―8―



  生来「おてんば」と称される橋本真貴だが、まさかしょっちゅう吼えるような事はない。
「な…何…!?」
  友之たちの姿を認めた途端、突然狼の遠吠えにも似た呻き声をあげた橋本を、普段共に汗を流している友人たちはぎょっとしたように見つめ、動揺でフリーズもした。リーダー格の女子生徒だけが先の不満と驚愕の入り混じった声をぽつりとだけ上げたが、それを気に留めた者はいない。
  とにかく、その場にいた全員が橋本を見ていた。
「アンタたちはっ」
  その橋本はズンズンと蟹股歩きで近づくと、女子たちを威嚇するように順繰りに睨みつけ、低い声で言った。
「北川君のこと何も知らないくせにッ! 私た…っ」
  勢いをつけ過ぎたのか、はたまた興奮し過ぎのせいか、何かを言いかけてゲホゲホと咳き込んだ橋本は、それでもすぐに顔を上げると、顔中を赤らめて今度は大声で怒鳴った。
「北川君を傷つける奴は許さないッ! 絶対にッ!」
「何言ってんのよアンタはっ!?」
  橋本の叫びにも似た声に同調して却って反論しやすくなったのか、リーダー格の女子が1番に立ち直って自分も大きな声を上げた。
「何キレてんだよッ! アタシらはアンタと敏郎君の為に言ってんでしょッ!? アンタがコイツにかき回されてウジウジしてんの見てらんないから―」
「かき回される!? 何もかき回されてなんかいないよっ! 北川君は何も悪くないでしょッ!? 何も悪くないの!!」
  それなのにアンタたちは―…と、橋本は、またその場にいる全員を責めるように見回すと、ゼエゼエと肩で息をしながらぶるぶると首を横に振った。
「……こういうの、ホント大嫌い。アンタらがそんな奴だって知らなかったよ」
「はぁ!?」
「そんな奴!? それどういう意味よ!?」
  はじめこそ橋本の迫力に押されていた女子生徒たちが、急にキッとなって牙を剥いた。元々は彼女たちの方が数では優勢である。橋本を呼びに行ったと思われる女子生徒は基本的にはどちらにもつく気はないのか、廊下でそわそわと辺りを見回しているだけだ。
  友之はどんどんと暗く険悪になるその場の雰囲気にただ翻弄されていた。
  橋本の怒りと哀しみとに入り混じった雰囲気が痛い程に伝わってくるのに、顔は見えない。橋本も敢えて友之を見ないようにしているようだ。それが友之には気になったけれど、そんな橋本に敵意を露にしている女子たちの様子も気が気でなかった。
  何とかしなければと思うのに、足が動かない。
  ひたすら「怖い」と思ってしまう。
「真貴、調子乗んのもいい加減にしろよ」
  リーダー格の女子が勢いに乗った仲間たちを背にしつつ、ドスの利いた声を出した。
「敏郎君の為に大目に見てきたけど。アンタのその偉そうな態度、前から気に食わなかったんだよ」
「ホント。自分を何様だと思ってんのよ」
「敏郎君にちょっと優しくされてるからっていい気になってたんじゃないの」
「いい気?」
  ハアと大きな溜息を漏らしつつ言われた事を反復した橋本は、そう言った女子生徒にちらとした視線を向けた。同じ部活仲間ならばこれまでは仲良く話していた間柄に違いないのに、その絡み合う視線に「仲間」を感じさせる色はない。
「私の事が気に食わないなら、私に直接言えば良かったじゃん。何で北川君が出てくるの?  何で北川君がこんな風にアンタ達に呼び出し受けて、何だかんだ文句言われなくちゃいけないの?」
「文句なんか言ってねーよ。ただ、アンタに気がないなら、もう関わらないであげてって頼んでただけでしょ」
「絶対嘘っ! 何が頼んでたよ!? アンタらの北川君を責める声が廊下の方でも聞こえてたんだからね! よくもそんな風にぬけぬけと嘘つけるね!?」
「うぜえな! お前がどういう風に感じたかは勝手だけど、迷惑被ってんのはこっちなんだよ! それをそんな風にむかつかれても、こっちのがキレるって話なんだよ!」
「ふざけんな! キレてんのはこっちだ!」
「やんの!?」
「はあ!? やってやるよ! やってやろうじゃん! このクソ女!」
  友之がこれまで見た事もないような荒々しい顔と声で、橋本はリーダー格の女子に掴みかかり、その胸倉を激しく捻り上げた。
