―9―



  光一郎は病院を出るまで、友之に向かっては一言も口をきかなかった。

  元々無口な方ではあるから、傍から見ればそれも然程不自然な事ではないかもしれない。―が、それでも光一郎の静か過ぎる態度が「いつもと違う」事は、何とかその場を収めようと躍起になっていた友之にも容易に分かった。
  2時間ほどで学校へ迎えに来た光一郎は、その場で半泣きになって謝る橋本にとにかく優しかった。「大丈夫だから」と何度も繰り返して微笑みかけ、友之には一瞥もしないまま「怪我をしたのはこいつが不注意だったんだから」と平然と言ってのけた。白石が「友之は橋本たち女子の喧嘩に巻き込まれた被害者だった」類の話をさらりとしても、友之が頑として「勝手に転んだ」と言い張るのと併せるように、「本人がこう言っているんですから、そうなんだと思います」と、学校や暴力を振るったらしい女子グループを糾弾する言葉を一つも吐かなかった。
  ただ、光一郎は淡々としていて冷静で。
  でも決して友之の顔を見ず。
「コウ…?」
  友之としても光一郎のその態度はありがたいものではあった。白石が「光一郎は相当怒っていた」と言っていたから、もし保健室に来て橋本やバレー部の女子たちを探し出して責める言葉でも吐かれたらどうしようと気が気ではなかったから。無論、光一郎が女子校生相手にムキになって怒りの感情を露にするところなど想像もつかないが、それでも友之が怪我を負った原因を厳しく追及する姿勢は見せるかもしれないと、心のどこかで想像もしていた。何しろ光一郎は今朝とて「超」がつくほど友之の登校を心配し、「何なら行かなくてもいいのだから」と、過保護な母親としか思えないような発言を繰り返していたのだから。
「コウ…あの…」
  それでも学校を出て、白石が紹介してくれた近くの市立病院へ向かってからも尚、ただの一言も発しない光一郎は友之にとって不安だった。
  広いが病人で混みあう待合室で、永遠とも思えるような長い時間を過ごす間、友之は隣に座っている光一郎の横顔を折に触れ見上げてみた。本当に微かな小声だけれど、何度かそっと呼びかけてもみたのだ。
「……………」
  それでも光一郎は友之に何も応えなかったし、腕を組んだまま目を瞑って、ともすれば眠ってしまったのではないかと思わせるくらい静かにその場にいるだけだった。微か眉をひそめて俯きがちの姿勢でいたから限りなく機嫌が悪いというのは分かったけれど、かと言って叱り飛ばしたり説教をしてくるというのもないから余計に居た堪れない。
  だから拳を固く握り締めた状態で自らも俯いたまま、友之は看護士が自分の名を呼んでくれるまでひたすら落ちつかない時を過ごす事となった。
  そうして何時間か待った後。
  精密検査の結果は後日となったものの、当座見た限りでは出血の割に頭の傷も大した事はないだろうこと、偶然殴られた目の上の傷も「1週間ほどで跡も消えるでしょう」と、中年医師からの診断を受けて―。
「……良かった」
  光一郎の声が聞こえて、友之はそこでやっと悪い夢から覚めたような気分になった。
  正直友之は医師の話も他人事のように耳に入れていて、ただただ飼い主を見上げる仔犬のように光一郎の顔色ばかり窺っていた。光一郎の反応だけが心配で、光一郎が医師の言葉でようやくほっと肩から力を抜いて「ありがとうございました」と礼を言ったから、自分も初めて全身から緊張の糸を断ち切らせた。光一郎が安心するのを見たから、友之もようやっと人心地ついた気持ちになれたのだ。
「コウ…大学…途中で、出てきた、の?」
  病院を出てから2人、やはり無言で家路へ向かう中、友之は何度目かの呼びかけの中で、初めて具体的な話題を持ち出して光一郎に声を掛けた。何度小さく名前を呼んでも光一郎は反応を示してくれなかったから、それがどうしようもなく不安だった。怒らせているのは分かっている。これだけ心配を掛けて、怪我まで負ってしまって。その原因も「悪いのは自分」とだけ繰り返して、きちんとした説明は何らしていない。光一郎の性格から言っても、そんなのは我慢が出来ないはずだ。
  それでも、外だから?
