たがられて軽くこづかれたり嘲笑の的にされたし、女子にも遠巻きにからかいの目を向けられて陰口を叩かれていた。だから、学校は苦痛だった。
  ただ友之にとってそこは「行かなくてはならない場所」だったし、当時絶対の信頼を置いていた夕実からも、「くだらない連中ばかりだけど、学校は行くしかないよね。世の中いつだって最後には学歴が物を言うんだから」と嘯かれていたので、「夕実が言うのなら」と機械のようにその言葉に従っていた。朝起きたら制服に着替え、朝食を少し食べて、朝から夕まで教室にいる。授業はよく分からなかったけれど、まるで聞いていないわけでもない。ノートだって時々は取った。病床の母親が「学校どう? 楽しい?」と訊いてくる事だけは何とも憂鬱だったが、夕実が代わりに「楽しいよ」と答えてくれていたから、友之はただ隣で曖昧に頷くだけで良かった。
  だから母が亡くなって夕実がいなくなった後、ものの見事に身体が動かなくて学校へ行けなくなった時は、驚き半分、当然半分といったところだった。
  行きたくないなら「行かなくていい」などという選択肢は友之にはハナからないし、そもそも誰がいなくなろうが「そんな事」は許されない。学校へは行くべきで、吐き気がしようが頭痛がしようが関係ないのだ。…けれど、元から好んで行っていた場所でもなかったのだから、母と姉という2つのキーが消えた事で、身体が本来持つべき防衛本能を蘇らせたのだとしたら、友之が不登校児によく見られる症状を表出させた事は、当たり前と言えば当たり前なのだった。
  けれど学校で唯一友之の味方をしてくれていた沢海拡は、友之のその行為のせいで当時仲良くしていた友人を数人なくしていた。

「先生がくだらない事言ったみたいだけど、友之は気にするなよ。むしろ良かったよ、そういう奴だって事が分かってさ。俺、色々バカだった」

  沢海は友之がいなくなってから後、クラスで起こった揉め事の一切を決して話さなかった。だから友之が「その事」を知ったのは担任からの手紙で、だ。
  北川家は母親不在後は完全に連絡不通状態だったから、教師の方も自分に心を開かない不登校の引きこもり少年にどのようなコンタクトを取ったものかと頭を抱えたのだろう。また大切な受験期、本来自分の評価を上げてくれそうな優等生である沢海が、先のない根暗少年の為にクラスをかき回している事にも、相当不満な想いがあったのかもしれない。
  友之はロクに話した事もないその中年教諭から、汚く雑な文字で「北川が来ない事でクラスの全員が心を痛めている。中でも委員長の沢海は北川を庇った事で仲の良かった友人たちとも仲違いをしてしまったんだ」と知らされた。その時はさすがに塞ぎきった気持ちの中にもかなりの動揺を誘うものがあり、友之の胸はギシギシと激しく軋んだ。

「あいつなんか教師じゃない。自分の事しか考えてない」

  沢海は元からその担任をあまり好いてはいないようだったけれど、友之がそれとなくクラスの事を訊ねて、その手紙の事がまんまと知れてしまったから大変だった。沢海の怒りはとても大きくて、当時の友之を心内で震えさせたし、余計自己嫌悪に陥る程だった。
  それでも沢海は沢海で、あの頃は友之のそんな心境には気づく余裕がなかったのかもしれない。

「あんな奴ら、もう友達でも何でもない。俺、もうそういう事どうだって良くなったんだ。前までは色んな奴と…それこそ、出会った全員と仲良くなって友達になりたいとか、多少考え違っても併せてうまくやった方が平和でいいとか…そういうの考えてたけど。そういうのは、バカだから。俺は自分が正しいと思った事を絶対曲げないし、周りにもそれをちゃんと言う」

  真っ直ぐ過ぎる沢海の光は当時の友之にはかなり眩しかった。それは今でもそうだけれど、とにもかくにも、中学時代の沢海は「もっと」凄かったのだ。自分のせいで誰かが仲良くしていた友人をなくす。争い事を起こして傷つく。それは友之にとって経験した事のない衝撃だったし、あってはならない事だった。ずっと夕実の後ろに隠れて目立たないようにして、そうしているうちに他者との関わり方が分からなくなって誰ともうまく話せなくなって。
  阻害されて。
  だから、誰かにそんなとんでもない迷惑を掛けたという…少なくとも、そういう実感はなかったのに。

