ぼんやりと霞む眼下の街並みから、電車の走る音が聞こえた。
「 ……ッ」
  同時に強く吹き荒んできた強風にびゅんと乱暴に頬を撫でつけられて、友之はその凍るような空気の冷たさに思わず目をつむった。自然丸くなり、縮こまる身体。郊外に位置するちょっとした高台に作られたここは、吹いてくる風も強く激しい事が多い。やはりマフラーをしてくれば良かったかもしれない。
「 友之」
  しかしそんな寒さを感じたのも、ほんの一瞬の事だった。
  自分を呼び探すような聞き慣れた声が下方から聞こえた事で、友之は慌ててその声のした方向へ視線を移した。そうして急いで踵を返すと、元来た石階段をだっと一段飛ばしに下りて行く。片手に握った水桶から、先刻汲んだばかりの水が少しだけ跳ね落ちた。


  『 流れるように、眠るように 』 (1)



  息を切らせてその場に戻ると、既に線香の束に火をつけていた光一郎が白い息を吐き出してその場に戻ってきた友之に訝しげな顔を向けた。
「 随分遅かったな」
「 うん…」
「 何か良い物あったか」
「 …………」
  薄っすらと笑ってそう言う光一郎に、友之は多少バツの悪い思いがして俯いた。光一郎の察する通り、水汲みを自分がやると買って出たのは単に周囲の様子を見てきたかっただけなのだ。ここには今までも何度か来たが、この母の墓石以外の場所を見た事が友之には一度もなかったから。
  もっとも、他の場所を見たいと思う必要などないと言えばないのだ。母親の墓以外、ここに知り合いのそれはないのだし。
「 お前もあげろよ」
  何と答えようかといつまでも思案しているような友之に、光一郎は苦笑して線香の束の半分をすっと渡してきた。代わりに自分が友之の持ってきた水桶を手にする。その際触れた光一郎の手先が妙に温かくて、友之ははっとして顔を上げた。
「 どうした」
「 あ…ううん…」
  こちらの動作一つ一つに気づくのだ、光一郎は。
  友之はまたどぎまぎした気持ちになりながら身体を光一郎から逸らすと、受け取った煙の立つ線香の束をそのまま墓前にすっと奉げた。しかし、つんとする香の独特の匂いが鼻先を掠めたのも一瞬で、友之は再び墓石から身体を離すと後はただじっと生前の母親の面影を追いながら手を合わせた。

