エピローグ



  その日、北川家のアパートは今までになく大勢の人間たちで賑わっていた。
「 トモ君、何もたもたしているのさ。早くしないとパスタがラーメンになっちゃうよ。火、消して!」
「 うん…!」
「 おい、数馬! お前、友之をこき使うなよ!」
「 そうだよ、香坂数馬! 大体、あんたは人の家の台所を我が物顔で使い過ぎだよ!」
  狭いキッチンのコンロの前には友之と数馬、その背後には沢海と橋本真貴がいて2人の様子を妬きもきとしながら見守り、何かにつけいちいち口を挟んでいる。数馬に呼び出されてからアパートに駆けつけた形になった沢海と橋本は、台所に立つ友之の隣をキープできなかった事が余程悔しいのか、先ほどから標的・数馬を容赦なく攻撃し続けている。
  勿論、当の数馬に堪えた様子はないのだが。
「 煩いなぁ、もう」
  ただウンザリとはしていたようだ。数馬は大袈裟にため息をついて見せてから、くるりと2人に振り返り、熱のこもった菜箸をにゅっと突き出して見せた。
「 あのね、ボクだって人の家の台所なんかでこんなお料理教室の先生なんかしたくないんだよ。そもそもご飯を御馳走してくれると言ったトモ君がここまでグズなのがいけない」
「 何ですって〜香坂数馬! あんた! 北川君の事をそんな風に言うなんて承知しないよ!」
「 大体、友之だってお前に御馳走するなんて言ってないんだろ。お前が勝手にそう解釈しているだけじゃないか」
「 フン、ボクがそうなら、君たちなんかおまけ以下だね」
「 こ、この〜!!」
「 はいはい、君たち。少しは静かにしなよ?」
  3人のやり取りをリビングから立ち尽くして眺めていたのは由真だ。いよいよ橋本が殴りかからんばかりの勢いになってきたのを感じ、「仕方ないなあ」などと言って自分も会話に参戦してきた。もっぱら止めの役だけに徹しているのであるが。