「いるだけで迷惑な人っているよね」

  当時は自分の事と思っていなかった夕実の酷薄な台詞。けれど、当時の事をより鮮明に思い出すにつれ、ああ、あの時も、こんな事もあったけ…と。色々な事が思い返される。

「いいんじゃないの、別に」

  修司がいたら、いつでも友之が悶々とすると軽くそう言って笑っくれた。そうして、「トモは可愛いからいいんだよ」と、友之にとってはまるで説得力がないが、はぐらかすような穏やかな言い様で無条件で甘やかしてくれた。
  それでも友之にとってその薬は何にも代え難い特効薬だった。ほっと安心して、心が安らいで。まだここにいてもいいのかなと思う事が出来た。
  けれど今はどうなのだろう。再び同じ事を繰り返しそうな今、その優しさをくれた修司を怒らせたままで、自分はまだ「ここ」にいても許されるのだろうか…と。
  友之は疑っている。
  光一郎はあんなにも温かくて、「大丈夫」と言ってくれているのに。





  思えば、光一郎と修司は2人でそれぞれ友之にとってふさわしい役どころを演じていたのかもしれない。
「本当にいいんだぞ、別に。行きたくないなら行かなくて」
  玄関先で光一郎は今朝から一体何度発したのか、同じ台詞を友之に向かって繰り返した。
「ううん。行く」
  それでも友之は頑固に首を振って、もう靴も履いてカバンも肩にしっかと提げてしまった。振り返ってこちらを見つめている光一郎に少しの笑顔すら見せる事が出来た。
「何でそんなに真面目なんだよ」
  光一郎はそれに対してとても不満そうだった。結局、日曜の昨日もアルバイトで夜遅くまで帰ってこなかったし、今朝も早くから「午後までに提出しなければならない」レポートとやらをする為、友之が起きた時にはもうノートパソコンに向かっていた「兄」である。
  それでも、彼は友之を心配する事にも余念がないのだ。朝食の席でも、それこそ友之が朝起きた時から既に「学校行く気なのか?」と実に嫌そうな顔をして訊ねたのだから。
「行かなくていいんだよ。どうだっていいだろ」
  それは本来なら修司が言うべき台詞だ。それを光一郎がこうして何度も言うのは、友之にとって何だかとてもおかしな気分だった。
「いつもコウの方が…真面目、だよ?」
  だから思った事をそのまま口にしたのだが、光一郎は友之にそれを言われてますます形の良い眉をすっとひそめると一瞬何かに詰まったようになり、「俺は別に」と呟いた。
  友之はそんな光一郎を不思議そうに見上げた後、もう一度笑って見せてから「行ってきます」と言った。そもそも、こんな風に堂々と学校へ行く挨拶が出来る事自体が嬉しいと感じた。
「…しょうがないな。友之だもんな」
  すると光一郎は珍しく観念したというように溜息をついた後、自分もふっと笑んで頷いた。それからこうなる事は予測していたのだろう、手にしていたメモ用紙とそれに挟んでいたカードをさっと友之の手に握らせる。
「何?」
  されるままそれを手に取った友之は、握らされてから開いて見たそれに疑問の声をあげた。カードは使い古しのテレホンカード。それに、メモ用紙には2つの電話番号が記されていた。
「お前の学校、まだ公衆電話あるだろ?」
「うん」
「電話しろ。何かあったら。上が俺の番号」
  本当は持ちたくなかったけど、あると便利なんだよな…と、光一郎はズボンにしまっていた携帯を取り出して苦笑しつつそれを掲げて見せた。友之は納得して何ともなしに頷いてから、もう一度メモ用紙を覗きこみ、もう1つ、下に記されている番号を食い入るように見つめた。
「そっちは修司の番号」
「え…」
  平然として言われたのに驚いて顔を上げると、すっかり「弟を心配している兄」の様相を呈していた光一郎は、見つめられて途端むっと憮然とした表情を見せたものの、半ば諦めたように答えた。
「気になってんだろ? もう何回変えたのか分からない、あいつの携帯番号」
「修…」
「あいつは捨てるって言ってたけど、トモに教えるからなって言っておいたから絶対持ってる。大体、あいつは俺が電話してくるの分かってたから、マスターと喧嘩してもギリギリまで家に居座ってたんだ」
  その時に携帯の番号も聞いた、別に俺は無理矢理聞きだしたわけでもないんだけどと、光一郎は本当に面白くなさそうに言った。
  友之は修司との遣り取りを告白して散々泣いた夜、後に光一郎から「修司には俺からよく言っておくから」という事は言われていたけれど、いつしたのか分からない電話で光一郎が実際修司に何を話したのかまでは分かっていなかった。勿論光一郎には聞いたのだけれど、兄は曖昧に「やっぱり悪いのはあいつじゃないか」と言っただけで、詳しいところは何も教えてくれなかったのだ。
「何度も言うようだけど、あいつは別にお前に怒ってるわけじゃないから」
  そうして友之が1番心配していて、1番言ってもらいたいと思っていた言葉をくれて。
  光一郎は友之が握り締めているメモを顎でしゃくるようにして再度示した後、「とにかく」と言い聞かせるように繰り返した。
「何かあったら我慢しないですぐ俺に連絡しろ。先に家帰ってもいい。我慢するんじゃないぞ、いいな?」
「大丈夫だよ」
「……お前の大丈夫は大丈夫じゃない」
  はあと今度は大きな溜息をついた後、それでも光一郎は行くとなったら納得はしたのか、「早く行かないと遅刻するぞ」と矛盾する発言をして、さっと横を向いて追い払うように手を振った。
  友之はそんな光一郎の仕草に少しだけ可笑しい気持ちがして笑ってから、もう一度「行ってきます」と言った。その日は幸いにもよく晴れ渡っていて、多少なり重たい気持ちを励ますように友之の背を押してくれているような気がした。
  それに何より、白いメモ用紙に記された2つの電話番号が、まるで魔法のように友之の気持ちを強くした。