  ごめんなさい。

  そして、ふとそんな思いが脳裏を巡った。

  普段よりあまり思い出す事のない母親に向ける言葉と言ったらそれくらいだった。
「 ………っ」
  友之は目を開いてはっとため息に近い吐息を漏らすと、そっと傍に立つ光一郎を見上げた。兄はこうしてすぐ近くから改めて見上げてみると、本当に背の高い人だと思う。こちらが低過ぎるだけなのかもしれないが、もうすぐ自分とて高校2年になろうというのに、光一郎との年齢差は日を追って離れていくような気がした。
  光一郎はいつでも友之にとってとても頼りになる人だから。
「 ………行くか」
  友之から数秒後、手を合わせ終わった光一郎は自分の事をじっと見上げている弟の存在に気づき、そう言った。「何をそんなに見ているのか」とは、最近はもう訊かなくなっていた。友之が物言いた気に光一郎を見つめる事。それはもう今年の春先からずっと変わらない一つの儀式のようなものだったから。
「 そろそろ日も暮れるな。寒くないか」
  光一郎はそう言いながら、先に墓地の出口へと歩き出していた。しかし友之はそんな兄の背中を見るや否や、もう声を出していた。
「 あ……!」
  言葉よりも先に唇が動いたという感じである。本当にか細い声が漏れただけ。
「 ん……?」
  けれど光一郎はそんな友之に逸早く気づくと、すぐに振り返って聞き返してきた。
「 何だ?」
「 あ…の……」
  それでも友之はすぐに言葉を出す事ができなかった。
  高校を入学したばかりの頃と比べれば随分とマシにもなったが、それでも友之にとって自らの思いを頭の中で整理し表に出す事はまだまだ難しい。また、それが相手に告げる為に生成する言葉となれば、それはまた更に大変な労力を必要とした。
「 ……どうした」
  けれどこんな時、光一郎がじっとして自分の言葉を待ってくれるという事を、友之はもう知っていた。
  以前の光一郎であったら、何でも先回りして自分で判断して友之の心意を計った行動を取っていただろう。けれど今は違う。友之が言葉を出すまで、自分に伝えてくるまで、もう手助けする事はしないと…光一郎はいつか友之に言った事があった。
  友之はそれをとても嬉しく思った。
  勿論、困惑もしたが。
「 あの…上の方、綺麗だったから……」
  だからたどたどしいながらも、友之は必死になって口を動かした。どうしてかこういう時は光一郎の顔を見るのが照れくさく、俯いたまま、自分の足元をじっと見詰めたまま、友之はただ単調な感じで声を吐き出した。
「 さっき、ちょっと見ていたら……遠くの…駅も、見えた…」
「 そうか」
「 うん…。だから…コウも…」
「 ああ…」
  理解したという声を聞いたと思った。
  それと同時に覆い被さるような影を感じて友之が弾かれたように顔を上げると、光一郎は既にすぐ傍に立って微笑していた。それからぽんと友之の頭を軽く叩き、そのままぐいと自分の元に引き寄せた。友之はその所作に一瞬は驚いたが、それでも後はもうそのまま光一郎に自らの肩先を預けた。光一郎に触れられる事が好きだと思った。
「 そういえば俺もここ以外の場所は見た事がないんだ。……行こうとも思わなかったし、な」
「 うん……」
「 そうだろ。でも…いいな、たまには」
  光一郎はそう言いながら友之の髪の毛をもう一度かき回すようにして撫でると、きっちりと区画整理されている墓石群の周囲に敷かれた石畳の道をすっと先に歩き出した。友之は急に離れてしまった光一郎の温度を惜しく思いながら、慌ててその後を小走りになって追った。

*

  年を越し、学年最後の3学期がもうすぐ始まろうという頃、光一郎は友之に母・涼子の墓参りに行かないかと言い出した。それは突然で唐突で、友之は少しだけ不思議そうな顔でそう言った光一郎の顔を見つめた。相変わらずアルバイトや学業で忙しい光一郎である。最近では中原たちの野球チームに顔を出す事もなくなっていた。友之自身ともすれ違いになる事が多く、夕食も共にする方が珍しかった。それを友之は寂しいと思ったが、勘付かれていらぬ心配をされる事は、いい加減避けなければならなかったから努めて平気なフリをした。
  あの日以来。
  一緒にいてくれると、お前が好きだと光一郎が言ってくれた時から、友之の中で何らかの変化が起きた事だけは確かだった。光一郎といられれば嬉しい。光一郎と話せれば嬉しい。光一郎が近くにいてくれると思うと安心した。


  『 キミの好きはね。でも、違うスキなんだよ 』

  同じ野球チームに所属する同年代の香坂数馬はそう言って友之の事をバカにしたような目で見て言った。いつだったか同じような事を光一郎にも言われたと思う。友之にはその言葉の意味がよく分からなかった。今もよく分からない。
  大切で一緒にいたくて、好きだと思う。その感情の何が「キミのは違う」のか。けれどその答えを教えてくれる人はいなかったし、友之自身、自分から訊こうともしなかった。

  今がとても満たされていると思ったから。
  光一郎も今まで以上に優しくしてくれるようになったから。
「 最近、行ってなかったろう。お母さんの所」
  だから光一郎が不意にそう言って、一緒に地元付近の緑園墓地に行こうと言ってきた時、友之は正直「その事自体」が嬉しかった。
  光一郎と一緒に何処かへ行ける事。
「 うん」
  だからすぐに返答した。光一郎は「バイト、休むから」と言って笑った。
  いつもの光一郎だった。