「この…ッ」
  けれど体格では橋本は完全に負けている。相手もカッときて抑制が利かないのだろう、受けて立つとばかりに橋本の肩口を両手でぐっと掴み上げ、押し返そうとする。
  その場が一気にわっと沸き立ち、橋本ら女子がいる一帯だけ、ぶわりと白い埃が舞ったように見えた。
「やめなよ!」
「いや、もう潰した方がいいよ!」
「真貴!」
「なめてる、コイツ!」
  誰が何を言っているのかも分からない状態で怒号や奇声が沸き起こる。橋本とリーダーの女子を中心に他の女子たちもその乱闘を止めようとしているのか加わろうとしているのか、もう訳が分からない。
「やばいよ!」
  それでもその様子を見ていた、橋本を呼びに行った女子だけが冷静な声を上げ、誰かを呼ぶつもりなのだろう、急いでその場を駆けて姿が見えなくなった。
「う…」
  友之は。
  友之は、ただ固まっていた。喧嘩は大嫌いだ。ただでさえ竦んで動けなくなっていた身体は余計石のようになり、全身から血の気が引いていくのが分かる。
「……っ」
  元々の性格と併せて身体も小さく非力なので、友之自身が誰かと殴り合いの喧嘩をしたというような経験はない。
  それでも「暴力」というものから無縁だったかと言えば、決してそんな事もない。当時の友之にその自覚はなくとも、幼少時より姉の夕実から受け続けてきたものは何も言葉の暴力だけではないのだ。小突かれたり叩かれたりなどは日常茶飯事、戯れと称し首を絞められた事もある。極めつけは川に突き落とされたあの事件だけれど、それがホンモノの殺意ではなかったとしても、子ども心に刻みつけられてきた悪意ある多くの行為は、友之を必要以上に臆病な人間にしたし、女性全般に対する不信感も強くしていた。
「あ…あ…」
  それでも「橋本を助けなければ」という一心が、友之の全身を覆う恐怖の裏側に根強くこびり付いていた。
「橋―…」
  互いの髪を引っ張り合い、叩き合い、それは凄まじい戦いである。これまで見知ってきた橋本はどこにいるのだろう、それすら分からなくなりそうだった。キャアキャア、ギイガアと、女の子の声なのか獣の金切り声なのか、それすら分からない「音」が友之の耳を絶えず引きちぎろうとする。
「う…っ」
  怖い。でも、何とかしなければならない。
「うわぁ…っ」
  よろりと、殆ど目を瞑ってその「群れ」の中に腕を伸ばした友之は、だからその喧嘩の仲裁に入ったというよりは、交通量の激しい車の中へ無防備に飛び込んだだけと言った方が正しい。
  そう、それは単なる自殺行為だった。
「死ねよ!」
「…っ!!」
  丁度誰かの暴言が飛び交い、バチンと激しい音がしたと思った時、目の上に激しい痛みが襲って友之はそのままドサリと尻餅をついた。拍子、近くにあった机と椅子に運悪く頭をぶつけてしまう。その衝撃で机は横へずれて他の机を押し、椅子はガラガラと派手な音を立てて床に倒れた。
「……ッ! 北川君!?」
  友之が倒れた事に逸早く気がついたのは橋本だ。彼女は最初に掴みかかったリーダー格の女子を押し倒して馬乗りに首を絞めていたところだったが、すぐさま他の女子をかき分けて友之の傍に駆け寄った。
「大丈夫、北川君!?」
「うん…」
  友之はすぐに頷いて橋本を見たが、目の近くを殴られたせいか視界はなかなか定まらなかった。橋本の顔がぐにゃりと歪んでいて、心配そうな口許が何事か言っているけれど、うまく聞き取れない。頭をぶつけた事も影響しているのかもしれない、ぼわわんと身体全身に靄が掛かったような不思議な感覚が襲って、じんじんとした痛みが徐々に広がっていく。
「大丈夫」
  けれど友之はすぐにそう続けて、よく分からないままに手を彷徨わせた。橋本を止めたかったから、何とか彼女の腕を捕まえたかった。
「北川君っ」
  友之のその意思が伝わったのか、橋本ががしりと友之の手を掴んできた。他の女子たちも椅子が倒れた尋常でない音によってハッと我に返ったようだ。ぴたりと攻撃の動きを止め、次いでその場にいる全員が息を呑み、友之を凝視する。
「北川君、血が出てる!」