  表では常に完璧な兄を演じている光一郎である。だから保健室でも皆の前で冷静だったし、友之を叱らなかっただけなのか。
「コウ…」
  けれど何にしろ、今は叱りたいなら思い切り叱ってくれて構わない。光一郎の大切な時間をまたしても潰してしまい、余計な負担を掛けてしまった。どうしてお前はそうなんだと、駄目じゃないかと言ってもらった方がすっきりする。こんな風にだんまりを決め込まれたまま沈黙でいるのは耐えられない。
  いつだって黙っているのは友之の方だというのに、普段の自分の事は完全に棚に上げて友之は機械的に動かしていた足をぴたりと止めた。
「ごめんなさい…っ」
  今度はもっと大きな声で言ってみた。ただでさえ目の上に被せられているガーゼのせいで片目の視界が不明瞭なのに、上を見る事が出来ない。灰色のコンクリートの方を見やりながら、友之は頭のてっぺんがキーンとするような妙な感覚に苛まれながら光一郎に謝った。
  声が聞きたい。
「ごめんなさい」
「………トモ」
  するとやっとその声が。
「友之」
  友之が頭を上げないせいだろうか、今度はきちんと名前を呼んで、光一郎は立ち止まって振り返った先から声を投げてきた。
「別に怒ってない」
「……―っ」
  あっさりと紡ぎ出されたその言葉が不思議で意外で、それでも信じられないほどに安堵感が広がって。
「コウ兄…」
  友之は弾かれたように顔を上げて自分を見ている光一郎に目をやった。酷く疲弊の色が深いその表情は、それでも確かに怒りの色は湛えておらず、静かに友之の方を見つめ返していた。なるほど、その静か過ぎる佇まいが少しだけ却って不審ではあるけれども、本当に光一郎は怒っていない。病院では多少なりとも苛立たしい雰囲気があったけれども、少なくとも今はない。
「僕……」
「黙っていたのは考え事をしていたからだ。別にお前にキレていたわけじゃない」
「あ……」
「分かってる、そんな顔しなくていい。お前を傷つけた奴にキレてたわけでもない。……多分」
「え」
「ああ、いいから帰るぞ。頭おかしくなりそうなんだ。早く帰りたい」
  らしくもなく光一郎はやや取り乱したようにそう言い、一瞬整った頭髪をぐしゃりとかき混ぜた後、再び踵を返して歩き始めた。
  友之はそんな光一郎の姿に暫し唖然としてなかなか足を動かす事が出来なかったのだけれど、気づけばどんどん遠ざかっていくその距離に心細さが先立って、とにかくは急いでその長い足に追いつこうと駆け出した。

  そんな光一郎が自宅に帰りついて部屋の電気をつけた時、開口一番「嘘だ」と言った。

「え…?」
  最初は何を言われているのか分からなかった。病院で散々待たされた事もあって、カーテンの開いた窓からも光は差し込んできていない。そんな薄暗い部屋の中央に立ち尽くしていた光一郎は、いつものように上着を脱いでそれをハンガーに掛け、てきぱきと部屋の中を温かくする準備を始めた矢先にそう口走ったのだ。
  友之はまだ部屋の入口にたどり着いたところだった。
「いや、嘘をつくつもりで言ったんじゃないけど。でも、やっぱり嘘だ」
「何が…」
  いつもはっきりと物を言う光一郎にしては珍しい。ぶつぶつと独り言のようにそう発する光一郎に再び先刻の不安な雲を蘇らせて友之は訊ねた。
「何が嘘なの…」
「怒ってる」
「!」
  くるりと振り返ってそう言われ、友之は思わず絶句した。光一郎の顔にやはり怒気はない。仄かに揺らめく電灯の下で、外の闇と溶け合うような灰色の空間の中で光一郎の精悍とした顔ははっきりと友之の視界に留まる。不思議だった。目の上のガーゼのせいで視界は常に揺らいでいたはずなのに。
「お前に怒ってるんじゃないと思ってた。でも、やっぱりお前にもむかついてるし……顔も知らないふざけたガキ共にもむかついてるし、お前がこんな怪我してんのに平然としてた白石先生にもむかついてるし。それに、やっぱり俺自身にも相当腹が立ってる」
「コ…」
「あぁ駄目だ、お前にそんな事言っちゃいけないの分かってる。分かってるのに、言っちまう。ごめんな。けど、やっぱり……、俺は、もう、どうしようもない」