*

  やや急勾配気味の石段を幾つか登り詰めて、先刻友之も行かなかった1番上の墓石がある所まで着くと、光一郎はようやく背後を見やってぜいぜいと息を切っている弟に笑いかけた。
「 お前、運動不足」
「 うん……」
「 だからいつまでも正人から色々言われるんだぞ」
「 うん……」
  殆ど惰性で頷きながら、友之はともかく早く光一郎のいる場所に追いつきたくて足を動かした。だからようやく同じ場所まで来た時は、ほっと胸を撫で下ろした。光一郎はそんな友之を見やってから、気持ち良さそうに眼下に広がる景色に目を細めた。
「 こんな風にこの町、見下ろせたんだな」
「 うん」
  今度は確実に返事をして、友之は自分も同じように高台から広がる少々霞みがかった街並に目をやった。ぽつぽつと点在して見える木々の密集している森らしきものは、きっと以前はもっと広い面積を有していた緑豊かな場所だったはずだ。あの馴染みの深い水源地もどんどんと憩いの散歩道を削減されて、今はもうあの川も埋め立てられてしまった。だからと言って何か深い感慨が友之の中にあるかと言うとそれはどうか怪しかったが、それでも友之はこうして改めて見つめる自分の町というものを、何だかとても身近に感じた。
  今はもうあの生まれた家に住んではいない。帰る事もない。こうして墓参りの時でさえ、家族が揃う事もない。それでもこの町からは身も心も、さほど離れていない。
「 トモ、寒くないか」
  光一郎が黙りこんだままの友之に声を掛けた。頬が上気している友之の事が心配になったのか、窺い見るような顔が友之の視界に飛び込んできた。
「 お前、あのマフラーは? そういえば12月に入った時裕子がくれたのあったよな」
  また見透かされてしまったのだろうか。友之は再度決まりの悪い思いがして、力なく首を横に振りながら声を出した。ひどく小さいそれだったけれど。
「 だって…コウもしてなかったから」
「 はッ…。俺は関係ないだろう?」
  おかしな理屈に光一郎は笑ったが、友之の方はそれでますます何と言って良いのか分からずに下を向いた。
  病気がちな事、すぐに疲れてへばってしまう事。仮にも野球チームに所属して、毎週日曜日はそれなりの汗を流しているくせに、「お前は何故そうも軟弱なんだ」と、もう1人の「兄」中原正人などはすぐに友之をなじる。確かにそうなのだと友之も思う。高校に入学してから入れてもらった中原たちの野球チームの活動には常に真面目に参加しているというのに、いつまで経っても体力も実力もつかなかった。裕子あたりは随分上手くなったなどと相変わらずの発言をしてくれるが、それも周囲に言わせればやはりただの「姉バカ」であり、友之もその意見に反論するつもりはなかった。今ではチームの活動にまるで参加してこない光一郎にも、勿論、まるで敵いはしない。
「 座るか?」
「 あ……」
  またしても何やら考えこんでしまったような友之に光一郎が言った。自ら先に1番上の石段に腰を下ろし、友之にもその隣に座るよう目だけで言ってくる。友之はおとなしくそれに従った。
  そうして2人はまたしばらく墓石に囲まれた場所から、下に広がって見える風景に目をやった。
「 俺な」
  先に口を開いたのはやはり光一郎だった。
「 さっきは…お母さんに何て言っていいか分からなかったな」
「 え……?」
  怪訝な声と共に光一郎を見ると、既に途惑ったような顔が友之の方に向けられていた。
「 墓参りもこんな風に年明けになってからようやく思い出したように来るだけで。…まあ、生前からあまり良い息子でもなかったしな」
「 …………そんな事」
  涼子にとっての1番の子供はどう考えても光一郎なのでは。友之は心の底からそう思っていた。自分と夕実は「あんな」だったし、母を心配させない日など1日とてなかったはずだ。
  それに比べて光一郎は何も言わずとも1人で何でもやってしまえる―。
  完璧な息子で。
「 お母さんはな、お前は勿論のこと、夕実の事も…そりゃ可愛かったと思う。あれだけ懐かれて迷惑かけて…頼られればな」
「 ……………」
  それなのにあいつは…と独り言めいて、しかし光一郎は1人でその考えをかき消すようにして首を左右に振った。この墓参りにも夕実には来るよう言ったらしいのだが、用があるとあっさり断られて電話を切られたようだった。
  夕実が今、何処で何をしているのか友之は知らなかった。光一郎にだけは連絡先を教えているらしいが、友之はその姉の居場所を自分から訊き出す気持ちにはまだなれないでいたし、夕実の方でもまた、友之に連絡してくる事はなかった。ただ3日の日に届いた年賀状には簡素に一言だけ。