  今日は日曜日。

  友之はアルバイトで忙しい光一郎の為に、今朝方「ならば今夜は自分が食事を作る」と申し出た。今まで1人で食事の支度など満足にした事がない友之がいやに張り切ってそう言った事で、勿論光一郎は目を丸くして「大丈夫か?」などと苦笑しつつ心配そうな声を上げた。それでも頑なに頷く友之に、光一郎も無理に止めようとはしなかった。
「 それじゃあ、頼むな」
  そう言って柔らかく笑んでくれた光一郎の気持ちが友之にはとても嬉しかった。信用して任せてくれたのだと思えたから。
  ところが午前中にあった草野球チームの練習後、その話を友之自身から聞かされたイケメン高校生こと香坂数馬は、何を思ったのか両腕を腰に当てひどく恩着せがましい口調で言ったのだった。
「 へえ、トモ君。それじゃあ、キミのお料理教室にこのボクも参加してあげるよ」
  そうして数馬は友之が1人で食事の支度をする話と併せて、自分が「誰もいない北川家」の部屋に行くことを、一緒に練習していた中原、それを見学に来ていた裕子、それにわざわざ携帯電話で沢海、橋本、由真にまで知らせ、現在の―この混乱した状態―にしてしまったのだった。
  リビングでは中原と裕子が少し早めの晩酌を始めていた。2人はぎゃあぎゃあと騒ぐ数馬らの姿をやや苦い顔で眺めつつも、互いに牽制でもしているのか、立ち上がってそれを咎める事まではしなかった。
  友之は大勢の前で慣れない作業をする事に戸惑いを覚えつつも、自分の行動に適度なチェックを入れてくる数馬のアドバイスに従い黙々と手を動かした。知らない間に増えてしまった人数分の準備をするのは思った以上に大変だ。珍しく自分が自分がと言わない裕子を一度だけ不思議に思って振り返ったものの、後はせっせと、友之は数馬の言うがまま、必死に忙しなく働いた。
  そんな中、パスタを盛る皿を出したところで、不意に玄関の方でチャイムの鳴る音が聞こえた。
「 あれ、お兄さんもう帰ってきたの!?」
  それに1番の反応を示したのは由真だった。以前に会った時に余程気に入ったのか、由真は自分が光一郎を出迎えるからと目を輝かせながらいの一番に玄関へ駆けて行った。その後ろ姿を多少むっとした目で追っていたのは裕子だが、その様子に気づいていたのは傍にいた中原だけのようだった。
「 あー…多分、光一郎さんじゃない。あの人たち、かも」
  けれど数馬はふと思い出したように手を打って、ちらりと壁に掛かっている時計に目をやった。友之がそんな数馬の言葉に不思議そうな顔をしていると、やがて玄関から戻って来た由真が「まだお客さん呼んでたんだ?」と言いながら戻ってきた。
「 あの、こんにちは!」
  やや遠慮がちにそう言って由真の後を追ってきたのは、光治だった。
「 あ……」
「 あ、友之君! こんにちは!」
  光治は台所から顔を出した友之を見るとぱっと嬉しそうな顔になってぺこりと礼儀正しく頭を下げた。中原や裕子以下、他の人間たちは皆一様に怪訝な顔をしていたが、その中で数馬だけが平然として片手をあげた。
「 や。遅かったね」
「 あ、どうも。あの…結局先輩も連れて来ちゃったんですけど」
「 どうも、こんにちは〜。お邪魔します!」
  申し訳なさそうな顔をしている光治の背後から、そう言って飄々とした風に現れたのはいつか友之に光治の居場所を教えてくれた高城学園の生徒会長、藤咲だった。友之が突然現れた2人に唖然として何も言えないでいるのに対し、その藤咲の方は素早く友之のことを認めるとにっこりと笑いかけ、他の連中にも「はじめまして」などと気さくに挨拶を始めていた。
「 あのねえ、ボクが呼んだの」
  呆けている友之に数馬が何でもない事のように言った。友之が驚きながら反射的に顔を上げると、不敵な香坂数馬はにやりと笑い、手にしていた菜箸を軽く振った。
「 もう友達だもん。荒城さんだって君に内緒で勝手に先に会いに行ったじゃん。ボクは君の後な分だけ、別にいいでしょ」
「 どうして…?」
「 どうして? 何がどうして? ……まあ、君の身辺のことくらいね。チェックしておいてあげないとって思って」
「 ………」
「 何だ? 何の話だ?」
  数馬と友之の微妙な雰囲気に沢海が眉をひそめた。数馬はそんなライバルの優等生をちらとだけ見たが、やがて全員に向かって実に偉そうに言い放った。
「 えーと、自己紹介は後で各々やるとしまして。今回の戦いにエントリーする選手は以上って事で。荒城さんは行方不明なわけだしね」
「 お前。おい、バ数馬。お前は一体何の話をしてんだ?」
  胡座をかいた状態で先ほどまで豪快にビールを煽っていた中原がようやく自分の後輩である数馬に胡散臭そうな声を掛けた。その向かいに座っている裕子は既に要領を得たような顔をしてどことなく呆れたような様子で黙っている。
  数馬は中原には薄く笑い返しただけで、後は隣に立つ友之の背中を押して言った。
「 賞品はコイツ」
「 え……」
「 現チャンピオンは光一郎さんね」
  そう言った後、数馬は1人けらけらと笑い、もう一度友之の背中をバンと叩いた。
  友之は突然訳の分からない事を言い出した数馬に何かを言おうとしたのだが、光治の横にいた藤咲が驚いたように「そうなんだ!」などと先に叫び、感心したように頷き出したりするものだから、すっかり口を開くタイミングを逸してしまった。
「 まあ、いいじゃないの。キミは相変わらず分からなくて」
  するとそんな友之の様子を察した数馬が言った。
「 キミになんか説明してあげる気、ないしね。さあさあ、トモ君。そんな事よりお料理が冷めちゃうよ。早く働け、動け」
「 う、うん…」
「 こ、こら、香坂数馬! だから北川君をこき使うな!」
「 もう、橋本さんは煩過ぎる」
「 はいはい、やーめーる」
「 ………」
  再び始まった数馬と橋本、それを止める由真の姿を見ながら、友之はもう一度ぐるりと自分を取り巻く人たちに視線をやり、そして小さく笑った。
  何だかひどく温かい気持ちがしたから。

  そうして友之は自分には理解できない彼らの会話からそっと逃れると。


  また2人も増えてしまった人数を前に、光一郎の分の食事は残しておく事ができるだろうかと、そんな心配をするのだった。



【fin】





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