  学校には滑りこみセーフで教室に辿り着いたけれど、当然の事ながら金曜に欠席した友之へ気遣いの言葉を掛けてくれる生徒は1人もいなかった。それどころか、どこからか遠巻きに「今日は来たんだ」と呟き笑うような声が聞こえて、どっと寒気を感じてしまう。
「おい、よせ」
  けれど、そのからかいの言葉をさっと掻き消すようにして止めた声も聞こえた。その聞きなれない言葉にはっとして顔を上げたが、誰が言ったものかは分からない。一瞬しらっとした空気が教室内に流れるのを感じたけれど、朝のHRがすぐに始まったし、担任が教室に入ってくるのと同時、何処へ行っていたのかクラスに不在だった沢海が入ってきて友之にニコリと目だけで挨拶してきたので、友之も己に走った悪寒をすぐに仕舞いこむ事が出来た。
  1時限目、2時限目。何事もなく授業は進んだ。中学時代の遅れは高校に入ってから少しずつ取り戻していて、今では大分追いついている。光一郎や沢海、それに橋本の協力のお陰だけれど、勿論友之自身の努力によるところが大きい。中には口許だけでぶつぶつ呟くように話し続けているだけで何を言っているのかさっぱり分からなかったり、黒板ばかり向いていて背中しか印象に残らない教師もいる。それでも相変わらず沢海が気にした風に「さっきのはここが曖昧だったろ」と見事に友之の疑問を言い当ててフォローしてくれるので、苦手な数学や英語も遅れを取らずに済んでいた。ノートの取り方もうまくなった。
  そうこうしているうちに昼となったが、その間、中傷メモが投げられる事もなかったし、沢海が友之に話しかけても、周りからからかいの声が掛かる事はなかった。半ば身構えていただけにそこは拍子抜けといったところだったが、何もないならないでそれに越した事はない。知らず力の入っていた肩から緊張を抜いて、友之はざわつき始めた教室内で自分も初めてほっと息を抜いた。
「友之。昼、外で食べようか」
  教師に言われてプリントを集めていた沢海が戻ってきて友之に言った。
  友之はそれに黙って頷くと素直に立ち上がった。以前はこれに橋本が加わって3人で学食へ行ったり、パンを買って外で食べる事も多かったけれど、新しい学年になってから橋本が2人を探して「自分も一緒に食べたい」と言ってくる事はなかった。沢海は最初それをとても不審に思っていたけれど、友之よりも先に馬場敏郎なる人物の事をどこかで聞き出していたのか、「まあ煩いのはいない方がいいよな」とどこか嬉しそうに言っていた。
  友之は橋本と昼を食べる機会がなくなった事を単純に残念に思っていたのだけれど。
「拡。俺も行く」
「ああ、うん」
  すると、友之を誘っていた沢海の声を聞いていたのだろう、同じクラスの男子生徒がすっと手にしていた弁当を掲げながら寄ってきた。沢海はそれにあっさりと頷くと、友之の方を見ながら「大塚って言うの。俺と同じバスケ部」と簡単に紹介した。
「幾ら何でも知ってるだろー? 同じクラスになってもう何週間か経ってるんだし」
  なあ?と親しげに笑んできたその男子生徒に、友之はまずはただ驚いて、出さねばならない言葉をまんまと失ってしまった。元から人見知りという事もあるけれど、ズバリ沢海が察した通りで、友之はこの大塚なる生徒の事を、名前どころか顔すら認識していなかったのだ。
  沢海の友達で、しかも部活も一緒ならば、何度か顔を見た事があっても不思議ではないのに。
  それは橋本に告白したという「馬場敏郎」を知らないという事以上に、友之にとっては申し訳なく悪い事だった。
「ご、ごめん」
  だから素直に謝ったのだけれど、それを言われた大塚だけでなく、沢海の方も一瞬ぽかんとした後、暫し無言の空気が伝わった。
「あ、ああ、そう。そりゃ知らないか、うん。喋ったことなかったし…な」
  1番に立ち直ったのはその大塚なる人物で、逆立った髪の毛を無理矢理撫で付けるようにして片手に頭を乗せた後、ひょろりとした身体を持て余すようにして彼は身体を揺らした。自分を知らないという事を半ば冗談で言ったのに、本当に友之が認識していなかった事が驚きと共にショックだったのだろう。