  息苦しそうにしながらも光一郎は一気にまくしたてるようにそう言って、それからはっと吐息した。そうして再びぐしゃりと漆黒の髪をかきまぜ、その場に座り込むと項垂れたままちょいちょいと片手を振って友之を呼ぶ。
「………」
  何だか怖い気持ちがしたが、友之は恐る恐るという風に光一郎の傍に近寄り、自分もその場に正座した。
「……トモ」
「うん…」
  友之がすぐ傍に座りこんだのを気配で察知してから光一郎は言った。未だ顔は上げないままだ。
「お前って本当に優しいんだな」
「え……」
「優しいよ。お人好しって言うのかもしれないし、バカって言うのかもしれないけど。けど、やっぱりお前は優しいんだな。信じられないくらい」
「な…何…違う…」
  咄嗟に首を緩く振った友之だが、おもむろに顔を上げて腕を伸ばしてきた光一郎にあっさりと捕まって、そのまま胸元に引き寄せられて抱きしめられたら言葉が出せなくなった。
「…っ」
  光一郎に抱きしめられるといつだって胸が苦しくなってドキドキと心臓の鼓動が激しくなって他に何も考えられなくなる。それでも今日の抱擁はまだ片腕だけで勢い掻き抱かれたものだったから、きつい拘束感はない。
  けれどこの時は自分から抱きつくのも何故だか憚られて、友之は顔を光一郎の胸に押し付けたまま、両腕はだらりと下のカーペットにつけるようにして動かさずにいた。
「なあ」
  すると光一郎が再び声を出した。
「お前は違うって言うけどさ。そう言うと思ったけど。けど、そうなんだよ。俺はそう思うよ。そんなお前だから、俺はお前が……好きなんだろうし…。修司の奴じゃないけど、時々どうしようもなくそんなお前が憎らしくなる時がある」
「え…」
  修司の名前が出て友之は途端身体を跳ね上がらせた。光一郎も勿論それを敏感に察知し、自分から振った話のくせに微か舌を打つ音を立てて今度こそ両腕で友之の身体を抱きしめた。
「あいつの名前出してそういう反応するなよ。またむかついてくるだろ?」
「コウ…怒って……」
「怒りたくない。お前を責めたくないし……お前は悪くないって分かってる。とんだとばっちりだな。ホント、こんな怪我までしちまって……ごめんな」
「な、何で、コウが…」
  光一郎が謝る事など何一つない。そう言おうとしたのに、すかさず唇を塞がれて何も言えなくなってしまった。
「…っ」
  照れくさいからなのか、いつもキスを仕掛けてくる時の光一郎は友之の意表をつく事が多い。友之の心の準備を待って待って、酷く丁寧にしてくる事もあるけれど、総体的に見れば光一郎は多分「そういう時」に関しては友之に対して辛抱強く居続ける事を半ば放棄しているように見える。
  それがいつからかの変化なのかは、2人にも定かではないのだが。
「コウに…」
「……うん」
  友之の呼びかけに光一郎は意味もなく頷き、触れるだけの口づけを仕切りに繰り返した。
  その所作はどこか性急で遠慮がちなのに一方で強引にも感じられて、友之は半分しかない視界で必死に光一郎の様子を窺おうとした。…ただ、いつもキスをされ続けると、息も心臓も、身体全部が苦しくなって何も考えられなくなるから、この時も結局は思うだけで何も出来ず、されるがままだった。
「ふっ…、…っ…」
「痛いか…」
  恐る恐る髪の毛に指先を差し込まれてそう訊かれた。怪我をした頭の事を言われているのだと思って、「大丈夫」と応えようとしたけれど、また唇を塞がれて声が出せない。しかも今度はきつく吸われて、光一郎に支えられているはずなのにクラリとした眩暈を感じた。
「あっ」
  そして直後、服の中に光一郎の手が差し込まれ、更に全身電流が走ったようになって、友之はびくびくと背中を揺らした。
「コウにぃ…っ」
「うん」
  光一郎は律儀に返事はするのだが、行為に途惑う友之に対してその手を緩める事をしない。珍しかった。基本、常に己を律しているから、「弟」である友之にも学校のある平日や彼が体調の優れない時に手を出す事は絶対ない。ましてや今日など、友之は怪我をして帰ってきているのだから、「本来の」北川光一郎なら、そんな弟に無理を強いる事などあり得ないはずだった。