  橋本が悲鳴のような声を上げた。友之にはそれも今いち聞き取れなかったのだが、じくりと痛んだ箇所に手をやってその掌に何となく目を落とすと、なるほどぼんやりとした視界に赤い血の色が見えた。
「大丈夫!? 大丈夫!? 北川君っ!」
「うん」
  橋本の泣きそうな、否、もう既に泣き出しているその声が痛々しくてその方がよっぽど辛かった。だから友之はこれにもすぐに返事をし、すかさず血のついた掌を制服のズボンに擦り付けて「大丈夫」と繰り返した。ただ、慌てて立とうとしたのに、それは身体がふらついてうまくいかなかった。
「白石先生呼んできて!」
  橋本が振り返り、先刻まで乱闘していた相手にそう叫んだ。危害を加えるつもりもなかった友之が突如として負傷した事で、声を掛けられた彼女たちの方もすっかり戦闘意欲を失っている。しんとした沈黙の中、橋本の切羽詰まった顔に動揺したような雰囲気が流れる。
「でも…」
  女子生徒たちは友之の血を見て明らかに怖気づき、逃げ腰になっていた。
「大丈夫って言ってるじゃん…」
  だからだろう、彼女たちは次々に足を動かすと友之たちから離れて行った。
「そいつが勝手に飛び込んでくるから」
「ちょっと大袈裟じゃない?」
「そうだよ」
  1人が言い出した事で他の者も勇気が湧いたのか、次々に「自分たちは悪くない」と言った空気を漂わせ、その場から遠ざかる。
「あんた達がやったんでしょ」
  橋本が逃げようとしている部活仲間に半ばボー然とした声を上げる。先ほどまで散々に悪態をついて喧嘩をしていた相手だけれど、まさか友之を見捨てる程に「酷い奴ら」だとは思っていなかったようだ。
「ねえ、呼んできてよ! 先生!」
「自分らで行きなよ」
「元はと言えば真貴、アンタが悪いんだからね!」
  リーダー格の女子生徒がそう言い捨てた台詞が最後になった。
  バタバタとまさしく「逃げる」ように教室を出て行く彼女たちは、もう友之の手を握って青褪めている橋本の事も、勿論頭から血を流している友之の事も見てはいなかった。ただ廊下を過ぎ去って行く彼女達がやがてぎゃあぎゃあと「やばいよ」だの、「何なのあいつ!」だの、逆に友之を責めるような声を上げているのだけが聞こえてきて。
「……信じらんない」
  その音が完全に消えた後、ぽつりと橋本が呟いた言葉だけが友之にははっきりと聞き取れた。
「橋本さん…?」
「信じらんない…殺したい、あいつら」
「! 駄目…っ」
  物騒なその台詞に友之がぎくりとして咄嗟にそう止めると、しかし橋本はぐったりと項垂れていた顔を上げ、いっそ鬼気迫る顔を見せて怒鳴った。
「何で!? 最低じゃん、あいつら! 何も悪くない北川君に怪我させて! 逃げて! 死んだ方がいいじゃん、あんな奴ら!」
「だ…っ」
  橋本まで「あの台詞」を言った。
  それがショックで友之は再度大きな声でそれは駄目だと咎めようとしたが、興奮したせいか忘れていた痛みが急にズキンと自己を主張をし始めたものだから、出しかけていた声は飲み込んでしまった。
「北川君!」
  それにハッとしたのは橋本だ。さっと立ち上がって、「先生呼んでくる!」と先刻まで握っていた友之の手を放す。友之はそれに「あ」となったのだけれど、橋本を止める余裕もなくて、また頭だけでなく目の近くまでじんじんと痛み始めて、すっかり参ってしまった。
「真貴!」
  その時、教室の外から猛烈な勢いで駆け寄ってきた者たちがいた。2人。先刻逸早くその場を去って誰かを呼びに行った友之の元クラスメイトと。
  あとは橋本らと同じ、青いジャージ姿の男子生徒だ。
「真貴、大丈夫かよ!?」
「北川君が大丈夫じゃない!」
  男子生徒のその呼びかけに、橋本がヒステリックな声を上げた。ひょろりと背の高いその男子生徒は、橋本のその発言から素早くその場に倒れている友之を認め、さっと眉をひそめた。隣に来た女子生徒も、「うわ」と声を上げてその場に屈みこむ。
「北川君…血、出てる…」
「あいつらだよ! あいつらがやったんだよ!」
「まさか…」
「まさかじゃない! アユミ! 何でこんな事になったの!」
「あたしに言わないでよ! それであいつらは!?」