  それは沢海自身もそうだったようなのだが、すぐにハッとして苦笑すると、「そういう事で謝ったんじゃないよ、友之は」と大塚の背中をバンと叩き、その後気遣った風に友之を見やった。
「で、さ。俺たち今日は弁当持ってきてるんだけど、友之は?」
「あ…うん」
  さすがの光一郎も普段は友之に昼食代を渡して弁当を作る事まではしない。けれど今朝は「早起きしたから」と、昨晩のおかずを詰めただけ(にしてはいやに豪華)な弁当を友之に寄越していた。
  カバンからそれを出そうとする友之に、沢海は意外そうな顔をしたものの、「じゃあ外行こう」と友之の背中を押した。
「マジむかつく」
  するとその時、不意にそんな棘のある声が飛んできて、ふとそちらを見ると、先週友之に「死んだ方がいいんじゃない」と面と向かって言っていた女子生徒が思い切り挑むような目で友之の事を見つめやっていた。
「あ…」
  それがいやにあからさまで毒に満ちていた為、当然それは沢海や大塚、それに周りにいた女子たちにも露見するハメとなり、暫し教室内はざわついた。
「何なの」
  するとすぐに沢海がさっと友之の前に立ちはだかってその女子生徒の前に立った。友之はそれにハッとしてすぐさま沢海を止めようと身体を動かしたのだけれど、それに対してガツリと腕を捕んだ人間がいて、ぎくりとして見上げた時にはもうその人物にぐいぐいと引っ張られて、教室の外へ連れ出されていた。
「ちょっ…!」
「いいから、拡に任せておけって」
  抗議の声を上げようとしたけれど、大塚は友之の腕を掴んだまま暫し放そうとはしなかった。自分も友之同様、まだ教室の方に視線は向けていたけれど、少しでもそこから離れようと長い足でズンズンと廊下を歩き、友之までもそこから遠ざけようとする。
「は、放し…っ」
「放したら教室行っちゃうだろ。折角拡が収めようとしてるんだから、出て行かない方がいいって」
「でも!」
「今日も全然悪口言われなかっただろ? あいつ、怒らせるとコエーのよ。クラスの連中も大半はそれ元から分かってたし、別に北川の事だって苛めようなんて思ってたわけじゃないんだから、フツーにしてればすぐに収まったはずなんだ。あの変な女だけ、やたらムキになって拡に突っかかってっけど」
「変な…」
「今声出してたヤツ。湧井(わくい)っての。知り合い? じゃ、ないんだよな? クラスだって別だったし。何で北川にあんな喧嘩吹っかけてくんだろうな? お前何かした?」
「………」
  友之が何とも言えずに困惑していると、階段の所にまで来た大塚はようやっと友之への拘束を解き、何事か考える風を見せた後、溜息交じりに呟いた。
「まあ何かするわけないよな…。だって北川、湧井の事だって全然知らなかっただろ?」
「え…」
「名前、とか。後ろの席にいるヤツって事すら、認識したの最近じゃないの?」
「………」
「まあ、そういうところが北川って結構残酷なのかも……って、あっ! こんな事俺が言ってたって拡には内緒な!? マジでアイツ怒らせたくない。いい奴だけど…キレると危ねーもん。俺知ってるんだ」
「何で……」
「知ってるかって? だって中学一緒だもん。北川たちとはクラスは別だったけど。あーあ、やっぱり俺のこと知らなかったじゃん。全く、傷つくよなぁ」
「……っ」
  ごめんと、言いたかったのに、それも躊躇われて友之は思わず赤面した。直後、すぐに沢海がやって来たのでその話自体曖昧になったし、大塚も友之に対しては実に気さくに明るく話しかけてくれて、「傷ついた」事など微塵も感じさせなかった。だから友之も、折角楽しそうに笑っている2人に湧井の事もどうなったのか訊くタイミングをすっかり逸してしまった。
  午後の授業が始まって教室に戻った時に彼女の姿が消えていたから、友之の胸にはずっと靄が掛かったままだったのだけれど。