「やっ」
  けれど光一郎はその場に友之を組み敷くとそのまま制服をはだけさせ、愛撫を繰り返していた胸へ己の唇を移行させた。
「あっ…ん…」
  いつも胸を弄られると下半身がむずむずしてしまうから怖かった。友之はいつまで経っても光一郎との「こういう行為」に慣れず、動揺して狼狽して頭が混乱する。嫌ではないけれど、むしろ快感の波に攫われておかしくなる自分に恐ろしくなってしまうのだ。光一郎は「そのうち慣れる」などととぼけた風に言っていたけれど、光一郎を愛しいと思う毎に、友之の怯えと途惑いは日々大きくなっているような気がした。
「ひ…んっ」
  シャツを脱がされて露になった胸の突起は、自分では小さくて情けないもののように思うのに、光一郎がしきりにそこにキスをしてくるからどうしようもない。友之はきゅっと目を瞑ってその恥ずかしさに耐えようとした。けれどその後すぐにズボンを引き下げられ下着だけにされたのが分かり、赤面した。目を瞑っていても分かる。上から覆い被さってくる光一郎が自分のような貧弱な身体を求めて欲を剥き出しにしてくるのが感じられる。
  堪らない。
「んんっ」
  そうこうしている間に、友之は自身で遮断した暗闇の中でまた口づけをされた。何度も食むように繰り返されるものだから息苦しさに唇を開くと、すかさず舌が入れられる。光一郎に全てを持っていかれる感覚。下肢にも血液が集まり、中心が昂ぶる。それを隠したくて膝を立てようとしたが失敗し、友之はただカーペットの上で足をばたつかせたような形を取ってから動きを止めた。
「コウ兄…っ」
「……ああ」
  今度は返事が遅かった。思わずぱちりと目を開くと思い切り視線が交わった。光一郎の目元が若干赤い。熱っぽいその表情に不安になって瞳を燻らせると、光一郎は再び友之の唇を塞いでから「ごめんな」と再度謝った。
「どうして…?」
「お前を抱こうとしてるから」
「あ、謝るの、変だよ…?」
  嫌じゃないから、と言おうとして口を開いたものの、友之がその音を出す前に光一郎が言った。どこか吐き捨てるように、乱暴に。
「怪我人、無理矢理犯してどうする。……どうしようもない兄貴だろ」
「…え…?」
  いつも抱こうとする時は「兄」は禁句なのに自分からその単語を発した。その事が不思議で友之は一瞬怪訝に思ったが、そうこうしている間に完全に裸に剥かれてしまって、もう余計な事は考えられなくなってしまった。
「んっ…んん…っ」
  光一郎の長い指先が自分の中に侵入してくるのを友之は感じた。共に暮らし初めて身体を繋げるようになってから、状況はどうあれ何度もしてきたその行為。
「はぁ…あ、あ、い…っ」
  それでも、やっぱり駄目だ。
  友之は薄い胸を上下に揺らしながらしきりと息を吐き出し、せめて「嫌」と言わないようにと、傍にあったローテーブルの足をぎゅっと掴んだ。あまり明るい所でやって欲しくない。ちょっと目を開けば自分のあられもない肢体や日常の家具などが見えてしまう。この行為が非日常的なもので、普段見ない光一郎と自分の姿で、だから友之はどうして良いか分からなくなる。
  決して光一郎の事が嫌というわけではない。大好きで、愛しい。でも、明るい場所でのセックスは困る。
  怖いのだ。
「にぃ…っ、コウ兄ぃ…あっ、あっ…」
「……あぁ…っ」
  呼べばきちんと答えてくれる、それだけは嬉しかった。友之はカッと赤くなる顔を意識しながら、ようやく再び目を開いた。光一郎がすぐ傍にいる。それでもその兄だけは未だ服を着ていて、指先だけが自分の精液で濡れていて。
  自分だけが両足を開いて光一郎に全てを晒している。
「恥ずかしいよ…」
  思わず本当の事を口にすると、光一郎は微か瞳を揺らしてから友之の額に掛かったガーゼに唇を当てた。
「恥ずかしいか」
「うん…」
「どうしてだろうな。全然そんな事ないのに」
「僕だけ裸……」
「お前のせいじゃないだろ。このエロ兄貴のせいだろうが」
「え……」