  身体に気をつけてね。

「 あの男は相変わらずだしな」
「 ………」
  それが自分たちの父親の事を指すと友之にはすぐに分かったが、特に口を挟むのはやめた。光一郎もそんな事は望んでいないようだった。
  すぐに後の言葉は続けられた。
「 けど俺こそ、あいつらの事をどうこう言う資格なんてないんだ。俺はあの人…お母さんのことをまともに見ようともしていなかったから…」
「 コウ……?」
  珍しく何事か思案めいたような光一郎の態度に、友之は不意に不安な気持ちがして小さく呼びかけてみた。光一郎がこうやって昔の事を思い出すように話し出したのは、何だか本当に久しぶりだった。
  最近は本当に……光一郎は自分にとっても周囲にとっても、やはり完璧な存在でいたから。
「 俺はあの家族をまともに見ようとした事なんて一度もないからな」
「 そんな事ない……」
  殆ど反射的にそう言うと、光一郎は愛しそうな目でそう発した友之を見返した。
「 そうか?」
「 うん」
「 何でそう思うんだろうな、トモは」
「 …迎えに……」
「 ん……」
「 迎えに、来てくれたから……」
  友之が言うと、光一郎は何だそんな事かというような顔をした後、またすっと視線を前方へと移した。
  友之にはそれが不安で、何だか心細かった。
  夏が始まる前の季節。傍にいてもいいと、傍にいると言ってくれてから、半年。光一郎は友之とのその約束を違えた事など一度もなかった。以前よりも優しく、そして以前よりも友之の事を信用して接してくれるようになった。友之もそんな光一郎と共にいられる事が嬉しくて、安全で。
  徐々に。
  本当にゆっくりとではあるけれど、自分というものと向き合えるようになれた気がしていた。
「 コウが……いてくれたから……」

  救われた。

  誰もいないと思っていた暗闇の中で唯一助けて見守ってくれた光一郎がいたから、友之は何とか息をする事ができたのだ。だからその光一郎が自分たち家族のことで何か心を痛めている事があるのなら、それは違うと言いたかった。
「 ………悪いな」
  しかし光一郎はそんな友之の思いが分かったのか、申し訳なさそうな顔をしてぽつりとそんな言葉を返した。友之が眉を顰めると、今度は「心配するな」と笑ってみせたりもした。
  そして何かを吹っ切るように言った。
「 ………そうじゃない。お前が心配する事は何もない。ただな…少し驚いただけなんだ」
「 何が……?」
「 母親がな……」
「 え……?」
  突然の意図せぬ単語に、友之は思わず訊き返した。光一郎は友之の方を見ていなかった。
「 俺にとっての母親は涼子さんだよ。当たり前だろ? だけどな、この間ふっと思い出したんだ、産みの母親のこと」
「 コウの…?」
「 ああ」
  光一郎は頷いた後、「顔も覚えていないよ」と冗談めかした風に笑って友之を見た。友之は笑える気分でなく、ただじっとそんな光一郎のことを見詰めていた。
  不意に光一郎がそんな友之を引き寄せた。
「 ……そんな顔するな」
  そうして光一郎は引き寄せた勢いのまま、友之の髪の毛に自らの唇を当てた。不意にどきんと心臓が悲鳴をあげたような気がして友之は瞬間びくんと肩を揺らしたが、それでも逆に縋りつくように光一郎の元に自らも身体を寄せた。平気なはずだ。言い聞かせた。
  キスなら、もう何回だってしたのだから。
  キス、だけなら。
「 バカみたいな話だよ。顔も知らないのにこの間親父と揃って現れて、これがお前の母親だった人だと言われた」
  その時、光一郎は友之の動揺など気づかずにあっさり言った。
「 本当にバカな光景だった。俺はどんな顔をしていたのか……」
「 コウ……」
  不安そうな瞳で友之が見上げると、光一郎は再度はっとしたようになって、次いで心底苦笑いをした。
「 悪い。トモに甘えた。……もう日が暮れるな、帰るか」
「 あ……」
  またしても先に動き出した光一郎のせいで、友之は再び手にした温もりを失って思わず落胆の声を上げた。光一郎は気がつかないようだった。

  キスはくれるけれど。

「 ……晩飯、何が食いたい。作ってやるよ」
「 ……………」
  光一郎という人がまだ決して自分に全てを晒しているとは思えない。
  友之にはそれが、ただそれだけが分かっていた。



To be continued…



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