  おまけに嵐はそれだけでは済まなかった。

「北川君。ちょっといい?」
  例え駄目と言ったとしても無理やり連行されただろう。そんな気合十分の女子たちに囲まれて、友之は昇降口に行き着く前にお縄頂戴となった。
  結局放課後になるまで光一郎にも修司にも電話を掛ける事は出来なかった。大体にして掛けよう、掛けたいという気持ちを起こす余裕そのものがなかった。…だからこそ、部活に行く沢海と昇降口の所で別れた時、ほんの数秒、そこから見える公衆電話の存在に初めてはっとして立ち止まった。
  そしてその数秒の差で、彼女たちに捕まってしまった。
「真貴とお花見の約束してたんだって?」
  後ろ暗いところがあるのか、彼女たち―以前にも友之を包囲した、橋本の友人たち―は、敢えて友之を人気のない教室に連れ込んで、鬼のような形相でもってそう言った。
「でもすっぽかしたそうじゃん。真貴は『ちゃんと約束したわけじゃないから』って言ってたけど。でも、断るなら最初っからきっちり断ってれば良かったじゃん!」
「そのせいで土曜日、あたしらと敏郎君とのお花見、あの子パスしたんだからね!」
「敏郎君、かなりガッカリしてた。その後真貴の事誘いに行ったけど、真貴も断ったみたいで」
「それはあの子もバカだけど、でもやっぱりアンタが関わってるのが問題なのよ!」
  学芸会の劇でやる台本を読むように、次々と順番に繰り出される友之への言葉。
  1番友之に対して当たりが強く、また身体も大きい女子生徒を筆頭に、彼女たちは「土曜日の花見の約束を橋本がすっぽかした」のは、友之が「橋本の誘いを曖昧にしていたせい」だと主張した。
  確かに。
  確かに、友之は橋本から週末に近所の神社で友達らと花見をするから友之にも「一緒に行かないか」と誘っていた。友之も勿論覚えている。けれどあの時、橋本はその後話題を急転回させて脱兎の如くその場からいなくなってしまったし、その後も何の連絡もしてこなかったから、友之としてもなあなあにしてしまっていた。花見に行くとも行かないとも、何の返事もしていなかった。
  橋本はそれをOKと受け取って友之を待っていたのだろうか。そして、その為に他の仲間との約束も反故にしてしまったのだろうか。
  だとしたら橋本にとても悪い事をしてしまったと友之はその点について青褪めた。
「今さら反省したって遅いんだよ、この鈍感男!」
  しかし怒りのパワーで猪突猛進中の女子たちの勢いは止まらない。何も言わず、困ったように俯いている友之の態度自体がもう癪に障って仕方がないというのもあるだろう、イライラと地団太を踏むように再度接近してくると、胸倉を掴むかの勢いで顔を寄せて唾を飛ばしてくる。
「今からでもいいから言ってきてくれない? 真貴にはっきりと、もう関わらないからって!」
「え…」
「え、じゃないよっ。このままじゃ、あの子また敏郎君傷つけるし、敏郎君はお人好しだから真貴の事許して待ってるって言ってるけど、そういうのって酷いじゃない? 勿論アンタにも頭にきてるけど、あたしら最近、真貴の方にもむかついてきてるから!」
「そうだよねえ」
「ホント、あの子のあの態度はないよね」
「……っ」
  ドキンとして友之は俯けていた顔を上げた。彼女たちの顔は皆同じようでまるで判別がつかない。クラスの人間を沢海以外誰1人認識出来ていなかったように、今も友之は同じ年の彼女たちの見分けがつかない。興味がない、とかの問題ではない。怖くて直視出来ないのだ。自分に対して悪意を向けてくるその目が怖い。どうして対処したら良いのか分からない。今まではそれをしなくても済んできたし、そもそもしようという意思そのものがなかった。
  それでも、今。
  自分のせいで、橋本真貴という大切な友人が、彼女のこれまで築いてきた人間関係を壊しかねない事態にある、という事は分かる。
  あの時の沢海と同じで、無駄に敵を作るばかりか、友達だと思っていた人たちをなくしてしまう。