「俺がお前を脱がした。お前を喰ってる俺のせいだ。お前は何も悪くない」
「……コウ―…」
「お前は悪くない。絶対に。何も、悪くない」
「………」
「分かったか?」
  もう一度傷口に触れられて友之はぶわりと涙を浮かべた。光一郎がじっとこちらを見ているから泣いてはいけないと思っているのに、何故だか涙が出てきて仕方がない。どうしようもなかった。
「コウ兄……コウ兄……」
「うん」
「ぼ、僕っ……。僕、コウ兄が…っ」
「……ああ」
  ただでさえ光一郎に掴まれ左右に割り広げられていた足を、友之は更に自ら開くようにしてねだった。光一郎が欲しい、堪らなく欲しくて友之は泣いた。
  優しいのは光一郎の方だ。光一郎が堪らなく欲しい。
「ひっ、ん…っ。あ、あのね、僕……僕、はっ……誰、にも……」
  傷ついて欲しくなくて、喧嘩なんかして欲しくない。あんな顔してもらいたくないのに。
「だから、僕は…僕が…っ」
「分かってるから…。トモ、あんまり興奮するな。熱出る」
「ぼ、ぼ、僕は僕は…っ。コウ、コウ兄ぃ…ふ、ふぅ…」
  急きたてるように声を出そうとしてまたキス。何度も絡みつくようなキスが続いて、気づいた時にはもう光一郎が中に侵入してきていた。
「んん―っ」
  光一郎に深く求められて友之は声を漏らした。あまり高い声を出すと隣に聞こえてしまいそうで、微かな理性が唇を噛み締めさせる。
「んっんっ…」
「トモ…ッ」
「あぁッ」
  けれど熱っぽい光一郎の声が聞こえると友之ももう駄目だった。きゅっと握っていた手を開いて、請うように光一郎の首にしがみつこうと腕を伸ばす。光一郎がそれを良しとして抱きかかえるようにして身体を持ち上げてくれて、友之は繋がったままの格好で光一郎と向かい合い、その首筋にしっかとしがみついた。
「コウ兄…ッ」
「ああ…っ」
「奥…奥、どうし…っ。…に、コ…兄ぃ…熱い、よ…ッ。あッ」
  訴えている矢先に腰を揺らされて友之は嬌声を上げた。光一郎の方はまだ多少余裕があるようなのに、翻弄される友之を待つ事なく、中をかき回し揺さぶり始める。
「んぁッ、やっやぁ…ッ」
  力なく声を漏らしながらも光一郎から離れられない。強く掴みながら友之は奥を突かれながら汗を落とした。身体が熱い。けれど同時に寒さも感じて、何がまっとうな感覚なのか分からなくなる。頭にもじくじくとした痛みが広がっていた。
  それでも。
「あぁ…あ、あんっ、あんッ…」
  気づくと光一郎から与えられる快感に酔っている。無理に入れられて痛いはずなのに、きついはずなのに、気持ち良くておかしくなっている。いつも不思議だった。光一郎はこんなにも自分の事を惑わすのに、どうしてこんな快楽を上手に与えてくれるのだろう。
  どうしてこんな風に愛してくれるのだろう。
「好き…っ」
  けれど、否、だからこそ、友之はせめて自分の気持ちはこういう時には伝えたいと思っている。
「好き、あ、あ…好き…っ。コ…にっ…」
「ああ…ッ」
  光一郎が応えた。友之はそれがまた嬉しくてぶるりと震え、ぽとりと涙を零した。汗ばむ身体を、光一郎の未だ衣服のままの身体に摺り寄せながら。
「…―…き…っ」
  本当は自分こそが光一郎がしたように謝りたかったのに。
「好きっ」
  何故かそれは頭から消えてしまって、友之はひたすらに光一郎からの熱を受け続け、何度も好きだと訴えた。





  気づいた時には真っ暗な寝室のベッドで横になっていた。
「………」
  ぱちぱちと何度か瞬きをしていると辺りの闇に慣れてくる。そろりと起き上がると、ぼとりと何かが落ちて、手元に冷えたタオルがあるのが見えた。起きた拍子に額から落ちたのだ。
  光一郎がやってくれたのだと分かった。
「コウ兄…」
  心細くて呼んでみるも、すぐに返事はこなかった。隣室には明かりがともっているからまだ起きてはいるようだ。声が小さ過ぎて聞こえなかったのだろう。何となく額のガーゼに手を当ててから、友之はふっと息を漏らして、自分に掛けられていたタオルケットを床に落とした。
「いた…」