「逃げた! 北川君置いて逃げた! 先生呼んできてって言ったのに…!」
  橋本は地団太を踏むようにしてそう叫び、それからすぐに廊下を出て「先生呼んでくるから!」と自分が駆けて行こうとした。
「俺がおぶっていくから」
  けれどそれを男子生徒が引きとめ、素早く友之の腕を抱え上げて自分の背に乗せるようにして器用におぶさった。直後「痛むか?」と友之に訊いてきたので、友之は慌てて首を振り、別に平気だと、そんな事をしてくれなくても大丈夫だからと身体を放そうとした。
「動かない方がいいよ。頭打ったんだろ?」
「そうだよ北川君」
  男子生徒が諌めるのを元クラスメイトの女子も心配そうに頷き、友之の肩口にそっと触れて支えようとした。それで橋本もすぐさま戻ってきて、「保健室行こう」と懇願するように声を出す。
「………」
  3人からそう言われると、友之ももう何も言えなくなってしまった。たかだが頭をぶつけただけなのに。ちょっと目の上を殴られただけなのに。
  こんな事、何でもないのに。
「……っ」
  それなのに、何故だろう。
  3人から温かい言葉を掛けられたせいもあるかもしれない。短い時間ではあったけれど確かに感じた先刻の恐怖をふっと思い返して、友之は無意識のうちに身体をぶるりと震わせた。





「ごめんね。痛かったよね」
  夕実は友之を苛めた後は、大抵は謝ってくれた。
「でも、トモちゃんが悪いんだよ。お姉ちゃんの言う事をちゃんと聞かないから」
  それでも最後には決まって、「友之が悪いからそうせざるを得なかった」のだと主張し、それを何度も繰り返した。
「うん…ごめんなさい」
  だから友之の方としても夕実に謝らないわけにもいかず、結局最後には全部友之が悪かった事になって2人の仲は修復された。もし夕実が謝っているのに友之が謝らなかったら夕実は烈火の如く怒り狂っただろうし、事態は更に悪い方向へいったに違いない。
「トモちゃん、イライラさせないでね」
  夕実は折に触れそんな風にも言った。私を怒らせないで、私をイライラさせないで。私だって別に怒りたくなんてない、こんな事したくないのよ。でも、トモちゃんがいつでも私を困らせるから。私に迷惑を掛けるから。だから、仕方なくこうするんだから―と。
  詰って、叩いて、睨みつけて。
  最後には泣いて。
「ごめん…ごめんね、夕実……」
  泣かれるのが1番辛い。
  痛いのは我慢出来る。責められる事も。でも、自分のせいで相手が泣いたり傷ついたりするのを目の当たりにするのだけはいつだって耐えられない。自分の酷さ、無用さをより実感してしまう。自分が要らない人間だと余計に感じてしまうから。
  そう、つまりは、結局は自分を守る為に、相手を傷つけたくないだけなのだ。
「トモちゃんって意地悪だよね」
  夕実が言う事はいつだって正しい。
  自分は汚い人間だと思う。





「だぁから、寝てるだけだってば」
「寝てるんじゃない! 気絶じゃん! 急に意識なくなったんだよ!?」
「でもホント…救急車呼んだ方がいいんじゃない?」
「本当に大丈夫なんですか、先生? だって先生、別に医者じゃないし」
「まったく失礼な奴らだね、お前ら。もう出てけ」
「北川君が目を覚ますまで絶対ここを動きませんッ!!」
  声が聞こえる。
  友之は真っ暗な闇が徐々に明るく白んでくるのを感じながら、ぼんやりと遠くの方で聞こえる色々な人の声を聞いていた。何人かいる中で真っ先に誰だか分かるのは橋本の声だ。橋本の声はいつだって張りがあってよく通って聞き取りやすい。それにこの1年間、ほぼ毎日のように近くで聞いていたから間違えようがない。
  でも今日のこれは、大きな声ではあるけれど酷く元気がない。泣き出しそうな声だと思う。
「―…あ」
「北川君!!」
  そうだ、さっきの橋本も泣いていた。
  それを思い出して友之がゆっくりと目を開けると、ずっと凝視してその瞬間をしっかと見ていて橋本が張り裂けそうな声を上げた。
「い…」
「でかい声出すな、馬鹿」
  友之がその声に驚いて反応したのが分かったのだろう、傍に寄ってきた保険医の白石がべちっと橋本の頭を軽く叩いた。