「は…橋本さんは、悪く、ない」
  精一杯の声量で、だから友之は訴えた。
「悪く、ないよ」
「……はあ? あのさぁ、もっとはっきり言ってくんない? ボソボソ言われて、ホントキモイから! 何だって? 真貴は悪くない?」
「じゃあ、やっぱりアンタが悪いんじゃん」
  嘲笑するように別の1人がそう言った。他の口を開かない女子も同意するように冷笑を含んだ唇をくいと上げている。そういえば、前回は行き過ぎた彼女たちを止めてくれた元クラスメイトがいたが、彼女の姿はないようだ。新たな面子が増えていて数は同じようだったけれど、まさに四面楚歌、友之は身体中から悪い汗が噴き出してくるようで、また無駄に神経を収縮させた。
  やっぱり女の子は怖い。とても怖いと、思ってしまう。
「コイツの為に、沢海も周りに無駄に威嚇かけてるらしいじゃん」
  その時、リーダー格の女子が嘲笑うようにそう言った。
「ね。だから私らもそろそろ引かないと、誰かに見られたら沢海にチクる奴いるかもだし。メンドーだから、あっちとは関わりたくないよね」
「無駄に権力ある奴ってウザイよね」
「だからさぁ」
  ちらりと時計を見た後、リーダーの女子生徒がもう一度、含みを利かせるように友之の顔を覗きこみ、指先で顎に触れてくるとバカにしたような所作で強引に友之の顔を上げさせた。友之は負けじと彼女の顔を見据えていたのだけれど、それが余計相手の癇に障ったようで、意地の悪い目はゆらゆらと揺れて鋭い刃物のような声が辺りに響き渡った。
「お願いだから大人しくしてて。それが出来ないなら、死ね。マジで、アンタみたいなの死んだ方がいいって」
「死ねばいいのに」
「死ねばいいのに。あははっ」
  何度も繰り返し、別の人間がそう言って、最後は何がおかしいのか笑いが起きる。友之はその言葉の攻撃にぶるりと身体を震わせ、動じたくはないのに、自然顔が赤くなってしまった。橋本の友達だから悪く思いたくはないけれど、何故こんな風に酷い事が言えるのか、どうして橋本が心配ならこんな風に笑えるのかと、疑問の気持ちでいっぱいだった。
  ただ、初めてではないのだ。こういう目線には、幸か不幸か慣れている。
  彼女たちは、夕実と同じ目をしているから。
「……橋本さんは、悪くないから」
  あの頃、夕実には何も言い返す事が出来なかった。今とて突然あの姉が目の前に現れたら、どういう態度を取っていいかきっと分からず困ってしまうだろう。固まって声が氷のようになって、音として外に出る事は叶わないだろう。
  けれど。
「友達だから。…悪く言わないで」
  今は、きちんと言わなければ。中学の頃とは違うのだから。
「拡の事も。悪く言わないで」
  自分のせいで彼らに迷惑が掛かるのは嫌だ。本当は大人しく頷いて黙っているだけの方が良かったのかもしれない。
  それでも友之は思いきり不審な目を向ける彼女たちにただそう言っていた。
  それだけは言わなければいけないと思って。
「友達の事なんだから…」
「北川君っ」
  けれど繰り返し言葉を放とうと口を開きかけた時、それを掻き消すような大声とドアが蹴破られんほどの勢いで開かれる音が聞こえて、その場にいた全員が驚いてそちらの方へ視線を集めた。
「マジで! マジで! 信じらんないッ!!」
  ゼエゼエと息を吐きながらそう言って顔を真っ赤にさせ怒りの形相で立ち尽くしていたのは、橋本。その背後には以前友之を囲んでいた元クラスメイトもいたけれど、とにかくは全員が橋本に視線を集めている。
  そんな中、彼女は。
「北川君に何言ったの!」
  天地が揺れん程の勢いで怒号を上げると、彼女は本当の本当に獣のように「うおおおお!」とおよそ女子とは縁遠い雄叫びを発した。



To be continued…




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