  本格的に起き出そうとした途端、腰に鈍い痛みを感じて友之は顔をしかめた。病院から帰ってからすぐ、それこそ何時間も隣の部屋で光一郎と愛し合ってしまったせいだ。あんなに長くセックスをしたのは久しぶりだった。初めて、というわけではないけれど、最近はとても穏やかな、どちらかといえば「健全」で、「まっとうな兄弟」としての生活を中心に送ってきていたから、身体も突然の事に驚いたのかもしれない。
「……コウ兄」
  それでも、いつの間にか着せてもらっているパジャマや、寝床のすぐ傍に置かれているペットボトルのミネラルウオーターがあるのを認めるだけで、友之は温かな気持ちになるし、同時に泣きたい気持ちにもなる。優しい光一郎が大好きだ。全てを許してくれて、全部愛してくれる。自分を責めて終わりにしようと躍起になっていた自分に、「悪いのは俺だ」と言ってその罪を全て攫って消してしまう。不思議だった。光一郎といれば、どんな苦しみも洗い流してもらえる。
  楽、なのだ。
「コウ兄…」
  それを駄目だと思う、甘えてばかりは駄目だと思うのに、それでも友之は何度も光一郎を呼んでしまった。行為の最中もそうだけれど、終わった直後は特に不安になる。身体が弱っているせいもあるのだろうが、気づいた時に光一郎が傍にいないのは不安だった。
「トモ」
  何度目かの呼びかけで、ようやくその光一郎が部屋に入ってきた。嬉しくてさっと顔を上げて傍に寄ろうとすると、光一郎は「そこにいろ」と言って自分がベッドにまで近づいてきてくれた。
  嬉しくて抱きつこうと腕を伸ばすと、察して先に抱きしめてくれた。
「コウ兄…っ」
  だからまたつい甘えたような声を出してしまった。抱きついたせいで顔は見えなかったが、光一郎はそんな友之の所作に微か笑ったようだった。
「どうした。身体…辛いか…?」
「……っ」
  慌てて首を左右に振ると、逆に光一郎は焦ったようになって「あんまり頭揺らすな」と友之の頭を遠慮がちに撫でた。
  それから友之の身体をゆっくりと放し、顔をあわせるようにして囁く。
「無理させてごめんな。今日は俺……どうかしてた」
「どうして」
「医者が大丈夫と言ったって、検査結果だってちゃんと聞いてない。それまでは絶対安静だろ。それなのに……どうにも、切れちまって」
「切れた、の…?」
「理性の糸がな」
  はっと嘲笑するように息を吐き、光一郎は友之の額に掛かる髪をかき分けるようにして撫でてきた。それに何故かドキリとして友之が息を呑むと、すぐ傍にあった光一郎のその顔はもっと途惑ったようになり、「あのな」と少しだけ口篭った。
「お前のさ…。そういうところが、全部可愛いと思ってるんだ。俺は……あんまり、そういう事言うのが苦手だけど。でも、本心はそうだ。俺は……お前が可愛くて仕方ない」
「か…わいく、ない、よ…」
  誉められる事には慣れない。修司や裕子や、それに同級の沢海に橋本も、よく友之を誉めてはくれるけれど。
  自分に自信がないから、そういう言葉は容易には受け取れない。
「可愛いよ。お前は、可愛い」
  それでも光一郎は繰り返した。驚き、逃げようとすらする友之の腕をさっと擦るようにしてしっかりと。
「だから俺も……、もっとしっかりしなくちゃな? お前が傷つく事がないように」
「そんなの、…っ」
  別に光一郎のせいではないのに。やっぱり気にしているんだと思って焦って口を継ごうとしたが、それでも光一郎はまるで「言うな」とでも言うようにまた友之の唇をキスで塞いだ。
「……っ」
  友之はそれを嬉しく思いながらも、それでも言いたくて仕方なかった。己を責めている光一郎に言いたかった。
  光一郎がいてくれるから、自分は救われているのだと。幾ら「好きだ」と繰り返してみても、それはまだまだ伝わっていないようだ。
  もっとはっきり言わなくては。
  キスの波に攫われながら、友之は光一郎の腕にぎゅっと縋りついた。もっと言葉がうまかったらと、とても歯痒かった。



To be continued…




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