  白石は「保健室の先生」として、ベテランとまではいかずとも中堅どころであり、その性格とも相俟って随分と落ち着いているし、貫禄もある。だから生徒たちには「おばちゃん先生」として親しまれていて、保健室はいつでも賑わっている―…友之自身はあまり利用していないけれど。
  そんな保健室は、午後も遅い時間のせいかどこかヒンヤリとしていて、友之たち以外生徒の姿も見受けられなかった。
「久しぶり」
  ぼんやりとした目をしたままの友之に白石が言った。今日は珍しく眼鏡を掛けている。そのガラスの奥の目には優しさが感じられたが、どこか「困った問題児」を見るような様子で、口許には苦い笑みが浮かんでいた。
「偶に見るといつも弱ってるんだよね、君は」
「保健室ってそういう場所でしょ」
  「アユミ」と呼ばれていた橋本の友人がそう口を挟んだが、白石は「違うよ」と不満気に振り返ってその言葉を否定し、ふうと大袈裟に嘆息してから首を振った。
「まあね。困った子が来る所ってのには間違いないけどさ。でもねえ……女同士の乱闘に巻き込まれて怪我するたぁ、情けないやら笑えるやらで」
「笑えません!」
  友之の怪我を揶揄するように言われたのが心外だったのだろう、橋本がキッとなって白石を睨んだ。その迫力にはその場にいたアユミも、友之をおぶってくれた男子生徒ですら怯んで後ずさりをしている。
  ただ当の白石にはどうという事もないようだ。面倒そうに橋本の睨みを片手で払う仕草をしてあっさりと謝る。
「悪い悪い。でも、元はと言えばあんたらのせいでしょうが」
「う……」
「いやぁ、どんな年代の女も、男の事になると目の色が変わるから怖いよね。なあ、そこの色男? どうなのよ、喧嘩の原因たる身の上としては」
「え…」
「そうだ、あんたのせいだ元はと言えば! このバカ郎!」
  白石に矛先を向けられ、橋本にまでびしりと指を差されたのはジャージ姿の男子生徒だ。一見すっきりとしたしょう油顔だが、どこか気弱そうな印象の抜けない痩身である。友之をおぶって保健室まで運んでくれたのだから、決して貧弱な部類には入らないのだろうけれど、橋本に責められすっかり狼狽する姿は2人の上下関係を完全に物語っていた。
  友之が意識を取り戻して安心したせいもあるのだろう、橋本はつかつかとその男子生徒に歩み寄って凄味を利かせた。
「あんたがあいつらに余計な事べらべら話したんでしょ!? だから暴走したんじゃん、あのバカ共が!」
「そ、そういう言い方はないだろ…? あいつら…俺たちの事を心配して…」
「俺たち!? 俺たちって何!? 私とあんたを一括りに語らないでくれない!?」
「でも真貴、あんただって一度は敏郎君と付き合っていいかもってなったじゃん! だからあたしらだって、はっきりさせなきゃって思ったんだよ!? 特にナオは敏郎君の事好きなんだしさ…」
「はぁ? 何なのそれは!?」
「お…俺だって知らない、それは…っ」
  ぎゃあぎゃあと3人が何事か喚き始める。白石は呆れたようにその姿を傍観していたけれど、友之はまた喧嘩になっては嫌だと思って焦って上体を起こした。痛みはない。ふと先刻血が出ていたところに触ってみると、さらりと布の感触がして、包帯が巻かれているのが分かった。それに右目の上にもガーゼが当てられているようだ。視界が半分隠れたようになっているが、別段不便は感じない。
「まだ痛い? 吐き気とか、寒気とか。何かおかしいところある?」
  身体を起こした友之に白石が訊いた。友之はふるふると首を振り、すぐさまベッドからも出ようとした。保健室は好きではない。家に帰りたいと思った。
  けれどその動きを止めたのは白石の言葉だ。
「まあ心配ないと思うけど、頭打ってるって事だから病院には行きなさい。お兄さんには電話しといたから」
「え…」
  ぎくりとして顔を上げると、白石はそ知らぬ様子で窓の外を見ていた。彼女は自分が友之にあまり良い風に思われていない事を知っているようで、決して無理に近づいては来ない。―…けれど逆に、相手がどう思おうが絶対に見捨てたりもしないのだった。
  外で力強い駆け声をあげながら練習に勤しむ運動部員らを眺めながら白石は続けた。
「先生、北川君のカッコイイお兄さんとはメル友だからねえ。あ、言っとくけどお兄さんが頼んできてそうなったんだからね。何かあったら教えて欲しいって携帯の番号も教えてきたから。だから、先生として義務を果たしてるだけ」
「………」
「だから、そんな困った顔しないでよ」
  自分こそが困るという風に白石は苦笑し、それから未だに騒いでいる3人に近づくと「あんた達いい加減にしなさい」とようやく窘めるように言った。
「子どもの喧嘩だと見過ごしてやりたいのは山々だけどね。相手が怪我しているし、病院にも行ってもらうんだから、喧嘩したって面子は担任に報告するからね。それに北川君の症状によっちゃあ、あんたらバレー部全員、覚悟しておきなさいよ」
「えっ…。もしかして大会出られないとか…あり…?」
  橋本の友人であるアユミがさっと青褪めて震えた声を上げた。橋本も途端しゅんとなり、「当然だよ」とは言うものの、項垂れる。男子生徒の方もまずい事になったという風に唇を噛んだ。
「ぼ、僕は…平気…っ」
  3人の様子にぎくりとなったのは友之も同じだ。自分のせいで橋本や他の人に何か迷惑が掛かるなどとんでもない。そんな恐ろしい事になるくらいなら病院になど行きたくないし、こんな怪我など今すぐ何もなかった事にして欲しい。自分は誰にも何も言う気はないし、担任にも何も知られたくはない。大事になるなどごめんなのだ。
「僕は…っ」
「もう遅いよ。お兄さんにも連絡しちゃったからね」
  白石がベッドから転げ落ちかねない勢いで焦っている友之に眉を寄せ、そう言った。続けざま、「迎えに来ると言ってるから、それまで寝ていなさい」ともつけ加える。
「え…」
  友之がその言葉にかすれた声を返すと、白石は肩を竦めてかぶりを振った。
「あのお兄さんだからねぇ、落ち着いた風ではあったけど。ありゃ相当怒ってたね……怖い。真貴君も覚悟しておきなさいよ」
「……分かってます。どれだけ責められても、当然ですから」
  橋本が意を決したように頷くと、白石はずっこけるように身体を傾けて「おいおい」と笑った。
「冗談だよ。怒ってはいると思うけど、真貴君には怒らんでしょう。そんな切腹寸前の武士みたいな顔しないでよ」
「いえ。私、お兄さんに何言われても仕方ないから。北川君に怪我させたの……、やっぱり、私の責任だから」
「違うっ」
  しかしそれに反論の声を上げたのは友之だ。
  白石が止める間もなく今度こそベッドから下りて、友之はきっと橋本を強く見据えながら唇を戦慄かせた。
「橋本さんは悪くないよ…っ」
「き、北川君、お願いだから寝てて…!」
  橋本が慌てて駆け寄るのも構わず、友之はぶるぶると首を横に振った。それで橋本などはまた悲鳴を上げるのだが、友之の方は止まらない。
  嫌だった。橋本が泣くのは嫌だった。
「僕は平気だから」
「平気でも寝ててよっ」
「嫌だ」
「い、嫌って…」
  相手の頼みを頑として拒絶する友之の姿など橋本は見た事がない。だから当然のように彼女は驚き狼狽したのだが、友之の方としては夢中だからそういう相手の様子には気がつかない。
「悪いのは僕だから。勝手に転んだ」
  友之はきっぱりとそう言って、今度は白石の方を見て言った。
「誰も悪くない、です。僕が悪いです」
  その場にいた人間は誰も何も言わなかった。否、言えなかった。
  ただ呆気に取られ、怒気すら感じさせる友之を黙って見つめる。この小さくて地味な存在に自分たちが圧倒されるなどあるわけがない、そう思っていたのに、何も言い返せない―…。その事に、4人は確かに驚いていた。
「僕が悪いんです」
  だから友之も声を出しやすかった。身体の痛みなんてどうでも良かった。自分が何でもないと言えば何とかなる、何とかしなければと。ただもうそれだけだった。
「転んだだけ、です」

  光一郎が迎えに来てしまう、その事には心の奥底で動揺もしていたのだけれど。



To be continued…




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